人面犬を捕まえて(6):藪の外-2

 眠れぬ夜を終えると否が応でも今日がやってくる。

 慌ただしく身支度を整え、何事もないように職場へと向かう。だがアレが始まって2ヶ月。体力の限界が近い。絶えず頭痛に悩まされ食事も受け付けなくなっている。

 事態の早急な解決が望ましいが、頼みの綱である木曽尾道の連絡はない。


 市役所市民相談室。条例上、また市民への説明では明確にされないが、その相談員は、市役所の抱える他の業務に従事する必要がないうえに、相談者への守秘義務を盾に活動内容の非公開を認められている。

 他方で、彼らはその権限を理解し、適切に行使することで、いかなる厄介事も解決することを求められている。

 前任者は趣旨を理解できず持ち込まれる難問に潰された。しかし、木曽尾道は優れた担当者であり、相談室に積もった解決不能な案件は日に日に減少している。

 木曽は、他人に何ができて何ができないのかを公平に図り配分する。彼が多くの専門家とパイプを持つのも、個々の解決できる範囲を見定め必要な手札を増やすためだろう。結果、彼は前任者のように潰されることなく職務を果たしている。

 相談室に持ち込まれる案件は相談員一人では解決できない。彼はそのことをよく理解していた。

 その木曽が今回は手を焼いているように感じる。依頼者がアンフェアであることを差し引いても少々動きが鈍い。やはり、協力者が見つからないのだろう。

 だが、木曽の進捗に気を揉んでも事態は進展しないし、自分が抱える仕事は山になっている。とにかくまずは目の前の仕事を崩さなければならないのだ。

「晩入課長、来客です」

 部下が電話を受け声をあげた。来客? そのような予定はない。

「市民相談室の木曽さんの関係者で、男性二名です」

 木曽の関係者? 待ちに待った解決の報告なのだろうか。だが、木曽ではなく、関係者を名乗る者が現れるのはどういうことだろうか。

 晩入加奈は胸をよぎった期待と不安に眉をひそめた。

「五分後にいきます。待ってもらってください」

 自分の部下への言葉がいつも以上に冷たいのが、余裕を失っていることを自覚させられているようで厭になった。


 年金事務所の応接室は小さい。そもそも事務所を訪れるのは年金の質問、相談、申請に来る市民であり、それ以外の訪問客は本庁舎を訪れるためだ。

 4人入るのが精一杯の応接室に顔を出すと、二人掛けソファーに肥満気味の大男と青年が肩を並べていた。青年は大男に押されて少し窮屈そうに見える。

「お待たせしました」

 声をかけると大男が立ち上がり名刺を差し出した。「弁護士 遠上則武」名刺に書かれた名前と顔を一致させる。市民相談室の動向は探っていたつもりだが名前も顔も覚えがない。

「弁護士ですか…木曽さんから相談を受けたと伺っていますが?」

「ええ。私が委任を受けたのは今朝がたで、それまでは彼が相談を受けていました」

 大男の隣に座っていた青年が頭を下げた。こちらもまた見覚えがない。二人とも今回の件に関して、木曽が新たに見つけてきた協力者ということだろうか。

「久住音葉といいます。木曽さんとは犬の件で知り合いました」

 犬? 予想外の単語が出てきて反応に困った。こちらの困惑をくみ取ったのか、大男が木曽と久住音葉の出会いについて説明を始める。

 大男の話によれば青年は便利屋で犬探しの名人だという。

「実は彼は空き巣や侵入盗を見つけるのも上手い。警察でもちょっとした噂になっているんですよ。素人の空き巣ハンターがいるって」

「お二人はどういった…?」

「仕事上の付き合いです。彼も私も木曽さんと面識があった。木曽さんは私たちに面識があったことを知らなくて大変驚かれていました」

 大男の淀みない発言は嘘偽りが感じられない。だが不自然だ。

「そうでしたか。今日はどういった用件で来られたのですか」

「おや、木曽さんからお聞きになっていませんでしたか。例の件で」

 やはり彼らは自分から用件を話さずこちらの出方を伺っている。期待よりも不安のほうが的中したかもしれない。木曽は、晩入のアンフェアな依頼に気付いたのだ。だから協力者に探りを入れさせようとしている。

「木曽からは何も。市民相談室は市民の皆様からの相談を受け付けると共に、市役所内の相談も受け付けることはご存じと思います。例に漏れず、私たちもいくつか相談を相談室に行っていますのでどの案件で訪問されたかはすぐにはわかりかねます」

「それは大変失礼しました。私たちは木曽さんが相談をうけている八婆地区の」

 八婆地区。晩入が警戒したからか、大男は話を先に進めることを選択したらしい。あるいは先ほどの不安は考えすぎで、木曽は晩入の依頼を字義通りに受け取ってくれたのだろうか。

「八婆、というと横山さんの件でしょうか」

「八婆地区で起きたリフォーム詐欺の件でして」

 ひとまず、木曽に相談した表向きの内容を口にすると、被せるように大男が異なる話を始めた。

「リフォーム詐欺?」

 繰り返すような尋ね方はわざとらしかっただろうか。急に頭の奥が冷える。

「おかしいな。木曽さんから貴方にも協力いただいていると聞いたのですが。もしかして全部は話していないのかな……では。守秘義務に反しない程度で」

 そういうと、大男は木曽から相談を受けているという案件の概略を語り始めた。

 八婆地区ではおおよそ半年前から、高齢者の住宅に対するリフォーム詐欺が起きているという。問題の業者は住宅の壁の剥がれや垣根の修理など、ごくごく小さな修繕作業を無償で引き受ける。

 八婆地区の住宅は築年数が古い建物が多い。どんな家にも小さな修繕が一つ二つはあるだろう。しかし業者に頼むと費用は嵩む。住人たちが躊躇しがちな部分を餌にするわけだ。

 そして住人と構築した信頼関係を利用し、徐々に耐震強度や雨漏りの危険など、ありもしない欠陥のリフォームを嘯くのだという。誘いに乗せられ依頼してしまえば、後に届くのは高額な請求書だ。

 一度でも支払いを躊躇えば取立屋が姿を見せる。「良い思いをして踏み倒すとは何事だ」「じいさんが払わないせいで業者は潰れてしまう」「世話になったのに恩を仇で返すのか」言葉巧みに高齢者を追い詰め、取立屋は現金を奪い去る。

「私が知っているだけでも8件。巧妙なのはある程度まで実際にリフォームをしている点ですね。詐欺というよりぼったくりのほうが語感としては正しい。そのせいで、警察も腰が重いんです。

 でもね。私は立派な詐欺だと思っています。何しろ、業者がやってくるまでは建物に瑕疵がないケースもあるのですから。業者側が瑕疵を作出しているんですよ」

 大男が語る事件のあらましを聞くほどに視界が歪み、思考ができなくなっていく。

 彼は、何故晩入にこんな話をしてくるのだ。この男は晩入の依頼についてどこまで知っているのだろうか。仮に木曽がリフォーム詐欺対策の相談を受けていたなら、それはいつからだ? 晩入の依頼よりも前か、それとも。

「被害者から、市民相談室に相談があったのです。それで、木曽さんがリフォーム業者の調査を便利屋に、被害の裏付調査を私に依頼した。晩入さんには、木曽さんから内部調査の依頼があったと思います。このリフォーム業者は八婆地区の内情に詳しいんです。でも、被害者は業者を全く知らない」

 握りしめた掌が汗で湿っていく。木曽の認識がどうであれ、この大男は晩入が隠していたことを知っていると脅しているのだ。だが、ここで折れるわけにはいかない。それでは晩入が抱えている問題は解決しないのだ。

「申し上げにくいのですが、私はそういった依頼を受けた覚えがありません。木曽さんは私のところに来て何を聞けと言われたのでしょうか」

 晩入の答えに、今まで黙っていた青年が目を細め、不満げな表情を見せた。

「ほらね、遠上さん。だから、もっと直接的に訊くべきだと僕は言ったんです」

 青年の言葉に大男はため息をつき頭を振った。

「今言いだすな、今。ここは俺に任せるって言っただろう」

「遠上さんの話は回りくどすぎるんです」

「昨日の今日で言われたくないよ」

「それは……説明したじゃないですか。晩入さん、この写真の男をしりませんか」

 大男が慌てるのを無視して、青年は懐から携帯電話を取り出し机に置く。

 青年の勢いに押されて覗き込んだ画面に映る画像に、晩入は思わず息をのんだ。

 なんでこんな写真があるのだ?

 その様子を知ってか知らずか、青年は画像に写ったものについて話し始める。

「彼は、件のリフォーム詐欺の被害者の一人と思われます。ただ、先日から連絡が取れない。不思議なことに自宅の電話にかけても誰も電話に応じないんです」

「あの、誰がですか」

 誰がではない。何が。だ。

 頭では冷静に振る舞おうとしても、あの時の感覚が蘇ってくるのが抑えられない。

「彼ですよ。晩入さん少し前に八婆地区を訪れているでしょう。それで、夜、彼に声をかけられたはずだ」

 青年は本気でこの写真が、リフォーム詐欺の被害者だというのか。腹の奥から湧き上がってくる不気味さが抑えられない。視界の端で何かが弾けるような感覚の後、晩入は気がつけば立ち上がり声を上げていた。

「馬鹿にするのもいい加減にしてください。これが、これがリフォーム詐欺の被害者ですって? 一体何が目的なんですか?」

 怒気をまとう自分をどこか遠くで観ている自分がいる。だが、止めようと思っても、抑えることはできなかった。大男と青年は、晩入の様子に驚いたように顔を見合わせている。

「写真は確かにちょっとふざけた様子だとは思いますが……」

「ふざけた? じゃあ、あなたたちは犬が詐欺被害者になるとでも言うの?」

「犬?」

「犬よ。これの、この写真の」

 画像を直視すると血の気が引いた。

「この写真に写っているのは犬で、人間なんてどこにもいないじゃない」

 声をあげると、大男と青年はきょとんとした顔で晩入を見つめる。

「犬ねぇ。この写真が?」

 犬に決まっている。立派な尻尾を持った小柄な……おそらくは柴犬だ。

「ほら、賭けは僕の勝ちですよ。遠上さん。最後まで協力してくださいね」

 立ち上がった晩入を無視して、青年は大男に話しかける。今までの様子と違い、ほんの少し表情が緩んでいるのが癇に障った。

 彼は晩入を自分を馬鹿にしているのだろうか。顔が熱くなっていく。

「馬鹿にしているわけじゃありませんよ。この画像も別にあなたを揶揄ったわけじゃない。ただ、貴女なら、これは犬だと断言してくれると思って、説明を少し省いた。不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」

 青年は、熱に任せ腕を振り上げていた晩入を真っすぐとみすえ、真剣な表情で頭を下げた。そして、腕のやり場に困っている晩入の前で携帯の画像を二つスライドさせた。一つはさきほどと同じ犬の画像、やはり、晩入の思った通り柴犬だ。意外と凛とした顔つきをしている。そして二つ目の画像は老人の顔だ。柴犬の顔をほぼ同じところに老人の丸い輪郭がある。青年はその二つの画像を何度か行き来させる。

「先ほどの画像は、この犬の画像にこちらの老人の顔を重ねたものです。ちょっとした合成画像なんですが、まあ、顔が完全に人間ですからね。この画像を犬と称する人はほとんどいないと思います。何より、僕はこの顔の人がリフォーム詐欺の被害者だと言ったんだ。ふざけた写真を持ってくるなとお叱りを受けても、犬と断言する人はいない」

 何を言っている。初めの写真が犬だって? だって、あれは。

「あなたはこの写真のような犬。人の顔をした犬に遭遇したのではないですか」

「それは、その…」

 言いよどむと青年が身を乗り出した。謝罪の意を示して以降、彼は晩入から一切視線をそらさない。

「晩入さん。僕が貴女の立場でも、人面犬を見たなんて話そうと思わない。たとえ尋ねられたって話さないかもしれない。だから、先にこの画像を見てもらおうと思ったんです。それも、貴女がこちらの意図に気が付かない状態で。

 だから、遠上さんは犬の話でも、横山与太郎氏の話でもなく、横山家にやってきたリフォーム詐欺業者の話から始めた。そうすれば、貴女は動揺して、人面犬のことを隠す余裕を失うんじゃないかと考えたんです」

 青年は自分たちが晩入の隠し事を把握していると認めた。そして、彼が重要視しているのはリフォーム詐欺の件ではないのだと示している。

「もし、貴女が人面犬をみて怯えているのだとしたら、僕はそれを解決する方法を見つけ出せる。それに、僕たちが抱えている問題においても重要なことなんです。

 だから、晩入加奈さん。改めて教えてほしい。あなたは八婆地区で人面犬、横山与太郎の顔をした犬に遭遇したのではないですか?」

「横山与太郎? そんなはずは。だって、これは犬……あの犬は」

「合成前の写真の老人が横山与太郎氏なんです。八婆地区の寄合に参加しているときの写真を見つけたので加工しました。この老人があなたが木曽さんを通じて調査させていた横山家の当主です」

「そんな……それじゃあ、与太郎氏は既に亡くなっているの」

 青年はゆっくりと頭を振った。

「それはわかりません。ただ、僕は人面犬の顔が死者のものだという話は聞いたことがない。むしろ、貴女の考えの方が珍しいようにも思います。そもそも、巷でよく語られる人面犬の噂は誰の顔であるかについて言及しないんですから。

 晩入さん、もしかして八婆地区で人面犬をみた以外にも何か奇妙な出来事に巻き込まれているんじゃないですか」

 敢えて言及はしない。だが、青年の口調は何処か断定的な印象を受けた。おそらくこの青年は晩入の抱える問題に検討がついている。もし、彼がアレを解決することができるのなら晩入としては事情を隠しておく理由がなかった。

「晩入さん。私からもお願いしたい。この件の解決には、あなたの体験した話が欠かせない。それに、さっきの感じだと、あなた自身は横山与太郎氏に会っていないんだろう? あなたが隠したいことも、話してくれれば解決策があるかもしれない。私が守秘義務を負っているのはこういうときのためです」

 畳みかけるように大男も頭を下げる。リフォーム詐欺の話が出てきたことを踏まえれば、事情を話す過程で出てくる現実的な問題も承知なのだろう。

 木曽が弁護士と便利屋という組み合わせを選んだ意図が読めたような気がした。確かにあの男は有能な担当者だ。


*****

 初めてアレを目撃したのは二カ月前の月曜の晩のことだ。その日は事務所への相談が多く、部下を帰して残務処理を終えるといつもより2時間ほど遅い帰りとなった。

 晩入は市役所の裏手の公務員宿舎に暮している。築30年、五階建ての集合住宅の四階中央、405号室が彼女の居室である。公務員宿舎というと常時満室のイメージがあるが、四階は人事異動や退職者の影響で、八室あるうちの二部屋、晩入の入居している405号室と、その隣室406号室以外に入居者がいない。

 406号室の入居者は晩入より五歳ほど下の、市役所戸籍住民課に勤める後輩だ。名を矢又千恵美(ヤマタ-チエミ)という。晩入は矢又の採用時の指導担当者であるため、顔見知り以上の付き合いがある。しかし、二年前、晩入が年金事務所の課長に着任して以来、職場が異なるためか交流の機会は減っていた。

 たまに廊下で顔を合わせることも多いが、ここ最近は晩入が帰るころに明かりがついていることは少ない。晩入は日ごろ宿舎の出入口の左端に設置されたエレベータを使っているが、4階に着いたときにはこの階に一人きりであるという事実が心細い。

 宿舎のエレベーターは各階の居室と並ぶような位置に設置されており、L字型に曲がった共用廊下になっている。エレベーターを降りても、共用廊下の様子は見えず、エレベーター横の階段を横目に角を曲がらなければ、4階の共用廊下全体の様子はわからないのである。それに、エレベーターがあるのは401号室の隣。居室は401号室から番号順に並んでいる為、晩入の居室である405号室まではそれなりに距離がある。

 結果、もし不審な人物が廊下を歩いていたとしても、晩入が気が付けるのはエレベーターを降りた後であり、慌てて別の階層に移動しようとしてもエレベーターは概ね別階に向けて動き出した後になる。体力には自信がない。階段を駆け下りるあるいは駆け上がって別の階の住人に助けを求められるかどうかは定かではない。

 その日もエレベーターに乗り4階につくまでの間、ぼんやりとそうした不安を思い返していた。そして、曲がり角を曲がり廊下にでたとき、晩入はアレを見た。

 アレはちょうど405号室と406号室の間を歩いていた。宿舎の共用通路は幅150センチほどで、広いとまでは言えないが、廊下で誰かとすれ違うことはできる。だが、アレは道幅一杯を塞いでいた。背は高く、アレの先の廊下にあるはずの明かりは頭で隠されている。

 そのせいでアレの後ろには長い影ができていて、アレ自体の姿もシルエットしかわからないので真っ黒な何かが廊下を占拠しているように見えた。

 アレが動くたび何か重たいものを引きずるような、ずるり。ずるり。という音が耳につく。

 気味が悪い。晩入は咄嗟にエレベーターホールに戻り、共用廊下から自分の姿が見えないよう身を隠した。幸いなことに、宿舎の反対側にも階段はある。用がすめば反対側の階段から立ち去るかもしれない。とにかく立ち止まる先を見てから行動を決めよう。そう考えて顔だけを廊下に覗かせて、影の様子を伺うことにした。

 幸いにもそれは405号室を通りすぎ406号室の扉の前に立った、扉に向かって向き直った姿をみて、晩入は、それが道幅一杯の体躯を持つ巨漢なのではなく、左右に人間大の袋を抱えていたのだと気がついた。両手に抱えた袋はそれの腕のあたりで大きく折れ曲がり、人がお辞儀をしているように見えた。しかし、両手に人間大のものを抱えているとなると本人は随分と細身だ。それはそれで不気味である。

 それは406号室のインターホンに顔を近づけ何事かを呟き続けている。インターホンを鳴らしていないからか、406号室からは反応がない。留守であることを確認できれば立ち去るだろうと思ったが、インターホンの前から顔を動かそうとしない。

 これでは晩入は部屋に帰ることができない。お隣に用事ですか? と朗らかに声でもかければよいかもしれないが、心のどこかであの影に近づいてはいけないと警報が鳴っている。近づくのはためらわれた。

 そうして数分廊下を伺いながら躊躇していると、アレは突然姿を消した。晩入の前は通らなかったし、406号室の戸口からエレベーターホールの反対側、408号室横の階段までは10メートル以上ある。どちらにせよ、ほんの数秒目を離したすきに姿を消すことはできない。406号室の扉が開く音を聞き逃したのだろうか? 

 だが、406号室の前を伺っても電気は消えており、人がいる気配はない。何か見てはいけないものを見た。そんな気がしたが、一回限りであればそこまで怖がる必要もないだろうと、その日は自室へと戻った。

 だが、翌日以降も、午後7時を過ぎて宿舎に戻ると、共用廊下やエレベーターホールにアレがいた。視界の端に音もせず立っていて、こちらが気がついたとしても何の反応も示さない。立っているのは必ず10メートル程度離れた位置で、周囲の電灯の灯りはアレに遮られているので、顔や体つきなどはよくわからない。わかるのは、両手に二つの袋を抱えて引き摺っていること、4階より下で見かける時は4階で見かける時より背が高いことだ。おそらく首を伸ばして上を観ているのだろう。

 そして4階に現れる時は必ず406号室の前にたち、インターホンに近づいて何かをぼそぼそと呟いている。

 姿を見かけるようになって10日目、1階の集合ポスト前に立つアレの身体を郵便局の職員がすり抜けたのを観て、晩入は自分が見ているものに実体がないことに気が付いた。幻覚と呼ぶには現れる条件も動きもはっきりしている。

 正体は何にせよ、アレは406号室に用があって現れている。

 そう気がついてからは、夕方から夜間にかけての訪問者や深夜の共用廊下に響く足音が気になった。扉を開ければそこにアレがいるかもしれない。それに、406号室を尋ねているアレが405号室を訪ねない理由はどこにもない。


 こうして、晩入の眠れない日々が始まった。

 解決策が見いだせないまま3日、転機は遭遇してからアレと14日目、土曜日の昼に現れた。但し、この日を境に状況は一層悪い方に転がる。

 その日、晩入は泥のように重たい身体を横たえ、陽が昇ってからも布団の中で睡眠をとっていた。アレを見るようになってから、夜間に眠ることが難しくなっていたのだ。しかし、彼女の久方ぶりの睡眠は、矢又千恵美の訪問により破られた。


 その日の矢又は随分と取り乱しており、晩入の部屋のインターホンを鳴らし、扉をコンコンと叩いては泣き声を上げていた。

 時計の針はまだ10時を回ったばかりで外は明るい。昼間から酔っているわけでもないだろうに、指導係であっただけの先輩の部屋の扉を泣きながら叩き続ける。十分異常事態だったし、扉を開ければ迷惑事が舞い込んでくるのは明らかだった。

 それに、矢又は406号室の住人だ。どうしてもこの二週間のアレが脳裏をよぎってしまう。矢又が泣きつかれるまで居留守を使うのが得策のように思えた。他方で追い詰められた後輩の声を無視できるほど冷徹でもいられず、布団を被っても眠りに落ちることはできなかった。

 結局、晩入は30分ばかりで根を上げ、眠っていたという方便を用意し矢又を部屋に招き入れてしまう。矢又は上下を緑色のつなぎで固めて、小さくて丸い顔をくしゃくしゃに歪めていた。髪の毛のケアに力を入れている印象があったが、今日の矢又の神はまとまりがないパサついている。

 兎に角、買ったばかりのダージリンティーを飲ませて涙が止まるまで待つ。やがて、矢又は泣き止み呼吸を落ち着かせた。

 そして、彼女は何かに狙われていると話し始めた。

 泣き止んだとはいえ、矢又の話は支離滅裂で全体を把握するのに大変な労をようした。時計の針も六時を回り、夕暮れが近づくころまで聞いたことを整理すると、おそらく概ねこのような話だったのだと思う。


 事の始まりは、昨年の秋、矢又千恵美が参加した高校の同窓会まで遡る。彼女は市外の高校出身だが、たまたま同期の一人が市内の工務店に勤めていることがわかった。言葉は濁していたが同期というのは当時付き合っていたかあるいは憧れた男なのだろう。日も経たないうちに男女の関係になり、宿舎と彼の家を行ったり来たりする日々が始まった。

 晩入と顔を合わせる機会が減ったり、晩入の帰宅時に406号室の灯りがなかったのはこのためだ。話を聞く限り、恋人の家で寝泊まりすることも多かったらしい。

 矢又が抱える問題はこの恋人からもたらされた。男は、ある日、自分が勤める工務店は、家屋の修繕やリフォームを行っていたが昨今受注が減少ぎみで困っている、そんな話を漏らしたらしい。矢又はふと住民課を訪れた老夫婦を思い出したという。

「初めは、本当に親切心から伝えたんです。それで、一ヶ月もしないうちに、老夫婦のところから注文が取れたって喜んでいて」

 事情を話していた矢又には悪意がないのが救われない。一件目は親切だったかもしれないが、恋人は矢又に定期的に顧客の紹介を求めるようになる。初めは、住民課で仕事をしている中で家の問題を抱えている人がいれば教える程度だった。

 だが市役所の業務において住宅のリフォームなどという話が出てくることはむしろ稀だ。紹介できる件数などたかが知れている。そのことを伝えると、恋人はニーズは営業が聴いてくるから住民の名簿が欲しいと言い出した。

 彼が欲しがったのは高齢者の夫婦・単身者の世帯情報だ。もっとも、依頼を受けた矢又は彼の意図するところが読めなかったのだろう。無作為に高齢者の住民票のデータを提供していたらしい。彼が渋い表情をすることもあったらしいが、そういうときは次に提供する世帯情報を倍にしたという。

 個人情報の漏えいであることは疑いがなく、知ってしまったからには問題とせざるを得ない話だった。だが、彼女と晩入に降りかかっている問題の根はむしろここから先にある。


 個人情報漏えいという罪を片手に手に入れた恋人との蜜月は、矢又が横山与太郎という老人の住民票を渡したときから一変した。

 そのころ、工務店は営業の拠点を八婆地区に絞っていたのだという。八婆には農家を営んでいる旧家が多い。跡継ぎがいる家庭はさておき、老夫婦が暮らしている確率は高い。矢又の話を聞いているだけでも頭が痛くなってくる。おそらく、その工務店はリフォームにかこつけた高額な請求を行う、性質の悪い業者だ。

 あらかじめ家族構成などを知っておけばカモにしやすい家を見つけられる。矢又の恋人は、矢又の仕事と考えの甘さから情報源として付き合っていたに違いない。

「そんなことはないです。こーちゃんは悪いことをする人じゃない」

 そうやって無条件で信じるから付け入れられるのだ。

 だが、こーちゃんと呼ばれる男は、1カ月前、横山与太郎氏の下へ営業に出かけた日を境に家に戻らなくなったのだという。矢又の話によると元々外回りで何日も帰ってこないことがあるし、出張先ではメールは返さないタイプの男だったらしい。だから、彼女はまた忙しくなったのだと思い、彼の部屋を訪れて掃除をして帰ってくる程度に留めていたという。

 ところが、その頃から彼女の下には妙な訪問者が来るようになったらしい。らしいというのは、彼女自身その訪問者に遭遇したことがないからだという。初めに気が付いたのは男の家から帰宅した翌日の玄関だという。仕事に出かけようと共用廊下にでたときに、廊下に見慣れないスニーカーの濡れた足跡が残っていた。

 4階に入居しているのは矢又と晩入だけで、晩入は日ごろブーツやヒールを履いて出かけることが多い。宅配便の人が来ない限り、スニーカーのような足跡は見かけない。何よりその足跡は406号室と407号室の間を行き来していたのだ。矢又は晩入が401号室横のエレベーターから出入りしていることを知っていたので、不思議だなと思ったという。

 実害はなかったが、翌日もその次の日も、帰宅時にはない足跡が朝になると現れる。三日も過ぎると流石に気味が悪くなって、矢又は恋人の家を訪ねた。しかし、三日たったその日も恋人は不在であり、不審に思った矢又は工務店を訪ねた。ところが、工務店の事務所はいつものままなのに、従業員は誰もいなくなっていた。

 夜逃げではないと矢又は言う。根拠を聞くと、金庫や事務所の書類などが全ていつものままで置かれていたのだという。パソコンやテレビもそのままで、飲みかけのコーヒーやお茶などがそのまま置かれていた。

 声をかけても誰も出てこないし、それに事務所の外から何かの視線を感じて気味悪くなったため、警察への通報はせずに逃げ出した。それから何度か工務店や男の電話に電話を入れたがつながることはなく、代わりに見知らぬ番号から彼女の携帯に頻繁に着信が入るようになった。

 着信に折り返そうとしても、どういうわけか番号は文字化けしておりリダイヤルができない。かかってくるのは必ず午後7時から夜明けまでにかけてで、うまく着信を取っても無音が貫かれるだけで応答がない。一度誰ですか?と尋ねてみたところ、「入っていいか?」と男の低い声が響いて怖くなって電話を切ったのが二週間前だという。

 二週間前と言えば、例の訪問者が現れ始めた時期と重なる。やはり、アレは矢又の部屋を訪問している“何か”だったのだ。矢又もアレの訪問には気が付いていた。電話に応答した翌日から、電話の頻度は上がり、携帯電話の電池が切れるまでひっきりなしに着信が続く。電源を切ってしまうと、ドアの前に何かが立って、朝までインターホンに何かを話しかけ続けるのだという。だがぼそぼそ声で何を話しているのかは全くわからないらしい。


 謎の訪問者からの連絡について、矢又が辛うじて録音したのは携帯電話への着信一回だけだという。彼女が再生した音声を聞くと背筋が冷えた。

 何かを引きずるようなずるり、ずるり、という音が何秒か続くと、ノイズまみれで聞き取りづらい囁きが入る。そして、聞き覚えのあるチャイム。宅急便ですという声はつい先日も聞いた。しばらく間を開けてドアの鍵が開く音がする。こちらに印鑑をお願いしますという宅急便の声に重なるようにして、囁き声がする。

「違う、そっちじゃない。開けてほしいのはこっち」

 ノイズはなく酷くクリアに聞こえるのでまるでその声を後から追加したようだ。そして、宅急便の受け渡しが終わりドアが閉まる音、そして配達員の足音に混ざり囁き声がはいる。

「ヨタロ、ヨタロ、探している、電話に出て。探している。そこにいるんだろう」

 録音は途切れ、再生時間と録音時間を告げる機械音声が流れた。


 気味が悪い録音だが、録音時間を聞いた途端、内容など抜け落ちてしまった。その時間は、晩入が入念に外を確認し夜間配達を受け取った時間だ。つまり、あれはそのとき406号室の前にいて、しかも矢又の電話に留守電を入れていたことになる。クリアに聞こえた声からすると、訪問者は明確に矢又を狙っている。

「あの、やっぱり録音のなかの宅急便の人、この宿舎の担当の人ですよね。それに、この応対って先輩の」

 それ以上は言うなと釘を刺し、その日、晩入は矢又に金を渡して近くのビジネスホテルへ宿泊させた。そうすれば、406号室に訪問者がやってくることはない、やってこないでほしいと思ったのだ。


 矢又をビジネスホテルへ追いやり、部屋の扉の鍵を閉めると7時を超えていた。外は暗く、既に訪問者が406号室を訪れる時間に入っている。矢又の話を整理する限り、訪問者は横山与太郎を探している。そして、彼女が訪問者を呼び寄せたのは彼女の恋人や恋人が勤める工務店と関係を持ったからだ。

 つまり、あの訪問者は矢又の恋人が横山家を訪れたから憑いてきたものだ。根拠らしい根拠はないが、理解できそうな形に整理すると心が落ち着いてくる。だが、晩入ができることはほとんどなかった。

 矢又の個人情報の漏洩を放置もできないが、それ以上に406号室への訪問者の対処が先決だ。相手は常に隣室を訪ねており、訪ねた理由である矢又は晩入の居室にも出入りしてしまったのだ。いつ晩入に累が及ぶかもわかったものではない。


 そこで、晩入は矢又から聞いた工務店と、八婆を訪ねることにした。そのどちらかに訪問者の失踪原因があるなら、伝手を頼って対策の余地があると思ったからだ。

 工務店は八婆の隣接区で二階建ての家屋と倉庫を構えていた。矢又のいう通りなら無人のはずであったが、晩入が訪ねたときには進入禁止の張り紙がなされており、中を制服姿の警官が物色していた。近隣の住人によれば、工務店の裏庭で腐敗臭がするとして、警察に通報が入ったのだという。

 ところが警察がいくら探しても臭いのもとはみつからない、事務所には誰もいないため、経営者に連絡を取ったところ、訳あって事務所に顔を出すことができないが中は存分に捜査してくれて構わない。臭いの原因が見つかればすぐに対処するとの連絡が入ったらしい。

 矢又によれば事務所は人が消えて二週間以上経過している。既に中は整理されているだろう。つまり、今、事務所内を捜索されることに何にも問題がない。だが、それにしてもどうして経営者は事務所を訪れないのだろうか。

「あの事務所にはずくうがきた。社長はヤツバの人間だから、家に隠れているんだ」

 事務所の様子を伺う晩入を見かけて声をかけてきた事務所の隣に暮しているという男のその言葉が気になった。尋ねれば、工務店の社長は実家が八婆地区にあり、八婆地区には、家や職場を訪れる不吉な怪談が伝わっているという。ひとたび訪れたなら、それ興味が消えるまでは誰かの訪問を引き受けるべきではない、それを招き入れないように家に立て籠もるのだという。

 406号室の訪問者の姿が重なった。興味が消えるまでは訪れ続ける。招き入れるとどうなってしまうのか。最も重要な点ついて男はわからないという。古くから八婆地区に伝わる怪談だが、結末は聞いたことがないという。

 それに、ずくうがきて社長が家に隠れているのだとして、工務店の従業員たちは何処に消えたのだろうか。何かがわかったような気がしたが、何もわかっていない。

 だが、目の前の工務店は矢又の話の通りの異常な状態であるし、その時の晩入には悠長に考えている心の余裕はなかった。


 その晩、晩入は宿舎を離れて近くのホテルに宿泊し、翌日、仕事を休み八婆地区へと足を運んだ。矢又が恋人に教えたという名前のいくつかを辿ると、住宅の一角だけやけに綺麗な壁に塗り替えられていたり、新しく造園しただろう庭がある家がちらほらと見つかった。それらの全てが矢又の行動の結果なのかは怖くて確かめられない。

 それでも、どの住人も平常に暮らしていることが確認できたのは安心すべき情報かもしれない。工務店と何かしらで関わった者が問答無用で訪問者の訪問を受けるわけでもなさそうだし、仮に訪問を受けても害悪を避ける方法がある。だから、彼らは今もこうして生活している。……そう考えるのは、少し都合が良すぎるだろうか。

 但し、それは結局、横山与太郎氏が無事に生活していることが大前提になる。何しろ工務店の者たちが消えた直前に訪問していたのは横山邸なのだから。

 だが、晩入の願いは思わぬ形で裏切られる。横山家本邸は留守なのかチャイムをいくら鳴らしても門が開くことはなく、代わりに向かいに暮らすという横山威郎という壮年の男性が晩入の対応をした。

 威郎は、向かいに住んでおり、二階から本邸を訪れた晩入の姿をみかけて声をかけたと話す。威郎曰く、与太郎氏は旅に出ており、与太郎氏と一緒に暮らしている娘の光里一家は外出中だという。旅について尋ねてみれば、与太郎氏が現地から送ってきたという絵葉書を何枚か家から持ってきてくれる始末だ。

 初対面の晩入に対し、威郎が嘘を言う理由はないと思うが、本人には巡り合えないのが引っかかった。

 外出から戻ってくる頃合いに再度訪ねてみますと告げると、帰りの時刻がわからないから明日以降に改めたほうがいい。尋ねるべきことがあるなら威郎から聞いておくと申し出られた。

 その言動が、実は横山本邸には何かが起きているという疑いの芽を生む。威郎の笑顔と態度は単純に手間を取らせまいとする気持ちの表れなのだろう。だが、一方でその態度で何か別の意図を隠しているようにも感じられるのだ。

 横山邸を訪れる以前に得た様々な情報、特にずくうの話と工務店の様子に重なるような状況。もしや、彼らも何かの訪問を受けているのではないか。晩入の中にそういった考えが生まれるのは自然な流れだった。

 どこかで時間を潰しを日が沈んだ頃合いに本邸に戻ってこよう。そう考えて、晩入は威郎の強い申し出を受けたふりをして、秋山本邸から離れた。

 もし、晩入の考えが正しいなら、ここにも406号室のように異常が起きているし、夜になれば確かめられる。


 だが、晩入のこの目論見は思ってもみなかった角度からの妨害に遭う。

 日が暮れるまで八婆地区のスーパーで時間を潰していた晩入は、人気のなくなった休憩所で、それから声をかけられたのだ。

「おい。姉ちゃん。もう休憩所は閉まるぞ。時間潰したいならバス停横の喫茶店とかにしなよ。あそこならあと二時間くらい空いてる」

 初めて声をかけられたときは、どこから声がしているのかわからなかった。周りを見ても誰もいない。怖くなって自分の携帯電話を確認したが、文字化けをした番号はおろか着信すらない。訪問者が晩入を訪ねてきたわけではないと胸をなでおろす。

「なあ、聞こえてるだろ。反応見ればわかる。他の人と違う。別にとって食うわけじゃないし、単なるアドバイスだよ」

 声は少しぶっきら棒だが、晩入に何かを伝えたいらしい。音のしているのは下からだ。だが、辺りをみても、ベンチに座る晩入より低い位置に人間などいない。

「無視かよ。つらいなあ、せっかく話が通じる人間がいたっていうのに」

 人間がいた? まるで自分は人ではないかのような声に身震いがした。人以外の何か。視線は無意識にそれの姿を探してしまう。晩入の座るベンチの向かい、4メートルほど先に置かれたベンチの下に、何か小さな塊があった。

「そうだよ。ここ。ようやく見てくれた。でもあんまり時間がないぞ。そろそろ係員が休憩所を閉める通知をしにやってくるんだ。あいつ、愛想がわるくてさ」

 耳を澄ませてみると、声の主はベンチの下の塊で間違いない。おそるおそる近づくと、塊はベンチの下でもそりと動いた。その動きと毛に包まれた体躯は見慣れている。これは、犬だ。

「じろじろ見るのは止めてくれよ。若い姉さんに見つめられたら照れるだろう」

 犬が話している、その事実が受け止められず、晩入はしゃがみ込んでベンチの下に腕を伸ばした。犬は晩入の意図に気が付いて身体を起こし、少しじたばたと暴れた。だが、それほど力は強くない。晩入の腕でも十分に抱き上げられるはずだ。

「おい、やめろ。保健所はダメだぞ。俺はちゃんと住むべきところがあるんだ」

 犬がしゃべるなど幻聴だ。疲れが回ってしまい、動物の声まで聞こえるようになってきたか。ため息をついた晩入の顔を腕の中から犬が見る。

 そこには犬の顔はなく、あったのは人間の老人の顔だ。犬が人間の顔をしている。その奇怪な事実に晩入の心は限界を迎え、気絶した。


*****

「さて、どう思う。彼女をどこまで信じていいものか」

 一通り事情を話した晩入加奈は、音葉に協力を申し出た。協力の前に予定していた仕事を整理したいので30分ほど時間が欲しいとの申し出に、音葉と遠上は応接室に取り残された。時計は11時を回っている。日が沈むまであまり時間はない。

「遠上さんは少し割り引いて聞いたほうがいいと思っていますか」

「当たり前だろう。彼女の説明が本当なら、彼女はお前たちと同じ“見える側”だ。そんな人間が何人もいてたまるか」

 常識の外の何かを感じられる霊能者たちと関わりが深い遠上が発してもその言葉の重みはない。遠上のそれは見立てではなく願望だと音葉は思う。

「あれだけ具体的に話せて創作なら相当なものですよ。それに、彼女が八婆地区で活動していた理由については、遠上さんの読み通りだったじゃないですか。あれは確実に善ノ工務店(ヨシノ-コウムテン)のことを知っている」

「それが気に入らないんだよ。晩入自体は加担していないとしても、あいつの話だと情報漏えいが分かってから2ヶ月、それを隠ぺいしていた。それどころか、隠したままで解決することを望んでいたんだぞ」

「彼女が気にしていたのは情報漏えいよりも隣室への訪問者の件だと思いますよ。ポチに遭遇して気絶、そのまま病院で目が覚めた彼女にはもう怪異に近づく勇気がなかった。たぶん、彼女は見えるけれど干渉できない。遠上さんが知っている霊能者たちよりも少し力が弱いんです。

 それでも、見えているということは危険に自覚的でいられるということだ。とにかく手がかりが欲しかったんじゃないですか。情報漏えいを片づけてしまえば隣室の住人はいなくなる。けれども、彼女の知る範囲では訪問者がいなくなるという保証がない。矢又千恵美を自室に招き入れた時点で、彼女の安全圏は壊れてしまったんだ」

 自身の安全を取り戻すために市民相談室への相談事項をそれらしく整え、更に1ヶ月、木曽の報告を待って異様な状況を耐え抜いていたわけだ。大した胆力だと思う。

「それに、彼女の話なら納得がいくんです。木曽さんは僕たちに依頼をする前からずくうや横山家のことを調べていても、何の怪異にも遭遇しなかった。それは、民野都観子がずくうに遭遇していなかったからという仮説には一つ問題があったので」

「年金事務所からの相談を受けた際に、標的が変わらなかったのはなぜか。晩入加奈はあくまで目撃者に過ぎない。当事者ではないから執拗な電話や、電話は来ないし、彼女を辿って木曽に怪異がやってくることがなかったと言いたいんだろう。だが、晩入の話を信じるなら別の問題があるぞ」

 晩入曰く、今も406号室の前には訪問者が現れている。昨日の夜もそこにいた。つまり、406号室の訪問者と音葉たちの下に現れた何か。怪異は同時に2か所に出現していたことになる。

「それについては、あまり問題じゃありませんよ。むしろ、その方が納得がいく。さっき話したでしょう、遠上さんが寝ている間のこと。紅があの林を調べた結果が出てくればはっきりすると思いますが、晩入さんのところに訪問者が出たならおそらく間違いない。

 とにかく、予定より少し時間が押しています。ここから先は僕たちも手分けしましょう。晩入さんが戻ってきたら、僕は晩入さんと矢又千恵美の居室を訪ねてみます。

 遠上さんは予定通り準備を進めてください。紅とは八婆地区の寄合所で落ち合うことになっていますからそれで」

「わかったよ。始める前に全部教えろよ。このままで今夜中に片付くんだな」


 片付けますよ。電話の主も人面犬も、横山与太郎さんの安否確認も全て今夜中に。

 音葉は自信をもって遠上にそう告げた。

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