人面犬を捕まえて(4):怪談話は夜更けから
「ヨタロ…ヨタロ……」
重たい布を引きずるような不快な音と共に唸り声が響いてくる。声の主の居所はわからないが、性質の悪いモノであることはわかる。
声が聴こえるようになって二日。何処に隠れようとも、夜になるとこの声はこちらを見つけて追いかけてくる。理屈はわからない。分からないからこそ、逃れる方法も見つからない。朝まで耐える。それ以外の解がないのが苛立たしい。
遠上則武は眉をひそめ、カーステレオのボリュームを絞った。
唸り声が小さくなる代わりに車外の闇が濃くなり、ジャケットにいれた携帯電話が震える。
文字化けした謎の番号から立て続けに着信が入りはじめている。これも昨晩と同じ現象だ。読み取れないとはいえ番号は開示されているから着信拒否も許されない。声の主は現代の電子機器に通じている。
昨晩は久住音葉の部屋の中で、遠上の携帯の電源を食いつぶすまで声の主は架電をやめなかった。今夜は携帯の代わりにカーステレオを利用していたようだが、ステレオの音を絞ればこの通りだ。
しばらく画面を眺めた後、遠上はカーステレオのボリュームを戻した。携帯の震えが止まり、スピーカーから声が響いてくる。うるさいことに違いはないがこれなら通信手段は失われない。
「止める方法はないのか」
運転席に座った青年、久住音葉にクレームをつけてみるも、彼も困り顔で首を横に振る。わかっていたことではあるが、声から解放されないという事実は頭が痛い。
「昨日みたいに、音を出せるものがなければ消えるとは思うんですが。テレビ、ラジオ、パソコンの電源を落としたら、部屋の前を行ったり来たりするだけで済みましたからね」
「あれはあれで怖い。マンション前の廊下を一晩中何かが歩いていたんだぞ。気味が悪くて仕方がない。」
昨晩、紆余曲折あり、久住音葉の部屋でこの声に襲われた。声の主は遠上の電話の電源を食いつぶし、室内のテレビとラジオを使ってこちらに呼びかけを始めた。水鏡紅が電源を抜いた後は、朝まで部屋の前を歩き回っていた。
覗窓から姿は見えなかったが、足音と呼び声は収まらなかった。
「それに今夜は車だ。このままエンジンを切った時に、入ってこないとは限らないじゃないか」
「でも、部屋より車のほうが移動ができる分だけ安全かも」
だがそれはエンジンがかかっていることが前提条件だ。
「くそっ。面倒だな」
悪態をついた遠上を無視して、久住は外を見る。カーステレオの声が小さくなり、突然車が揺れた。何かがぶつかったような感触だが、車外には何も見当たらない。
「わかった諦めよう。まずは夜明けまで、これが車内に入ってこないことを祈ろう」
「そうですね。断定はできませんが、夜明けになれば訪問は止む」
断定はできない。久住音葉は、こういう部分だけ妙に律儀である。
遠上は仕事柄、自称霊能者に会うことが多い。自らが霊能者だと宣う者の多くは、自己の体験を断定的に話す。この状況なら、悪霊は朝になれば何やかんやの作用で消えると断定してこそ、信頼を得られる。朝になっても終わらなければ、悪霊の力が強まったとごまかせばいい。
それをしない久住は、霊能者にはむかない性格だろうと思う。
「夜明けまでの我慢か。気晴らしがてらいくつか確認しておきたい。まず、この声は俺を標的に来ているのか。あの犬の前で電話をかけたから?」
後部座席には、ペット用のケージを抱えた水鏡紅がうたた寝を続けている。ケージの中では立派な顔つきの柴犬がじっと遠上を見つめていた。久住いわく、柴犬は人面犬だ。横山与太郎という老人の顔をしており、横山与太郎の家にいたと話しているらしい。
「ポチの前で電話をかけた夜から、遠上さんに電話がくるようになったのだから、おそらくはそうだと思います」
「カーステレオから声がするのは君を追いかけた結果かもしれないだろ。昨日だって君の部屋のテレビやラジオが音を立てた」
「でも、僕の携帯も紅の携帯も鳴らなかった。今だって、カーステレオを絞ると遠上さんの電話にかかってきています。違いがあるとすれば」
「こいつの前で電話を使ったことか。
だめだ、話の全体像が見えない。調査に協力するとは言ったが、こんな理解不能なものに巻き込まれて何も聞かないというのは流石に肝が冷える」
「それじゃあ、僕が考えていることを少し話します。そうしたら明日も協力してくれますか?」
「日が昇ったら少し眠りたいがね。まずは何でこんなことになっているのか教えてくれ」
久住はカーステレオのボリュームをほんの少しだけ下げた。車内に満ちた不快な声は幾分かなりを潜め、幸いなことに遠上の携帯も震えない。声の主は、ステレオを利用してこちらに呼びかけることを選択したようだ。
「僕と紅は市役所の木曽さんから横山与太郎という老人の安否確認の依頼を受けました。木曽さんは、この案件を年金事務所の晩入加奈という女性管理職から引き継いだ。彼女曰く、事務所に与太郎氏の年金不正受給に関するタレコミ電話が入ってきたらしい。
ところが、木曽さんの下調べでは不正受給を匂わせる事情がない。そこで彼は、横山家に侵入し、与太郎氏の生死を確認するところから話を始めようとした。ここまでが、彼が依頼時に話してくれた概要です」
「突っ込みどころだらけだな。安否確認に不法侵入を選択する市役所職員も大概だが、そもそも不正受給についてタレコミ電話なんてあるのか? 電話した人間に一文の得もないだろう」
「報酬はちゃんと出るという話でしたし、断りにくい事情もあって……ともかく、まずは横山家を訪ねようと思ったんです。けれども、横山家に尋ねる前に、僕らは人面犬に遭遇し、そして、この声に付きまとわれる羽目になった」
「そこもわからないよ。人面犬を見つけたからって引き返す必要はないだろう? お前たちは横山家の近くまで行ったわけだろう。犬の顔なんて気になるなら隠せばいい話だ」
「家を訪ねて与太郎氏の安否を確認しておけば話はもっと単純だったかもしれない。ただ、人面犬、ポチは老人の顔で、自分が横山家に住んでいたと話したんです。
僕が覚えている限り、こういうモノに遭遇するのは面倒な知らせなんです。それにポチは僕たちに会う前に市役所職員の女性に認知されたと話していた。それで木曽さんが、依頼に関して話していないことがあると気付いた。場合によってはそれが危険を引き寄せるかもしれない。
だから、僕は街に戻って、木曽さんにポチの似顔絵を見せた」
霊能者――久住の場合、その呼び名が適切なのかはわからないが――の勘、という奴だろうか。鷲家口から紹介を受けた時、久住音葉は怪現象に対する勘が鋭い。という人物評があった。
勘が鋭いがゆえに突飛な行動をする。このまま記憶喪失と自称し、身分がない状態でうろついていたら面倒ごとをどんどん引き寄せかねない。落ち着いて活動できる基盤を整えてほしい。
鷲家口眠が遠上に久住を引き合わせたときの言葉を思い出した。
「人面犬の似顔絵をみて木曽は横山与太郎氏の顔だと話したんだったな」
「はい。ちょうど紅と鹿江さんが声の主からの電話を受けた頃です。僕は木曽さんに依頼の真意を確認していて、彼の口から横山家の下調べ時に民生委員の女性を使ったこと、そして、その女性が横山家にはずくうが憑いていると話し、調査を中断したことを聴きました」
*****
ずくう。木曽がその怪談を聞いたのは、民生委員、民野都観子(タミノ-トミコ)からだ。民野は相談室の調査協力者の一人だ。彼女の実家が横山家の近所にあるという理由から、木曽は民野に対して横山家の調査を依頼した。
民野は一週間も経たぬうちに横山家の情報を集めた。横山一家に経済的な問題はなく、横山与太郎氏の年金を不正受給する動機はない。だが、一つ気がかりな点があると告げた。
横山一家は元々は挨拶もしてくれて、気さくな方々らしい。ところが、調査期間中、郵便や回覧板にも一切対応しなかった。横山一家の外出は一日一度だけだったという。
木曽は、民野の報告と晩入の話の食い違いが気になった。年金事務所は横山家を訪問していた。それがどうして一切の訪問を受け付けないのだろうか。だが、民野は一つの解釈を持っていた。
民野曰く、横山一家は家に”ずくう”を招き入れることを恐れているのである。
ずくうとは民野や横山の家の近隣に伝わる怪談話だ。
ずくうを見かけ、ずくうの音を聞いたなら、招いてはいけない。ずくうが飽きるまで、そこにいないと示さなければ、ずくうが内に入ってくる。
民野が幼いころ、近所でずくう憑きの家が出たと噂が経った。噂から一ヶ月、家の子供は学校を休み、家族は買い物以外で外出しなかった。民野が食事のときに話題に出すと、祖母からきつく叱られた。食事のあと祖母の自室に招かれて、ずくうの話を聞かされたのだという。
ずくうは、口にすると寄ってくると言われている。誰もがずくうを知っているが、自分の家にずくうが寄ってくることを防ぐため話題にするものではないのだと。
そんな話を聴かされたら、やがてずくうがやってくるだろう。木曽は冗談交じりに民野に返答すると、民野は横山与太郎の調査を断念したいと話し始めたのだという。
曰く、自分も知らずに横山家の周囲を調査したため、犬に追われているのだと。
「犬? 今まで何処にも犬の話なんてなかったぞ」
音葉の説明に、遠上が首を傾げた。民野によると、ずくうが憑いた人には、ずくうを招き入れるまで、頻繁に犬や鳥を寄ってきて話しかけるのだという。
「つまり、民野都観子は犬から話しかけられるようになり、ずくうの訪れに気が付き、自分の身を護るために調査をやめた。そこの犬の話と重なるな」
「ええ。木曽さんは民野の話を話半分で聴いたのだと思いますが、調査継続を依頼するのは気が引けた。それに、この電話以降、民野さんとは連絡がつかなくなったそうです。おそらく、メール、電話もずくうの訪れを示すものだからなのでしょう」
「他方で木曽としては横山氏の生死を明確に確認しないと気持ちが悪い。だから、新しい調査協力者を探していた。だが、少々できすぎだ。木曽は、君たちがこの手の怪異、怪談話の取り扱いに長けていることを知っているぞ」
「長けているって……市役所の人たちがそんなことにまで詳しいなんて」
「市役所は拝み屋、霊媒師なんかのお得意様だ。管轄施設にはいわくつきの建物もあるからな。久住、俺と会う前にどこかで不動産がらみの怪異を扱ったんじゃないか?」
「そんな、幽霊マンションみたいな……」
思い当る節はある。クラブの1。海月が潜んでいたのは市営団地の一角だ。
「あとで本人に尋ねればいい。話を戻そう。それが、お前が初めて聞いたずくうの話なんだな。そして同じころ、水鏡と鹿江がずくうの電話を受けていた」
「そうですね。僕は直接電話を受けなかったので、話せるのは紅から連絡を受けた後のことです」
「待った。木曽尾道の携帯にはずくうからの電話……このカーステレオから流れている声は来なかったのか。それともう一つ、木曽はどうやって年金事務所の横山家への訪問を確かめたんだ」
どうやら遠上も同じところに違和感を持ったらしい。本人は幽霊や怪異が見えないと嘯いているが、彼の考え方はどちらかといえば音葉たちに近いのかもしれない。
「木曽さんの携帯には今日にいたるまで何も連絡はないそうです。だから、彼はずくうは単なる怪談話だと思っている。木曽さんは、晩入さんが持ってきた横山家への訪問記録をみたそうですよ」
*****
音葉がペットホテルに着いたのは、紅の連絡をうけて45分が経過してからだ。市電のホームを降りて、駐車場に踏み込むと紅が走り出て、音葉に飛び蹴りを仕掛け、到着の遅れを責めた。
ファミレスからホテルまで15分もかからない。紅が遅れを責めるのは重々承知だが、木曽から明かされた“ずくう”という怪談を聞き逃すわけにはいかなかった。
「細かいことは後で説明するから。木曽さんと外で待っていてくれないか」
「音葉、私の話聞いてなかったの? だって、外には」
慌てて紅の口を塞ぎ、背後の木曽に、音葉はレンタカーを借りられないか尋ねた。
「レンタカー? この時間からか? 手配できないことはないと思うが」
「それじゃあ、なるべく早くお願いします。たぶん必要になると思うんで」
首を傾げながら駐車場を後にする木曽を見送ると、紅が指にかみついた。
「痛いな」
「苦しい。何なのさっきから」
何なの。と言われても説明が難しい。
「木曽さんにはあまり話を聞かれたくないんだ」
「そうじゃない。遅いし、レンタカー借りるなんて、何したいの」
「妙な電話を受けたって聞いたから。与太郎氏を呼んでいるって?」
このホテルに横山与太郎が関わる要素はない。だが、木曽から聞いた怪談、“ずくう”は、狙った人間の下を訪問する。現代に引き直せば、紅がポチを連れてきたタイミングでの奇妙な電話。考えすぎかもしれないが、“ずくう”との関わりを予感させた。
だが、もし電話が“ずくう”の仕業なら、電話だけで留まるとは限らない。
「ここぞというときの逃走用。徒歩よりはいいだろ」
「逃げられる奴かどうかもわからないじゃん」
それはそれ。音葉の少ない経験でも、選択肢は多いほうがよい。
「木曽さんがレンタカーを借りて戻るまでに事情を聴きたい。鹿江さんも協力してくれるんだろう」
鹿江静香の名前を出すと、紅が急に身体を離し、距離を取った。目を逸らし、黙って頷いた。
「何したのかは知らないけど、まずは鹿江さんと話すよ」
鹿江によれば、奇妙な電話はホテルの受付にかかってきた。紅がポチを預けた後のことだという。鹿江にも紅にもまともな応答はなく、ただ与太郎の名前を呼び続けた。
「周りを一通り調べましたが、不審な人影はありませんでした。おそらくはいたずら電話でしょう。紅が少し敏感に反応しすぎて不安にさせて本当にご迷惑をかけました」
何度か説明を繰り返すと店長は奥へ下がってくれた。問題は鹿江だ。彼女は胸の前に腕を組み、音葉から視線を外さない。鹿江は、音葉が遠上則武の知人と知っているし、遠上の客に霊能者が多いことも知っている。
「ただの悪戯電話ですよ」
「そうかなあ。名前を呼んでいるし、重たいものを引きずる音。紅ちゃんはこの電話を聞いて顔色を変えたんだよ」
鹿江の名前を出した瞬間、紅が態度を変えた理由はこれか。
「でも、ホテルの外には誰もいなかったし、防犯カメラには何も映っていませんでした」
「むしろ気味が悪いじゃない。カメラに映らなかったってことでしょう。その人影」
「静香さんは見たの? その人影」
鹿江は小さく首を横に振った。紅にしか見えなかったなら立派な怪現象だ。
「紅を連れてきてもう一回話を聞きましょう。それに、必要なら僕たちが静香さんを送るし、ここの駐車場に一晩張り込めばいい」
「ほら、久住君も何かあると思っているんじゃない。普通、一晩張り込んではくれないよ」
非難する言動とは裏腹に、鹿江の肩から少し力が抜けたように見えた。
「何かがあってほしいんですか?」
「何もないにこしたことはないよ。でも、久住君に来てもらうって言われて、私も少し安心したの。遠上さんが使えそうな人だと話していたから。それと、既に何かが起きているのよ。私は、君にこれをどうにかしてほしいの」
鹿江はエプロンから携帯を取り出しカウンターに置いた。着信を示す右上のランプが常時点滅している。画面を映してもらうと、40を越える着信履歴とショートメッセージが送られ続けている。いずれも番号は崩れたようになっていてよく見えない。
「非通知じゃショートメッセージは送れない。電話番号の通知は必須」
だがショートメッセージは、電話番号が文字化けしている。更に問題はその内容だ。
――電話してほしい
――ヨタロ
――電話
――連絡ください。心配しています。誰か話して。暗い ヨ
紅と鹿江は受付の電話に応答しなかったはずだが、それでも鹿江は目をつけられたらしい。
「静香さん、さっきの電話の話、紅と静香さんは声を聴いたって言いましたよね」
「そうだよ。聞く気になった?」
「ここの受付の電話からだけですか?」
「そうだよ。私の携帯にかかってくるようになったのは、この着信からだから、受付に電話がかかってきて10分後くらいからだね」
「その10分間、受付の電話には不審な着信はなかった」
鹿江は音葉の問いにしばらく考え込んだ。電話を切った直後に紅が電話線を引き抜いたという。
「店長に叱られるからって説得して線を戻したんだけど、5分くらい通じなかったと思う。その間にお店に着信はあったかもしれない。そのあとは店には連絡きてないよ」
「携帯に変なメッセージがでるようになる前に携帯を使いませんでしたか」
「友達から電話がかかってきたから、一度かけなおしたよ。今日は飲みに行く予定だったんだけどね、この電話を聞いたら気味悪くなって、断りの電話をいれたの」
「何か変わったことはありませんでしたか?」
「ない。二階のペットの宿泊部屋で電話したんだけど、部屋には君たちが預けた柴犬くらいしかいなかったし。紅ちゃんがみた人影はなかった。着信が来るのは、カウンターまで戻ってきた頃かな。君を待つ間、3人ペットの引き取りが来たんだけど、その時には着信が来ていたみたい」
「紅は。その来客の間もここに?」
「そうだね。でも、彼女も来客に注意を払っていなかった。彼らには問題がないんだろうね」
実にわかりやすい対応だ。鹿江が携帯の着信を不安に思うのもわからなくはない。それでも、不安に思うべき事柄とそれ以外を区別したのは、紅の功績……ともいえる。
「静香、怒ってなかった?」
鹿江から話を聞いた後、音葉は駐車場に戻ってきた木曽からレンタカーの鍵を受けとってこの場を解散とした。木曽は、音葉の説明は依頼に見通しが立ってからするという申し出をすんなりと受け入れた。あまりにすんなり話が進んだので気持ちが悪い。
だが、その感覚もレンタカーに乗り込んだ途端に鹿江の様子を伺う紅の顔をみて薄れてしまう。
「今回の件でもし怒る人がいるとしたら、彼女じゃなくて僕だよ。わかりやすい反応は避けるべきだって言ったのは誰だっけ」
「でも、急ぎだったし」
紅の判断は結果として正しかったのだと思う。11時を回り、ペットホテルは受付を終了した。2階建ての建物内にいるのは預けられたペットと当直を引き受けた鹿江静香のみだ。この段階に至ってもまだ、鹿江の携帯には着信とショートメッセージが届き続けているが、見方を変えれば、それ以上の怪現象は起きていないのだ。
もし、あの時、鹿江が電話に応答していたら、事態はもっと悪化していたかもしれないのだ。
「ところで、なんで私たちはレンタカーなの。ポチも連れ出してきちゃったし」
紅が抱えている黒いケージの中で、ポチが丸くなっている。老人のときの習慣が残っているのか、半分瞼を落として船をこいでいる。
「何が起きているのかわからないのに、あからさまな怪異を置いてはおけないだろう」
「だったら、私たちも中にいればいいじゃない」
鹿江に降りかかっている怪異は電話をかけ続けるだけだが、紅曰く、初めの電話のときには店の前に人影があった。木曽から聞いた“ずくう”のこともある。
招き入れてはいけない怪異。それは、呼び出され、招かれるまでの間はどこにいるのだろうか。
「建物内にいたら侵入されるまで対応できないだろう。外なら出来ることはある」
「それはそうかもしれないけれど」
紅はフロントガラスの向こう側に浮かぶそれを目で追いかけている。クラブの1。ライターの火を種火にして灯りをともした海月たちが駐車場内を回遊しているのだ。
「当直室の周りにも少しおいてきた。もし、外を通らずに室内に現れたとしても、時間稼ぎにはなると思う。あっちは、黒硝子を詰めた奴だ。その辺のに比べたら効果的だと思う」
「なあ、黒硝子っていうのはこの籠を作った材料のことか?」
片目だけを開けたポチが、不服そうな声を上げた。紅がケージを覗き込み、首を傾げる。
「黒硝子のことは話していないと思うんだけど、なんで知ってるの?」
「知らないさ。ただ、黒いし、硝子っぽい質感だしそう思っただけだ。それより、何とかならないのか。この籠は居心地が悪い」
「そんなこと言われても今は代わりのケージなんて持ってないよ」
紅の言う通りだ。それに、ポチに構っていられるほどの余裕はない。彼がおとなしくしている間に、鹿江の下に現れた怪異の正体を見極めてしまいたいのだ。
「そういえば、静香さんからの定期連絡は来ているのか」
「来てない。寝たのかな」
「あれだけ電話に怯えていて寝るか普通」
「眠ければ寝るでしょ」
誰もが紅と同じ感覚ではない。だが、音葉の反論を待たずに、紅は携帯を操作し何処かへ電話をかけていた。
「こっちからの電話にでるわけがないだろ」
なにより、彼女の携帯は例の着信が続いていて、ほとんどの場合繋がらないはずだ。だが、紅は音葉に向けて余裕の笑みを見せた。
「大丈夫。当直室につながる番号聞いておいたんだ。呼び出し音は正常になってる……でも電話には出ない。あっちの海月は変化がないの?」
少なくても何かが変わった様子はない。こちらから電話をしても、怪異を招き入れる行為には繋がらないということだろう。
「つながらないけど、メールが来た。もう寝るからまた明日。携帯は一晩充電したままにしておくだって」
なら、今夜は鹿江側のアクションで変化が起きることはないだろう。夜明けまで熟睡とはいけないが音葉たちも少しは眠れそうだ。
だが、音葉が肩の力を抜いた直後、駐車場の端を回遊していた海月が一つ、揺らいで消えるのが目に入った。
車内に聴き馴染みのある着信音が響く。
「あれ、静香さんから電話だ。寝たんじゃなかったの」
「待て、紅。それはとらない方がいい」
制止が間に合わず、紅が携帯の通話ボタンを押す。すると、スピーカーにしていたわけでもないのに、車内に掠れた声が響いた。
――ヨタロ、ヨタ……ヨタ……ロ……
フロントガラスの向こうで更に二つ種火が消える。そして、レンタカーが左右に揺れた。まるで、助手席側から何かが車を押したような感覚。だが、助手席側の窓から見えるのは数匹の海月だけだ。
外を警戒しつつ、紅が携帯の電源を切る。すると、切れた瞬間に着信音が響いた。画面をみても、電話番号は文字化けしていて判読ができない。鹿江の携帯と同じだ。
「静香さんに連絡したから?」
わからない。わかっているのは、これが何らかの怪異であること。そして、声の主は車のすぐそばにいることだけだ。
「紅、ノイズの気配はあるか?」
紅は小さく首を振る。やはりポチと同様にノイズの気配はない。だが、怪現象であることは明らかだし、経験上、ノイズの惹き起こした結果だけなら紅は気配を関知できない。
「着信にもメールにも何も返さない方がいい。それと充電を続けよう。電源が切れた時にどうなるのか想像がつかない」
「想像がつかないって、その言い方だと電話に返答したときにはどうなるかわかってるみたいだよ」
「わかっているわけじゃない。でも、想像はつく。さっき、木曽さんから聴いたんだ。横山与太郎、いや、横山家そのものに怪異が憑いている可能性がある」
「ポチじゃなくて?」
「横山家に憑いていたのはたぶん車の外にいる奴だよ。ノイズが原因なのか、元々あるべき何かなのかはしらないが、これは、僕たちに招き入れてもらいたいんだ。だから携帯に電話をかけてくる。許可を求めているんだ」
外を回遊させている海月たちは声の主を映し出さない。だが、何もなければ変化することがない海月が二つに割れたり突然消えたりしている。駐車場内には何かがいて、海月と接触しているのだ。
「吸血鬼?」
「わからないよ。少なくても木曽さんから血を吸うとは聞かなかったけれど」
そういえば、ずくうが招き入れられた後どうなるのかは聞いていない。結末がない怪談だと意識すると背筋が冷えた。
*****
「それで結局朝まで車の中ってわけか。電話は止んだんだろ」
「ええ。朝日が昇ると同時に。それも吸血鬼っぽいというのが紅の意見です」
「なるほど。まあ、吸血鬼じゃなくともありそうな話だが」
古今東西、招かれなければ人の領域に踏み入れないという怪異は多い。それは、怪異側の事情のように語られるが、要するに、人間の家、縄張りに対する意識の表れだろう。強固な縄張りによって、外敵の侵入を拒絶する。だが一度侵入する許可を与えてしまえば、縄張りを主張するだけで身を護ることはできない。
「カーステレオは鳴っていたのか?」
「いいえ。一晩中携帯が鳴っていましたから。車の外にいた何かも駐車場を歩き回るだけでこちらにはこなかった」
「鹿江の電話が止んだのはいつだったんだ」
「紅が彼女の当直室に電話をかけたときです。携帯の着信履歴がぴたりと一致した。この声は、当直室の電話で標的を静香さんから紅に切り替えたんです」
「だが、お前が感知する限り、ペットホテルに声の主はいなかった。他方、あの犬は車内にいた」
「ええ。後部座席にのせていました」
「電話と犬。俺と条件は同じだな」
遠上が何かを確かめるようにケージのなかのポチを見た。肝心のポチは丸くなって眠っている。おそらく、遠上にはポチの犬としての顔が見えているのだろう。それでも、彼は頭のなかで怪異のことを考えている。
「……遠上さんってどちらかというとこちら側の人ですよね」
「こちら側ってなんだよ」
「遠上さんは、怪異の姿が見えない、霊感がないと言いますが、他方で、怪談には本物があるという前提で生きていると思うんです。だから、僕の話もその前提で聞く。
僕がペットホテルの外で、ホテル内に怪異がいるかどうかを判別するなんて話、何から何まで荒唐無稽だと思いますが、遠上さんは信じてくれるじゃないですか。
でも、木曽尾道という人は少し違う。彼自身は怪談、怪異の存在を全く信じていない。その代わり、彼は、怪談を信じる人間が存在する事実は否定しない」
「いきなり何の話だよ。話が飛びすぎだ」
「僕は、怪異を前提に状況を把握しがちです。何より、今回は人面犬がいる。この声が怪異でも違和感がないし、そうでなければ説明がつかないと思っている。
そして、僕と紅は人面犬がいること、謎の声がいろんな人に付きまとう事実を知っている。だから、これらがずくうと呼ばれる怪談であると疑っている」
「待て、落ち着け。話が繋がらない。確かに久住の見立てには俺もおおむね賛成だ。怪異が、そう呼ぶのが正しいならだが、怪異が存在する前提にたてば、この一連の怪現象は同一の原因にみえる」
「じゃあ、遠上さんは話の起点はどこにあると思いますか?」
「起点? はじまりか? それは、横山与太郎、あるいは民野都観子だろう」
「そう。僕もそう思っていました。でも、木曽さんのことを思い返して、本当にそうか疑問に思ったんです。僕らは横山与太郎や民野都観子がずくう、あるいはこの声の主に遭遇したか知らないんです」
「確かに民野という人物から直接話は聞いていないが、木曽が電話でずくうの怪談を聞いたのは彼女からだろう」
「民野は祖母から聴いたずくうという怪談を思い出し、横山一家の様子に重ね合わせただけかもしれません。彼女は、僕たちと違って以前からずくうのことを知っていた。そして、横山家の人となりも知っていたんです。だから彼女は横山家の変化が祖母からきいた昔話のせいだと考えた」
怪異を信じる人がいるという事実は否定しない。だが、そこに怪異があったかどうかは別の問題である。
「むしろ、民野都観子は木曽さんに連絡を入れた時点でずくうに遭遇していない。あるいは、彼女がずくうに遭遇したのだとしたら、僕たちのところにきているこの声は、ずくうではないと考える方が辻褄があう。もし、彼女がこれに遭遇していたのなら、こいつの着信で埋まっていて、木曽さんに電話なんかかけられなかったはずですから」
「カーステレオの近くにいたり、音が出せる機材の近くにいたかもしれないだろう」
「勿論、その可能性は残ります。でも、重要なのは考える余地があることです。民野がこの声の主に遭遇していない前提にたつと、怪異の全体像が見えてくる。
民野は、ずくうを知ると、ずくうがついてくる。狙われたなら飽きられるまで家の外に出てはいけないと話していました。でも、その話を聞いた木曽さんは、僕らに会うまでの二週間、平然と暮らしている。彼の下にずくうは来なかった。
木曽さんには当然の結末でしょう。彼はずくうのことを信じていないですから。ただ、民野がずくうという怪談を信じ、怯えていることは否定しなかった。だから、彼は民野への依頼を諦め、別の人間をつかって横山与太郎の安否確認しようと判断した。
他方で、木曽さんの行動は、僕たちに二つの可能性を示している。一つは、怪談を知ることがずくうに狙われる条件ではない可能性。そしてもう一つ、民野都美子はずくうに遭遇していない可能性です。
与太郎氏を呼ぶ電話が、ペットホテルにきて僕には来なかったことは、一つ目の可能性を裏付けました。何しろ、紅や鹿江さんはこのとき、ずくうを知らなかった。少なくても、僕らが対峙している声に限って言えば、怪談を知ることとは別の条件で標的を探している。
そして、もう一つの可能性、民野がずくうに遭遇しなかったと考えると、電話がかかってきた人たちの共通点が絞られる」
「ペットホテル、鹿江静香の携帯、水鏡紅の携帯。共通しているのは犬か」
「おそらくポチの前で電話を使うことが声を呼ぶ条件なんです。鹿江さんは横山家に近づいたことがありませんからね。
それに民野さんの話は僕らが遭遇している怪異と少し噛み合わないんです。ずくうは家を訪問するが、こいつはまず電話をかけてくる。民野さんが話した怪談は、祖母から聞いたものだそうですから、現代に引き直すとまずは携帯への荷電から接触が始まる。そういう解釈もおかしくはない。
でも、声が標的を見つけるきっかけがポチだったなら経過が逆なんです。民野は、ずくうに狙われたから犬に話しかけられると語っていた。
だから、僕は彼女は声の主に遭遇していないと考えています。なんなら、ポチに遭遇したことすらないかもしれない。彼女は、横山家の様子にずくうのことを思い出したから、犬が自分をつけてくると感じただけだった。でも、この仮定にもひとつ疑問が残る。ポチは僕たちと出会う前に市役所の女性とであって、話しかけたと言います。そして、彼女はポチが人面犬であることに気がついた。もしも、この話が民野のことではないのだとしたら、市役所の女性とは誰のことなのか」
「そういう話なら一人該当者がいただろう」
「ええ。だから、明日の朝には彼女のところに確認に行きたい」
「なら、なんで俺たちはこんなところで夜明かししているんだ。今の話なら市役所の前で張り込みすべきだろう」
遠上は車の外を伺った。声の主の姿どころか闇ばかりで辺りの様子はまるで窺えない。久住に任せるまま、夜の街を抜けてたどり着いたのは人気のない林の前だ。彼が何故このような場所で夜明かししようとしていたのか、遠上には見当がつかなかった。
「僕は、彼女への確認と合わせて、もうひとつ確認しておきたいことがあるんです。遠上さんが教えてくれたんですよ。八婆の頭空尊(やつばのずくうそん)の話は」
八婆の頭空尊。つまり、遠上たちのいるこの場所は……
「ちょっと待ってくれ。協力っていうのはこの状況で心霊スポットに足を踏み入れようって話なのか」
遠上の質問を肯定するかのように、カーステレオの異音が静まり、深夜十二時を告げるラジオの時報が流れた。
「遠上さん、さっき言ってたじゃないですか。僕の考えを聞いたら明日も協力してくれるって」
運転席の久住の顔がどういうわけか暗くて見えない。でも、どういうわけか彼が微笑んでいるのが見えるような気がした。
遠上は血の気が引いていくのを感じた。
久住音葉、この青年はいったい何を考えているのだろうか
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