人面犬を捕まえて(5):藪の外-1

 唐突ではあるが、少し遠上則武という男の話をしよう。

 年齢は30代後半、大柄、肥満体型。たるんだ顔の輪郭に生えた無精ひげと、人を信用する気配の見られない薄っすらと細められた目。端的に人相が悪く、会った瞬間に、彼の体型を揶揄するような悪態をついてやりたくなる、というのが水鏡紅と鷲家口眠による採点だ。

 ただ、二人の採点理由は若干違う。

 紅は、遠上はきちんと食事を改めて痩せると整った容姿になると見ている。彼女曰く、遠上自身、そのことを自覚しつつあのような体型を維持し、横柄さを誇張しているところが悪態を吐かれるべきポイントらしい。音葉にはそれがどうして悪態に繋がるのか全くわからない。

 他方、眠は、遠上が痩せているところなど見たことがないという。眠と遠上は古くからの知り合いだそうだが、昔から一向に痩せることがなく、夏でも冬でもお構いなしに暑苦しい。こちらが真剣に困っているのにあの憎らしい目で見下げてくるのが気に入らないらしい。こちらは外見のことを話しているようで、要するに態度が気に入らないという話だ。

 紅は外見からの印象を、眠は態度を理由に文句を言う。その違いはおそらく遠上との付き合いの長さからくるのだろう。もっとも、不思議なことに二人とも、遠上と付き合いをやめる選択はしない。

 紅は音葉と同様に、遠上の助けを必要としているからかもしれない。眠は、遠上を親友と思っているのかもしれない。

 出会って一週間くらいのころ、音葉が、眠の態度についての見解を伝えたところ、遠上は珍しく目を見開いて、大笑いした。お前は人を見る目がないか評価を表現する方法を知らない、それが音葉の見解に対する遠上の返答だ。

 自分から、紅と眠の遠上への印象を聞いて整理してみろと話していた割に、自身への評価に関しては意に介せず、音葉に関する評価を伝えてくる。そういうところが面倒な人だし、態度が大きいと言われる要因ではないかと、音葉は思う。


 そう、遠上則武が大きいのは体格にとどまらない。どのような相手に対しても態度が大きく、誰にだって同じように自分の意見を伝える。質問の意図は明らかにせず、こちらの話をどのように受け取っているのかは教えてくれない。自称法律事務所勤務の男だが、よく働けていると思う。上司や部下、果ては事務所を訪れる依頼人まで、この男を嫌っているのではないだろうか。

 そんな音葉の心配をよそに、遠上則武の人脈は広く、どういうわけか人望は厚い。事務所の名前を決して明かさないくせに、医師、会計士、大学教授、地位や資格を有する者たちとのパイプが太くて融通が利く。一方で街中の飲食店や宿泊施設などにも顔が知られている。加えて不思議なのが、自称霊能者たちとの繋がりだ。

 遠上自身は、家柄が理由だと宣うが、実際には遠上の仕事の成果が霊能者との繋がりを維持しているように見える。遠上は、霊能者たちの話を聞いては、彼らの能力に見合う仕事を見つけて紹介する。霊能者たちは遠上を手配師と呼ぶ。もっとも、遠上自身、手配師の仕事で金銭を受け取ることはなく、自称法律事務所勤務として、どこかで生活費や手配師のための金銭を稼いでいるという。

 霊能者たちはこぞって遠上を態度が悪い、肥満男と揶揄するが、決して信頼していないわけではない。むしろ、手配師としての腕を支持しているような素振りまであるのが重ね重ね不思議である。紅たちの態度といい、遠上には態度が悪くても人を引き寄せる何かがあるのかもしれない。

 ただひとつ、音葉は彼を評価する霊能者たちは、遠上のある一面を知らないことが気になっている。


*****

 八婆の頭空尊は、八婆地区の農家に限定して伝わる怪談だ。八婆地区は古くから農業が盛んな地域であったが、40年から35年前、八婆の野菜が周辺地域でひと際高く評価された時期がある。頭空尊を知る農家のほとんどはその時期に財をなした家がである。

 当時を知る老人たち曰く、頭空尊とは、豊作の畑を狙い農作物を食い荒らし、農家を破産に追い込もうとする悪霊だ。

 なんか、酷く現実的な怪異だね。というのは水鏡紅の感想だ。遠上も初めはそう思ったし、頭空尊のことを語った占い師も同意見だ。占い師に頭空尊のことを語った老人たちも同じ感想を持っていたという。

 頭空尊は、農作物を食い荒らすという表現が示す通り、食害を呼ぶ悪霊。食害の原因は何処からともなく現れる犬や猫たちだ。これらの犬猫は皆、人間の顔をしているのだという。ならば、この人面犬、人面猫が頭空尊なのかと言えば、そうではない。犬猫は結果に過ぎず、それをけしかけている悪霊が別にいる、当時食害に悩まされた家の家長達はそう信じていたという。

 幸いにも、食害は八婆の野菜の高止まりが落ち着くとともになりを潜め、今では犬猫による食害など、老人の昔話に過ぎないと思われている。ゆえに、八婆の農家でも若い人々は頭空尊のことを知らないのだという。


*****

「なんで、今ここで八婆の頭空尊の話が出てくるんだ。あの怪談は、語感こそ類似するが、この声や民野が語った怪談話とは別物だって、あの時、お前も結論付けていただろう?」

 運転席に座る久住は、胸の前にかざした掌を見つめて黙り込む。

「脅かすな。俺たちが直面している事態を解決するのに、八婆の頭空尊の何を確認しなければならないんだ。そこを説明してくれと言っているだけだ」

「それが、今は上手く説明できないんです。遠上さんが聞いた話によれば、八婆の人たちは食害を起こしていた犬猫を何度も捕まえたのですよね」

 そう聞いている。だが、捕まえたところで人間の顔をした獣だ。捕らえた者たちは気を病み、家は処分に困り果てていたという。

「その食害も5年も祈祷師の助言により唐突に収まったと話していましたよね」

 久住の言うように、頭空尊という怪談の終わりはとても唐突だ。犬猫の処分にも、食害にも困った農家たちは、八婆地区の付近で生計を立てていた祈祷師に相談をした。祈祷師は、頭空尊を止めるのに祠を立てるのが良いと進言したという。進言に基づいて、農家たちは八婆地区の端に位置する林の中に祠を立てたそうだ。

「祠を立てた翌月から食害は消えた。祈祷師が何を見たのかは知らないが、原因そのものが去ったのか、祠により封じられた。祈祷師の進言に基づき、祠には頭部が空の置物が安置されているらしい。その似姿から、この怪談は頭空尊と呼ばれている。俺が知っている八婆の頭空尊の話はそこで終わりだ」

「そこまでで怪談が終わると、僕たちが直面している声の主や、ずくうとは別物です。けれども、いくつか気になる点があるんです。例えば、祠により食害が収まったとして、それまでに捕らえた犬猫はどうしていたのか。例えば、祈祷師はどうして林の中に祠を建てるように進言したのか。

 例えば、なぜ、農家たちは人面犬・人面猫そのものに怪異の原因を求めなかったのか」

「確かに、不自然なところは多い怪談だと思うが、それは、今俺たちが考えるべきところなのか」

「僕の予想通りなら重要だと思います。それに、今夜のうちに確かめておくべきことがある」

 久住の言葉に反応するかのように、カーステレオから聞こえる音が変化した。与太郎を呼ぶ声が収まる代わりに、何か重たいものを引きずるような音が大きくなる。車が少し左右に揺れた瞬間、遠上は思わず身構え、窓の外を確認した。

 何度も確認したように、そこには何も存在しない。しかし、遠上に見えていないだけで何かがいる。だから、車は揺れて、ステレオから声や音が聞こえる。そう考えるのが自然ではないか。

「久住、確認だが、今夜のうちに確かめるってことは林の中に車を走らせるって事か?」

「ここから先には車が入っていける道がない。だから、降りるしかない」

 降りる。遠上には久住の言葉が理解できなかった。

「声の主は、僕たちが招き入れることを求めている。けれども、別に扉を開くことが招き入れることとイコールではない。外に出るという行為は必ずしも招き入れるという行為と同一視されない」

 それは詭弁だ。反論をしようと久住に向き直ると、彼の手の上に炎が浮かんでいるのが見えた。どういうわけか、炎は見えるのに、火元がわからない。

「遠上さん。質問です。僕の手元には何が見えますか?」

 炎。だが、それを認めるのは、火元がわからない炎が存在していることを認めるのと同義だ。遠上の知る限り、中空に浮かぶ炎の理由を説明する方法がない。

「火が灯ってるように見えるな」

 最低限の事実だけを告げる。何故かは考えることをやめた。できれば知りたくない。

「その回答なら安心しました。遠上さんは外に出ても大丈夫な人ですよ。紅、情報共有が終わった。起きろ」

 外に出ても大丈夫。久住の言葉が遠上の中をすり抜けていく。この青年はやはり出る気なのか、この状況で。

「いいですか。落ち着いてください。これは僕と遠上さんの身を守るために大切なことです。僕の手のなかに炎以外のものが見えたら声をあげること、林のなかでは絶対に電話に出ないこと、そして3つ目、林の中にありそうにないものを見たら僕か紅を叩いてください。声に出してはいけません。

 それだけ守っていれば外に出たとしても大丈夫です。ずくうは招かれることを待っているだけで通り魔ではないんですから」

「そんなもの、予想、推測だろ」

 後部座席で動く音がして反射的に強ばった肩に水鏡の手が乗せられた。人間の手なのに夜中の車内で後部座席から女性の手が伸びてくる。その状況が既に気味が悪い。後ろを振り向くのがたまらなく厭だった。

「もしかして遠上さん」

「わかった。わかったよ、行こうじゃあないか。だが、危険にさらすなよ。俺は武闘派でも霊能者でもないからな!」

 肩に乗っているのは水鏡紅の手だし、隣にいるのは久住音葉、鷲家口眠から紹介を受けた青年で、記憶がないのは怪しいが中身はそこそこしっかりしている。先日までの様子と連続性は保たれていて変なところはない。彼の手元には何のトリックか知らないが炎が浮かんでいるが、彼は本物の側だ。トリックがわからないほうが正常だ。大丈夫。俺は正気は保っている。

 両手で自分の頬を叩き、気合いをいれよう。ただ、こんなことで痛い思いをするのはごめんなので、勢いは弱くしておくべきだ。


 数秒後。車内にはペチンと肌が鳴る音が響いた


※※※※※

 頭空尊を封じたとされる祠は地図によれば林の入り口から約三百メートル先にある。もっとも、遠上たちがよってたつ地図というのは林の中で開けた場所がそこであるという意味合いしかなく、祠が藪に隠れていた日には夜中の探索は絶望的だろう。

 加えて、車両を降りたあとも小さな音で鳴り続けている携帯電話が遠上の身体を固くする。携帯電話の着信音で、例の声の主に居場所を教えている気がしてくるのだ。

「車の外に出ても招かれるまでかけつづけてくるならかえって安全ですよ。バッテリーもいくつか持ってきたので電池切れも起きない」

「お前ら、それは準備がよろしいな……」

どうやら、久住と水鏡は初めから今夜頭空尊の祠を探索する心づもりだったらしい。

「昼間に来るって発想はなかったのか」

「だって、昼間は遠上さんに色々頼んでいたので動けなかったじゃないですか」

「なら俺抜きで」

「それはだめ」

 割ってはいる水鏡の強い声で、遠上の震えは止まった。声が鋭かったからではない。純粋に疑問なのだ。彼らは何故遠上を必要とする。だが、遠上を必要としている彼らの様子に違和感はない。不思議なことに遠上の五感は危機を訴えてはいない。

「僕たちと違って見えないのだからいる必要はない。遠上さんの言い分はわかるんですが、予想が正しければ今回は遠上さんの協力が必要なんです。そして、協力してもらえるかを確かめるには今ここにいる必要がある。それに、遠上さんには見えないものも、僕たちには見えるんです」

「わかった。林に踏み込む前にひとつだけ。肝心なところをぼかしてるのは日頃の俺への当て付けか、どっきりじゃないよな?」

 遠上の問いかけに先行して林に踏み込もうとした二人が振り返る。渡されたペンライトに照らされた二人の呆けたような表情に、なぜだか苛立ちを感じた。

「違いますよ。でも驚いた。遠上さん、説明が悪いって自覚あるんですね」

「ほんと、ちょっと驚きだよね、音葉」

 撤回。苛立ちを感じて当然だと思う。俺は態度が悪いことはあっても必要なことは丁寧に説明している。

「うるさい。いくぞ。朝までに祠を見つけて調べるんだろ」

 遠上は怒りに任せ林へ踏み出した。


 林の入口は思っていたより整地されていた。雑草が刈られ砂利がしかれた細い道が30メートルほど続いている。道の砂利は黒と白が混ざっているようだが、雑草の下をかけ分けてみても似たような石は見当たらない。砂利の形も丸く整えられている。

 突き当たりまで進むと雑草に隠れて40センチほどの小さな石塔が二つ建てられていた。

「これが祠…ではないですよね」

 あいにく久住の質問に答えられるほど頭空尊に詳しくはない。だが、本尊が祀られているのであれば、石塔ではなく社のようなものがあるのが通常だろう。

 水鏡は久住の問いに返答せず左右の藪をかき分けペンライトを照らしている。

「たぶん道しるべなんじゃないかな。ほら、あっちにも同じものがある」

 彼女が指し示す藪の先には確かに石塔のようなものが見えている。だが、道しるべにしては藪のなかには道がない。

 先まで行くには藪に踏みいらなくてはならず、スーツに革靴の遠上には辛い。すると、久住がバックパックから長靴とグローブを取り出した。

「これが遠上さんの分です。スーツの汚れは我慢してください」

 手際がよいのがかえって腹立たしい。渡された長靴を履き終えると水鏡を先頭に遠上、久住の順で藪にわけいっていく。腰のたかさ位まで生えた藪をかき分け約5メートルおきに置かれた石塔を頼りに水鏡が道を作っていく。その後ろを歩く遠上には足下を取られないようにする以外の苦労はない。

 暗闇のなか藪をかき分ける最中でも鳴っている携帯電話の音を聞いていると現実感が失われて視界がぼやけるような気がしてくる。不安だ。

「砂利道だ」

 どれほど石塔を数えたのかわからないが、水鏡の明るい声を聞いて遠上の解れていた視界が像を結んだ。勇み足で藪を踏み倒し砂利道にでる。長靴が砂利を踏む音が響く。ペンライトで足元を照らすと、遠上の右手に向かって林に入ったときと同様の砂利の小道が目に入った。地図上での林の中の空き地は瓢箪のような形をしていたから、おそらく、ここがその先端部分にあたるのだろう。

 足元の砂利は黒と白が混ざっていてどれも丸い。先を行く水鏡を追いかけて道なりに数歩進むと背後で藪をかき分ける音がした。

 後ろを振り返ると、小道の左側の藪から久住が顔を出した。

「なんでそっちから出てくるんだ」

「なんでって、僕は遠上さんの後ろをついてきただけですよ」

「それなら反対側から出てくるだろう。俺はそっちの藪から小道に出たんだぞ」

 遠上の後ろをついてきたなら、久住は右側から現れるはずだ。水鏡に確認しようと彼女の方を振り向くと、彼女もまた首を傾げている。嫌な予感がした。

「水鏡。お前は藪から出た時、どっちに向かって砂利道が伸びていた」

「私は藪の中にいるときからまっすぐ歩いているよ」

 そんなはずはない。遠上は確かに水鏡の後をついて歩いていたのだ。久住は遠上の後ろをついて歩いていた。三人は列になっていたはずなのに小道に出てくるときだけ方向が異なっている。

「紅、途中で道が曲がったようなことはなかったよね」

「ないと思うけど……石塔を見つけたらそこに向かって藪を進んでいたわけだし、だ多少左右にぶれはしたけれどほとんどの石塔は私たちの前にあったよね」

「遠上さん、紅。これはおかしいですよ。僕たちはどういうわけか元の位置に戻ってきている。藪に入る前に石塔につけた印があるんです」

 久住はしゃがみこみ、小道の端――水鏡が出てきたと主張する場所を確認していた。たしかにそこには藪に入ったときにみた石塔が二つ並んでいる。右側の石塔の下に、熊を模したストラップが置かれている。

「このストラップは僕が置いたものです。僕たちが今林の中の空き地にいるのだとしたら、このストラップはどこから?」

 ストラップが移動してきたと考えるより、自分たちが戻ってきたと考える方が合理的だ。藪の中で方向を見失ったのだ。だが、その説明だけでは三人が違う方向から小道に出てきた説明がつかない。

 頬を伝う汗が冷たい。体の底が冷えていくような感覚。打開策を、納得できる説明を求めたいが、二人の霊能者は黙ったまま石塔や辺りの様子を確認している。林の中に響いているのは、スーツのポケットに入った携帯電話の着信音のみだ。

「着信音。まだ聞こえていますか」

 久住の質問に、思わず変な声が出てしまう。

「聞こえているだろ。ずっと鳴っている」

「妙……ですね」

 妙とはどういうことだ。まさか、携帯の音が聞こえているのは遠上だけなのか。慌ててポケットに手を入れようとする手は久住に制された。

「音はなっていますよ遠上さん。ただ、少し変なんです。さっきまでと音が違う」

 そんなことはない。ポケットの中でなっている着信音は同じだ。耳を澄ませて聞いてみても変化は……

「違う音が混ざっているんじゃない? ぷるるっぷるるって音がする。でも、遠上さんからじゃない」

 水鏡の真似た音を意識すると、遠上にも聞こえた。着信音に似ているが籠ったような聞き覚えがある音が辺りから聞こえている。林の中で音が反響するとは考えにくいが、携帯の着信音が大きすぎて今一つ音の出所がわからない。

 だが、音の正体には心当たりがあった。

「着信音じゃない。これは電話の呼び出し音だ」

 自分で口にしてみて震えが走る。林の中で他人にも聞こえるような呼び出し音をならしている存在、しかも呼び出し音は一向に途切れる気配がない。まるで遠上の鳴りやまない携帯電話のようだ。

 音の出所は林の中、それも砂利道の先の方にある。もし、遠上たちが何らかの理由で元の位置に戻っているのだとしたら、道の先にあるのはレンタカーだ。

「俺たちのことをつけて」

 久住が立ち上がり遠上の眼前に手のひらをかざした。それ以上は言及するな。無言の主張を受け取り、言葉を飲み込む。

 ずくうをみても招いてはいけない。つけられているという認識も招くという行為にあたるとでもいうのか。

「ここは静かだし遠上さんの着信音は相手に聞こえているはずなのに、近づく気配がない。位置がわからないか、誘っているのか。紅、ノイズの気配はあるか?」

「ないよ。さっきまでと変わらない。たけど、少し静かになったような気がする」

 静かになった? 遠上には彼女の感性がよくわからない。明らかに異音が、それも怪異と思われる音が増えている。

「静かになった……か。確かに。もしかして、この石塔はそういう用途なのか」

 久住は何かに気がついたのか自分が進んできた藪のなかの確認を始めた。

「紅。遠上さん、藪のなかで見つけた石塔で様子がおかしい、倒れているものはありましたか?」

 見覚えがない。そもそも水鏡の後をついていただけで石塔をよく見てなかったかもしれない。いや、そういえばひとつ。

「そこの端にある石塔は一度壊れているんじゃないか? 久住がストラップを置いた方は反対側に比べて新しいよな。石に汚れが少ない」

 藪に踏みいる前から気にはなっていたのだ。石塔の左側は苔や水染みが見られるのに、右側は磨きたてのように汚れがなく、つやがある石が積まれている。何か意味があって変化をつけているのでなければ、片方は新しいとみるのが自然だろう。

「遠上さんを連れてきて良かった。もうひとつだけ確認です。僕の右手の上に何が見えますか?」

 差し出された久住の手の上には車で見たのと同じ鬼火が漂っている。火が中空に浮かんでいる理由はやはりわからない。手と炎。それ以外には何も

「なんか炎の周りがぼやけていないか?」

 久住は遠上の答に頷き、立ち上がる。

「もう一度藪のなかに入りましょう。呼び出し音の相手が声の主だとしてもまだ僕たちの位置は割れていない。藪にはいれば、あれに遭遇するより前に祠を確認できるかもしれない。今度は道の正面から入ってとにかく前に進んでみましょう」

 いうやいなや、彼は砂利道の先へと足を踏み出し始めている。慌ててあとを追いかけるが、砂利道から藪に足を踏み入れた途端、遠くの呼び出し音が大きくなったような気がした。

 近づいてきている? 根拠のない考えがよぎり、遠上の足も自然と早まる。呼び出し音から逃げるかのように久住の掻き分けた藪を突き進んだ。そして、数分後、前方の久住の足が砂利を踏む音に遠上の心臓は高鳴った。

 駆けるように藪から出てペンライトで周囲を照らす。先ほどと同じ細い道。だが、今回は間違いなくまっすぐに進んできた。同じ道に出るはずがない。振り返り藪の出口を確認すると左側には薄汚れた石塔が、右側にはきれいな石塔が置かれており、右側の石塔のそばには汚れた熊のストラップが置かれていた。

「俺たちはまっすぐに藪を進んだんじゃないのか」

 遠上の困惑をあざ笑うかのように、あの呼び出し音が大きく響いた。今度は間違いない。着信音と同じ音量の呼び出し音が響いている。砂利道から逸れたところ、数メートル先の木の陰あたり、音の出所に目をやると、何もないはずの闇が動いたように見えた。

「何かがいる。久住、まずい。これはまずいぞ」

 心臓の高鳴りが収まらない。顔からは汗が吹き出し、身体は震えて動けそうにない。遠上の頭を駆け巡るのは身の危険だ。呼び出し音は近づいてきている。

 これ以上はまずい。直感が告げている。このままだと本物に遭遇する。

「遠上さん、僕の右手に何が見えていますか?」

 耳を塞ぎたくなるような着信音と呼出音の中で、久住の声だけが鮮明に響く。

「炎だ。火元は見えないが……その炎を丸く覆っているのはなんだ?」

 先ほどまでは見えなかった。炎以外が見えたら伝えろ。久住の助言が甦る。

「音葉。これって、もしかして」

 遠上の後ろにたつ水鏡の声に不安が混じると、一際呼出音が大きくなった気がした。音の主が近づいてきている? 振り向けば確かめられるかもしれない。だが、全身の寒気と汗が振り向くなと訴えている。

 藪を掻き分ける音が聞こえる。続いて何か重たいものが砂利を踏み込む音、呼出音は先程よりも明らかに近い。

「招き入れるまでは危険ではない、もしかしてそういうことなのか」

「久住、考えはまとまったか。それどころじゃない。わかるだろう?」

 重たいものが砂利を踏む音がする。また一歩、あれはこちらに近づいてきている。もはやのんびりとしている時間はない。あれは、遠上の電話の位置を知っている。

「大丈夫ですよ、遠上さん。僕らは招いてもいないし、招かれてもいない。まだ接触することはないんだ」

 砂利を踏む音が二回。あれが隠れていた木は目測で数メートルしかなかったはずだ。藪をかき分けて出てきたとして、遠上や水鏡の後ろまでせいぜい十歩前後だろう。つまり、すぐ背後にいるのだ。

 それなのに、どうしてこの男は落ち着いている。しかも遠上の背後が視界に入っているのだ。暗くて怪異の姿が捉えられないのか。だが、呼び出し音はどんどん大きくなっている。

「遠上さん。音が大きくなったのは僕らが近づいたからです。でも、招いても招かれてもいない以上、絶対に接触はない」

 久住は、耐えきれなくて振り返ろうとした遠上の腕を掴んだ。腕の筋肉を絞めるような握力に遠上は顔をしかめた。久住はそのままゆっくりと立ち上がり、遠上の顔にもう片方の手をかざす。

「協力ありがとうございました。ここから先は僕の領分です」

 耳元で久住の声が聞こえた途端、遠上の視界は黒く塗りつぶされ、耳は何かに塞がれた。声を上げようと口を開けても、何かが口に貼りついて音が出せない。

 何をされた? 何が起きている? 頭の奥で洪水のように疑問があふれて身体から力が抜け落ちる。膝の力が抜けて、砂利道に崩れ落ちた。呼出音も、着信音もしない代わりに、久住たちの声も聞こえない。

 どうなったのかを尋ねようにも声も出せない。八方ふさがりな状況の上、徐々に五感が失われていく。やはり、危険はそこまで来ていた。

 もっと早く逃げるべきだった。しかし、どんなときも後悔は先に立たないのだ。


*****

 ワン。犬の鳴き声が耳に届いたような気がして、薄っすらと目を開けた。奪われたはずの視界に光が差し込み、強烈な頭痛がやってくる。

「うぅ」

 目を光に慣らしながら身体を起こす。ぼやけていた視界が像を帯びるにつれ、自分が久住の借りたレンタカーの後部座席に寝かされていたことが分かってきた。助手席には見覚えのある黒いケージが置かれているが、中は空っぽだった。運転席側の後部座席は窓が開いており、犬の鳴き声は車の外から聞こえてくる。

 外は既に日が昇っているが、外気に少し涼しさが残るところを見ると、まだ日が昇ってあまり時間が経っていない。腕時計の短針は6を回ったばかりだった。

 意識がはっきりしてくると、かえって状況が把握できなくなってくる。レンタカーは昨日の夜のまま、件の林の前に止められている。エンジンはかかったままだが、カーステレオから響いていた与太郎を呼ぶ声はもうしない。代わりに、朝のラジオ番組が心地のよいジャズを流している。

 遠上の携帯はジャケットから取り出され、レンタカーのシガーポケットに繋がれて充電されていた。着信履歴は記録できないほどに膨れ上がっており、直近50件は全て文字化けした番号からの着信だ。最後の着信は午前5時17分。おそらくこれが日の出の時間なのだろう。

 メールボックスには、職場からのメールが一件、調査中のリフォーム詐欺の被害者がまた見つかったというものだ。手口は同じで被害は三ヶ月前。同僚が被害者から事情を聞いているらしい。合流してやりたいところだが、この電話の件が終わるまで久住たちから離れたくはなかった。昨夜の状況をみる限り、遠上が久住たちといることで安全圏にいられる時間もあまり残っていないように思えるが、それならそれで、あの犬の前で誰かに電話してもらうしかないだろう。

 呪いの押し付け合い。昔何かの映画でみた光景を思いだし、遠上は頭を振った。うまくいけば助かるし、実際に鹿江は電話から逃れている。だが、失敗すれば多かれ少なかれ経由した者全てに累を及ぼすモノもある。まだ、逃げるより久住らに協力する方が生存率が高いだろう。

 昨夜、遠上の感覚が奪われる前の久住は何かを得心していた。逃げの算段をするのは彼の話を聞いてからでも遅くない。

「あ、遠上さん。起きたんですね」

 こちらが落ち着き始めたのを見計らったように久住が車に戻ってきた。手にもったビニール袋からペットボトルの水とおにぎりを差し出した。

「水鏡とあの犬は何処に行ったんだ」

「ああ……紅とポチは夕方まで別行動です。ちょっと確かめたいことがあって」

「確かめたいこと? そうだ。昨夜のあれはなんだったんだ。俺は助かったのか」

「ええ。だからこうして林の前で朝ごはんが食べられる。あの時もお伝えしたように、僕らは招いても招かれてもいなかった以上、声の主に追われることはあっても見つかることはないんですよ」

 久住は昨晩よりも更にはっきりと自身の見解を述べた。おそらく、遠上が意識を失っている間に調査が進んだのだ。彼は一連の怪異について新たな情報を得た。

「それで、細かいことを教えてくれるのか。それとも、夜が明けたら行きたいと言っていた場所に行くのか?」

「そうですね。できれば行きたいんですが、昼間に運転するのはちょっと」

 久住の困った表情の理由は察しが付く。昨晩同乗してみてわかったが、おそらく記憶を失う以前から久住は車両の運転に慣れている。記憶を失っていても運転というルーチンは体に染みついているのだ。だが、彼の運転がいかに問題がないといえども、公には免許証を所持していない。

「本当は昨日だって遠上さんに運転してほしかったんですよ」

「いいよ。何をどうしたのかは聴かないが、不快な音が聞こえなかったおかげでゆっくり眠れたらしい。身体の疲れは取れていると思うし、俺が運転するさ。

 そこを訪問したら今回の協力は終わりなのか?」

「いいえ。むしろ、遠上さんに一番頑張ってもらうべきはその後だと思います。」

「どういうことだよ」

「今回の木曽さんからの依頼、解決するには僕らの力だけじゃ足りないんです。彼女の話を聞くのと、紅の確認作業を終えてからじゃないと確証はないのですが、根本的な解決に関しては遠上さんにも手伝ってもらわないと」

 まるで、遠上が何か事件の遠因になっているような言い草だ。だが、記憶の限り、木曽、横山、その他今回の案件に関わった人々と、遠上は接点がない。

「夜のような目に遭うのは御免だぞ。身の危険を感じるものには近づきたくない」

「でも、今夜も電話は鳴りやみませんよ。ポチはここにはいないので、誰かに押し付けるのも難しい」

 こちらの考えを読んでいたかのような発言に、おにぎりを食べる手が止まった。

「遠上さんは誰かに押し付けるようなことはしないと信じています。それにあのあとわかったことを話せば遠上さんも乗り気になると思いますよ。最終的な調整は紅たちと合流してからになると思いますが、可能なら、横山与太郎氏の安否確認と、電話をかけてくる怪異の処理を今夜同時に行いたい」

 とにかく、まずはご飯を食べてください。そんなしょぼくれた顔じゃあ、遠上さんの魅力が失われますよ。

 久住の言葉にひっかかるものはあったが、腹の虫は正直に反応する。仕方がない。まずは食事を終えてからだ。

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