人面犬を捕まえて(11):騙りは夜明けまで-2
記憶にある限り、音葉が調査で訪れた場所は人の気配が強い場所ばかりだ。
八婆地区に来るのは三度目だが、今までに訪れた場所に比べ人の気配が薄い。背後の横山邸とその向かいに建つ横山威郎の自宅以外の建物は見えず、畑と道路があるばかり。威郎の自宅に至っても、横山邸の門扉から300メートルは離れている。
紅、遠上、ポチが横山邸に入っておおよそ30分。完全に陽が落ち、横山邸の塀から漏れる灯りだけが周囲を照らしている。3ヶ月前と違い、頭上に天井はない。夜というのは本来これほど暗いものなのだろう。
威郎の自宅には灯りがつかない。ヘッドフォンから聞こえる横山邸の様子からは、威郎の妻や子がいるとは思えない。威郎の家族は横山邸の事情を知り、怯えて家を離れたのかもしれない。
――私たちが地下に降りてきたときからずっと、蔵の前に鍵は落ちていた。蔵が社と同じ構造を維持するために、神域によって意識の外に追いやられていただけです。皆さんの希望通り、蔵は開かれた。
ヘッドフォンの奥で、紅が蔵の解放を告げた。ただそれだけで、闇が一層と濃さを増す。夜空の光でぼんやりと見えていた威郎の家も消える。昨夜と同じ、景色に一枚薄い膜がかかったような気持ち悪さ。
ずん。ずん。
何かが地面に打ち付けられる振動が響く。
現実の社が壊れ神域の結界は緩んでいる。訪問者は石塔で縁取られた結界の外へと進出した。横山邸にも夜ごと訪問者が現れる。紅が開いた蔵は、壊れた社の代わりに結界を支えていた。蔵が開いた今、訪問者はより現実に近い存在になった。
「紅。そのまま蔵を探すんだ。気配が濃くなった」
――その標本は、以前からありました。形もそのままです。
返答の代わりに光里と呼ばれた女性の声が届く。紅は無事に蔵に入ったらしい。
――これは確かに神域と同じだな。しかし、何度見ても鬼畜の所業だ。
続く声は善田水甲だ。今までの話から、善田は神域や頭空尊のことをよく知っている。今の発言からすると、蔵にある標本とは、神域で見た死体と同様に、人と動物が組み合わされて出来上がったものだろう。
――でも、これは蔵が閉じる前からあったんです。私と兄らは気味が悪くて。
――寄合衆の家には多かれ少なかれあるんだよ。
善田は他の家でも同じものを見たらしい。おそらく寄合衆に連判状が作らせるための理由として使われたのだ。
音葉の立つ横山邸の門の左右から振動が響く。訪問者は横山邸を囲む塀沿いにゆっくりと門へ近づいているらしい。
――ありました。これが善田先生が“跡”と呼んだもの、頭空尊の本尊です。
――首のない仏像? だから頭空なの
名前の由来は分からない。だが形状は常柔寺の記録にあるものと同じだ。
「紅。本尊自体も頭空尊の力を封じる結界の役割のはずだ。本尊の内側が空なのは、頭空尊が隠されているからだ。本尊は壊して構わない」
――それは聞いてないよ。音葉。確かに気配はこの中にあるけれど。
「本尊を破壊して頭空尊を観測すれば神域の社と同期する。信じられないなら、今このタイミングで構わない」
紅は既にノイズの本体を手に持っている。条件は揃った。
「水鏡紅、鑑定だ」
*****
常柔寺が保管していたモノクロの写真をみたときは、首がないとはいえ高価そうな仏像だと思った。いざ手にとると両手に収まる大きさでみずぼらしい。本尊と言うより、神社で売っている土鈴と言われた方がしっくりくる。
床に落とせば簡単に粉々になるし、金色に輝く香炉に比べるとみすぼらしい。正体を知らなければ単なるガラクタだ。音葉の考えのとおり、善ノ工務店の人間が社を壊したとして、香炉を持ち出すことはあっても本尊を持ち出すことはないだろう。
それなら、どうやって本尊はこの蔵に流れ着いたのか。
――水鏡紅、鑑定だ。
紅の疑問はイヤフォン越しの声に棚上げにされる。
思考は遮られ、頭空尊の首元に空いた虚ろな穴へ吸い込まれていく。本尊の内側もやはり土鈴に近い質感で、粘土を丹念に焼いて作られたものであることがわかる。本尊の最奥、組まれた足の裏側に不自然な盛り上がりがある。人差し指くらいの大きさだがその膨らみの中にこそ、水鏡紅が求めるモノがある。
境界線の先から来た異物、ノイズの気配。
「ダイヤの4。これは……組み換え……入れ替える力?」
現実に隠れるノイズを暴き呑みこむ。それが水鏡紅、ハートのクイーンの力だ。
スートとランクを告げられて、本尊は紅の手のなかで震え、砕ける。紅の手に転がり出たダイヤの4は、金色の藁に包まれた円柱形の物体だった。
像がぼやけて見えるのは、神域に封じられた部分と同期が終わっていないからだ。
「ここに名を連ねる寄合衆の名を借りて、水鏡紅・久住音葉が招きいれる。社での眠りを終え、私たちに豊穣の恩威を与え給え」
連判状を掲げ、頭に浮かぶ口上を告げる。意味はわからないが神域の頭空尊を呼び寄せる言葉に間違いない。水鏡紅は、その程度には自分の力を信じている。
「鍵師。お前いったい何をやっている」
ダイヤの4は大きく震え、内側から漏れ出した光は藁包を呑みこんだ。
紅の様子を見ていた光里と善田が慌て、蔵の外にいた遠上が蔵に入ってくる。彼は光里の腕を掴み、強引に蔵の外へと引っ張り出す。
「善田! お前も早く外に出るんだ。あとは水鏡に任せろ」
「ミカガミ? この鍵師の真名か。なら、お前がクズミ」
「俺じゃない。そんなことを言っている場合じゃ」
遠上の言葉が途切れたのと、ダイヤの4が大きく明滅したのはどちらが早かっただろうか。光の強さにダイヤの4を手放し、右腕で顔を覆ってしまう。
慌てて目を開けると、既に蔵の様子は一変していた。
蔵の壁は木製に変化し、室内は黄金に輝いている。
蔵に収納されていた一切の物品は消え失せ、床のあちこちには砂利が転がっている。めぼしい物といえば、蔵の最奥、眼前に現れた祭壇くらいだ。祭壇は平らな石を積み上げて作られた簡素なもので、周囲には稲穂が幾重にも重ねられている。
サイズや照明は違うが、この質感、内装には見覚えがある。
祭壇のうえには手放してしまったダイヤの4が鎮座している。ダイヤの4を包んでいた藁はほどけて、野球のボールほどに大きく膨らんでいた。
「音葉……聞こえている?」
――聞こえている。ダイヤの4。頭空尊は現れたか?
「現れたよ。蔵の内装が変わってしまって、たぶん社の中にいるんだと思う」
――なるほどな。封印はできそうか
「やってみるしかないでしょう。クラブの1はこのまま借りるからね」
蔵に連れてきていた海月たちは、香炉の煙を大量に含んで、紅の足元に浮遊している。おかげで、紅の足元だけが様子が見えない。それでも蔵のそれとは異なる木製の床板の感触が伝わってくる。ダイヤの4を封じない限り、社と一体化した空間を出ることはできないのだろう。
――わかった。ダイヤの2とスペードの1はこっちで使う。なるべく早く頼む。こっちは予想以上に面倒そうだ。
身体から何かが抜けるような感覚がする。ダイヤの2とスペードの1は音葉の下に現れただろう。電話も力も繋がったままなのは、幸運と言うほかない。
「おい。鍵師。水鏡とかいったな。これはいったいどういうことなんだ」
現状に不運があるとすれば、この場に善田水甲がいることだ。彼を守りながらダイヤの4を封印できるかは全くわからない。こちらの懸念を見透かしたのか、膨張を止めたダイヤの4がひび割れた音を上げた。
*****
ダイヤの4。紅が鑑定結果を告げたとき、振動の主は音葉の数メートル横にいた。姿は見えないが、左右に一つずつ。片方は矢又千恵美の下を訪れていたもので、おそらくもう片方が音葉たちをつけまわしていたものだ。
だが、それでは数が合わない。
横山家にも毎晩訪問者が現れているのだ。つまり、訪問者は3体いる。
――ここに名を連ねる寄合衆の名を借りて、水鏡紅・久住音葉が招きいれる。社での眠りを終え、私たちに豊穣の恩威を与え給え。
紅の口上が終わると横山家を中心に、空気が塗り替わり、足下の土が淡い光を発した。土が青白く光ることで、視界が確保される。現実に存在するダイヤの4の下に、神域に封じたダイヤの4を招く。紅の行為により、神域の結界は完全に破られた。
左右に迫る振動の主が、初めからそこにいたかのように姿を露わにする。
左に立っているのは、2メートル20センチを越える巨大な訪問者だ。丸太のように太い足が本来だぼつくだろう作業ズボンをパンパンに膨らませている。ところが腰から上はまるで木の枝のように細く、巨大な風船のような頭を支えられるようには到底思えなかった。顔は鼻から上が黒く塗りつぶされ、耳の端まで広がった口だけが目立つ。何より最も目を惹くのは両腕に捩じれ、巻き付けられた人間だ。両肩を覆うように引き伸ばされた顔に眼球はなく、穴から吐息のように空気音が漏れている。
大きさと風体から、おそらくこの訪問者が矢又千恵美の自宅を訪れていた者だ。
対照的に右の訪問者は小柄だ。音葉と同じくらいだが、全長の半分は頭部である。頭頂部に大量の目と鼻。顔の半分は口である。目はいずれも前後左右にせわしなく動いているが、おそらく何も映してはいないだろう。右腕は針のように細く、顔についた鼻の頭を掻く。左腕は通常の人間のそれだが、手の甲の口はしきりに与太郎の名を呼んでいた。音葉たちを数日つけまわしていた者だろう。
「どうやら、ずくうさまに会うためにはまだ障害があるのですね」
そして威郎の家の方角から現れた三人目の訪問者。紅から神域での一件を聞いて、矢又千恵美の部屋で資料を見つけた時から、予想はしていた。
「やっぱり横山邸に訪問していたのはあなたか、間島正真」
「苗字は名乗っていませんが……半日足らずで相当調べたのですね。久住さん」
今朝がたと同様のランニング用のジャージ姿。外見だけなら精悍な顔つきの坊主だ。だが結界が壊れた今なら、音葉にも彼がまとう奇妙な気配が感じられる。
――音葉……聞こえている?
タイミング良く紅の通信が戻ってきた。
「聞こえている。ダイヤの4。頭空尊は現れたか?」
――現れたよ。蔵の内装が変わってしまって、たぶん社の中にいるんだと思う。
「なるほどな。封印はできそうか」
――やってみるしかないでしょう。クラブの1はこのまま借りるからね。
不安げな声を上げているが、時間さえあれば紅はダイヤの4を捕らえるだろう。音葉の役割は、左右の化け物と、得体のしれない坊主を横山邸に侵入させないことだ。
「わかった。ダイヤの2とスペードの1はこっちで使う。なるべく早く頼む。こっちは予想以上に面倒そうだ」
手元に二枚のカードが現れる。ダイヤの4の出現で力の受け渡しが遮られなかったのは幸いだった。
「その様子だと、やはりこの家の中にずくうさまが降りられたようですね」
正真が、左右の訪問者に向けて手をかざすと、まるでリモコン操作をされたように動きを止めた。どうやら訪問者には序列がある。
「どちらかと言えば呪縛から逃れたがっていると思っていましたが」
「私は八婆の地から離れたい。でも、そのためには、ずくうさまが解放されていないと困るんですよ」
正真は準備運動とばかりに両腕を組み、ストレッチを始める。
「身体の維持に必要なんですね」
「まさか。そんなものを手元に置くなんて正気じゃない。その力は人間が使ってはいけないものだと。常柔寺の住職として責任をもって処分する。それが私の責務です」
正真も含め、先代の住職が責務を果たしていたならば、今回の音葉の仕事はなかったはずだ。
彼の言葉はまやかしだ。
*****
矢又千恵美の集めた大量の戸籍と連判状は、矢又自身には答えを与えなかったが、音葉にとっては十分な資料だった。
矢又は、連判状に書かれた人々の生死を確認し、善ノ工務店が着工したリフォームの相手のほとんどが、連判状に名を連ねた者の子孫であることに気付いた。
彼女は善ノ工務店に同一地域に暮らす老人たちを紹介したのだ。偶然にもそういう結果になることもあるだろう。だが、残念なことに、そして音葉にとって幸運なことに、彼女は目の前の一致に偶然性を見出せなかった。
老人たちが何故リフォームを申し出ていたのか。善ノ工務店から人が消え、訪問者に気づいた彼女は、自分が工務店に売り渡した人々の動機を確認することにした。さりげない用事で電話をかけ情報を集めるうち、八婆地区の被害者たちが一様に地下室の改装を頼んでいたこと、改装まで家族に地下室を隠していたことを突き止めた。
そして、矢又千恵美は音葉と晩入加奈が自室を訪れるよりも前に、八婆のどこかの家へと足を運んだのだ。訪問者が横山邸に集まった以上、彼女の下に怪異が現れることはない。人間にどうにかされるまえに木曽が彼女を見つけることを祈るばかりだ。
更に、矢又千恵美は間島正真という坊主が連判状が作られて以降3回死亡しているということを突き止めた。戸籍を見る限り、正真は自らの息子にも同じ名前をつけた。現在、常柔寺にいる間島正真は4代目ということになる。この情報は、ノイズにより現実が歪められることを知っている音葉にとって、全く別の解釈を持った。
横山邸にも怪異が現れているのだとすれば、それが間島正真である。音葉にはその確信があった。
「寄合衆が神域を作る直前、八婆地区では一時的に豊作が続いていました。元々、頭空尊の怪談は豊作と、それに続く大規模な食害を背景に生まれたものだ。
頭空尊が有するのは入れ替える力。人間と動物が組み替えられて生まれた化け物が食害の原因だったのでしょう。寄合衆はその事実を隠ぺいするために化け物を始末し、元凶たる頭空尊を封じようとした。しかし、寄合衆には知識も方法もなかった。そこで常柔寺を頼り、霊的な力を持たない者でも扱える特殊な結界を構築した」
「ふふっ。まるで見てきたように話されますね。概ねその通りですよ」
「常柔寺が考案した結界は、構築に関わった者たちと頭空尊との繋がりを残すことを前提に成立する。おそらく、寄合衆はこの提案に乗ることを躊躇したのでしょう。何しろ、彼らは化け物とも元凶とも繋がりを断ち切りたかったのだから。そこで、常柔寺が苦肉の策として考えたのは、処理済みの化け物の保管とその秘密の連帯だった」
連判状の子孫の家には頭空尊の影響を受けた者の骨格標本が保管されている。誰もが地下室を持っていたのはそのためだ。
「あなたもこういった事象への理解が早いですね。ただ、昼間もお伝えしたかと思いますが、私は時間稼ぎがあまり好きではない」
正真が右手を降ろすと左の訪問者が動き始めた。どうやらこれ以上は議論に乗ってくれそうにない。訪問者が右腕を大きく振り上げたのを横目に、音葉は腰を下げ、正真の方へと走り出した。距離は30メートル程度。スペードの1が強化した脚力なら数秒で詰められる。正真は想定外のスピードに対応が遅れる。
正真の両腕が上がり切る前に、音葉の右足は正真の左頭部へと振り抜かれる。
「えっ」
だが、足に伝わるはずの衝撃はなく、音葉の身体は宙に浮いていた。視界に入るのは風船のような顔と巨大な口。そして五つに引き裂かれた人間の脚。脚は関節を逆方向にまげ音葉の身体を掴もうとする。
音葉が咄嗟に呼び出した黒硝子は、脚と音葉の間に滑り込み、脚が音葉を掴むのを妨げる。その隙に、身体を捻り、真下に迫る巨大な顔に向き直る。やはり顔の上部は黒く塗りつぶされていて見えない。右側にいた訪問者と交換したら程よいバランスになるのではないだろうか。
落下の勢いに乗って、左手に呼び出した長剣状の硝子片を黒塗りの顔に突き立てる。粘土に棒を刺したような手ごたえ。音葉が落下するにつれて、硝子片もまた、深くそして顔の下方へと滑り落ちていく。
近づいてくる化け物の口。落下の勢いが消える前に、両足で歯を蹴りつけ、同時に硝子片を手放す。蹴りの勢いで後方に飛んだ身体は予定通り地上へと着地した。
横山邸の門扉が左手側に現れる。訪問者は硝子片を抜こうと両腕を差し向けるが、上半身を左右に大きく振るばかりで成果はでない。しばらくは無力化できるだろう。
だが、正真ともう一体の訪問者は?
背後に気を向けた途端、顔の横を針のような左腕が突き抜けていく。
「ヨタロウ……ヨタロ……ズクウ……ドコ……ヨタロウ……」
聞きなれてしまった囁きと肉の腐った臭い。腕に刺されなかったのは幸運だ。
「どうせ口を大きく開けてるんだろう?」
後ろを振り返りながらトゲ状に加工した硝子を数個、背後へと投げつける。音葉を丸のみできそうな大口だ。口の奥には刺さった硝子の痛みからか嗚咽が漏れる。
音葉は両手を合わせて手の中に黒硝子を呼び出す。形をイメージして、大口が閉まる前に開放する。形さえ決めておけば、黒硝子の変化には2秒もかからない。サイズが大きいほど成型時にスピードが乗り、衝突時の威力を底上げする。
先端が尖った棒状の硝子は大口の上下の肉をえぐり、大口が閉じるのを妨げた。身を屈めた訪問者の口から逃げ、門の正面にいるはずの正真を探す。
正真は元の位置でゆったりと両腕を構え、臨戦態勢を整えていた。
「その硝子、やはり面倒ですね。水鏡さんよりも扱いが上手いようだ」
確かに眼前まで近寄った。弾き飛ばされたにしては衝撃がない。
「あなたも頭空尊と同じ力が使えるのか」
構えた腕でよく見えないが、正真が口角を上げ、こちらへと近づく。自分の力については話す気がないらしい。仕方がない。再度身を屈めて全速力で正真に向かう。
正真は、音葉の動きをみて先ほどと同じ正面からの蹴りを予測する。タイミングを見計らっての左ストレート。だが、音葉の狙いは正真の背後だ。軌道のほんの少し外側を抜けて真後ろを取り、そのまま左脚を軸に再度回し蹴りを放つ。
「適応が早い。すごいですね」
脚が蹴ったのは道端に落ちている小石で、正真は音葉の脚の数十センチ前に立っている。しかも、背後を取ったはずが正面を向いている。
訪問者らと同じように正真の口角が大きく上がる。気味が悪いとすら思う暇すらなく、正真の右拳が顔面に飛んでくる。顔の前で右拳が黒硝子にひびを入れるのと、左拳が腹部を打ち抜くのはほぼ同時だった。
内臓が押しつぶされる感覚。空気が押しだされ、音葉は身体をくの字に曲げた。
「あなたは硝子と同様の力を利用しているだけだ。身体はか弱い」
更に数発、拳が音葉の身体を打ち抜かれ、痛みで立てずに崩れ落ちる。
「殺しはしません。終わるまで動けなくなっていただければそれでよい」
正真は崩れ落ちた音葉の頭部をめがけ右腕を振り下ろした。だが、その右腕は音葉の数メートル前方、門扉の前の地面を打ち抜いた。
音葉の前には黒硝子で出来た何本もの針が地面から突き出ている。
確定だ。正真は位置を入れ替える。先ほどは音葉の位置を変え、今回は自分と何かの位置を変えた。ダイヤの4の恩威だ。
「あなたの攻撃は私には当たらない。けれども、私の拳があなたを打ち抜けば、ただでは済まない。痛い思いをせずに私を門扉の先に通す方が賢いと思いますが」
正真は、音葉に力の仕組みが割れていないと考えている。だから、横山邸に入る前に、音葉のことを挑発する余裕がある。
だが、音葉には紅の鑑定結果がある。紅がダイヤと鑑定したからには、頭空尊は一定の法則に沿って現実を捻じ曲げている。
考えるべきは、一撃目は音葉を入れ替えたにも関わらず、先ほどは正真自身を入れ替えた理由。そして、音葉と正真は何と入れ替えられたのかだ。
「これからは全部かわせますよ。それとも試すのが怖いですか」
ダイヤの2は形状を変化させ続けている間は温度に関わらず柔らかさやしなやかさを持てる。他方で、形状が固定すると硝子と同様の性質を持つ。それがダイヤの2の法則性と制限だ。
黒硝子の力を試した時、史料館の館長はその法則を見抜き、法則性と制限の範囲内で音葉に対し距離を詰める武装を提案した。使うべきはここだろう。
腕を伸ばし狙いを定め、イメージした形で硝子を呼ぶ。現れた時には射出の準備ができている。しなやかさを保たせた弦状の硝子を手放せば、弓状の硝子が矢を射出する。弦は元の位置に戻った瞬間に形状が固定され、弓と共に衝撃で崩壊する。1度きり、使い捨ての弓矢だ。
射出された矢は正真の顔面へ飛ぶ。しかし、矢は正真に刺さらずに、門扉に突き刺さった。正真が現れたのは音葉の正面。正真は矢と位置を入れ替えたのだ。
出現した瞬間に突き出された拳を、音葉は硝子で覆った左腕で受ける。正真の打撃は常に重たいが、硝子の籠手がダメージを和らげてくれる。数発で籠手は砕けるが、破片が正真の連撃を妨げる。
その隙に、正真の顔に向けて短剣状の硝子を突き出す。だが、読まれていたのか腕を取られ、音葉の刃は正真の顔の横を抜けてしまう。
そのまま腕を取られて身体が宙に浮く。再度地面に叩きつけられ呼吸が詰まり、視界が滲んだ。
「久住さんは組手の経験が不足していますね。私は、そういう人を多く取り入れられたので、身体が勝手に動くんです。あなたの予想通り、人間同士の品種改良でね」
*****
「その動物が頭空尊なのか」
蔵に残った善田は、輝きを増した球体を指し叫んだ。何処で見つけたのか手に握った火箸をダイヤの4に差し向けた。しかし、火箸は祭壇に飾られていた稲の穂先と入れ替わり、善田は悲鳴を上げて床に転がった。
球体は悲鳴を横目に手足を生やし、ネズミに似た姿で祭壇に降り立った。
ダイヤの4。物を入れ替える力を持つノイズ。それが、紅の目に映る頭空尊の情報だ。横山邸の蔵にあった骨の標本、音葉が見たという神域の死体のことを考慮すると人間のパーツ単位での入れ替えもありうる。
だが、火箸を稲穂に入れ替えた以外に、ダイヤの4が何かを仕掛ける様子はない。前足で顔を掻いて周囲を見渡すと丸まって眠るような素振りをみせるだけだ。
こちらが危害を加えなければ何もしない。意外と厄介だ。
横山邸の外では音葉と間島正真の攻撃的なやり取りが続いている。音葉の格闘はビジネスホテルでみた映画を模倣しているだけだ。組み合わせは音葉のオリジナルだとしても、正真の動きとは雲泥の差だ。遅かれ早かれ正真に組み付される。
試しに足元を泳がせている海月をいくつか近づけてみると、遠くの砂利と入れ替えられた。一匹目は半分に割られたが、二つに増えたのを認識したのだろう、その後は個体ごとに遠ざける。
入替の力は問答無用で一瞬だ。だが、本尊は人間が作ったものだ。何らかの方法でダイヤの4を土鈴に封じ込めたのだ。
見たところダイヤの4は一か所しか入替ができない。つまり、初めより、2番目の海月の方がダイヤの4に近づける。大量投入すれば、近づける距離は伸びる。
幸いなことにクラブの1はそういうことに向いている。
トントン。
足踏みをするとダイヤの4の耳が動く。ほとんど時間はない。クラブの1の半分を足元に、もう半分は目の前の床に集める。深呼吸を二回。
ドンッ
大きく足踏みをすると、ダイヤの4が紅を見た。目の前に集めた海月が煙とともに天井まで噴き上がり、紅の前に壁を作る。これでダイヤの4の入替が紅に到達するまで時間を稼げる。さっきのと合わせて三回。足元のクラブの1は踏みつぶした。一つの海月が潰れて4~5つに増える。それが複数個。足元の海月は足踏みをする度に何倍にも膨れ上がる。あっという間に紅の周りは煙を吸った海月が覆い隠す。
*****
「結界は破れた。私たちは招かれなくてもどこへでも行ける。君は邪魔なんだ」
正真は足を大きく振り上げ、音葉の顔面を踏み抜いた。これですべてが終わる。
「?」
足の裏に伝わったのは頭蓋を砕く感触ではなく、アスファルトの硬い反動だ。
音葉の右腕が持ち上がり、正真の右脚をすり抜けていく。目を疑う光景に、正真はひるんだ。音葉は身体の中心、心臓を貫ける位置で右腕を止め、黒硝子を呼び出す。作るのは弓矢。引いた矢は口で咥えて離す。
至近距離からの一撃。だが、矢が到達する前に正真は消え、音葉の顔の横に小さな石が落ち、数メートル左に正真が着地した。
門扉から離れてしまったがやむを得ない。
「全く……恐ろしいな君は」
正真は立ち上がり態勢を整える音葉に対して追撃をしなかった。至近距離での矢を警戒したのなら幸いだ。だが、踏みつけの回避につかったスペードの1の応用は暫く使えない。手持ちの隠し玉はない。
音葉と自分を入れ替えれば音葉を仕留められたし、矢と入れ替えればマウントは確保できた。だが、正真は自身の身体と石を入れ替えた。
彼の能力がダイヤの4の恩威であり、それが品種改良の延長なのだとすれば、正真の持つ能力の制限はおそらくこうだ。
入れ替えは正真、正真に対する脅威、直前に手放した物のうち2者間で起こる。
入れ替え先に障害物などがあると入れ替えが成立しない。
入れ替えは正真の脅威を回避できる形でしか起こらない。
「ダイヤの4は品種改良、危険と安全を組み替えているんだ」
紅からの応答はないが、正しく伝わっていることを祈る。能力の種が割れたところで、正真に格闘戦に持ち込まれると身が持たないのは事実だ。残り時間は少ない。
「私の力を見通そうとしても無駄です。私とあなたの技術の差は埋まらない」
正真が真正面から突撃してくる。予測通り、音葉の体力がないと見抜いている。
両腕と腹部に硝子の防具を作り出し、自身はスペードの1で膂力を底上げする。3発、4発と拳が命中するたびに、硝子の防具にはひび割れて、抑えきれなかった衝撃が音葉の身体を蝕む。
正真に、意図を悟られてはいけない。
砕け散るまえに防具を修復させ、音葉は正真の暴力に耐え続けた。
*****
――ダイヤの4は品種改良、危険と安全を組み替えている
ダイヤの4へ近づく海月が砂利と入れ替えられるのは、ダイヤの4にとって海月が脅威だからだ。だが、香炉の煙を吸い込んだだけの海月が脅威とは思えない。
社の中に充満した煙。組み換えの力があるなら、なぜダイヤの4は神域から、社から抜け出せない。もしかして、ダイヤの4は煙を避ける方法を持っていなかった?
紅は祭壇を取り囲むように展開させていた海月たちに、祭壇の方へ煙を噴き出すように誘導する。海月は一つの個体として認識し、安全な砂利と入れ替えられても、煙を入れ替えることはできない。
案の定、煙を吹き付けると海月の包囲網が狭くなる速度が速まった。ダイヤの4が動かないうちに祭壇の周りは煙に包まれて、その煙を海月が覆っている。
水鏡紅の足元から煙の中へと伸びた影は、祭壇の下を覆い、ダイヤの4の足元にも広がっている。だが、ダイヤの4は煙に気を取られ足元の脅威を感じ取れなかった。
影を通じてダイヤの4の位置を確認し、目を閉じる。
「ダイヤの4。あなたはここで終わり」
煙のなかで紅の影が揺らぎ、ダイヤの4を呑みこんだ。祭壇は消失し、木製の壁は土壁に戻った。がらんどうだった蔵には、気味の悪い骨格標本が戻ってきている。善田は収集品の間に挟まり身動きが取れなくなっていた。
戸倉とを開けた遠上が、紅の名前を呼ぶ。封印は完了した。
「音葉、ダイヤの4は封じたよ」
――紅、ダイヤの4だ。今すぐ貸してくれ
※※※※
変化は唐突だった。地面の光が横山邸に収束し、訪問者達の身体が揺らぐ。
拳を振るっていた正真の肩が下がり呻くのを見て、音葉は紅がダイヤの4を封じたことに気づいた。
紅に取り込まれたノイズは影響力を失う。黒硝子を封じた途端、街中の死人が消滅したように、訪問者達も姿を消す。うまくすれば、改良の結果も消え、彼らは元の身体を取り戻すかもしれない。
だが、何事にも例外はある。正真は、音葉が門扉の方へ後退する間、身体のバランスを崩して膝をついていた。しかし、地面の光が消えると、薄闇の中で立ち上がる。
「ずくうさまは私が解放します。他の訪問者が消えても私は諦めません」
恩威が失われ、ダイヤの4の必要性は高まったのだろう。余裕が失われている。
「紅、ダイヤの4だ。今すぐ貸してくれ」
新たなカード。力を正確に使えるかはわからないが、使わないで死ぬよりましだ。
「いくら時間を稼ごうとしても無駄ですよ。ずくうさまをどうにきできたとしても私はこうして生きている。あなたが今まで引き延ばした時間は無意味だったんです」
同じノイズに関わる者でも他者から見るとそう見えるのか。
「正真さん。最後だから教えてあげます。僕はダイヤの4の封印であなたが死ぬなんて初めから思っていない。それに、あなたは僕らの力を誤解している」
「ここにきてハッタリですか。もう聞き飽きましたよ」
正真が音葉に向かって近づいてくる。体格、腕力、格闘技術。そのいずれも音葉を上回る。正真正銘、間島正真は久住音葉の脅威である。
あなたが手を抜くような人でなくて本当に良かった。
右腕を空に向けてまっすぐ伸ばす。正真は目の前に迫っている。だが、音葉は彼の姿を確認しない。ただ、上空に向けて硝子の矢を放つ。
目の前の脅威を安全と入れ替える。手元には先ほど放った矢が収まっている。確かに、今までのノイズよりも遙かに危険な力だ。
*****
動物でも動物でも植物でも瞬時に品種改良を行う奇跡の力に目をつけて、常柔寺は人間を品種改良することを発案した。
寺と結託した寄合衆は、八婆の外から買った人を利用し実験を繰り返した。多くの人間が化け物に変じ、駆除された。試行錯誤の先が、改良人間である間島正真だ。
老いや病とは無縁、圧倒的な膂力を授かり、正真は常柔寺と寄合衆の秘密を守るために暴力を許された。その生活に慣れ切った彼には、どんな反撃にあっても人を潰せる確信があった。
水鏡紅と久住音葉は、正真の確信を揺るがした。彼らが操る変幻自在の硝子の力は、正真の暴力が彼らの身体に到達するよりも前に現れ、彼らを護る。
その厄介な力もこの一振りで消える。既に久住の体力は限界だ。今度こそ正真の拳は音葉の頭を打ち砕くだろう。
ずくうの力を抑え込んだようだが、水鏡紅は横山邸の地下にいる。久住を潰し、横山邸に押し入り、水鏡を殺せば全てが終わる。
ところが、拳は宙を舞い、正真は横山邸よりもはるか上方に飛ばされていた。何が起きているのか理解ができない。
もっとも、考えはまとまらずとも、重力に引かれ落下を始めると身体は勝手に対処を始める。持ち歩いている硬貨を投げるため懐に手を入れて初めて、正真は自分の両手が動かないことに気づいた。
懐から出した両手は久住音葉が使っていた黒い硝子で覆われている。手が使えなければ投てきは出来ない。
入れ替えられるものがない。この脅威の原因は久住音葉だ。久住音葉さえ見つければ入替により助かる。だが、落ちる景色のどこを探しても彼はいない。久住を見つける前に、身体が硬い面にぶつかり、そして空が割れた。
空に衝突した衝撃が体中に響き、割れた空は正真の身体に幾重にも突き刺さる。痛みと衝撃で身を固めたまま、正真は割れた空の下、硝子の針山に落下した。
身体を貫く幾本もの針に意識が遠のく。いくら頑丈だといえども、重要な臓器もいくつか壊れている。ずくうが封じられ、人柱がない。怪我は修復できない。
「でも、これであなたも人殺し……ですね」
正真は正面に立つ久住の姿を見た。奴は頭空尊の力を奪い、正真を空中へと放った。そして、自分は頭上に広げた硝子の壁に隠れて入替を防ぎ、死の罠へと導いた。
「あなたは本来なら既に死んでいた。動いているのは頭空尊の力の影響に過ぎない」
「だから、ひと、ではないと」
視界はぼやけており、久住の表情はわからない。指先も足先も感覚はなく、流れ出る血は正真が死ぬのに充分な量だ。
「寒、い」
言葉を紡ぐのも難しい。身体は端から崩れ、塵へと変じていく。力が失われた以上、歪めた現実が元に戻っていく。訪問者たちが消えたように、間島正真もここで消える。
*****
横山邸の玄関を出た時、腕時計は12時を指していた。真夜中を過ぎたばかり。昨日までの横山家にとっては、室内に籠っていなければならない危険な時間だったが、今は違う。紅にとっても数日間の不眠から解放された瞬間の筈だ。
門を開けると、地面に久住音葉が座り込んでいた。服は泥だらけだし、その様子からすると全身ぼろぼろなのだろう。それでも、門扉の前に訪問者たちの姿はない。
「間島正真は?」
「消えたよ。タイミングが良かったな。ついさっきのことだ」
「それじゃあ、頭空尊の影響は全部消えた?」
「たぶんね。死ぬかと思った」
自分で口にして気が抜けたのか、音葉は地面に仰向けに倒れこんだ。そのまま眠りでもすれば恰好がつくのに、背中も痛めていたらしい、痛い痛いと地面を転がる。
「はぁ。これで一件落着……そうだ、ポチ!」
人面犬は横山邸の中に放したままだった。無事に横山与太郎と会えただろうか。
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