人面犬を捕まえて(10):騙りは夜明けまで-1
午前中に手配したにも関わらず、昼を過ぎても鍵師はやってこなかった。
善田の言う通りなら、訪問者から逃れるための“跡”があるのは蔵だけだ。だが、陽が落ちてしまえば鍵師を招き入れることはできない。
だから、インターホンごしに善田の名前を聞いて、私は玄関へ駆けた。16時を過ぎたばかりだ。陽は傾いてきているが、まだ外は明るい。門扉の前で再度問いかけると、訪問者は善田の依頼を受けた鍵師と名乗った。
不審な点はない。蔵の鍵を開いて解決するなら拒む理由はなかった。門を開くと、太ったスーツの男が顔を出し、深々と頭を下げた。
「私は鍵師のオガミ。あと、こっちは弟子のミカミです」
男の陰から小柄な女性が顔を出し、ぺこりと頭を下げた。霊媒師である善田の知人というだけあって、オガミはどことなく胡散臭い。本人はスーツ姿で手ぶら。鍵師なら持っているであろう仕事道具は、ミカミに持たせている。ミカミは両手でアタッシュケースを持ち、少し左右にふらつきながらオガミの後ろを付いてくる。
見ていられなくてミカミに手を貸そうとすると、彼女は強く首を振った。
「先生の仕事道具を持ち運ぶのは、私の役目ですので」
オガミの指導が厳しいのか、仕事道具を大切に扱うべきという彼女の信念なのか、ミカミは頑なにアタッシュケースを離そうとしない。オガミたちは玄関で靴をそろえると、リビングの方へと向かおうとした。
アタッシュケースが廊下の端の柱に当たった音で、オガミは後ろを振り返り、廊下の先の地下への階段を見た。
開けてほしい鍵は地下にあると説明しようとして、廊下を覗き込むと、善田と威郎が地下から現れた。善田が私と、オガミ達鍵師を見比べ、露骨に顔をしかめた。
「なんで知らない人間を招き入れる。儂の説明を聞いていなかったのか」
善田が声を荒げたので、私と威郎は驚き、顔を見合わせた。リビングの前にいる鍵師を見る。オガミは白い歯を見せて笑った。
「えっと、この方たちは」
「お前、そうお前だよ。本当にお前は仁助の妹、横山家の長女なのか? 頭空尊の話も知らないようであったし、ここまで事態が進行しても全く危機感がない!」
善田は両足で廊下を踏み鳴らし私へ近づいてくる。一週間前に現れた見知らぬ他人にそこまで言わなければならないのか。善田の態度の悪さに、私も限界が来た。
「あなたが呼んだんでしょう?」
今度は善田が動きを止める番だった。私を睨み、鍵師の二人を見る。オガミは会釈をし、ミカミはその横で頭を下げた。ミカミがアタッシュケースの重さに振り回されてよろけるのが心配だ。
「儂が?」
「何をすっとぼけているんですか。貴方が手配したんでしょう、鍵師」
「ああ。確かに電話をしたのは儂……儂だが」
善田が眉間にしわを寄せて固まる。視線は鍵師から逸らさないが、怒気はみるみると萎んでいくようだった。まさか、この老人は鍵師を呼んだことを忘れたのか。
そう思ったとき、私は善田の行動が説明できるもう一つの理由に思い至った。途端に背後の鍵師が得体のしれない人物に感じられた。
そこの二人は誰だ?
「善田水甲(ゼンダ‐スイコウ)さんですよね。このようなときに驚かせるようなことをして誠に申し訳ありません。私はオガミ。こちらは私の弟子のミカミ。鍵師のミツギさんから電話を受けてきました」
オガミが挨拶をしながら善田に近づいていく。オガミは熊のように大きく、善田はまるで獲物に狙われた兎のように小さい。
「ミツギ?」
オガミが腰を落とし、善田の耳元に顔を近づける。
「ミツギさん。知っているでしょう。ミツギトモエさんです。あなたと同じ」
何を言ったのか聞こえなかったが、善田の顔が青ざめ、眉間のしわが解けた。
「ミツギさんから後を任されましてね。だいたいの事情はお聞きしています」
さきほどのやり取りが効いたのか、善田はオガミの説明にただ小さく頷く。この霊媒師が一瞬で黙る何かをオガミは知っているのだ。
「それで、善田さん。まだ時間はあるので、私たちも鍵を開ける前にこの家で起きていることを説明をうけたい」
「そ、それはなんで」
「ミツギさんの話では地下の鍵は随分特殊なものだと聞きました。だから、善田さんもミツギさんに声をかけたのでしょう。そもそも普通の鍵なら善田さん自身が」
「わかったから、リビングへ行こうじゃないか。なあ、光里さん、鍵師の二人をリビングに通してはもらえないだろうか。威郎さんも、地下にいる仁助さんに声をかけてほしい。儂にしてくれた話を、かいつまんで二人に教えてほしいのだ。なあ、それでよいだろう?」
「ええ。お気遣いありがとうございます。善田先生」
オガミたちの姿を見た時とは立場が逆転している。ここまでくると善田の変わりようが薄気味悪い。だが、鍵師を呼んだのはあの蔵を開くためだ。気分を害されて出ていかれては元も子もない。
そう思うと、リビングに二人を通したのは失敗に思えてくる。何しろ、連日の善田の指示で食器棚から小物入れまであらゆる物の中身が検分され、嵐の跡のような有様なのだ。
リビングと隣接した和室の先には縁側がある。敷地を囲う塀があると知っていても、訪問者への距離が近い。だから、私たちは夜になると自然とリビングから離れて反対側の客間に集まり身を寄せ合って眠っていた。リビングを片付ける余裕など、今の私たちには残っていなかった。
「随分とご苦労なされたのですね」
私は、彼の口から漏れた言葉が全く異なり、目を丸くした。
「ああ。気を悪くされたなら申し訳ない。ミツギさんという鍵師から、概ねの話は聞いているんです。ですが、この様子だと本当に毎日訪問しているのですね」
オガミは廊下との境に立つ私を視界から外さずにリビングを見渡す。
「善田さんの依頼は、蔵から何かを取り出したいという話でしたが、それはリビングにはなかった」
「はい」
そもそも、善田が探している“跡”というのが何を示すのか私たちにはわからない。ただ、善田が検分した結果を聞くしかないのである。
「本当に蔵にあるのでしょうか?」
鍵師に聞いてわかるものではないだろう。オガミは少し悩み、口を開いた。
「お父様を頼るのはいかがです。蔵を整理していたなら蔵に何があるか把握しているでしょう」
それは不可能なのだ。私の視線は自然と天井を見上げていた。二階で伏せている父は、見知らぬ男の訪問に耐えられるような精神をしていない。
「父は伏せているので」
「そうですか。では、蔵を開いてみましょう。その前に、皆さんから簡単にお話を聞かせてください。大丈夫です。陽が落ちるまで1時間は余裕がありますから」
陽が落ちるまで。やはり、私たちが何の訪問を恐れるのか理解しているのだ。
*****
オガミは私たち家族と善田をリビングに集め、善田が訪問した経緯、蔵を開けなければならない事情を尋ねた。善田は話す必要はない、余計なことを知るのは鍵師たちにも危険だと主張したが、オガミは否定の意を示した。
「鍵を開けると言うことは、中身をみるということです。鍵師は所有者の皆様よりも早く鍵の向こう側を覗く仕事とも言える。もし、この家に訪問する何かが善田さんの手に負えないような性質で、蔵の中のものが関連するなら鍵を開いた私たちが初めに害を受けるかもしれない。私たちはこの家に入ったときから既に皆様の関係者になったとも言える。一蓮托生、善田さん。あなたも好きでしょうこの言葉」
どういうわけか、善田はオガミの言葉には反抗できない。そして、オガミの話は私たち家族に納得感をもらたした。あの訪問者、頭空尊に関わるものが蔵に眠っているのだとしたら、彼らの言い分は一理ある。
「わかりました。あまり時間がないので、詳細は話せませんが」
初めに口を開いたのが自分を連れてきた仁助であったことに、善田は目を見開いた。机上の拳が小さく震えているがそれでも口をつぐみ続けていた。
仁助は善田を連れてきて以降、善田の指示通りに黙々と家探しを続けているだけだった。だが、その話は私や威郎がするよりもわかりやすい。
「つまり、皆様の父、横山与太郎は何者かが家に侵入したことにより気が触れてしまった。そのときに与太郎氏の前に現れたであろう訪問者こそが、頭空尊であると」
「ええ。今までの経緯からすると」
「今のお話だと、与太郎氏は、旅先で人と会う予定だったと思いますが、誰にあったのかわかる資料はありませんか?」
私は父がまとめていた旅のノートを差し出した。善田はそれは不要物だと切りすてたが、父の容態を考えて部屋から持ち出したのだ。
オガミは私が渡したノートをミカミに渡し、私たちへの質問を続ける。
「頭空尊という怪談は、私も聞いたことがありませんが、話を正しく聞いたことがあるのはどなたですか」
正しくといわれると自信がない。私は兄らが頭空尊という怪談を聞き、横山家にもその怪談に関わるものがあると知っただけだ。兄、威郎と仁助も私よりは知っていると言うが、それでも二人も自分たちが聴いた話が正しいかはわからない。
「ところで善田先生は、頭空尊がこの土地に伝わる怪談と知っていたのですよね」
「ああ。知っていた」
「横山さん一家は当事者に近いが知らなかったというのです。先生はどちらで話を耳にしたのか、参考までに教えていただけませんか」
オガミの一言でリビング中の視線が善田に集まった。
「どこと言われても困る。仕事の関係で話を聞いたことがあった。それだけだ」
「つまり、善田先生はこの八婆で頭空尊について聴いた」
「そうだ。それがどうかしたのか。鍵を開けるのに、何か関係があるのか」
善田の疑問にオガミが目を丸くする。
「関係がないわけがない。私たちはその頭空尊からの侵襲を防ぐ何かがあるという蔵を開けるためにここにいる。先生が掴んだ頭空尊の核心。それが何であるかを聞かずに蔵を開けるなんて、それほど恐ろしいことはない」
「わしが頼んだのは鍵を開けることだけだ。何をそんなに恐れることがある」
「じゃあ、師匠に代わって私が質問を変えます。善田先生の言う頭空尊の“跡”とは、本当に蔵にあるんですか」
今まで黙って父のノートを検分していたミカミがようやく顔を上げ、口を開いた。だが、その質問は善田の苛立ちに油を注ぐに違いない。
「この家のどこを探しても、頭空尊の跡はなかった。もう蔵の中しかない。」
善田の怒りが頂点に達する前に、仁助がミカミと善田の間に割ってはいる。
「仁助さんは、頭空尊の“跡”というのがどのような形をしているか聞いていますか。善田先生も、実はどんなものなのか、よくわかっていないんじゃないですか」
ミカミの質問に、私たち家族はおしなべて黙り込んだ。善田が思い付きでそのようなものがあると話している可能性を排除できない。だが、善田がそのように振る舞う理由が見当たらないのだ。
「儂は、この家を見て、彼らの話を聞いて、彼らの父、与太郎が伏せた理由は、この地に巣食う頭空尊であると看破した。頭空尊は、まだ横山家に侵入しようとしている。それは、奴がこの家の何かに反応しているからだ」
「それが、頭空尊が残した“跡”ということ?」
ミカミの問いに善田は頷いた。ミカミとオガミは顔を見合わせ首を傾げた。私も、今の話はおかしいように聞こえる。他方で、あの日、蔵に何かが入り込んだのは確かだ。異変に関わる何かが蔵にあるという善田の見立て自体はおかしくない。
「頭空尊はこの家に来た。そして、横山与太郎氏に危害を加え姿を消した。その際に、蔵に跡を残したため、再度この家を訪問しようとしている?」
説明にどこにも間違いはない。ただ、そうだとすると疑問が残る。
「あの……なんで蔵に戻ってくる必要があるんですか」
頭空尊という怪談には招き入れた後のパートが存在しない。頭空尊に興味を持たれたら過ぎ去るまで招くことをせずに耐え続けるしかない。そういう話なのだ。
だが、仮に一度招いてしまった場合、その後も訪問が続くことはありうるのか。仮に訪問が続くことがありうるのだとして。
「なんで、もう一回招いてもらう必要があるんでしょうか。善田先生の見立てでは既に父が頭空尊を招き入れているはず」
そうだ。そこがおかしい。兄らが話していたように、父は頭空尊のことを幾分か知る立場にある。それは、蔵の貯蔵品の様子をみても明らかだ。
そんな父が、旅から戻ってきて以降、頭空尊の訪問に警戒していたはずの父がそう簡単に見知らぬ何かを招き入れるだろうか。それに、父が招き入れているなら毎晩来ている訪問者は、なんで私たちの応答を待っているのか。
「父は本当に頭空尊のせいで伏せたんですか」
頭空尊がこの家に、父に興味を失っていない。鍵師が正しい頭空尊の話を知りたがっていた理由は、そこにあるんじゃないか。
「どうしてそう思うんですか? 光里さん」
ミカミの質問に答えるべきか迷って威郎をみると彼も頷いた。話すべきは今だ。
「父が伏せた日、私は蔵の扉が開いたのを見たんです。そして、蔵は私の前で閉じた」
椅子の倒れる音が響く。立ち上がった善田が全身を震わせ私を睨んだ。
「話すなと言ったのは俺です。こんな状況なのに光里の話は皆を混乱させる。それに、仁助を疑う気はないが、善田さんは信用ならない。うちも寄合衆の一角だから、霊媒をみたことがあるが、あんたみたいな態度の人間は大抵インチキなんだよ」
善田の額に血管が浮かんだ。彼は口を開き、そして、オガミの顔をみて言葉を呑みこみ、大きく息を吐いた。
「横山さんの意向はわかった。だが、そんな大事なことを話してもらえないんじゃ、正しく祓うことなど到底できやしない。儂らは目に見えないものを相手にする。他の仕事よりも一層信頼関係が必要なんじゃ。やめだやめ。あとは鍵師に何とかしてもらうといい。鍵を開けたあとのことを何かできるのか、儂は知らないがね」
ふてくされたように言い捨てて、善田はリビングの扉に手をかけた。
突然の辞退宣言に慌てたのは仁助だが、どうすればよいのかわからずに椅子に手をかけたままだ。
私はこの際、善田がいなくなっても構わないと思っていた。鍵師の二人組が頼りになるかはわからないが、少なくてもこの老人はあてにならない。
「へぇ。いいんですか、先生。ここで辞めても」
だから、オガミが善田を止めたのが不思議だった。善田も同じ気持ちだったらしく、呆れ顔でオガミを見つめる。
「何が先生じゃ。あんたは、儂を敬う気はないだろう。わざと儂が仕事を投げ出すように仕組んだんじゃないかね」
「いいえ。そんなことは露も考えておりません。私は、ただ私とミカミが安全な状態で鍵を開くために情報が欲しかっただけです。先生がこの件から降りることを止めるつもりもないんですが」
「なんだい。時間ばかりとらせやがって。いいか、儂は金輪際横山家とは付き合いを絶つ。あんたらの望み通りだ」
「まあ、そうおっしゃるのであれば、横山さんたちには申し訳ありませんが、仕方がないかもしれません。ただ」
オガミは襖で仕切られた和室へと目をやる。
ポォン
オガミの動作に少し遅れて、間延びした電子音が響く。
「玄関を開けると先生も望まないモノと鉢合わせるんじゃないかと思いましてね」
善田の舌打ちに呼応するように、再び電子音が鳴る。
訪問者というのは、それが何であっても家庭の事情に配慮しない。
*****
「怪異が陽が落ちてからしか訪問しないという経験は果たして正しいのか。そもそも、怪異にとって陽が落ちたとはいつの時点か」
リビングの壁掛け時計は17時5分を指している。縁側にはまだ日光が差し込んでいるし、日没までは猶予があるように思う。インターホンの呼出音が件の訪問者によるものとは限らない。
それでもオガミの疑問と、連続する電子音は、いつも陽が高い時間にそそくさと家を出る善田の足を竦ませるのに充分な脅威であった。
「そんなハッタリで儂をとどめてどうするつもりだ」
「ハッタリだと思うのであれば、先生はどうぞ外へ。できればほんの少しだけ待っていただきたい。私とミカミが地下に降りるまでの間でよいのです。訪問者が入ってきてからでは地下に降りられるかわかりませんからね」
「まて、お前たちは蔵を開けられるのか」
「ええ。先生が私たちを呼んだのはそのためでしょう。準備は整いました。私たちはこれから皆さんの依頼にそって、この家の蔵を開きます」
当然のごとく言ってのけるが、彼らが行ったのは、経緯の聴き取りと、父の旅行ノートを読むことだけだ。そもそも、蔵の鍵自体を見ていない。どうして善田が自力で鍵を開けるのを諦めたのかすら知らないはずだ。
それでも、この場において支配権を持つのはオガミの言葉だと否定できない。
「外に出るよりも、あんたたちと一緒に地下にいく方が安全なのか」
威郎の問いにオガミは頷く。私たちは縋る対象を善田からオガミに切り替えた。
鳴り続ける電子音をBGMに、私たちは地下に移動した。善田もまた、玄関を通り過ぎるのを見計うように鳴った呼出音に震え、私たちの後を続いた。
オガミは蔵の前に立ち、その扉をじっくりと検分する。ケヤキで出来ているにも関わらず異様に重たい扉には五十センチほどの錠前がついている。この錠前は一見すると鍵穴がなく、中央がパズルのようになっている。パズルを組み替えると鍵穴ができる仕組みなのだが、父が伏せた日を境に、パズルは組み替えられなくなり、鍵は何処を探しても見つからない。
善田も蔵の前で何分も探し回ったが手がかりを見つけることはできなかった。
「本当に開くのか」
「開きますよ。私たちはこの蔵の開け方も、中に潜むものの正体もわかっています」
蔵を開くことは蔵の前にいる私たちに害を及ぼす。鍵師たちの懸念はそのようなものだった。なら、これから蔵を開くにあたっては、いつもの通り、客間で息を潜める方が安全ではないのだろうか。私たちの疑問に、オガミは首を横に振る。
「ここのほうが安全ですよ。一階は危ない。外からくるものが何であるのかまだわからないのですから」
「ちょっと待ってくれ。毎晩うちに来ているのは頭空尊、なんだろう?」
威郎の意見に、オガミを除く全員が頷いた。私たちの知る限り、この家に毎夜訪れる可能性があるものは頭空尊しかいない。
「そんなわけはない。頭空尊は、この蔵の中に収められている」
オガミの言葉に善田も含めて誰もが驚きの声を上げた。
「あんた、いったい何を言っているんだ。俺と光里は以前にも蔵に入ったことがあるが、そんな危険な代物はなかったはずだ。いや……俺たちが見落としていたのか?」
「そうではありません。威郎さんと光里さんが蔵に入ったのは与太郎氏が伏せる以前でしょう。頭空尊が蔵に入ったのは、与太郎氏が伏せた日、光里さんが蔵が閉まるのをみたときですよ」
あのとき蔵が閉まったのは、頭空尊が中に入ったからなのか。
「説明してくれ。何がどういうことだかさっぱりわからない」
威郎の願いに、オガミはため息をついた。
「残念ながら、それは私ではなく彼女に話してもらった方がよいでしょう」
ゆっくりとあがるオガミの手の先へ、私たちの視線は誘導されていく。背後にある地上への階段。その奥で重苦しい音が響き、彼女は地下へと降りてくる。
「待って。あの音って階段の扉を閉める音じゃない?」
地下に降りたミカミが私に向かって肯定の意を示した。
「そうです。安全のため、今しばらく私たちはここに籠らなくてはいけない」
いつの間にか、彼女は私たち家族よりも後ろにいて扉を閉めてきたのだ。
「儂をインチキ呼ばわりしたが、お前らのほうがよっぽど支離滅裂じゃないか」
善田が階段を降りきったミカミに詰め寄る。その顔は蒼白で、彼は私たちが知らない何かに怯えているとはっきりわかった。
「さっきオガミさんが言った通り、蔵の中には頭空尊が収められている。だから、外からくる訪問者は頭空尊ではない」
リビングで見た彼女に比べて、砕けた、そして遠慮のない話し方。その様子をみたオガミが額に手を当てている。どうやら、こっちが素の彼女らしい。
「与太郎さんが伏せたのも、毎晩この家に何かが訪問してくるのも頭空尊のせい。そこに異論はないけれど、頭空尊は蔵の中にいるんだよ。
善田先生も気づいている、いや、気づいたんじゃない? さっき光里さんが蔵が開いて閉まったという話をした時に。説明をするとすごく長くなるけれど、そもそも頭空尊は皆さんが思っているようなものじゃない。
毎晩この家を訪れている訪問者は、頭空尊の影響で生まれた怪異だけれど、それがこの家を訪問しているのは、頭空尊が結界に封じられているから。だから、結界を開いて蔵のなかの頭空尊を再度封じればすべてが終わるの」
ミカミは蔵の前に立ち、床に置いたアタッシュケースを開く。取り出したのは小さな金色の香炉と、古ぼけた紙。そして、彼女は携帯電話で電話を掛ける。
「音葉? こっちは準備ができた。大丈夫、その辺は遠上さんがやってくれたから。
地下に閉鎖された蔵があって、家族みんなに来てもらっているよ。そうだね、家にいるのは与太郎さんだけ。病気で伏せていると話しているのに押しのけて会いに行くのは難しいよ。それに、音葉の見込みどおりなら、彼は地上にいても大丈夫。
ええっと、うん。蔵だから扉以外に窓や出入口はないと思う。扉には錠前がかかっているよ。でも、鍵穴と鍵は見当たらない。誰が見ても見つけられない。
そう。与太郎さんが倒れた日には蔵が開いて、閉じている。その前までは鍵はあた。そうだね、神域の社もそうなっていたんだと思う。蔵の中には気配がある。開けば鑑定できる。わかった。それじゃあ、クラブの1を貸して。
え? ああ、それなら予定通りにしておくから」
電話をポケットにしまい、左手にトランプのカードを構える。アタッシュケースから取り出した紙を床に敷き、香炉を乗せる。オガミからライターを借りて、香炉に火を灯すと、彼女は香炉にカードをかざした。
カードは空気に溶け込むように消え、香炉の周りに何か丸いものが浮かび上がる。
「何してるの、それ」
「大丈夫ですよ。開錠の準備です。あと数分待ってください。香が十分に満ちないと鍵を開くのは危険だし、難しい」
「そうじゃなくて、その宙に浮かんでいるのは何なの」
ミカミは振り返り、私をみて、目を丸くした。
「見えているんだ。だから、蔵が閉まるところに立ち会えたのかもしれないね」
見えている? 彼女の真意がつかめず、私は不意にこの場にいるのが恐ろしくなった。他の家族は一歩離れたところから彼女の行動を見守っている。いや、違う。よく見れば、威郎も仁助も、母も目を逸らし小さく震えている。
善田は階段の一番下の段に腰かけ、顔の前で両手を組んで祈っている。
――光里は何も知らないからこの家に住んでいられたんだ。
いつか聴いた威郎の言葉を思い出し私はただそこに立ち竦むしかできなかった。
*****
住んでいたはずなのに、門を抜けると初めて入る場所のように思えてくる。
道端で儂を拾ったベニが玄関で手招きしている。門の外を振り返ると、インターホンの前でしゃがみこんだオトハが左手で儂を追い払った。ベニが門を開けるまでの間、オトハはああやってしゃがんで、インターホンを押し続けていた。家の住人も、オトハの呼び出しに応えないし、迎えに出したのは余所者のベニだ。
この家では何かが起きているのかもしれないが、犬は犬らしく、尻尾を振りながら先に進めば良い。人の問題は犬の問題ではない。
玄関をくぐっても人の気配はしなかった。ベニがしゃがみこみ、儂の頭に手をおいた。数日過ごすうちにベニとオトハは儂を単なる犬として扱うようになった。ちょっと扱いが悪い気もするが、彼らなりの分け隔てない対応なのかもしれない。
「ポチ、この家にはほとんど人がいないんだ。私も仕事があるから家を出なきゃ行けない。でも、だからこそポチは家の中を見て回って良い。ここがポチの家だったなら、何か気がつくことはあるはずだからね。二階には一人いるはずだけれど……」
ベニは儂の目を見て何かを言おうと考える。数日の仲だがこういう顔をするとき、ベニは思っていることを結局言わない。犬だって人の気持ちくらいわかるのだ。
「まあ、いいや。行っておいで、ポチ」
ほら。ここで色々と尋ねるのは野暮なので、私は家の中を勝手に見て回ることにする。とりあえずは……二階からかな。階段に足をかけたところで、ベニに呼び止められた。振り向くと彼女はまだ玄関に立っている。住人の帰りでも待っているのだろうか。でも、さっき仕事だと言っていたような?
「ポチ。一つだけ約束。仕事を終えるまで、絶対にこの家から出ちゃだめだよ。家の人がやってきたとしても、絶対に家から出ないこと。私か音葉が迎えに行くから」
「犬は自由でいいんじゃないのか」
「それとこれは別。迷惑しかかけていないんだから、たまには言うこと聞きなよ」
「迷惑かけた覚えはないんだが……わかった。早めに仕事を終わらせろよ。腹が減ったら出ていくからな」
「わかったよ。そこまで聞ければ充分」
家を出ていくつもりはない。何しろ、儂が住んでいた家なのだ。他の犬と違って人間の顔をしている理由も、ベニやオトハと話せる理由も、すべてが此処にある。
改めて二階への階段を上った。玄関をくぐったときから思っていたが、この家は荒れている。廊下に散乱した書類や衣服。まるであらゆる部屋を嵐が通り過ぎたかのようだ。こんな状態では住人だって気分が悪いだろう。
誰か。誰かいないか? 私は、二階の廊下で小さく一度吠えてみた。もし住人がいるのなら、見知らぬ犬の声に驚いて顔を出すかもしれない。
誰も出てこないどころか、何の反応もない。一体どういうことなのか。廊下から見える限り、部屋は四つ。手前の部屋から順に中を除いていくしかない。
一つ目の部屋は書斎で、二つ目の部屋は二人分のベッドが並ぶ寝室だった。住人はいないが、引き出しが根こそぎ開かれている。中をのぞいても人間の服や本、書類ばかりで犬に関わるものはない。そういえば写真がないな。どんな住人が暮らしているのか全く分からない。
三つ目の部屋は物置なのか置物や健康器具が並んでいる。目新しいものはなかったから中に入るのはやめた。最後の部屋の前に立つと体中の毛がざわついたので、ぶるりと一回震えてみた。飛ぶような水気はないが怖さは遠のいた気がする。
「さて、住人さん。こんにちは!」
景気よく一吠え。開きかけの扉に鼻を突っ込み、無理やり身体を押し込んだ。
*****
香炉に火をつけて煙が立ち始めたはずなのに、地下室は一向に煙に包まれない。煙はミカミの周りにだけ漂い、彼女を覆い隠している。ミカミがかざしたカードからに現れた何かが香炉の煙を集めては彼女の周りに留めているのだ。
隣に立っているオガミもミカミの姿は見えないだろう。煙の中のミカミには何が見えているのか。あれでは、蔵戸や錠前すらまともにみえないはずだ。
「頭空尊は元々、八婆地区の寄合衆に封じられていたんです。それが、何の因果か封印は解かれ、ここに流れ着き、再封印された」
「蔵の構造が社に似ていたからか」
煙の奥から聞こえる彼女の説明に反応したのは、意外にも善田だった。組んだ両手で額を抑え、目を閉じたまま震えている。
「そう。この蔵は扉以外に出入口がない。そして、生物を模した標本、図鑑のような物品が収められているんだと思う」
生物を模した標本。私は、威郎と共に蔵に入った時のことを思い出していた。父が定期的に整理していた蔵の貯蔵品は骨だ。硝子製の箱に詰められた骨は頭部あるいは腕部が人間の骨と接合された動物だった。
「社と同じ……人と動物のキメラか」
「誰から聞いたんです? 間島正真?」
間島。その名前が何故ここで出てくるのか。
「なんでそう思う」
「あの人はそういうことを言いそうだと思って。神域のことを話せば、寄合衆を強請るのは容易い。そんな話でもされたんじゃないんですか」
ミカミの言葉に善田は返答をしなかった。うっすらと目を開けて、煙の向こうにいるはずのミカミの姿を見つめるだけだ。
「重要なのは、この蔵が閉じたのは頭空尊を封じるためだということです。頭空尊が封じられていた社は、頭空尊が外に出られないように内側から施錠がなされていた」
「内側から? それじゃあ、鍵は開けられるんじゃないですか」
「その声は、光里さんですね。落ち着いたようで何より。そう、一見すると鍵を開けられる。その構造が重要なんです。物理的な施錠では頭空尊は抑えられなかった。正確には、頭空尊そのものは封じることができても、それを求める訪問者が開錠するおそれがあった。
だから、内部から鍵を開けられる構造を持ち、他方でその行き来は内側から外側の者を招いた時、あるいは外側から内側の者を招いた時にしか生じないように結界を構築した」
「今はこの蔵が同じ役割を果たしているということですか」
「正確には、神域の社の代替をしているんだ。だから、結界は完全に壊れずに済んで、封じられた者は現実に顔を出さない」
煙の柱の横に立つオガミが、ミカミの回答を阻み、説明を続けた善田の顔を見た。善田もオガミの視線に気が付き、祈るのを止める。私たちと違い、善田の身体の震えは止まっている。
「話す気になったんですか?」
「お前たちの話を聞いていて、何が起きたているかわかっただけだ。なるほど、儂らが恐れている訪問者は、本尊の影響で歪んだ人間なんだろう?」
「どうしてそう思うんです?」
「結界の影響にからめとられているからだ。結界の中にいて、現実にいる者に招かれようとする。そんな者がいるとすれば頭空尊だけだと思っていたが、話を聞いていてその可能性に至った。それなら現実の頭空尊が存在するこの家に執着するのもわかる。頭空尊を手にすることで、自身の歪みを直したいんだ。あれは、そういうことができる物だからな」
「そこまで聞いていたんですね。あの人は核心については話さないだろうと思っていたので意外です」
「知らんよ。今の話は、儂が独自に知った知見だ。それで、香炉の煙を集めて蔵の鍵を開けられるというのはどういう理屈なんだ」
「それは、もう話したじゃないですか。頭空尊を封じた結界を維持するためには、現実にも社と同じ構造物が必要だった。だから、蔵は社と同じ構造に変化した、内側から鍵をかけ、外側から開けられないように」
ミカミの説明では鍵は開かない。たとえ、彼女が香炉の煙に包まれていたとしても状況は変わらないだろう。
「その話の通りなら蔵の外からできるのは鍵の破壊だけだ」
「だから、壊す専門のミツギさんに声をかけたんですよね。社を壊した時と同じように。でも、ここは現実で神域そのものじゃない。この蔵は外側から鍵をかける仕組みの構造物だ。錠前も鍵はずっとここにある。但し、ここは蔵の外だから見つけることができない。
ところが、今、私は蔵の中に入り込んでいるものと同じ香炉の煙の中。私と錠前と鍵は、蔵の内外の境界線が曖昧な場所にいる。内側でも外側でもなく、内側でも外側でもあるなら、鍵は手に取れるし、簡単に開く」
ガコン。鈍い音が響き、地下の空気が蔵に吸い込まれていく。
ミカミの周りを覆っていた煙は全て蔵の中に吸い込まれていく。蔵戸の前に立つ彼女の手には取り外された錠前と、消えたはずの蔵の鍵が握られていた。
「私たちが地下に降りてきたときからずっと、蔵の前に鍵は落ちていた。蔵が社と同じ構造を維持するために、神域によって意識の外に追いやられていただけです。皆さんの希望通り、蔵は開かれた」
*****
その部屋はとても強い冷房が効いていた。使う人間が暑がりなのか、冷やさなければならないものがある。……生魚とかかな。
鼻をひくつかせてみると、拾い食いをするときと同じ匂いがする。目の前のものを口にしたら腹を壊すのだと、鼻が危険を教えてくれる。人間は敢えて食べ物を腐らせる習慣があるので、そういう目的の部屋かもしれない。
頭だけを突っ込んでもよくわからないので、体全部で室内に潜ってみると、尻尾が震えた。涼しいを通り過ぎて寒い。
他の部屋と違って暗い。壁際に据え付けられたベッドが視界を塞いでいる。ベッドの先、窓際から青白い光が唯一の灯りだ。こういう光り方をするのは、オトハの部屋にあったテレビくらいだ。
そうか、ベッドの上に誰かがいて、薄暗い部屋でテレビを見ているのだ。
住人の顔を拝むために勢いをつけて立ち上がる。前足をベッドサイドの柵にかけてバランスを維持。このまま上に登れれば、住人が見えるはず。後ろ足も勢いよく蹴り上げると、頭がほんの少し浮き上がって、ベッドの上が見えた。
「なんだ。お前」
住人の姿が信じられなくて、もう一度ジャンプした。見間違いではない。
ベッドの上には寝間着姿の住人がいる。ベッドは上半身だけを少し持ち上げるような形になっていて、身体を起こした住人は窓側に置かれたテレビを見つめている。
問題は、その首から上が犬であることだ。
この住人は人の顔をした犬である儂と正反対に、この住人は犬の顔をした人間だ。
犬人間は、儂がベッドの横でじたばたしていても気づく素振りがない。凛々しい顔は柴犬だろうか。
柴犬? この住人の顔を、儂はどこかで見た覚えがある。
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