人面犬を捕まえて(8):怪談の仕組み-2

 晩入加奈の言う通り、宿舎は市役所の裏手にあった。レンタカーでの移動は遠上に任せて、音葉は晩入と共に矢又千恵美の居室を訪れた。

 晩入曰く、矢又は数日間出勤していない。帰っている様子もないが、訪問者は毎夜406号室を訪れたという。音葉たちの下を訪れるモノと同じなら、矢又は不在でも居室内に携帯電話がある。

 管理人から鍵を借りて部屋に踏み入ると薄暗い空間が出迎えた。窓は全て遮光カーテンで覆われている。もっともカーテンの隙間からは外の光が見える。光を恐れたわけでも、空気の出入りを遮断したわけでもない。

 カーテンの隙間から外を覗くと、向かいの宿舎の廊下が見える。窓の下は散歩道になっていて、道の端には4階まで届く街路樹が生えている。ベランダに物がないので普段から利用していないのだろう。

 ベランダには街路樹を伝って鳥がやってくるのだと晩入は話す。隣室に暮らす彼女もまた、ベランダは利用していないのだという。彼女は矢又の部屋に入るのは初めてだと話し、リビングの端で両手で肩を抱いて所在ない様子で立っている。

 音葉独りでも確認はできる。外で待っていても構わないと伝えても、彼女は首を縦には振らなかった。音葉が何を見るのかを知りたい。それが自身を護ることに繋がるのだと、態度とは裏腹に口にする。

 紅とカードの力がある音葉ですら怪異と相対するのには常に不安が付きまとう。晩入はそれ以上に強い不安を抱えているのだろう。視えるだけで対処する力はないのだ。

 何か気づくことがあったら声をかけてほしい。音葉はそれだけ告げて矢又の部屋の観察に集中した。

 ざっと見る限り、全ての部屋が遮光カーテンで塞がれていることを除けば不審な点はない。最低限の家具と収納に荷物はしまわれている。矢又の行方がわからないのは、人間がこの部屋から彼女を連れ出したからではなさそうだ。

 整理されているがゆえに、寝室のベッド横におかれた机上に目がいく。ベッドにまで侵食を始めそうな大量の書類。そのほとんどが戸籍である。山の一つを手に取ると、数十年前の戸籍謄本が綴られている。リフォーム詐欺の相手探しに使うには少々古すぎる。

 山のいくつかを確認すると、死亡、婚姻などの部分にマークがつけられ、数字が書き込まれている。謄本にはそれぞれ右上に通し番号が振られており、番号同士が結びつくようにできているらしい。

 以前、遠上が話していた親族関係の調査方法のことを思い出す。戸籍の山に隠れていたノートを開けば、案の定、戸籍の通し番号と一致する形で大量の家系図が現れる。一部の人間の名前には丸がつけられて、生年月日、死亡時期、死亡時の住所が書き込まれている。死亡した年齢には差があるが、死亡時の住所はいずれも八婆地区、死亡した時期も前後2年の範囲に収まっている。

 職場から大量の戸籍を持ち出し、数十年前に八婆地区で死亡した人間の家系図を追いかける。多くの人間にとっては不可解な行動だが、昨晩、八婆の林でみた光景と合わせれば、矢又の意図も理解できる。

 晩入に声をかけ、戸籍の山をみせても心当たりがないという。それどころか、後輩が彼女の想像以上に個人情報を私物化していることに狼狽を隠せない。

 もっと何かがあるかもしれない。晩入はリビングとその奥の客間に向かい、自ら部屋を調べ始める始末である。

 部屋を探る様子をみれば、晩入は矢又の集めた戸籍の意味を正しく理解できていない。晩入曰く、矢又は“視えない”性質なので、訪問者の存在は感じていたとしても、その詳細を掴むことはできなかっただろう。

 晩入でも、訪問者でもない何かの要因で、彼女は八婆地区の死者たちと訪問者の繋がりを疑った。そこまでわかれば、探すべきものは明確で、そして探すまでもなく机の上にそれは鎮座している。

 表面が煤けている年代物の香炉。手に取り、全体を確認すると所々研磨したのか、煤が取れて金色の表面が露出している。残念なことに音葉にはメッキなのか金なのか判別はつかない。ただ、この香炉には見覚えがある。

 常柔寺の記録に残されていた“神域”の安置物。頭空尊の本尊と共に祀られた香炉、これが矢又千恵美が訪問者に狙われる原因であり、彼女は、この香炉を手に入れる過程で神域の成り立ちを知った。

 初めは馬鹿げた話だと一笑に付したかもしれない。だが、訪問者の出現と、晩入加奈の様子が矢又の現実、常識を壊してしまった。

「その机にある資料、こっちのパソコンのファイルと関係しませんか」

 晩入は、リビングの棚に据えられたパソコンでいくつかのファイルを開いて見せた。

「入口のところにしか配線がないから、寝室まで回線を伸ばせなかったんだと思います。うちもリビングでネットをしますから」

 彼女が開いたのは、いずれも家系図や人名がまとめられた文書ファイルだ。おそらく、机上のメモを作り上げる過程で試行錯誤したあとだろう。ファイルの保存されたフォルダには文書の他にいくつかの画像が保管されている。

 いずれの画像も、中心に向かって円を描くようにして人の名前が列挙されている。書かれている名前のいくつかは、矢又が調べていた家系図の人物と同じだ。

「これは連判状ですね」

 連判状? 画面をのぞき込む晩入が聴き馴染みのない単語を呟いた。

「知りませんか。一揆等の参加を示すために作られた名簿です。円状にすることで、責任者を隠したんです。一方で署名で横の団結を確保する」

 連判状に記載された者は寝室で見た戸籍に載った名前だが、その中に見覚えのある苗字があった。横山太乃丞。

 寝室に戻り戸籍の山をひっくり返して探すこと15分。音葉の予想通り、横山太乃丞は、横山与太郎の祖父だった。

「あの連判状は寄合衆の名簿か」

 だが、寄合衆は、八婆地区における会合の一種に過ぎない。神域の設立、頭空尊を祀る背景に隠し事があるとしても、それは外に明かすべきものではない。円状に名を連ねた書類は意味も持たない。

 何かがほんの少し噛みあわない。


*****

 黒硝子のときより表の影響が強い。あの場所は人の手で作られた。

 音葉は別れる前にそう告げた。急かす正真を引き留めつつ紅は音葉の真意を探る。

 音葉が侵入したのは常柔寺の記録にある“神域”だ。怪異は結界により封じられ、現実への干渉を阻まれていた。“いるのにいない”。件の訪問者が、黒硝子や海月、今まで遭遇したノイズと異なるのはそのせいだ。

 “神域”はここは別の場だが、音葉の話とここは似ている。異なるのは、人と動物の混ざりものの死体がないこと、そして百葉箱のような祠の鍵だ。

 音葉は箱の中身を確認できなかった。中は煙が溢れていたというし、常柔寺の記録によれば、神域では香炉と本尊が同時に祀られた。この百様箱も線香の匂いがする。だが、香炉も本尊も存在しない。

「そんなに中が気になりますか? 妙なところがあるようには思えませんが」

 神域に到達したことで興味を失ったのか正真は紅の後ろから祠を覗くだけだ。もっとも、彼は祠を覗きこんでも、紅と同じ違和感は持たないだろう。

「ちょっと気になって」

 扉の内側を確認しても、鍵はない。この百葉箱は外側から鍵をかける作りになっている。音葉がみた神域の社とは逆。このサイズでは人間が箱に入ることなど到底できない。これが正しい百葉箱の在り方だ。

 “神域”の方が歪んでいる。その構造が怪異を結界に閉じ込めるために必要だからだろう。外側の鍵をなくした結果、怪異は招かれない限り結界の核に近づけなくなった。

「そっか。結界の外からなら近づけるんだ」

 怪異側から結界を壊すことはできないが、こちら側からなら結界は壊せる。でも、誰が何の目的でそんなことをするだろうか。それに、おそらく結界はまだ壊れていない。あの怪異はこちら側にいないのだから。

「壊そうと思ったけれど壊せていない。まだ何かが足りていない」

 招く、招かれることを媒介にした結界。それが神域に対する音葉の見立てだ。怪異の性質、スペードの1の力でしか侵入できなかった神域の仕組。核心を封じた社の構造。概ね音葉の見立てに間違いはない。

 本尊と香炉は結界の中心点で、結界内でこれが隠されているから怪異は外に出られない。怪異が外に出るためには誰かが怪異をこちらに招かなければならない。だから、あの怪異は電話を通じて訪問を繰り返している。

「私たちより前に招き入れた人がいてもおかしくないよね…」

 あれだけしつこい訪問だ。心を壊し、訪問に応じた人がいても全く不思議ではない。でも、それならなんであの怪異はまだ結界の内側にいるのか。

 招かれるだけでは出られない?

「いや、違う。出て来るようになって日が浅いんだ」

 まだ遭遇した人が少ない。結界を緩めた原因が本尊と香炉が消えたことにあるなら、それが起きたのは最近。林の外に捨て置かれた善ノ工務店のトラック。遠上曰くあの工務店は高齢者向けのリフォーム詐欺を繰り返していた疑いがある。

 善ノ工務店の人間が、八婆地区の高齢者住宅を訪問するうちに、値打ちものである本尊と香炉の話を聞いて神域を訪れた。彼らは無事に本尊と香炉を手に入れたが、その結果、結界は緩み怪異が現れた。

 なら、初めに怪異に遭遇したのは彼らのはず。善ノ工務店の人間はどこに消えた?


*****

 連判状はよく読めば参加者の名前の横に住所地が書かれている。戸籍と照らし合わせれば、参加者たちの死亡時の住所と連判状に記載された住所は一致している。更に特徴的なのは、住所が一致していない参加者は、死亡時期がずれていることだ。

「その画像は、この部屋を訪問するモノと何か関係するんですか」

「訪問者は電話を通じて標的を決めていた。携帯電話にはGPS機能がついていて現在地がわかる。居所がわかれば訪問ができる」

 数十年前、連判状が作られたころ、人々が携帯電話を持ち歩いていたか。もし、持っていないなら住所が必要になる。

 責任をあいまいにするなら、居所など書くべきではない。この連判状は誰かが参加者を訪ねるためにあるものだ。寄合衆がそのようなことをする必要性があるとすれば。

「この連判状は、訪問者たちを封じていた場所への鍵だと思います。これは知人からの受け売りですが、結界というのは一方的に中のものを押さえつけようと思うと作るのが難しい」

 得体の知れない館長の訳知り顔の解説を思い出す。

「他方で、行き来に一定のルールをもうけるのであれば容易い。封じられたものにも外に出るチャンスがあるから、こういった手合いに慣れない者でも成立させやすい」

「でも、それじゃあ封じたかった者は出てきちゃうじゃないですか」

「ええ。だから、一定のルールを設けるタイプの結界に重要なのは出られるけれど出られないことなんです」

 一見すると達成しやすい条件だけれど、実際には達成できない。そういう際を攻めることでより実効的な結界が生まれます。あの館長は町の地下に広がっていた黒硝子との共存はそうして成り立っていたと嘯いた。

「この部屋にきていた怪異は、招く、招かれることをきっかけに出入りが可能な結界の中にいます。外にいる者に招かれなければ結界からでることはできない」

「それって、怪異から招かれれば結界の中につれこまれるってことですよね」

 その通り。だが、本来、結界の内側に閉じ込められた怪異には結界外の人間を捜し当てることができない。林の中の神域から外に出ることができなかったからだ。

「だから、この連判状が作られた。これは、怪異が結界に招く、あるいは怪異をこちら側に招くことのできる人間たちのリストなんです。円状にしたのは責任から逃れるためじゃない」

「門、に見えるからですか」

おそらくは。連判状が門として機能すれば怪異は結界の外に出ることができる。この効果を条件として寄合衆は神域に怪異を閉じ込めた。もちろん、門が機能することはない。

「でも、それだとあの訪問者が連判状の人のところを終始訪ねていたことになります。あんな気味の悪いもの」

「耐えられるはずがないし、おそらく耐えなかったんですよ」

 そう。連判状に名を連ねた者のほとんどが同時期に死亡している。彼らは訪問者の執拗な訪問に負けて命を失った。訪問者が探すべき接点が失われ、結界は完成したというわけだ。

 それが数十年後の現在、ここにこうして怪異の訪問が再発した。連判状の参加者の代わりに人面犬と電話を頼って第三者に招かれようとしている。結界は緩んだのだ。

「でもそれだと少しおかしい」

 この考えは何かが欠けている。怪異はどうやって神域を超えて連判状の者にたどり着いたのか。どうして、現在は横山与太郎の顔を持つ人面犬を媒介にしているのか。

「もしかして彼らは自ら神域を訪問した」

 連判状が門だというのなら、これを利用して神域の中に入ることも可能となる。神域の外に出られない怪異を放置するのではなく、自ら神域に踏み込み怪異の餌食となった。神域に転がっていた大量の人面獣。あれらが結界の内側にいなかったから幻影のようにみえていただけなのだとしたら。

 思考に吞まれそうになっていると、ジャケットのポケットが震えた。携帯電話は紅からの呼び出しを告げていた。


*****

「音葉? 聞いてる?」

 数時間ぶりに聞いた音葉の声はどこか硬く、遠い。紅が社の様子を伝えても上の空で、そうか、なるほどとだけ呟き、沈黙が流れる。

 黒硝子の一件以来、ノイズの正体に近づくにつれ音葉は妄想に近い思考に陥ることがある。今回もおそらくそれだ。

「社の様子はこんな感じだけれど、何かわかったことはある?」

 尋ねてみるが、音葉の様子からは明確な回答はないだろう。仮説を積み重ねている段階でノイズを掴み切れていない。気になることがなければいったん神域から出て、予定通りこちらに向かっているはずの遠上と合流するのが先決だろうか。

 どこか虚ろな相槌と沈黙ばかりが続き、会話に対する集中が緩んでいく。だから、音葉がつぶやいたその言葉がどんな意味を持つのか、紅は一瞬つかみ損ねた。

「レンパンジョ? 何、それ」

「円を描くように人の名前を連ねた紙だよ。社に保管されていないか?」

 紙? それらしきものは社の中にはない。もっとも、本尊と香炉が盗まれている以上、紅が訪れる以前であれば、神域内に連判状なるものがあったことは否定できない。念のため、社の外側や、底板なども確認するが見当たらない。

「ないよ。それがどうかしたの」

 再び沈黙。電話の近くで音葉とは違う女性の声がしている。音葉と遠上が会いに行った協力者だろうか。音葉は電話を耳元から話して、女性に何かを確かめているようだった。

「紅。手短に済ませるがいくつか聞きたい」

「改まって何?」

「君がいるのは林の奥、昨晩たどり着けなかった場所で間違いないか」

 間違いないと思う。少なくても、紅と正真は、昨夜紅らが通ってきた道を逆流し、音葉が踏み込んでいった林の奥に進んでいった。

「間違いないと思うよ。音葉が見た光景とは少し違っているけれど、聞いていた通りの場所に出た」

「それじゃあ、次。林を越える際に、連判状のような紙をみた記憶はあるか」

「ない。見落としているかもしれないけれど。藪の手前は昨晩と同じように石塔が等間隔で積まれていただけだし、その先を抜けたらすぐに砂利敷きの広場にでた。昨夜は広場の周りをぐるぐると回っていたなんて思えないくらい」

「石塔には何もしないで通り過ぎたの?」

 何もしていない。いや……

「正真さんが石塔を少しずらしたよ。もしかして、それがコツってこと?」

「正真? あのひと、ついてきてくれたのか」

「うん。音葉が寺の記録を熱心に読んでいたから気になったんじゃないかな。あと、寺の近くにあった工務店の車のことも気になるんだろうし」

「ああ。そういえば、あのトラックには何か気になるものはあった?」

「特には。本尊と香炉もなかったし、工務店の人たちの手がかりらしきものもない。あ、でも社には本尊と香炉の代わりに煙草があったよ」

「煙草……吸殻か?」

「ううん。煙草の箱。たぶん、中身は少し残っているけれど、吸殻はないよ」

「不自然だな」

 不自然? 音葉の意図がつかめない。気になって質問をしても音葉からの返答がない。また、電話の向こうの協力者と何か話しこんでいるらしい。

 この様子だと、電話での確認はもう少し時間がかかりそうだ。とにかく、もう少しまってもらえるように正真に伝えなければ。

 紅は後ろを振り返り。そして、視界に迫る黒いものを見た。


*****

「セイシンって、正しいに真実の真と書いて、正真という名前ですか」

 音葉が紅の電話に応じている横で、晩入は矢又のパソコンを熱心に操作していた。晩入が正真という名前に心当たりがあると口にした時にはよくわからなかったが、どうやら彼女の心当たりは矢又のパソコンの中にあるらしい。

 紅の報告に感じた不自然さに答えが出ないまま、音葉は晩入の示した画面を目にした。そこにあるのは矢又千恵美が作成した名簿。連判状に連ねた人々の名前だ。

「間島正真。書かれた住所は、常柔寺と一致している。その人は、40年前に死んでいるんじゃないですか」

 40年前に死んだ人間と、数時間前に出会った人間がたまたま同じ名前をしていることはあるか。よほど一般的な名前ならあるかもしれない。太郎とか、一郎とか。正真はどうだろうか。音葉の少ない記憶の中では初めて聞いた名前だが、珍しい方だろうとは思う。

 だが、いずれも同一の怪異に関わる場面で、そんな偶然が起こりうるか。連判状に記載された正真は先代。つまり、常柔寺は寄合衆と共に結界を構築したという仮説はどうだ。それなら、正真が神域を囲う結界を壊す方法を知っていてもおかしくない。

「偶然が過ぎる。紅。今すぐ正真から離れろ」

 電話に向かって声を張り上げたのと、電話の向こうで鈍い音が鳴ったのは同時だ。紅に何かが起きた。懐を探ると、別れ際に受け取ったダイヤの2のカードが消えている。音葉の手元に残っているのはスペードの1のみ。

「いきなり、どうしたんですか」

 晩入の問いには答えづらい。だが、はっきりしたことが一つ。

「工務店の人間に本尊と香炉を持ち出させたのは間島正真だ」


*****

 視界を覆ったそれは、鈍い音を立て、紅の顔面すれすれで社の扉に食い込んだ。黒光りした刀身が重量感を感じさせる。

「おや、少しずれてしまいました」

 先ほどまでと全く変わらない口調。穏やかな表情を崩すことなく正真が首を傾げた。扉に食い込んだ鉈を掴む右腕が膨らむと、バリバリと騒がしい音を立て、鉈が扉へ食い込んでいく。

 鉈が扉を切り裂くよりも早く、紅は身を屈め、社の下を通り抜けた。左手には咄嗟に掴んだ煙草の箱。携帯電話は初撃に慌てて地面に落としてしまったが仕方がない。社の反対側に這い出たら、扉側にたつ正真を視界に入れたまま、数歩後退する。右手に現れたカードはダイヤの2。

 実験の通り、音葉が使用を宣言したが行使を保留しているカードは、紅の意思にも応えてくれる。

「流石に場慣れしているみたいですね。多くの人は一撃目が外れても身体が動かないのですが」

 鉈を扉から外すことを諦めて嵯城の左側から正真が顔を出す。しかし手に持っているのは新たな鉈。どうやら彼が持ってきたバックパックは、紅に説明していたものと随分中身が異なるらしい。

「予想外の展開だし、何が何だか全く分からないんだけれど」

「そうですね。きちんとした説明はしていませんから。説明するつもりもありませんでした。ああ、ただこうならなければいいなとは思いましたよ」

 正真は鉈を構えて腰を下げる。そのまま突っ込んでこられたら、体格差もあって逃げ切れる気がしない。

「何が悪かったの」

「言ったじゃないですか。それを説明するつもりはないんです」

 言い終わるか否か、砂利を踏みしめる音が聞こえ、正真の身体が膨らむ。想像以上に正真は素早い。一歩横にずれようとした時にはもう、鉈は紅の眼前に迫り、硝子をひっかく不快な音が響いた。

 予想しなかった光景に、今度は正真が動きを止める。その隙に、正真の左側に回り込み、彼の横をすり抜けようとしたが、途端に紅の身体は宙に浮き、そのまま前のめりに砂利へと転がった。

「何もないところに壁……硝子か。やはり、一般的な霊媒とは毛色が違いますね」

 紅を護るように現れた黒く小さな硝子片を見ても、正真は狼狽えない。鉈が突き刺したそれを手に取り、地面に倒れた紅を視界から外さないよう気を付けながら、硝子片を観察する。

 この男は、感性がおかしいか、遠上みたいに肝が据わっている。あるいは、似たような現象を見たことがある。

「正真さん、神域に入ったことがあるんじゃない?」

「おや。今、私たちはこうして神域に踏み込んでいるじゃないですか」

「そういわれれば、そうですね。私の質問が悪い」

 そんなに頷かなくてもいいじゃないか。どうやら正真はこちらの質問に答える気はないらしい。それなら、最優先は社の下に落とした携帯電話を確保することだ。まだ音葉との電話は繋がっている。遠上のメールの意図はわからないが、ダイヤの2を取り寄せたことで、音葉はこちらの異変に気づいている。電話さえ取れれば、正真を取り押さえる方法はある。

 もっとも、携帯電話までたどり着けるかは自信がない。勢いよく踏み下ろされる正真の右足を、すんでのところで黒硝子が止める。ダイヤの2は、紅の前に手鏡サイズの黒硝子を呼び出してくれるが、硝子の形状を変えたりそれ以上の大きさの召喚に応えてくれることはない。音葉がどうやってこれを操っているのか、少しでもコツを聞いておけば良かった。

 そんな小さな後悔を胸に、紅は正真が硝子を踏み抜くまでの一秒弱で左に転がり、社に向かって身体を持ち上げる。

 転がる合間に視界に入った正真の右腕の軌道上にもう一枚、硝子を召喚することを忘れない。予想通り背後の硝子も鉈と接触して不快な音を立てる。

 硝子が出現した一瞬だけは、打撃に耐えられる。その一瞬を積み重ねて、背後の男から距離を取る。ダイヤの2がいつまでこんな使い方に応じてくれるのか予想はつかない。

 足を踏み出して、硝子を呼び、社に向かっての数歩を駆ける。背後に正真の鉈や腕の気配が迫ること5回。紅の身体は社の陰に滑り込み、地面に落とした携帯を拾った。幸い画面に傷はなく、通話中の表示が残っている。

「音葉!クラブの1貸して!」

 声を張り上げながら周囲を確認する。

 正真と紅の間にはまだ、社が鎮座している。百葉箱サイズだとしても、これを超えて正真の腕が紅に届くことはない。正真は社を回り込み、紅に鉈を振るうだろう。

 二人とも同じ方向に回転すれば射程から逃れられる。向こうもそれをわかっているのか社の反対側に立ったまま動かない。

――紅、クラブの1だ。それと電話をスピーカーホンに

 音葉の声が聞こえると、右手にダイヤの2が戻ってくる。しかし、すぐさま溶けるように消え、代わりにクラブの1、海月のイラストが描かれたカードが現れた。音葉と違って二枚同時には使えない。けれども、ダイヤの2よりは勝算がある。

 音葉の指示の通りに、電話をスピーカーに切り替える。

「正真さん。なんでそこに入れるんですか」

 スピーカーから響いた声に、社の反対側で正真の気配が緩んだ。

「それは、あなたたちと同じように」

「僕たちは石塔を崩してはいない。それに、僕はそこには入れなかった」

「真なる神域に入ったから?」

 正真の声はさきほどよりも少しうわずっている。

「石塔を崩せば結界が一時的に解除される。先代の資料を読めばわかります」

「本尊と香炉が失われていて安心しましたか」

 正真が息をのむ。紅には音葉が正真に何を伝えているのかわからない。

「そういうところは霊媒と変わらない。あなた方はそうやって、言葉を操り、場を支配しようとする」

 正真の指摘は正しい。音葉は、正真の動きを制し、紅が正真を拘束するための時間を稼ぐために話している。紅の周りにはクラブの1、宙に浮かぶ海月が姿を見せている。正真の目は、まだ海月の姿を捉えていない。仕掛けを施す時間はある。

「それじゃあ、質問を変えましょう。間島正真、あなたは何人と入れ替わった?」

 入れ替わった。正真は、音葉の問いを聞いて笑い声をあげた。

「やはり面倒ですね。余計なことまで調べてくださる。気に入らない」

 鉈が社の壁を乱暴に削る。一瞬の間に数回。正真は社に向けて鉈を振るった。

「こんなに壊しても、ペナルティがない。もう少しなんだよ。だから、余計なことはしないでもらいたい。あなた方は、本尊と香炉を見つけるだけでよい」

 砂利を踏み抜く音。構える間もなく、視界に正真が現れる。彼は躊躇いもなく紅に鉈を振り下ろした。紅の数ミリ前を鉈が切り裂いていく。紅の代わりに何匹かの海月が真っ二つに切り裂かれる。

 切り裂かれた海月が液体を噴き上げて、宙を及ぶ。

「おや、硝子を使うのは止めたのですか。ですが、この奇怪なモノはあなたの身を守ってはくれそうにありませんね」

 力を失い、宙を漂う海月を腕で払いながら、正真は、一歩、紅に近づいた。正真の口角が上にあがる。

「次で終わりです」

 勝ち誇るわけでも、あざ笑うわけでもない、淡々と事実を告げる声は、正真の表情と合致していない。そして、正真は無造作に鉈を振るった。

 鉈が社の扉に擦れ、火花が走る。紅の思惑通りに。


「音葉も正真さんも黙っていて。クラブの1はそれほど無力じゃない」


 火花は正真の鉈や身体についた液体に引火し、一気に身体を駆け上がる。クラブの1、呑みこんだものを増やす力。紅が海月に呑ませたのは、簡易ライターのオイルだ。小さな火種しか生まないはずのオイルは、海月のなかで大量に増殖した。

 正真の正体がなんであれ、人間の形をしている。身体を焼かれて平然としていられるほどの化け物ではない。鉈を落とし慌てふためいたその顔に、紅は思い切り蹴りを叩きこんだ。

 下顎を打ち抜いた紅の蹴りで、正真は意識を失い砂利に崩れ落ちる。正真の身体に海月が群がり、火を呑みこんでいく。化け物だとしても森の中で人間一人を焼き殺すほど、紅は壊れてはいない。

「紅。聞こえているか。正真は無力化できたのか」

 スピーカーからは音葉の声が聞こえる。

「もちろん。でもどうしたらいいのこれ」

「遠上さんがそっちに向かっている」

「正真を見張りながら待ちということ?」

 音葉は特に回答せずに電話を切った。その代わり、確認してほしいことの一覧を書いたメールが送られてくる。

 メールの最後には、遠上と協力して正真を拘束したら、あとは予定に変更なし。と書かれている。

 全く、これじゃあ結局、何もわからないじゃない。紅は、なんだか気が抜けて、社の下に座り込んだ。


*****

 ん? おお、水鏡か。もうそろそろ八婆地区にはいる。え? 常柔寺の住職? いやいや、なんでそんなことになってるんだよ。

 それで、拘束はしているのか? いや、警察に引き渡すと言ってもあの藪の中はちょっとな。それに説明をしているうちに夜が来る。一晩くらいそこに縛っておくのがいいんじゃないか。

 結界内に置いておけない。さあ、そりゃどうだろうな。お前たちが、というより久住が何を考えているかわからないが、今夜の仕掛けが成功すれば結界ごと全てが解決するんだろう。なら、住職を置き去りにしておいたって、大丈夫だとはおもうがな。

 え? 怖いのかって? そりゃあ怖いさ。もう二度とその藪には近寄りたくない。お前だって気絶した俺を運ぶのはこりごりだろう、水鏡。

 だから、正真は捨て置いておいて藪から出て来い。なに、そこにあるという社にでも括りつけておけばいいさ。久住には俺から言っておく。どうせ、そいつはイレギュラーなんだ。今更どうってことはない。

 ないはずだよ。自信? そんなものあるかよ。俺はお前たちより素人なんだぞ。けれども、こういうのは思い切りとハッタリなんだよ。何もかも慎重にとはいかない。

 その辺が、お前と久住の違うところだな。水鏡。

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