人面犬を捕まえて(7):怪談の仕組み-1

 常柔寺(ジョウジュウジ)の敷地の端、砂利敷の路肩に問題のバンは乗り捨てられていた。

 音葉の知り合いの一人、雑誌記者の篠崎ソラ(シノザキ‐)よると、年少者の行方不明者がでた未解決事件では白いバンが目撃されるという都市伝説があるという。

 目撃されるそれらのバンは、同一で、人を拐かし、何処かへ連れ去っていく。行先は地獄のこともあれば、異界のこともあるし、政府の研究施設のこともある。

 だが、篠崎によると、この都市伝説は、子供らしい勘違いの集積らしい。バンは元々彩色のバリエーションが少なく、白は業務用として流通している色だという。

 事件があった場所で白いバンが目撃されるのは流通数からすれば不自然ではなく、しかし、その都市伝説が流布するほど、事件現場で見かけたバンが意味を持つ。そうして、初めは小さな物語だったものが、全く違う物語を持つようになる。

 これが都市伝説、現代の怪談話の面白いところだと篠崎は語る。

 喫茶マボロシのマスターは篠崎の話を聴くふりをしつつカウンター内の清掃をしていたし、隣の席で相槌を打つ音葉は十中八九違うことを考えていた。

 紅も、架空の話の広がりにそこまで興味がわかないというのが本音だった。けれども、こうして眼前に白いバンがあると、自然と思い出してしまう。実は篠崎ソラの話に真剣に耳を傾けていたのかもしれない。


 バンの扉には「株式会社善ノ工務店-あなたにヨシを届ける-」というロゴマークが印字されている。ご丁寧に電話番号の記載があるが、呼び出し音が鳴るだけで、いくら鳴らしても留守番に切り替わることはなく、かといって誰も電話はとらない。

 客の連絡を想定した、留守電や自動音声がないとは思わなかった。20回以上呼び出し音が鳴ったころに、この番号が例の潰れた番号の正体という考えが浮かんだ。

 慌てて切断ボタンを押して、周りを確認する。ポチは常柔寺の本堂で子供たちの遊び道具になっている。ポチが見ていないなら電話がかかってこないというのが、音葉と紅の実験結果だが、問題の番号なら予想外のことが起きることはありうる。

 数秒間、携帯の画面を凝視しても特に反応はない。今は朝だし、何か起きるなら陽が落ちてからということだろうか。常柔寺の住職、正真(セイシン)も何度もこの番号にかけていると話していたが、電話に困った様子はないし、単なる考えすぎかもしれない。

 それでもこんな考えに囚われるのは、数日間の寝不足がなせる業だろうか。


 気を取り直して窓から車内を覗きこむ。正真曰く、放置されてから約2ヶ月が経過している。幸いなことに窓の汚れや湿気は少なく、車内を探ることは容易い。鍵があればよいのだが、正真が見つけた時から施錠されていて鍵はない。

 車内には人や動物、生き物の気配はない。後部座席は倒されて工具や資材を詰めた段ボールが投げこまれている。車体サイズからは7,8人乗りだが、後部座席の荒れようをみると4人程度しか乗れないだろう。

 段ボールの中や下は改められないが、後部座席に音葉の探し物はない。

 運転席の窓を覗き込むと後部座席と異なり整頓されていた。目立つのはダッシュボードに伏せられたバインダーくらいだ。助手席も善ノ工務店のロゴ付きつなぎが一着置かれているだけだ。

 このバンは外れ。音葉が求めるものはここにはない。


 正真は、善ノ工務店に電話をかけ手紙を送っているが、反応はないらしい。

「来週末にでも工務店に出向こうと思っていたのです」と、正真はぼやいた。

 紅たちが正真と出会ったのは5時間前、気絶した遠上を林から道路へ引き摺りだしたときだ。林の中にあった結界によって怪異と近づいた遠上は、音葉によって強制的に気絶させられた。

 その後、音葉が結界内に踏み込んだ影響で、紅たちは参道から駐車場に戻ることが難しくなった。仕方なく遠上の身体を引きずりながら林を抜け、隣接する道路に這い出る羽目になった。

 そうして朝陽が昇る約30分前。林から出た紅たちは、紫の空の下でランニング中の坊主、正真と遭遇した。


 常柔寺の先々代住職の記録には、八婆地区の寄合会が林に祠を建てたと記載がある。寄合会は常柔寺の檀家ではないが、隣接敷地に神域があるため、助力を請いたいと常柔寺に申し出をした。

 宗派の異なる者からの神域の保護。不可解な依頼であり、先々代は寄合会の申し出に難色を示した。記録上も、寄合会が何度も常柔寺を訪れているがその度に断った胸の記載がある。

 ところが、ある時を境に、先々代は寄合会と共に神域を検分し、保護に協力し、やがて一時の間、常柔寺にて神域の保護を引き受けてすらいた。その当時の記録を読んでも宣先代の心にどのような変化があったのかは定かではない。

 ただ、どうにも寄合会が祠を建てた、神域と呼ぶ地には、他者を寄せ付けるべきではない現実的な脅威があったようである。寄合会は自らが招いたその脅威を抱えきれず、近所の寺に駆け込んだ。それが先々代住職の出した結論だった。

 結局、一時の管理は引き受けたものの、先々代は祠と神域の管理を寄合会に戻し、自ら建てた信仰なら自ら貫き通すが道理であると説いた。

「うちの寺には奇跡や檀家の興味を惹く逸話はなくてね。先々代、つまり私の祖父は、このときのことをよく話してくれた。無節操に新たな信仰を始めることの意味を寄合会に考えさせたことが生前の祖父の唯一の誇りだったのかもしれない」

 正真は、そのほかにも先々代の記録を提供してくれた。音葉は綴じこまれていた写真のいくつかについて正真に調査を依頼し、遠上と共に街に戻った。

 紅もこれ以上の睡眠不足は厳しい。警察には正真を通じてバンの調査への協力について頼み込むこととして、昼間のうちの林の中を検分しておこう。


「遅くなってすまないね。あの車両に手がかりはありましたか」

「何も。あの車、やっぱり工務店の車なんですかね」

「ロゴがついているからねぇ。それに助手席は見たかい? 工務店の作業着がある」

「でもこんなところに二カ月も放置なんて、ちょっと考えにくくて」

「君たちが見たことが確かなら、それは神域に踏み入ったからかもしれない」

 出会ってからオカルトめいた話しかしない二人組を、正真は快く受け止める。資料を開示してくれるだけでなく、こうして紅の調査に同行すると申し出てくれた。

 港町であった鷲家口眠を思い出すが、彼に比べると正真は常に穏やかだ。聖職につく人間は人としても出来がよいのかもしれない。

 正真は、常柔寺内で見た作務衣姿ではなく、上下揃ったつなぎに長靴、軍手を身に着けており、リュックを背負っている。林に入るにしては重装備だが、昨晩の経験からすると、彼の装備はとても正しい。

「君たちをみているとこれくらいの装備があったほうがいいと思ってね」

 昨夜から変わらず、紅はいつもの服に春物のトレンチコートを羽織り、長靴を履いている。言われてみれば少し心もとないが、他に服を持ってきていない。

 もう一回、藪に入るくらいならなんとかなるだろう。紅は自分に言い聞かせて、林へ向かう正真の後をついていく。正真は、紅たちが侵入した参道まで向かわず、遠上を引きずり出した藪の前に立った。車道の縁ぎりぎりまで生えている藪の一角が、踏み荒らされ、まるで獣道のような空間が開いている。昨夜は必死に藪をかき分けていたのでわからなかったが、どうやら相当無理やり道を作っていたらしい。

「侵入するなら君たちが初めに入った参道ではなく、ここからが安全でしょう」

「え。なんでですか」

 確かに獣道ができているなら迷いはしないだろうけれども、地図で見る限り、参道の末端と正真が神域とよぶエリアは目と鼻の先だ。音葉の話を前提にするなら、結界が機能しなければすぐに侵入できる。それに対して、ここから神域までは距離がある。と思う。

「先々代の記録によれば、この奥にある神域は昔から存在していたものではありません。おそらく、寄合衆が奥に祠を建てた結果、神域と成った」

「それって、寄合衆の人たちが設定したということ?」

「一般に考えるならその説明が一番わかりやすい。彼らは信仰を起こし、何かを祀り出入りを制限した。寄合衆たちの行為によって、この先の空き地は神域として設定された。それだけのことで、特に凝った仕掛けなどはないのでしょう。でも、君と音葉君は神域にたどり着けなかった。いや、音葉君は無理やり侵入したうえに怪異を見たのでしたか」

 音葉の見た光景を怪異と呼ぶべきか、紅は迷う。常識の埒外の光景という意味では怪異と呼べるものではあるが、紅たちが追っているノイズとは少し違っていた。

「ここで重要なのは神域は単に設定されたものではなく、何かの機能を獲得しているということです。そして、それを護るように設定された結界も、存在を知らない人に対して機能するようになった。

 しかし、神域はさておいて、結界は寄合衆が組み立てたものです。人間が組んだなら道理がある」

「道理ですか」

「そうです。呪いや祈り、結界などという技術は、科学と対置されることが多い。それはすなわち、非合理的なもの、強いては非論理的なものであると受け止められる方が多い。それは大きな誤りです。

 呪いや祈りは、物理現象のように、現象があり、理論により解明されるのではない。理論に基づいて現象が捻じ曲げられる。だから、人為的であればあるほどそこには精緻な理論が流れている。裏を返せば付け入るスキがある」

 話を進めながらも正真は獣道を進んでいく。紅らが踏みしめているとはいえ、ところどころ藪に隠れている道も迷うことなく見つけ出していく。

「私も隣地に暮しているが、この林に、君たちが入った参道以外の出入口を見たことがない。人は普通、道のない林に入ろうとは思わないけれども、参道があればそこから中に入れると思う。ところが、神域の前で参道は途切れてしまう。山道の端から神域を囲うよう等間隔で石塔が置かれており、これが神域への到達を妨げている。

 おそらく参道は結界に誘い込むための導入路なのでしょう。どういう仕掛けであれ、参道を使うことは彼らの道理に乗ることになる」

「ルールから外れた方法なら結界を越えられるって話ですか」

「越えやすくなるとは思います。もっとも、昼間、しかも道理に外れた方法で入るなら、音葉君がみた光景は見られないと思います。この先には何もない広場があるだけですよ」

 それでよい。紅が調べたいのはまさにその何もない場所なのだから。

 正真が鎌で道を塞いでいた藪を取り除いたのは4、5か所目になる。藪の先は、踏み荒らした獣道ではなく、藪が途切れて土が露出している。林の奥へと続く藪との境を護るように石塔が三つ並んでいる。

 昨晩、音葉が神域から脱出してきた地点だ。紅は山道から林の奥で揺らめく炎しか見ていないが、音葉曰く、内にいたモノに見つかって結界との繋がりを切るために少し藪を焼いたらしい。

「確かに石塔が少し焦げていますね」

 正真は石塔の一つを確認して手を合わせた。他の石塔と異なり、積まれた白い石のが半分ほど焦げている。

「この程度なら結界は壊れていないでしょう」

 結界の様子を確認する正真の顔が少し和らいだように見えた。

「長年放置されていたにしては手入れが行き届いていますね。先々代のころから随分と時間は経っているけれど、まだ管理している人がいるのかもしれません」

「そういえば、神域に祀られているのは頭空尊なんですか」

「先々代の記録によればそのようですね。

 翁たちは頭空尊、神域に封じたものを畏れています。記録された事態を惹き起こしたのが頭空尊と呼ばれる何かなのか、事態を惹きこした結果、頭空尊が生まれたのかは定かではありませんが、彼らはそれを忘れるために封じた。その願いの通り、神域には、事態を示す名残はもう残っていないのではないかと思いますよ」

 正真は、焦げた石塔を丁寧に崩していく。結界は時間によって効果が変わるという仮説を立てていたようだが、実験してみるつもりはないらしい。石塔を崩しその先の藪を少し鎌で除去した後、彼は石塔で仕切られた境を踏み越えた。

 正真についていくと、数分も経たないうちに藪は消えて、白い砂利が敷き詰められた空き地にでる。昨晩は来られないと思っていた神域の内側。簡単に侵入できてしまい、紅は言葉を失った。その様子に、正真が頬を上げ得意げな表情を見せる。

「だから言ったでしょう。神域などと呼ばれても侵入できないはずはないと。それにほら、音葉君の言うような凄惨な光景は残っていない。神社を真似た空き地が広がるだけです」

 

 一面に敷き詰められた白い砂利は、常柔寺の境内と同様にここが神域として作られたものであると推測される。砂利は直径10メートルから15メートルほどの範囲にほぼ円形に広がっている。

 紅たちが侵入してきた場所の向かい側は、小高い丘のようになっていて、神域と林の境界線がよく見えない。丘の手前には小さな百葉箱のようなものが置かれていた。百葉箱と大きく違うのは表面が黒く塗られているところだろう。白い砂利との対比でそれだけが浮いて見える。

「記録によればあれが神域の核、寄合衆が建てた祠だね。石塔を手入れしている人がいたのなら、祠も整理されているだろう。ちょっと見てみようか」

 常柔寺の記録によれば、神域の砂利は寄合衆たちが隠しておきたい真実を覆っている。記録上神域などと呼ばれているが、実際には林の中で起きていた凄惨な事件を宗教を隠れ蓑になかったことにしたに過ぎないのだ。

 だが、神域の設立から数十年が経過した現在では、知らなければ足元に何かが埋まっているような気配はない。それどころか昨晩林に入ったときに感じた不気味さな気配も感じられない。手順と時間が揃わなければ侵入できない結界。別れる前に音葉が話していた通りだった。


 近づいて観察すると祠と呼ばれるものが百葉箱を基に作られたのは明らかだ。150センチに据えられた三角屋根の箱は四本の木製の柱に支えられている。観音開きの扉は札で封じられていたのであろう。扉の端に残った切れ端は風化が始まっており、祠の古さを感じさせる。

 祠の下の砂利を探ると、ねじ切れた南京錠が落ちていた。力任せに引きちぎったように見える。紅たちが来るよりも前に、誰かがここを訪れ南京錠を壊した。神域を作ったという寄合衆だろうか。

 それはおかしい。寄合衆はここを神域としてまつることで過去を隠してきた。存在を知る者がほとんどいないとはいえ、石塔の手入れをしていた人間たちが肝心の祠の封を破るというのは行動が矛盾している。

 祠の扉を開けてみると煙草の吸殻と、潰れた煙草の箱が入っていた。箱は埃をかぶっていて古そうだったが、一緒に覗き込んだ正真によれば比較的新しいものらしい。箱の端に書かれている数字は製造番号で、この並びから今年に入って作られたものだという。意外な話に目を丸くすると、以前は喫煙者だったと正真が告白した。


 煙草の持ち主は何が目的で空き地を訪れ祠を開けたのか。箱に顔を突っ込むと、線香の匂いが鼻についた。煙草の箱以外にはなにもないが、内側を撫でると、指に煤がつく。どうやら、祠のなかで香が焚かれていたらしい。

「正真さんはここに来るのは初めてなんですよね」

「はい。そうですよ」

「寺には写真がありましたよね。あれは、寄合会の人たちが?」

「そうですね。先々代が撮影したものだと思います」

 常柔寺でみた写真には、頭空尊とよばれる本尊、首のない煤けた仏像が写っていた。接写だったのでよくわからなかったが、祠の内側の質感はあの写真と似ている。おそらくここに本尊があったのだ。

 香は本尊を鎮めるために焚かれていた。しかし、今は本尊も香炉もない。煙草を捨てた者たちが持ち去ったのか、それとも。

「確認したかったことは概ね確認できましたか?」

 背後から正真が声をかけてくる。どうも、あまり長居はしたくないようだ。


 彼が昨晩踏み込んだ際に見た光景と、この場所は全く異なっている。正真の言う通り、寄合衆らの必死の想いが精緻な論理を産み、本当に機能する結界を作り出した。結界は人を寄せ付けないだけでなく、この場所で起きた事柄を全て封印した。

 結果、ここは卒塔婆地区の一部の老人たちだけが知る、出自のわからない何かを祀る広場になった。そして現在、老人たちが祀っていた本尊は失われている。

 

 音葉が確認したかったものは本当にこれで全部なのだろうか?

 何かが足りていない。見落としている。そんな予感がある。


「もう少しだけ待ってください。もう少し」

 昨晩のこと、音葉からきいた結界内の光景を思い出す。音葉が結界の外側、現在の神域で確かめたかったことは何だった?


*****

 怪異に近づきすぎた場合、ダイヤの2、黒硝子で遠上の目と耳を塞ぎ林から連れ出そう。スペードの1を使えばが音葉独りで遠上の巨体を運べる。マンションを出る前に、音葉と紅はそう取り決めた。

 だが、実際に砂利道に倒れた遠上を見ると、これが正解かわからなくなった。携帯の呼出音はすぐそこで響いていて、紅も木の陰に巨大な何かが潜んでいるのがみえている。それは参道側には絶対に近づいてこないし、藪や木々の陰になっていて、どのような姿をしているのかよくわからない。

 ただ、背丈や動きを見る限り、概ね人間に近い形をしているようには思える。

「本当に近づいてこないと思う?」

 少し怖くなって音葉に尋ねたが、彼は影の方を一瞥しただけで、気絶した遠上の容態確認に戻ってしまう。

「あれだけ騒いでいたのに砂利の外、林の中を無軌道に進んでいたんだ。こちらの声なんて聞こえていない。あれは音に反応しているわけじゃなくて、結界を抜ける方法を探しているんだと思う」

 音葉は、参道の端、藪との境に立つ石塔を指さした。

「道標ではなく、結界なんだと思う。僕らは石塔に沿って歩いて迷ったわけだけれど、それはこの石塔が参道の先への侵入を拒んでいるからだ。そして、この結界の役割は侵入者を拒むだけじゃない。結界内のモノが外に出ることも拒んでいるんじゃないかな。おそらく、この境界を越えるには『招かれる』ことが必要なんだ」

 招かれる。唐突に出てきた条件だが、音葉の中では筋が通っているらしい。

「頭空尊の怪談も、僕らを追いかけ来るアレも、積極的に近づいてくる割に何もしてこない。もし、遠上さんの持ってきた話の通り、この林に頭空尊を祀った祠があるのだとしたら。祠に祀られたものが草葉の陰に潜むアレなのだとしたら。おそらく、ここは祠は頭空尊を祀った場所ではなく封じた場所なんだ。

 どういうわけか、アレは祀られた場所から外に出てきてしまっているが、外部で完全に顕現することができていない。それが、この石塔で作られた結界の効果なのだとすれば、この結界は境界の反対側にいるものに『招かれる』ことでしか越えられないんじゃないか。だから、アレは部屋を訪問し、持主に電話を掛ける」

「その仮説ってどれくらい自信ある?」

 音葉は少し考えて、右手に浮かべたクラブの1、炎を飲み込み周囲を照らしている海月に触れた。音葉の手が海月に触れると、炎は2つ、4つ、6つと分裂していく。紅と音葉の周り数メートルがクラブの1により明るく照らされる。だが、灯りが広がっても呼出音の主が近づくことはない。

「これだけ目立つ動きをしても寄ってこない。前から気になってはいたんだ。ポチが電話をかけている場面を見るという条件で、電話の持ち主の周りに出現する。

 奴は電話の場所を探知できるのにそれ以上近寄ってこない。電話が切れたら部屋の周りをうろついたり、スピーカーから声を上げる。電話以外にもこちらに干渉するツールを持っているんだよ。

 それなのに僕らが話していても、灯りをつけても距離を詰めることがない」

「もしかして、電話を通じてしか私たちの場所を掴めていない?」

「多分ね。随分と自縄自縛な力だけれど、結界の効果に縛られているなら筋は通る」

 音葉の仮説はわかった。けれども、もしその通りだとすれば、音葉がやろうとしていることは少々危険が過ぎないか?


*****

「そんなことはないさ。スペードの1は僕を消してくれる」

 紅がいくら反対しようとも、カードの利用に関する決定権は音葉にある。音葉がスペードの1と告げたとき、カードは音葉の手元に現れる。黒硝子を手にした土地で、音葉は力の使い方を学んだ。このカードは音葉の身体能力を高めるだけでなく、ほんのひと時、音葉の存在を薄めることができる。

「刻無さんと何度も試した。これなら結界に干渉せず中に入れる。おそらく、結界が封じているモノの近くまでいけるはずだ」

 しかし、それは結界内にいる何かと接触するということだ。スペードの1の効果を受けるのは音葉のみ。紅が結界に入れない以上、サポートは限られる。

「そこは策があるんだ。紅。ちょっとだけお使いを頼まれてほしい」

 音葉は遠上の携帯電話を紅に渡した。奴は携帯電話の大まかな位置はわかる。携帯電話の位置を離せばそこにむかって移動する。

「どこかの木にでも縛り付けておいてほしいんだ」

 距離さえ開けば遭遇前に結界から脱出できる。渋々といった様子であるが紅が林の中に消えていくと、少し遅れて呼出音も遠ざかっていく。

 音が随分と遠くなった頃合いを見て、音葉はカードを手に石塔をこえ藪に入った。前二回と違い何か薄い膜のようなものを通過した感触があった。そのまま、藪をかきわけると靴が砂利を踏んだ。

 周囲が開けて、肉の腐った臭いが鼻をついた。砂利の感触は先ほどと変わらないが遠上の姿はなく、携帯の呼出音も聞こえない。

 進路の両隣を塞いでいた木々がなくなり、広場のような開けた空間に立っている。連れてきた海月を足元に寄せると、足元の砂利は浅黒い液体で湿っている。拾ってみると滑り気のある何かが指につく。腐臭の原因はこれだ。血あるいは腐り落ちた肉のようではある。もっとも、匂いも手触りもあるのに現実感はない。

 クラブの1、海月に初めて触った感覚に近かった。黒硝子のように実態を持たない。幻覚あるいは現実と異なる場所に属している何かだ。

 概ね間違いないだろう。スペードの1は音葉の存在を薄め、石塔が築いた結界を越えた。結界内が異界と化しており、かつ異界と感知できるのは幸運だ。

 落ち着いて海月の浮く範囲を広げて周囲の様子を確認する。海月は音葉を中心に2メートルほどを照らすが広場の全体像はわからなかった。

 数歩進むと灯りの端に何かがいくつも転がっている。四足歩行の哺乳類。脚や身体つきは犬だが、両手両足は人間のものにもみえる。四肢は捻じれていて、あらぬ方向を向いている。頸から上は見当たらない。

 触れようと伸ばした手はそれを突き抜けて地面の砂利を掴んでしまう。結界内に封じられたものなのだろう。だが、死んでいるなら封じる意味はない。いったいここは何を封じている。

「もしかして閉じ込めたモノの趣向なのか…」

 遠上の話によれば頭空尊は食害を招く悪霊だ。畑を荒らしていた実働部隊は人面犬だという話だったが、視界にいくつも転がっているこれがそうだというのか。だとすれば、人面犬を捻っているモノはなんだ? 自身が使役する怪異を捻って殺すというのはあまりに解せない。

 相対している怪異の本質を掴むことができない。海月や黒硝子と遭遇したときを思い出させる。ならば一連の怪現象にノイズが絡んでいる可能性が高い。

 気を取り直し先へと進むと死体は犬に限らないことがわかってきた鳥や狐などに紛れて人間らしきものまである。動物は四肢のどこかが人間のそれに酷似しており、人間らしきものは動物のそれに酷似している。動物も人間も頭部は存在しない。

 そうした死体の山の奥に小さな櫓が現れる。黒い四本の支柱に支えられて櫓は高さ150センチのところに鎮座している。扉は閉ざされているが壁板から煙が漏れ出ていた。観音扉に手をかけて引いてみるとほんの少し扉が浮く。しかし、内側に鍵がかかっているのか解放されることはない。

 櫓はせいぜい二リットルのペットボトルの箱四つ分、犬小屋にしては少し小さい程度の大きさだ。内側では何が鍵を閉めているのか?

 これは罠だ。誘惑に狩られて調べるのは避けるべきと判断し、櫓の周辺を探る。櫓が近くなるにつれて数が増えていたが櫓の後ろではもはや砂利が見えないほど死体が積みあがっていた。

 そして微かに聞こえるひっかく音と囁き声。呼出音はない。囁き声の主は音葉につきまとっていたものとは別だ。声の主を探し、櫓の後方へと踏み込む。積みあがった死体に干渉することはできず、視界に移る死体を踏み抜き、音葉の靴は砂利を踏みしめ続けた。感触はないのにこみ上げてくる腐臭は強くなるし、まるで死体の海をかき分けているような心地になり、気分が悪い。やがて、広場の端に小高い丘が現れる。砂利で隠されているが、砂利の下からは動物の手足が覘いている。音葉の腰のあたりまで積みあがった死体とは見た目の質感が違う。あれは、音葉の側に近い。

 声の主は山の前に座っていた。山に向き合い、音葉に背を向けている。黒い法衣に赤と銀の刺繍が施された緑色の袈裟。その姿から僧侶を思わせるが、袈裟にこびりついた赤黒いシミは腐臭を放っている。

 僧侶の身体は大きい。立ち上がったら軽々と音葉の頭上を越えていくだろう。肩甲骨の筋肉が不自然に盛り上がっては何かを潰すような音を響かせる。

 囁き声は僧侶の正面から聞こえるが、僧侶の圧力は人間というより熊を思わせる。


――誰カソコニイルナ


 囁き声に混じり骨に響くように声がした。ガサガサと雑音が混じり聞きづらい。


――マクハアル 何故ソコニイル 


 僧侶の動きが止まる。囁き声が消えて獣の息遣いが聞こえる。背中の盛り上がりがおさまり音葉に訴えかけてくる声以外の音が広場から消えた。


――戻ッテキタノカ アノヨウナ機械デハココカラ出ラレナイ 言ッタトオリダロウ


 機械というのは携帯電話のことだろう。音葉は件の怪異と間違われている。


――無駄ナノダ マクヲ越エタモノニ ココカラ出ルスベハナイ 誰モ 応エテハクレナイ 諦メヨ ココハ何モ変ワラナイ


 僧侶は結界から出られないと言うが、出る方法はある。もっとも、僧侶がそれを知る必要はない。いや、既に外に出る方法は知っているのかもしれない。しつこく出られないと伝えることで件の怪異を引き留めている。

 音葉が反応しないことへの苛立ちか僧侶の背中がほんの少し盛り上がる。だが、音葉もその程度で動じるほどやわではない。

 すると、今度は視界の端で全く違うモノが動いた。音葉が踏み抜いていた死体の海から腕が生えて、人間らしきものが這い出てくる。牛、犬、狐。人間の顔をしたものは1人も現れない。彼らは音葉の方を向き、それぞれに口を開くが、声はしない。


――マクヲ越エルナ 応エヨ 声ニ応ジヨ


 再び僧侶の声が響く。声に合わせ牛や人の頭の像がぶれる。


――応エヨ コノ声ガ聞コエルモノ 応エヨ


 沈黙を貫いたまま、袈裟の正面を確認する。正面は何か所も法衣に破れがあり、鶏、猿、犬等の顔が破れから首を出し何かつぶやいている。身体中に動物の顔をあるのに頭部はない。

 代わりに僧侶の両手はあぐらを組んだ足の上で人間の頭部を回転させている。頭は相当古いのか乾燥しているが不思議なことに目と口だけは動き続けている

「助けてくれ。助けて。なんで俺がこんな目に遭わなければいけないんだ。助けてくれ。悪いのはあいつらだろう。助けて。なあ、許してくれ。俺は。助けて」

 頭は掠れた声で助けと許しを請い続けている。囁き声の正体だ。頭は両手に皮膚をかきむしられ削り取られていく。だが、削れた端から顔は膨らみ元の輪郭に戻る。

 拷問と再生。終わらない責め苦を受け続けるべき理由があるのか、それとも僧侶の気まぐれなのか推し量る手がかりは少ない。


 頭空尊。卒塔婆地区に伝わる怪談の一つ。人面の獣を呼び寄せ、食害を惹き起こした悪霊。それが目の前の僧侶なのか。

 ならば、僧侶の手を逃れようとして携帯電話を用い、現実に干渉してきている怪異は何だ。ポチは何故横山与太郎の顔をもって現れた。


 僧侶? どうして僧侶なんて思った。法衣と袈裟を身にまとっている。正面の死体で出来た丘を祀っている。祀っている? 本当にそうなのか。

 振り返り、丘に近寄る。砂利をよけると、土に混ざり切らなかった動物や人間の死体が地表にはみ出しているが、広場に広がっている死体と違い、複数の動物が組み合わさったようなものは見えない。

 これは墓だ。だが、埋められた者たちに対する敬意はない。ただ、死体がそこら中に溢れているからまとめて捨てていたに過ぎない。

 食害。人面の獣。もしかして。


 音葉は僧侶に向き直った。僧侶は先ほどまでと変わらず再生を続ける頭部を削り続け、音葉に対して言葉を投げかけている。


――応エヨ コノ声ガ聞コエルモノ 応エヨ


 祈祷師の助言によって作られた空間。出入りを封じるための結界。畑への防護を怠ったまま、林に祠を創るだけで鎮められた食害。動物と人間が組み合わさった大量の死体。

 僧侶の奥で祠が煙を吐き続けている。煙の奥、祠の中では何かが外に出ようと暴れている。そのせいで祠はカタコトと揺れている。内側からの鍵を開けられず、中の何かは外に出ることができないでいる。


「これは呪いだ。ここまでして、何を封じようとした」


 特に決定的な論拠はない。それでも、音葉の中で答えは出た。僧侶はないはずの頭部を音葉に向けて、何事かを話した。声は音葉には届かない。

 代わりに、足元が抜けて身体がどこかへ沈み込んでいく。すべての光景が色を失い、耳鳴りがする。


――膜ヲ越エナカッタナ カノ者ノ声ニ応ズルナ 我々ハ 隠サレテイル 隠レテイル 応ズルナ 膜ノ外デ カノ者ヲ暴クナ カノ者ハ 隠サネバナラヌ


 声は明確に音葉の頭に響いた。遠くで携帯電話の呼出音が聞こえる。沈む身体を戻そうともがくと、胸の高さまで取り囲まれていた死体に身体を掴まれて引きずられた。死体の海の中、僧侶から距離が遠くなっていく。

 呼出音がすぐ隣で響いたかと思うと、広場から藪の中へと放り投げられ、そのまま林の外へとひきずられていく。死体の海はもはやない。それなのに拒むことのできない力に音葉の身体は引きずられている。背後に真っ白な壁が見える。このままでは壁にぶつかって命を落とすかもしれない。不意にそんな予感がして、音葉は灯りを、海月たちを呼び寄せた。海月たちは壁にめがけて音葉よりも早く流れていく。壁にぶつかり、海月が輪郭を失い、跡には炎だけが残る。壁は瞬く間に炎に包まれ、音葉が衝突する頃には火柱となっていた。

 息を止め、音葉を引きずる何かの力に任せて火柱へと突っ込む。結界内に踏み込んだ時と同様に、薄い膜を越えるような感覚。そして、身体が地面に投げ出されると、虫や風の音が戻ってくる。海月はもう残っていない。壁を焼いていた炎の残骸が残っているうちに周囲に目を凝らす。音葉の周りだけ藪が焼けてしまい、土肌が見えている。藪の端にはいくつかの石塔がある。

 どうやら、結界の主に気づかれたことで外に放り投げだされたらしい。

 おかげで件の怪異とも距離を取ることができた。確かめることは増えてしまったが、まずは紅の下に戻らなくては。

 音葉は適当に視界の先の石塔に目を付け、周囲に石塔を探し藪に踏み入った。おそらくしばらく歩けば参道に連れ出されるはずだ。

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