人面犬を捕まえて(3):人面犬ポチのこと

 柴犬は、短毛、立ち耳、巻き尾を特徴とした体高40センチくらいの犬種である。顔つきをはじめとする見た目や忠実な性格が人気で、家庭犬として数多く飼われ、愛されているという。

 音葉は1度迷子犬として捕まえたことがあるが、小動物を追いかけるし、飼い主以外には警戒心が強いため、扱いが難しいという印象があった。ところが、目の前の柴犬は、初対面の音葉と紅に馴れ馴れしく近寄ってきたどころか、紅が投げたボールを追いかけて走り回っている。

「やめろ、やめてくれ。お、おお、おおおおお」

 紅が思い切りボールを投げると、柴犬は叫び声をあげながらボールに向かって駆けていく。

「なんなのあれ」

「何なんだろうな、あれ」

 ボールを追いかけ走る姿は紛れもない犬のそれだ。跳ねるボールでじゃれる姿は可愛らしい。ところが、ボールを咥え帰ってくると脂汗を浮かべた老人がボールを咥えた顔に変化するのだ。

「写真は可愛いのにね」

 紅の携帯には柴犬の写真が何枚もある。正面も横も、どのアングルでも柴犬として写っている。耳がぴんとたっており、カメラを見つめる黒い瞳はなかなかに凛々しい。

「まあ、耳は変わらないか」

 老人の顔には人間の耳がない。耳が犬のままなら、鼻も犬でも良いと思うのだが、犬の輪郭の中にすっぽりと納まるように人間の顔がある。犬に人の顔に貼りついているというには凹凸が人間のそれらしい。音葉と紅にだけ、犬の顔が人に入れ替わっているように見える。

「君たち。俺をなんだと思っているの。犬だって走ってたら疲れるんだよ」

「カメラ越しでは疲れているようには見えないんだけれどね。楽しそうに走っていたじゃん」

「そこに映るのは犬の顔だからだろう。その犬は走っていないんだから疲れない」

 人面犬は出会った時から終始この調子だ。曰く、自分は与太郎邸に暮していた人間だが、ある日、柴犬と入れ替わったという。だが、入れ替わったのは互いの頭だけで、身体は犬のそれだから、本能に従って動いてしまうし、犬の頭に疲れは届かないからいつまでも元気だという。

 説明はぼんやりとしているうえに、畑を掘り起こしたり、近くの鳥を追いかけるので話が進まない。怪異であることに疑いはないので、とりあえず紅に鑑定を頼んでみたが、紅は人面犬はノイズではないという。

 以前から、全ての非科学的、超常的な存在がノイズではない、例えば幽霊のように初めから存在しうるものは封印できないとの説明は聞いていた。だが、人面犬と幽霊は同じだと言われても今一つピンと来ない。

 紅が鑑定できないと人面犬の情報が手に入らない。結局、人面犬を放置して与太郎邸にいくわけにもいかず、音葉は黒硝子でそれらしい箱を作って人面犬を詰め込み街中へと戻ってきた。

 初めはとりあえずペットホテルか保健所にでも突っ込んでおこうかと思ったが、帰り道に人面犬から出た話が気にかかって、音葉は方針を変え、市役所へと向かうことにした。


*****

 人面犬は名前を思い出せない。目が覚めたら芋を掘り返していた。この時期の種イモは齧ると美味しいので病みつきになる。空を見ると、小さな鳥が飛んでいて、捕まえたい気持ちになった。

 初めに我に返るまでは半日くらいかかった。その間、芋を掘り返し、鳥を追いかけて、ときどき畑の隅に転がって、人面犬は犬としての人生を謳歌した。

 そして、夕方の種イモ堀りをしようとして、畑の持ち主に見つかり摘み出されたところで、自分はかつて犬ではなかったことに気が付いた。

 畑の持ち主は、首輪を掴み「このポチ! また性懲りもなく」と怒った。このとき人面犬は犬の身体がポチと呼ばれることを知った。

 しかし、自分は群青色の屋根の民家に住んでいた記憶がある。犬ではなく、人間として。思い出してみれば、ポチと呼ばれるこの犬も見たことがあるような気もする。畑の境界線をトコトコと走る小さな柴犬をみたことがある。ところでポチは野良犬なのか、誰かに飼われているのだろうか。

 陽の落ちた畑で、人面犬、ポチは今晩の宿を考える羽目になった。ポチが覚えていたのは群青色の民家のベッドで眠っていた人間としての記憶だけ。だから毎晩ポチがどこで眠っているのかがわからない。仕方がないから、まずは群青色の民家を訪ねてみたが、家人はポチをとても怖がった。犬が敷地の周囲を歩くだけで箒をもって追いかけてくる。

 門は固く閉ざされているし、塀は高いから犬の身では敷地の中に侵入できない。三日三晩、なんとか敷地に入れないか、結局、ポチは群青色の家に入ることをあきらめた。

 以降は、毎日の寝床を探すため、周囲の民家を巡っていった。ポチに対する人々の反応は様々で、追い出そうとする家もあれば、食べ物を分けてくれる家もあった。共通していたのは誰もポチの言葉に耳を傾けてくれることがないことだけ。

 それでも、犬か、あるいは人間の記憶かはわからないが、生来の能天気さが幸いして、ポチは日々の犬としての暮らしに満足するようになっていった。

 その後は、時たま畑の付近を訪れる人に話しかけては、その日暮らしの犬生活を続けてきた。久住音葉と水鏡紅と名乗る男女にあうまで、二週間ほど前に一度、40代の女性を除いては誰も話を聞いてくれなかったのだから、致し方がない。

 ポチはポチとしての生を全うする以外に、できることがなかったのである。


*****

 木曽が勤める市役所は路面電車の路線沿いにある。市役所の最寄り駅は、バスターミナルと隣接しており、夕方になると人通りが多い。

 バスターミナル横にはアスファルトを敷き詰めた、犬を遊ばせておくにはもってこいの小さな公園がある。木曽が業務を終えるのは6時ころとの連絡を受けて、音葉たちは公園で、人面犬の生態確認、もとい人面犬を遊ばせている。

「本当に誰もお前のことを見てびっくりしないんだな」

 通行人はボールに誘われ右往左往している人面犬を見ているが、誰一人、驚く者はいない。中には、人面犬の頭を撫でて、紅のほうへとボールを投げ返してくれる人までいる。

「俺の顔が見えて、声が聞こえる人間は珍しいんだ」

 犬は自慢気に胸を張り、そしてそのまま立っていられなくて仰向けに転がった。柴犬としては可愛いかもしれないが、人間の顔がついているとどうにも醜悪だ。

「そんなげんなりした顔をするな。これはこの犬の習性なんだよ」

「随分人に慣れた柴犬だよね。普通、飼い主以外には警戒するものじゃないの」

「知らないよ。少なくても俺は誰かを噛む気にはならない。中には餌もくれる人もいるからね。それに、君らみたいに、俺の声が聞こえる人に当たればもうけものだ」

「私たちの前に気が付いたおばさんだって逃げたんでしょ? 自分の顔見てみなよ」

 紅は人面犬に携帯の写真を見せる。しかし、人面犬は画面を見ても納得がいかないのか不服そうな顔をする。

「愛らしい柴犬だ。驚くことはあっても逃げるまではないだろう」

 この人面犬は、自分の顔をみることができない。だから、自分の声が届く相手にどうやってみられているかの自覚がない。音葉は、ジャケットに入れていた手帳を取り出した。

「なんだよ。俺のハンサムな顔を描いてくれるのか?」

「ハンサムかは自分で判断してください。紅。少しの間、ポチを押さえておいて」

 腹を抱きかかえて持ち上げられると人面犬は前足をばたつかせる。だが、紅の腕の中から抜けられるほどではないため、顔を観察するには充分だ。音葉はポチの模写を始めた。

「ところで、群青色の屋根の家に住んでいたときの名前は思い出せませんか?」

 記憶のことを尋ねるとポチは考え事を始める。その間だけは犬の性質も忘れるのか身体をばたつかせることもなく大人しく紅の腕に収まっている。

「ん、んん、ぽ、ポチ?」

 何度尋ねても、人面犬から出てくる名前は首輪についている犬の名前だ。人間だったころの名前は出てこない。何か後ろめたいことでもあって話せないのか、本当に思い出せないのか、あるいは実のところ、人面犬は人間だったことがないのか。可能性はいくつもありそうで決め手に欠ける。

「さて、この顔をみても自分が誰なのか思い出せないですか?」

 手帳に書きこんだ似顔絵をポチに見せるが、ポチはその顔を眺めてもぽかんとするだけだ。他方で、ポチと一緒に手帳を覗き込んだ紅が目を丸くしている。

「音葉、模写上手なんだね。もっと早く試せばよかった」

 自分でも手帳の顔と犬の顔を見比べる。見た目はそっくりで、紅が驚くのもわかる。もっとも、音葉も初めて自分が模写が得意なことに気が付いたのだから、今まで試せなかったのは仕方がない。木曽との待ち合わせまでに人面犬の“顔”を手に入れられただけ良かったと考えよう。

「これが、俺の顔なのか?」

「そうですよ。少なくても、僕と彼女にはこういう顔に見える」

「もうちょっとハンサムだと思ったんだが」

「そんなこと言われても、かなり似てると思いますよ」

 ポチは不服そうだが、残念ながらポチ自身が音葉が描いた模写の精度について確かめる術はない。もっとも、模写を見ても顔の持ち主の名を思い出せないところを見ると、人面犬が自分の名前を思い出すのは酷く難しいことなのだろう。

 音葉も全く過去を思い出せないので、感覚はわかる。そして、人面犬、ポチがそれでも半年間犬を続けてこられたことも何となく共感できる。抜け落ちてしまった過去は存在しない。当事者は存在しない過去のことを思い悩む余地がないのだ。

「まいったね。これじゃあ、本当にポチが誰だったのかわからないじゃない」

 もっとハンサムのはずだと足をばたつかせるポチを押さえつけながら紅は体を左右に揺らした。

「そうでもないよ。ポチの反応はともかく、僕の模写が上手かったのは、正直助かった。これなら手がかりになるかもしれないだろう」

 公園の前を路面電車が通り過ぎ、駅とバスターミナルの間を大勢の人が行き来する。公園の時計は6時5分を指している。公園前を行交う人混みから黄土色のスーツを着た男が公園に入ってきた。

 初めて会った時もおもったが、どうしてこの男は鞄を持たないのだろう。仮宿ができてから、音葉も鞄を持つことは控えているが、仕事に出かける多くの人々は手提げのバックやリュックを持っている。あまりに身軽な服装に、本当に市役所職員なのかと疑問を持ってしまう。

「やあ、久住さんに水鏡さん。初日で結果を持ってくるなんて、君たちに依頼した私の目に狂いはありませんでしたね」

 こちらの困惑など気にも留めず、木曽尾道は音葉の前に立ち、深々と礼をした。

「音葉、木曽さんに話していないの?」

「電話したら仕事中でつなげないと言われたんだよ」

「今日は珍しく市民からの相談も受けていてね。所内の相談なら放っておいても良いんだが、市民相談に応じるのは私の業務だから、申し訳ないね。

 と、その様子だと、頼んでいたことについて解決したわけではないのかな」

 木曽は、眉を下げてほんの少し残念そうな表情を見せる。音葉の後ろで、こいつは誰だとポチが興味を示しているが、木曽は犬の方を一切気にしない。

「あ、ええっと、この犬はですね」

「私の依頼のついでに見つけたのか。少々やかましいが、凛々しい柴犬じゃないか」

 どうやら木曽にもポチの人面は見えていないらしい。予定通りに。紅に目配せをすると、紅は用意していた黒硝子製の籠に暴れるポチを詰め込んだ。

「木曽さんの依頼の件で待っていたんです。紅はその迷子犬をペットホテルに預けてくるので、お話できませんか。ターミナルの向かい側にあるファミレスが気になっているんです」

「なんだい。改まって。まあ、ファミレスに犬は入れられないか……それじゃあ、水鏡さん、早めに戻ってきたら私からも何か奢ろう。何、面倒ごとを引き受けてくれているお礼だ。もちろん、久住さんにも少し」 

 木曽の申し出に、紅が腰のあたりで小さくガッツポーズを作った。


*****

 市役所横のファミレスは市内で一店舗しかない。若干値段が高めだが、ドリアやスパゲッティなどの洋食から、かつ丼やそばなどの和食まで幅広いメニューが売りだ。

「この店はもともと洋食料理屋だぞ。さすがに担々麺は地雷と思うのだが」

 木曽は呆れたように音葉の膳を見る。豆乳担々麺はひき肉に程よく辛みがついており、食欲を刺激する。敢えて不満を述べるなら、麺がうどんのような食感であることくらいだ。

「うどんのようなじゃなくて、うどんなんだよ。和食のテイストを忘れないというコンセプトらしいが、そもそも中華だし酷評されているメニューだぞ」

「市役所の人って食にうるさいんですね」

 木曽が肩を揺らしため息をつく。もっとも、木曽が頼んでいるのは『気分はお子様セット』という名前の和食で、ウォータースライダーのようなセットの上をぐるぐると茶そばが周回している。木曽曰く、大人が注文できるメニューで唯一ファミレスのキャラクターマスコットが貰えるらしいのだが、音葉からすればその選択もいかがなものかと思ってしまう。

「それで、依頼に関する話とは」

「木曽さんは、僕が手帳に書いた似顔絵の老人に見覚えがありませんか?」 

 木曽は、ポチの顔の模写を見て、左手であごを撫でた。

「久住さんは、この老人をどこで?」

 さっきまでいた犬の顔ですと伝えたいが、人面犬の顔が見えていない相手には冗談が過ぎる。

「横山与太郎氏の家を見てきました。もっとも、近寄って覗くのは流石に難しくて、まだ木曽さんの依頼は終えていません。その代わり、まずは近隣で聞き込みをしてみたのです。その際に、ある老人の話を聞きまして」

「その老人の似顔絵がこの手帳の顔?」

「そうです」

「この額のしわとシミ、しもぶくれの輪郭に、右目の下に三つ並んだほくろ。年金事務所の資料にあった、近年の横山与太郎氏の顔だよ」

 これで、家族らが与太郎氏の安否を隠していた理由も想像がつく。

 ポチの話が本当ならば、与太郎邸には顔が犬となった与太郎氏がいる。家族には顔の入れ替えがわからなくとも、今与太郎氏の身体に憑いているのはポチの頭だ。コミュニケーションが取れているとは思えないし、一家の大黒柱の突然の変貌を家族が隠したくなる気持ちはわかる。

「はぁ……でもそれじゃあこれはどうしたらいいものか」

「何がどうしろって?」

 つい口に出てしまったが、木曽への説明も与太郎邸の問題の解決も難しい。人面犬はノイズではないので、紅の力で強引にポチと与太郎を戻すことも難しい。

「まあいい。それで、久住さんが訪ねた商店の人は与太郎氏について何と話していたのだい?」

 答えづらい。与太郎の似顔絵はポチの顔を模写したものであるし、音葉たちが事情を聴いたのはポチなのだ。横山与太郎に関する情報はほとんど持っていない。だが、答えを待つ木曽の目つきは冷たく鋭い。ごまかすのは難しいだろう。

「店の人からは、与太郎氏の話を直接聞いたわけではありません。最近何か変わったことはないかと尋ねたら、二週間くらい前に、見慣れない女性が変なものを見たと駆け込んできたと話してくれましてね」

 ポチから聞いた話を基にした作り話だが、女性、変なもの、というキーワードに反応して、木曽が音葉から目を逸らした。そばを掬う手も止まっている。

「変なもの?」

「与太郎邸の近辺で、路上を歩く犬を見かけたそうなんです。そして、その女性は野良犬から話しかけられたんだとか」

 木曽の目が大きく見開かれる。

「吠えられた、の間違いではなくかい?」

「その女性は、俺の声が聞こえているか?という声が聞こえたと話したそうです。辺りを見回してみるが誰もいない。目に入ったのは後ろを歩く野良犬だけ。気のせいだと思って歩き続けたら、今度は少し怒ったような声で、無視すんなよ。聞こえているんだろ。と話しかけられた。

 それで、振り返ったら犬がその女性を見つめていて」

「その犬には与太郎氏の顔が貼りついていたとでもいうんじゃないだろうね」

 そのまさかである。

「木曽さん。今回の依頼、まだ僕たちに話していないことがありますよね」

「依頼に必要のない情報は伝えられないよ。何て言っても個人情報だからね」

「今の怪談話をした女性は、自分は市の職員だって言っていたんですよ」

「身分まで明かして怪談話しちゃったの。相当参っていたんだろうな」

 木曽は箸をおいて、音葉に対して両手を合わせて謝罪した。

「馬鹿げた話だからさ、話す必要はないと思ったんだ。でも、尋ねにきたってことは、久住さんは“そういうの”が嫌い? それとも、調査と何か関係があるのかな」

 木曽は、暗に市の職員がポチを見たことを認めた。やはり、ポチの言う通り、音葉ら以外にも人面犬を認識できた人間がいるのだ。そして、木曽は彼女から人面犬の話を聞いている。

 依頼を受けたときから、音葉は木曽が与太郎邸を調べるべきと主張する理由が気になっていた。今まで彼の口から出た情報からは与太郎氏が自宅にいると推測する材料がない。もし、彼が聞いた怪談話が関係しているのなら話を聞いておきたい。

 もしかすると、ポチの人面犬化を解決する手がかりにもなるかもしれない。

「仕方がない。まあ、隠すほどの話ではないからね。とはいっても、こんな与太話が社内で流れていることが漏れるのは避けたい。あくまで調査に必要な範囲での取り扱いに留意してくれよ」


*****

 音葉が犬探しを始めた時、一番最初に困ったのは、客の探し方でも犬の探し方でもなく、見つけた犬の取り扱いだった。

 鷲家口眠の計らいで、遠上則武の紹介を受け、以前から通っていた喫茶店「マボロシ」の近くに部屋を借りた。音葉は身分を保証するものがないため、今のところは、遠上名義で借りてもらっている。遠上への賃料の支払いは眠の援助によって賄われており、残り二カ月は暮らす場所に困らないことになっている。

 問題はこの仮宿の契約条件だ。ペット禁止の2DK。音葉たちは事務所を持たないため、見つけた迷子犬を預かることができなかったのだ。こうなってくると、犬を捕まえたらその日のうちに飼い主に届けなければいけない。だが、犬が捕まったときに、都合よく飼い主に連絡がつくとも限らない。音葉たちの犬探しビジネスは思わぬところで早々に暗礁に乗り上げた。

 犬に関するノウハウを持たなかった音葉たちには、この問題を解決する術がなかった。仕方なく遠上に連絡を取ってみると、彼は大慌てで代替策を持ち込んだ。どうやら、遠上自身、犬を預かる可能性を失念していたらしい。

 さて。遠上則武が音葉と紅に提示したのは、ペットホテル・ペットショップへの繋がりだ。遠上は、伝手を用いて、音葉らが市内のペットショップチェーンに野良犬を預ける方法を確立した。結果、音葉たちは若干費用が嵩むものの、飼い主を待って迷子犬と共に夜明しをする事態を避けることに成功したのだった。

「どこに行くんだよ。さっきの男から俺の話を聞くんだろ?」

 黒硝子製のケージから鼻を突きだして、ポチは紅の行く先に興味を示していた。紅は、音葉と別れ、彼らが向かったファミレスと反対の方向へと歩いていた。路面電車で一駅先に、いつも使っているペットショップの支店がある。

 遠上の名前を出して事情を説明すれば、一晩くらいならポチを預かってくれるはずだ。幸いにも、ポチは音葉が思いついた“強制洗浄法”で身体を丸洗いされている。そこらの飼い犬よりも清潔感はあるだろう。顔さえ認識されなければ。

 バスターミナルから次の駅までは徒歩で10分。ポチを預けるのに20分。運よく駅に電車が来れば35分。走って戻っても40分程度でファミレスに着けるだろう。音葉たちの打ち合わせがそんなに早く終わるわけがない。『ジャングルポテトセット』という、芋料理のフルコースのような膳を見て、一度は訪れてみたいと思っていたのである。

 ただ飯の可能性を見据え、紅の脚は自然と軽くなっていた。

 ペットショップは、路面電車の駅の正面にあった。車道に面した三台分の駐車場の奥に店舗があり、ガラス張りの正面からは、店内に並ぶケージの様子が見て取れる。そこに入っているのは、ペットショップが販売している犬や猫だ。

 だが実のところ、このチェーンは、飼い犬・飼い猫のトリミングと、ペットホテル、餌やペット用食器の売り上げで生計を立てており、ペット自体の販売は二の次だと遠上は話していた。そして、少なくても紅はこの店でペットの購入を検討したことがない。


 店内に入ると、元気の良い女性の声が聞こえる。ポチを預けるため、軽く会釈をしてカウンターを見ると、見覚えのある店員が笑顔を振りまいていた。

「あら、紅ちゃん。今日はこっちに用事なのね」

 トレードマークのポニーテールを揺らしながら、ペットショップの店員、鹿江静香(カノエ‐シズカ)が紅に近づいた。180センチメートルのすらりとした長身が紅の前に立つと、紅は自然と彼女の顔を見上げなければいけない。

 普段は音葉と一緒に来るのでそれでも違和感がないのだが、今日は流石に慎重さを気にしたらしい。膝を曲げて少し目線を下げ、改めて紅に笑いかけた。

「静香さん、こんなところでも働いていたんですか」

「こんなところって、駅裏の店舗よりこっちのほうが売上がいいのよ」

 静香は紅の持ってきたケージを受けとりカウンターに乗せる。ポチがいきなり現れた女性に驚き何かを話しかけているが、静香は一向に気に留めない。おそらく、彼女も人面犬のことが唯の柴犬としか見えていない。

「凛々しい顔なのに人懐こい柴犬ね。ちゃんと身体も洗っているようだし、一日くらいなら何とかなると思うよ。ちょっと店長に掛け合ってくるね」

 静香は遠上と紅たちの関係をよく知っている。遠上は、市内のチェーン店では軒並み迷子犬を泊められるように交渉したらしいのだが、実際に利用したことのない店舗にくると緊張する。顔が効く店員がいるのは心強かった。

 静香が店の奥で店長と交渉を続ける間、紅はカウンターに置かれたケージの横で外の様子を眺めていた。

「そうだポチ。さっき会った人と少し今後の打ち合わせをするから、今日はここで泊まりね」

「俺だけペットショップに置き去りか」

「お風呂もあるし、ご飯も外よりおいしいと思うけれどな」

 黒硝子の籠の中で、ポチはほんの数秒考えて、愛おしそうにくぅんと鳴いた。ポチ自体は野良犬だったのかもしれないが、人面犬になってからは野宿生活を強いられていたに等しい。宿と御飯を確保出来ると聞いて気が抜けたのかもしれない。

 店の外では市役所側から走ってきた路面電車が駅に停車している。帰宅ラッシュの時間帯だ。のぼりもくだりも似た時間に来るので、まもなく市役所方向の電車もやってくるだろう。静香はまだ店長と交渉中のようなので、乗れたとしても1本ないし2本後の電車だ。

 さっき別れる時に時刻表くらい見てくればよかった。


 そんなことを考えていると、ふと電車の中に奇妙なモノが乗っているのが目に入った。降車する客に混じって、全身が黒い毛に覆われた何かがいる。輪郭がもこもこと動いており、何かがいくつも固まって人の形を真似ているように見えた。

 乗客たちは気にする素振りを見せず電車から降りているが、紅は一度気づいたそれから目を逸らすことができなかった。ひどく気味が悪いが、ノイズの気配もしない。まるでケージに詰めた人面犬と同じである。

 毛むくじゃらは電車を降りて、駅に降り立つ。各々の目的地に向かって散らばっていく乗客らと違い、毛むくじゃらだけが駅のホームで立ったまま周囲を伺っていた。ペットショップの側を向く瞬間、顔に当たる部分に二つ、黄色く光る目のようなものが見えたが、顔の輪郭はわからない。

 何度か周囲を伺うと、毛むくじゃらは何かを決めたようにペットショップの側を向いた。黄色の眼が店内の紅を捉えて見つめるような気がした。 

「紅ちゃん、お待たせ。」

 静香がカウンターに戻ってくる。店長との交渉はうまくいったようで、ポチを一晩預かってくれるという。宿泊料金を支払い、店の外を伺うと、毛むくじゃらの姿は消えていた。

「どうしたの? 音葉君と待ち合わせ? 彼は本当に犬探しが上手だよね」

「静香さんにもそう見えるんだ。本人は犬探しを始めるつもりなんてなかったと思うんだけどな」

「人は思ってもみないところに才能を発揮したりするものよ」

 毛むくじゃらはいなくなった。視界に不審なモノはない。それなのに、どうも何かがこちらを視ているような気がする。背筋がざわつく感覚がぬぐえなくて気味が悪かった。

 カウンターの電話が鳴り、静香が受話器を取る。

「あの、すみません。ヨ、ヨタロさん? 何処かに間違えてかけていませんか?」

 ヨタロウ。静香の口から横山与太郎の名前が出たように聞こえて、紅は静香の顔を見た。どうやら間違い電話のようであるが、意思疎通が取れないのか顔には戸惑いの色が浮かんでいる。

 ポチと同じ、ノイズの気配を感じない毛むくじゃらの影。ヨタロウ。

 紅はカウンターに置かれたペンとメモ用紙をつかみ走り書きをする。

――その電話、ヨタロウって言ってる?

 静香は、紅のメモを見て小さくうなずいた。

――そのまま代わって。あと録音。わけは音葉が話す

 メモを見せると、静香は頷いて無言のまま、紅に受話器を渡した。受話器に耳を近づけると何かをしつこく受話器にこすりつける音がした。そして、その音に合わせて、声が聞こえてくる。

「ヨタ、ズ、ロ……ヨコ……ヨタロウ……ズク……ロ……」

 意味の取れないつぶやきが数回続くと、突然、電話が切れた。しかし、切断されたことを告げる音の中にも、さきほど受話器の奥から聞こえた何かをこする音が響いているように聞こえる。

 やはりノイズの気配はしない。ただ、ノイズに遭遇するときと同じような気味の悪さだけが残った。

「ねぇ、紅ちゃん。今の電話なんなの」

 さて静香にはどう説明しようか。手がかりがなさすぎて説明のしようがない。紅は、さきほど自分が書いたメモを静香に見せて苦笑いを返した。

 ごめんなさい。音葉。あとは任せた。

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