人面犬を捕まえて(2):便利屋は歩くと怪異に当たる

 木曽尾道は音葉たちを、市役所の一角、公園緑地課横の応接室へ連れてきた。ドアには『市民相談室』というプレートが掲げられ、神木と記載された責任者表示の横に厚紙で木曽の名前が貼り付けられているのが印象的だ。


*****

 小手川刑事の取調べから解放されると、陽は既に落ちていた。警察署の外で待つと言っていた紅のことが気になり、音葉は玄関へ急いだ。

 彼女は警察に引き渡した窃盗犯とセットで発見した迷い犬を保護したまま駐車場に待機している。保護した以上、依頼人に引き渡したいのだが、これでは夜遅くになってしまう。しかし、仮宿で一晩犬を預かるのは難しいし、ペットホテルの空きは見つからない。

 犯罪の現場を見つけたからといって、積極的に犯罪者を捕まえるのも考えものである。

 もっとも、音葉の不安は懸念だったらしく、警察署の外では、紅が駐車場端のジープの前で元気よく跳ねていた。

 隣には大柄の見知らぬ男が立っており子犬の入った段ボールを抱えている。依頼人は女性のはずだが、配偶者であろうか。

 事情を察したのは、紅が「新しい依頼者!仕事!」と叫んでいるのを聞いてからだ。どうやら音葉を待つうちに新しい事件を見つけたらしい。


*****

 市役所の窓口対応は終了しており、所内の職員もまばらだった。木曽は、子犬は一晩なら市役所で預かると申しで、飼い主への連絡も買って出た。

 木曽が飼い主に事情を説明すると幸いなことに、報酬は維持したまま、犬の引渡は明日でよいとの回答があった。それどころか、飼い主からは、市役所の職員である木曽と繋がりがあることについて、いたく感心された。

「工藤さんは素性の怪しい人を嫌がるんだ。まあ、私にはよくわかりませんが。ともかく、工藤さんのところに行くのを引き留めたのは私なので、私との繋がりを上手いこと使ってください」

 木曽はそういって親指と人差し指で輪を作ってみせた。

「金の切れ目が縁の切れ目。金は他人と繋がるうえで重要だし、根拠のわからない期待や信頼と違い目に見えます。だから、私は工藤さんの言う素性に基づく判断よりも金を好んでいます。あなた達への依頼にも正当な報酬を支払いたいと思っていますよ」

 音葉の人間関係は、記憶を失って以降、ノイズにまつわるものばかりだ。犬探しの依頼主が言う“素性”に基づく関係性と、金による関係性のどちらが健全なのかはよくわからない。

 金で繋がる関係と、音葉の関係性とどちらがよいか。比較することにあまり重要性はない。ただ、市役所との繋がりを重くみる人もいるということは覚えておくことにしよう。

「それはそうと木曽さんの音葉への依頼ってどんなことなんですか?」

 このままだと話が進まないと踏んだのか、紅が居住まいを正し仕事の話を切り出した。

「そうだ。紅から僕の犬探しの才能を買いたいと聞きましたが、もしかして、木曽さんも飼い犬が迷子になったのですか?」

 応接室のコーヒーメーカーの前に立つ木曽は、音葉の質問に腕組みをし、考え込む。相談室にはコーヒーメーカーが紙コップにコーヒーを注ぐ音だけが響く。

「そんなに私は信用されていませんか」

 木曽の発言の意図が汲めず、音葉と紅は顔を見合わせ、揃って首を傾げた。すると、木曽がクスクスと笑い声をあげる。

「なるほど。そういうタイプですか。いいですか、私が自分の飼い犬を探すなら、君たちを市役所に連れてきません。それに、そうですね。この市民相談室に犬を探してほしいと相談に来る方もいません。自力で探すか、警察、あるいは久住さんのような犬探し業者を直接訪ねるでしょうからね」

「犬探し業者。僕たちは犬探し業者ではないのですが」

「おや。駅前の喫茶店の奴は久住さんが置いたと思っていたのですが。 “迷い犬、探します”って名刺型の広告」

 “初めは、キャッチーでシンプルな広告が良い。印象に残るからね”という遠上の意見を鵜呑みにした結果、市役所の職員まで知られることになったわけだ。

 しかし、犬探し専門業者と思われているのはどうにも解せない。音葉は思わず額を押さえた。

「一般的な便利屋の仕事の中には面倒な手続が必要なものもあるからね。私は犬探しというのは簡単に着手できる良いアイディアだと思うよ。もっとも、私は久住さんの犬探しの才能を買いたいだけで、犬を探したいわけではない」

 木曽の意図がわからない。そもそも、音葉に犬探しの才能があるか疑わしいが、それはそれとして犬を見つける才能を買いたいのに、犬を見つけたいわけではないというのはどういうことか。

「話は少々複雑でね。相談料は支払うから、コーヒーを飲みながら話を聞いてくれませんか。

 この市民相談室は前市長のときに作られた部門でね、名が示す通り市民のよろず相談どころなんだ。ところがね、うちの顧客は市民だけじゃなくて、市役所内、あるいは関係機関も含まれる。いわば、公務員版の便利屋と思ってくれてよい。

 むろん、君たちが“今は”犬探しに特化しているように、私たちも何でもできるわけじゃあない。だから、外部コンサルタントとのチャンネルを持って処理をお願いするようにしている。

 今回の私の依頼元は年金事務所なのだが、処理に適した専門家を知らなくてね」


*****

 年金事務所総務課の晩入可奈(オソイリ-カナ)課長が市民相談室を訪れたのは2ヶ月前。積もった滞留案件の処分に精を出し、いよいよ定時を迎えようとした矢先、眉間にしわを寄せた陰気な顔の彼女が現れた。

 木曽は面倒事を持ち込まれると思い、とても厭そうな顔をしたのだろう。日頃は謝罪などしないことで知られる晩入が、遅くに相談に訪れたことを謝罪し、横山与太郎(ヨコヤマ-ヨタロウ)という男性の国民年金支給状況をまとめた資料をテーブルに置いた。

 彼女の差し出した資料は、整理されており、横山与太郎が順調に年金の支給を受けていることがわかる。

「見る限り支給状況に不自然な点はないし、不祥事やトラブルの気配はしませんが」

 晩入は眉をひそめたまま相談室のソファに座り込んだ。昔から小柄で細身のため、体力的に不安だと揶揄されていたが、年金事務所に配属されてからはなお一層に細くなったようにみえる。

 ブラウスから覗く腕はまるで骨のように細いが、木曽が突き返した資料を掴む力は強い。

 陰気な目には強い苛立ちが宿っていて、簡単にあしらえそうにない。

「ただの不払いなら来ません。社内の相談は聞きたがらないというのは本当ですね」

 そんな評判が立っているとは意外だった。木曽が前任者から相談室を引き継いで1年。市民相談以外の公務員からの相談件数が減っている印象はない。前任者との違いは、碌に話も聞かずに案件を引き取ることをやめただけだ。

「別に仕事をさぼっているわけじゃありませんよ。前任者のやりかたじゃ相談室の業務範囲が曖昧すぎるんです。だから、私はこうやって話が持ち込まれるたび“相談室送り”にすべきか振り分けているです」  

 相談室の壁に積まれた段ボールは、設立後3年で“相談室送り”になった案件の山だ。

 市長の気まぐれで公務員からの相談も受けるとされた。しかし、職員から持ち込まれるのは各部署が触りたくない案件ばかり。まるでゴミ箱のように案件を投げ入れられ、前任者が失踪したのが1年前。

 木曽は潰れた前任者が市民からの相談を外部の専門家に解決を委託していただけでもよくやったと思っている。

「それを指摘されると、強く言えないわね。相談の本筋はここからなの。もう少しだけ時間を頂戴」

「聞いた結果、うちじゃ受け付けないこともありますよ」

 晩入は承知したと頷く。相談室を利用する職員では随分と自制が効いている。木曽は晩入に感心し、向かいのソファに座った。

「相談したいのは、不支給じゃなくて不正受給についてなの」

 横山与太郎は今年で64歳になる。市郊外の一軒家に暮らしている。若いころは税理士として市内の中小企業相手に仕事をしていた。3年ほど前、過労で倒れてからは事務所を畳み、現在は自宅近隣の農地で菜園を営んでいるという。

「税理士のように数字の処理は頭が固くなってきた老体には無理だ。だが多少なりとも身体を動かさないと腐っていくというのが彼の弁だったらしいわ。もっとも、菜園の手入れのほとんどを妻のトシと娘の光里(ヒカリ)が担っているみたい」

 与太郎には、光里の他に、威郎(イロウ)、仁助(ジンスケ)という息子がいる。光里と威郎はそれぞれ既婚で、光里が配偶者と共に与太郎の家で暮している。威郎の家は横山家の道路を挟んだ斜向かいに建っている。こちらは威郎家のみが暮らしている。

 仁助は与太郎の同業者の税理士事務所で働いており、駅裏にアパートを借りて生活している。金繰りに困った様子はない。

 ところで、与太郎は、過労で倒れて以降、1ヶ月に1度の頻度で病院に通院している。それが、6か月前からぱたりと途切れたのだという。横山宅の周辺や菜園などでも与太郎の目撃例はなく、税理士の交流会にも現れなくなった。

「なるほど、それで不正受給ね」

 不正受給案件の多くは、平均寿命を超えるほど生きていることになっていたり、数年前から居所が知れないことから発覚する。

 もっとも、現実には持病の治療を止めてしまう者は多いし、大量の年金受給者を管理する年金事務所が、半年程度病院の通院がないという情報だけを根拠に、不正受給案件を疑うとは疑わしい。

「民生委員からの情報でもあるのですか?」

「いいえ。そこまではまだ。ただ、先日事務所に匿名の電話が入りました。ボイスチェンジャーを利用した声で、『横山家は年金を不正受給しているのだ』と」


*****

「と、まあこういった経緯で、手の足りない年金事務所の懸念事項が相談室に舞い込んできた」

 木曽は席を立ち、コーヒーメーカーに自分のコップをセットした。どうやら一通りの事情は説明したということらしい。

「ねえ、音葉。よくわからなかったんだけれど、年金って不正受給できるの?」

 それは音葉も疑問に思った点である。

「国民年金、厚生年金はどちらも一定の年齢になったら支給されますよね。年齢をごまかすのはやっぱり難しいと思うのですが」

「ああ、そういうことではありませんよ。現実はもう少しえぐい。不正受給というのは、年金受給者が生死不明、所在不明になっていることを、家族が隠蔽することで起こります。つまり、年金事務所は、横山与太郎氏は既に何らかの理由で死亡あるいは所在がわからなくなっていると疑っているのです」

 木曽の説明は、音葉の少ない体験や常識に照らすととても奇妙に聞こえる。

「税理士って儲かる職業じゃないんですか。家に菜園まであるんでしょう?」

「一般的にはそのようなイメージですね。与太郎氏に至っては、少なくても事業を畳んでも充分に生活基盤を保てるように思えます」

「資産があるなら、与太郎さんが亡くなっていたとしても、隠す必要ないんじゃないの。そんなにみんな年金がほしいの?」

「いやはや、水鏡さんも久住さんも切り口が鋭いですね。私も一部同意です。仮にタレコミの通り、与太郎氏が死去していても、不正受給をするより、相続したほうが利益が大きいんじゃないかってね。

 そこで、民生委員に依頼して横山氏の自宅を訪ねてもらいました。家族は、民生委員の訪問に応じてくれたそうですが、斜向かいに暮らす威郎一家も含めて、全員が与太郎氏は不在と話したそうです。半年前に国を一周すると言って出掛けたままだそうです。彼らは与太郎氏が旅先から送ったという絵葉書も見せてくれた」

「与太郎さん、生きてるじゃない」

 紅が呆れたような声をあげた。だが、旅先の絵葉書だけなら、与太郎氏以外の第三者が書いて投函すればよい。若干手間だが死の偽装方法としては安価であろう。勿論、そこまでして与太郎の死を隠す理由が一家にあるという前提のもとではあるが。

 いずれにせよ、音葉には更なる調査をしたいと考える木曽の心境も理解ができる。

「依頼を受けるか考える前にもう一つだけ教えてください。木曽さんは、僕の犬探しの才能が欲しいと言いました。でも、目的は横山与太郎氏の安否確認ですよね。残念ながら僕達は人探しは未経験です」

 残念ながら犬探し専門業者と思われている音葉に舞い込む依頼ではない。そういった案件は、探偵業に依頼するものだろう。

「人探しの技術が欲しいわけじゃありませんから。久住さんが空き巣を捕まえたことがあるって聞いてピンときたんです」

 木曽の目が鋭い光を灯したように見え、音葉は背筋が冷えるような感覚に陥った。

「ひったくりや車上荒らしは、私人による現行犯逮捕があってもおかしくないと思うんです。路上で起きることですし、現場に遭遇することもあるでしょう。犬探しをするなら、他人より注意深く周囲を見るでしょうからね。

 それでも、空き巣の私人逮捕は難しい。家に侵入するところを見つけて、出てくるまで待つ? 空き巣に、先程あの家から出てきましたがあなたは空き巣ですか? と尋ねるわけですよね」

 音葉と紅は顔を見合わせ、木曽に曖昧な表情を返すしかない。明言は避けているが、木曽が期待する回答を示したにも等しい。

「追及するつもりはありません。ただね、私は与太郎氏を捜すべきは家の中だと思っているのです。そして、久住さんは適任だ」

 この男の依頼を断るのは拙い。音葉は袋小路に追い詰められたような気分になった。


*****

 横山与太郎の家は、音葉たちが拠点とする駅から6キロほど南、市の中心部から外れた畑の広がる長閑な地域にあるという。

 最寄りのバス停に降り立ち周囲を眺めると、木曽の話の通り、周囲は野原や畑ばかりだ。住宅の間に畑があるのではなく、畑の中に住宅がある。そしてどの家屋も駅前付近のそれよりも大きい。代わりにビルらしき建物は見当たらない。

「市内にもこんな場所があるんだ」

 音葉は日頃駅周辺の市街地を拠点に活動している。市外に出る際には電車を利用しているが、窓の外に畑が映るようになるのは市街地を抜けて、隣町を過ぎてからだ。だから、市内に農家はないと思っていたし、木曽の言う菜園も、屋上庭園をイメージしていた。この調子ならビニールハウスが並び果物狩りの看板を掲げていてもおかしくない。

 想像と違う光景に戸惑ったが、バス停の時刻表には1時間に4つ通過時刻の記載がある。ひとまず、帰りの手段に困ることはなさそうだ。

 さしあたっての問題は、付近があまりに風通しがよいことだけだ。

「木曽さんに正直に犬探しのコツを話せばよかったんじゃない? 鷲家口先生みたいに不思議なことに寛容かもしれない」

 それはどうだろうか。木曽が“不思議なこと”に寛容でも、空き巣を現行犯逮捕できるノウハウに寛容とは限らない。

 どちらかというと、あまり好ましくない方法だと踏んでいる、少なくても、音葉が、そのように疑うと予測して、木曽はあのような態度をしたようにも思う。

「木曽さんに話さなかったことに後悔はないよ。それに、今回は犬を探すわけではないし、試す価値はある」

「自分に言い聞かせているようにしか聞こえないよ」

 その通りだから反論はしない。どのみち、まずは貰った資料の住所に行き、ノウハウを試すしかない。

 木曽から渡された地図の通りに進むと、やがて群青色の屋根が印象的な与太郎邸が見えてくる。事前情報の通り、与太郎邸は木造2階建て。境界は2メートルほどの石垣に囲まれているように見える。確かに邸内を覗き込むのは容易ではない。

 周りは畑ばかりだから、家に近づく人影は目立つだろう。特に与太郎邸の門は、斜向かいの黄色い屋根の住宅の二階から良く見える。与太郎の息子、威郎の家である。

「ここから見ているだけで私たち怪しいんじゃない。畑の真ん中で迷っているようにしかみえないよ」

 音葉らは300メートルほど離れたところから横山邸を眺めているが、紅の言う通り、端からみれば、畑の真ん中で望遠鏡で家の方を眺めている男女は怪しいだろう。

「紅、やってみよう。ダイヤの2をだして」

「本気? 街中と違って何も映らないよ」

 音葉の要求に紅がいつもより高い声をあげる。しかし、言動と関係なく、音葉の手には黒い液体が滴るようなイラストが描かれたトランプが現れる。カテゴリはダイヤの2。

 心のなかでトランプの輪郭が周囲に溶け込るようなイメージを浮かべると、トランプは消える。代わりに、音葉左手首の周りを墨汁のように黒く、艶のある流体が回遊を始めた。

 港町で封じた黒硝子と呼ばれる怪異。紅の力により封印して以降、黒硝子は音葉の力となった。日々の訓練のお陰で、様々な物の形を模倣する黒硝子の力に、音葉の身体と思考は馴染み始めていた。

「大分使いなれてきてるけど、こんなところで本当に効果あるのかな……」

「さあね。やってみなければわからないし、幸いなことに失敗しても与太郎氏の家に近づく方法が1つ減るだけじゃないか。これも訓練の一つだよ」

 音葉は左手を顔の横にあげ、人差し指を宙に回転させる。手首を回遊している流体、黒硝子は、音葉の腕の動きに流されるかのように、人差し指に向かって伸びていく。そして、人差し指の周りでは指に合わせて回転を始める。

 十数回も指を回転すれば、人差し指周りの黒硝子は綿あめのように厚みをましていく。不思議なことにいくら指先に黒硝子が集まっても、手首を回遊する黒硝子の総量に変化はみられない。

 指先の黒硝子か紙風船ほどに肥大した頃合いをみて指を前後に振ってやると、指先の黒硝子は手首を回遊する黒硝子から分かれて、音葉の左前方に浮き、今度は円形に薄く伸びていく。

 薄さ1ミリにも満たない程度まで伸びると、黒硝子は音葉の前方から見て、左上半身を隠すほどに広がりを見せる。そして、硝子の中心部から黒光りしている表面が鏡のように変化する。

 音葉の正面に立てば、彼の左半身は中空に現れた謎の鏡により覆い隠されたように見える。これを繰返し、音葉達の周囲を全て鏡化した黒硝子で囲めば準備は完了だ。

 周囲の人間は鏡に写った風景をみることはあっても、その中にいる音葉たちを見ることはない。

 視界の確保に関しては、指先に黒硝子を集めた際に、音葉が周囲を確認するために視線をむけた先だけ黒硝子が避けるイメージを黒硝子に伝えておく。すると、黒硝子の壁は音葉の視界に合わせ自在に動くようになる。

 迷い犬に警戒されないように近づくコツのひとつである。

「展開まで65秒。前より15秒早くなった。これで与太郎邸に怪しまれず近づけるといいね」

 壁が完成したと判断した紅が腕時計から目を離した。

 紅の力、ハートのクイーンが封じたノイズは音葉の力になる。けれども、初めから元のノイズのような力を振るえるわけではない。力に対する明確なイメージ形成と、反復した力の行使により技術が向上していくのは、筋力トレーニングと似ている。少なくても音葉にとって、これは不思議な力ではなく、身体能力のひとつなのだろう。


 黒硝子を展開したまま、与太郎邸に近づき、内部を確認。うまく与太郎氏の生死を確認できればとりあえず依頼は完了だ。音葉と紅は周囲の安全を確認し与太郎邸に向かって歩き出した。


 もっとも、この日、音葉たちが与太郎邸に到着することはなかった。

 たった300メートルでもアクシデントは起きる。

「なあ、お前ら、妙なもの広げて何しているんだ」

 100メートルも進まないうちにしわがれたような、他方で子供のように高い声が聞こえ、音葉は立ち止まった。

 声は聞こえたのは足元、紅の右隣の畑からだ。だが、黒硝子をどけて畑をみても誰もいない。念のため周囲を確認してみるが、やはり人影はなく、視界に入った生き物は尻尾を丸めて畑のなかで転がっている柴犬だけだ。

「紅。さっき、声聴こえたよな」

「誰かに呼び止められたね」

 紅がしきりに自分の足元を気にしているところをみると、音葉の耳鳴りではなかったし、やはり声の出所は右手の畑だろう。

「聞こえるなら教えてくれよ。悲しいな」

 再び件の声が響く。音葉は思いきって周囲に張り巡らせた黒硝子を一端左手首に戻した。しかし付近に人の気配はない。

 あえて、初めに声が聞こえたときとの違いを挙げるなら、畑の中で転がってる犬が紅の足元に近づいてきている。

「紅、付近にはノイズの気配はあるか?」

 紅は首を横に振る。ノイズでないとすれば、何が起きているのか。

「ちゃんとこっちを向いてよ。話してるのは俺だよ。俺」

 柴犬の前足が、紅の右脚を突く。紅は集中力が途切れてしまって、声をあげて後退した。そして、彼女は口に手を当て息を呑む。

「大変だよ、音葉。この犬、人間の顔だよ」

 紅を見上げた柴犬が音葉へと振り返った。

「ようやく目があったな。あんたら、俺の家に何の用?」

 背後からではわからなかったが、柴犬の顔があるべき部分には老人の顔があった。

 人面犬。その日、久住音葉はそのように評するしかない怪異と始めて遭遇した。

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