鏡の国(7):地の底にて
黒と白の濃淡だけの風景は、酷く現実味に欠けている。それでも、どういうわけかこれがいつかの記憶だという確信がある。
私は海岸沿いの椅子に座り一人の男を眺めている。
男は、麻を編んだ服を纏い、砂浜を歩いている。
男が探しているのは、海岸に流れ着く黒い鉱石だ。砂浜に光るそれを見つけるたび、彼は背中の籠に鉱石を入れていく。村の近くでは不思議と高値がつくのだ。
もっとも、男は、それが何であるか、どこから来たかは知らない。彼が鉱石を初めに見つけたのは半年ほど前だった。初めて見つけた鉱石はとても大きく、まるで海岸に打ち付けられた海獣のようであった。
表面にはつやがあるが、時折表面が波打つようにみえる。海岸に打ち付ける波が鉱石に映っているからだとわかっていても気味が悪い。しかし、こういうものほど市場に持ち込んでみると案外と値打ちがつく。少なくても珍しいものであることは確かだ。男は、懐に入るはずの金に期待を膨らませ、数日かけて鉱石を家に運び入れた。
しかし、その大きさと重さが市場への運搬を妨げる。表面を工具で打ち付けても、削れることがない。硬さといい、見た目といい、市場に持ちこみさえすれば高値が付くことは間違いないだろうに、海岸沿いの家から山の上にある市場まで、この巨大な鉱物を持ち込む術がなかった。男はそのことに落胆した。
男に転機が訪れるまで、それから7日も経たなかった。
いつものように海岸を歩くと、あの鉱石と同じ、それも親指ほどの小さな欠片が流れ着いているのだった。拾って市場にもっていけば、男の予想通り、高値を付ける客がいる。男の懐はみるみると潤った。
この鉱石の出所は隠し通したいし、財産は自分だけのものとしたい。男は日々増える金を横目に、家の隅におかれた巨大な鉱石に不安を覚えていた。もし、これが誰かに盗まれてしまったなら、男の商売は干上がってしまう。
誰からも見つからない場所に隠さなければ。強迫観念に駆られ、男は夜な夜な土間に穴を掘り、やがて、鉱石を隠してしまえるほどの地下室を作り上げた。
村から男が消えたのは翌日のことである。家財道具はなくなっており、家の土間には巨大な穴が開いていた。
男の行方を尋ねる私の前で、穴の底には何一つめぼしいものはなかったのだと、村人たちは口をそろえた。だが、私は男が石を地下に運び込んだことを知っている。
何かが矛盾している。
*****
こめかみの痛みで鷲家口眠は目を覚ました。この街に来てからは気絶ばかりだ。今度は上半身を椅子の背に、両足を椅子の足に縛り付けられている。こういうときは左右に大きく揺れると椅子ごと倒れ脱出できるのが小説や映画のお決まりだ。だが、眠を縛った者たちはそのあたりをわきまえている。椅子は床にボルトで固定されており、左右に揺れることすら許されない。
部屋を見渡すと木の板を張り付けた壁と、黒光りする石で作られた床が目に入る。天井は低く、椅子から解放されても、中腰で進まなければならない。床には眠を縛った縄と同じものが打ち捨てられていて、床にめり込んでいるものもある。
部屋の奥には扉があるが、4分の1ほどが床に埋まっていた。そして、扉の上部につけられた覗き窓からは、何者かが室内を伺っている。あいにく、ヒーローのように突然筋肉質になって縄を破壊する技術はない。磯山上路に告げたように、眠はただの検視官なのだから。
「磯山上路に言われて見張っているのだろう。時間の無駄だよ。私は椅子から抜け出せない」
「あんた変わった体質だから気つけろてよ。あんたワシと話せてるじゃねか。普通はワシらと話せるわけがない」
街の人間に比べると訛りが強い。声の調子は高齢だ。旅館で出会った人々に同じ声の人間はいなかった。磯山上路の仲間がどこかに潜んでいたということか。いや、そもそもここはあの旅館と同じ場所ではないのかもしれない。
それよりも彼の言葉を信じるなら、磯山上路はあのとき旅館で、眠に対して薬か何かを投与した。門番の男はその効き目が薄いことを警戒しているのだ。だが
「いくら薬が効かなくても、こんなに縛られてちゃ動けない。何に怯えているんだ」
「あんたはれいべが強いから、とどを追加しなきゃいかん」
眠の話を聞こうともせず、門番は覗き窓を離れた。そして代わりに覗き窓から黒い液体が流し込まれる。液体は床と似た光沢を放っている。扉が床にめり込んでいるわけでも、天井が低いわけでもない。この部屋はあの妙な液体が流し込まれ床に溜まっていたのだと眠は気付いた。
磯山が飲ませたのは、あの黒い液体ではなかったか。ふと嫌な予感が胸をよぎる。
液体は意思を持つように床をうねり、眠の足元に到達する。足の裏に液体がふれた途端、体中が痺れ、強烈なめまいに襲われた。左の耳元からこめかみにむかって異物が広がって左目の視野が失われていく。声を上げようにも喉はひりつき、眠は再び暗闇へと落ちていった。
******
「隣村は知らぬうちに消えた。屑拾いが多かったから、おおかた重たいわだつでも拾てきたんだろ」
網の手入れをしながら、老人は隣村をそう評した。彼が隣村と呼ぶ地域は、私が足を踏み入れた時には既に廃村になっていた。老人は、村人がいなくなったのは5年前だという。それまではこの集落との交流も頻繁にあったというが、ある日を境にぱたりと交流が途絶え、やがて村に誰もいなくなったのだという。
老人は、その原因をわだつだと話す。わだつというのは綿津神、すなわち海の神のことか? と私が訪ねると、神ではなくて病だという。
「学者先生は考えすぎだ。先生のいう通り、わちらは海の民だ。ここいらはうまく作物が育ない。だから海で採れたもんを市へ運んで、山から野菜を集める。んだも、海が運ぶのはいいものばかりじゃない」
「その一つがわだつ?」
「そうさ。時化の後は、漁師が調子を崩す。海岸で遊ぶ子は死ぬ。わだつが原因だ」
「わだつ」と呼ばれる何かについて話すのは老人に限らない。海岸一帯の集落では、いずれも「わだつ」と呼ばれる土着信仰がある。この老人を含めて、外部の人間にわかりやすく説明できる者は少ないが、話を総合すると一種の疫神信仰である。
海の調子に関わらず、体調を崩す人間はいる。加えて、医者が少ないこの地域では治る病でも時に人は死ぬ。現代医学に則るなら病名がつくそれらは、集落において「わだつ」に侵されたと説明される。
「だから学者先生って呼でんだ。わだつは常に見えないわけでない」
「しかし、あなたの話では海からもらう病だと」
私の問いに老人は嗤った。
「そらはちごう。わだつは、魚やわちらと同じ姿をする。わちらに興味をひかせて持ち帰らせるんじゃ。あの村のはたぶん石じゃ。屑拾いどもが、高く売れると思て拾った。わだつは仲間を呼ぶからな、一度拾ちえば、時化が終ても集まる」
魚や人、石の形をして陸に上がり、人を死に至らしめる。それは、海に沈み時化とともに舞い上がる細菌あるいはウイルスが陸に持ち込まれる話に聞こえる。
おそらく、ここが老人と私の違いだ。幸いなことに、彼は、私と彼の違いに嫌悪感をもっていない。私が彼の話をかみ砕こうと唸っても、話を打ち切ろうとはしない。
結局、私の思索に割り込んだのは、老人ではなく、彼の下にやってきた二人の若い漁師たちだ。
「刻さん、また爺さんの昔話で悩んるのか」
「昔話を難しく聞きすぎなんだよ刻さん」
若者たちは浅黒く焼けた顔で屈託なく笑った。老人のところに通ううちに、すっかり顔なじみになった。集落や海岸で会うと声をかけてくれる。
わだつの昔話は、気を付けるべき教訓だが、真実を知る必要はない。というのが若者たちの意見だ。彼らは彼らで、それは身を守るべき教訓に過ぎず、わだつと呼ばれる現実的な脅威が存在するとは考えていないのである。
しかし、老人は若者たちの意見に、険しい顔を見せる。老人にとっては、わだつを知ることは、身を護ることなのだ。
「わかってる。時化は海に出ないし、海でモノは拾わない。海からきた人は警戒する。俺らもわだつで仲間や家族が倒れたのは見たことがある。だから軽く見たりはしないさ」
「なら、なんで考えすぎだと」
「みぐがれいべを守ってくれる。社さまもいっているじゃないか」
若者は懐の籠から人形を取り出す。それは、透き通ったガラスの小さな馬だ。彼らによると、集落の外れ、山際にある廃社を訪ねると職人がくれるのだという。
社の職人は、硝子細工を御具と呼び、わだつを御具がぬぐってくれると話す。わだつの気配が濃くなると、御具は黒く汚れるが、社に行けば新しいものと交換してもらえる、若者たちも一、二度交換してもらったと話してくれた。
若者の説明に老人は納得しがたい顔をしている。それが、彼の信仰とのずれによるものか、それ以外の要因かは判断がつかない。ただ、老人の顔に残る不安の色だけが印象に残った。
*****
「兄さんは、見えないわけじゃなくて、見ていないんだと思うけれど」
そう言って、ちせは、私の顔から眼鏡を外した。視界を区切るフレームが消えて、ちせの姿も、部屋の様子も、幾分か見通しがよくなった。だが、正座をしたちせの前に置かれた薄汚れた鶏のぬいぐるみの見た目は変わらない。
「変わらないよ。これは単なる鶏のぬいぐるみだ」
「鶏じゃなくて、これはチキまる。子供に人気のキャラクターだって話したでしょう。それに、眼鏡をかけたときと変わらないわけはないよ。これは、どんなに“見えない”人でも、見えるようにするための道具なんだから」
「だったら、このチキまる人形は、単なる誰かの落とし物ということだろう。いいかい、ちせ」
「うちがやっていることは民間療法とカウンセリングの組み合わせに過ぎない。もう聞き飽きたよ、眠兄さん」
ちせは私の口癖を先回りしてため息をついた。
私の家は古くから呪い師を営んでいる。人々から持ち込まれる曰くつきの物や、原因のわからない体調不良などを、怪異のせいであると断じ、祓う、そんな仕事だ。
私と妹のちせは、ゆくゆくは家業を継ぐ者として育てられてきた。しかし、大変残念なことに、私は家業に共感できなかったし、両親やちせには“見える”ものが見えない。今だって見えるようになる眼鏡を渡されたが、チキまるにとり憑いた童の怪異なるものは見えなかった。
「結局は意思の問題なんだよ、少なくても兄さんの場合は。見えない人はたくさんいるけれど、兄さんには見えている。ただ、常識の外にある物を見たくない。そういう気持ちが視界を妨げている。
私は、兄さんの選択を悪いとは思わない。私も母さんたちの仕事を継ぐつもりはない。でも、兄さんがどう思おうと、怪異は存在するし、兄さんは見ることができる。そのことだけは忘れないで」
ちせが何を思ってそう言ったのか、確かめようにも彼女の顔は渦を巻いており、表情を読み取ることはできなかった。
*****
社は、海岸沿いの集落と山向こうの集落の中間、海岸に面した山の中腹にあった。社に至るための道は草木の手入れが行き届いておらず傍目には獣道と変わらない。私は何度もこの道を歩いていたが、集落の若者らに教わるまで、この道の存在に気が付くことができなかった。
境内で出会った硝子職人に感想を漏らすと、まるで学者ですねと感心された。
「漁獲量もそれなりで、市場では容易に山の幸が手に入る。集落の生活を脅かす目立った脅威も少ない。海岸沿いの集落では貴方が期待する信仰や宗教を必要としないのではありませんか」
硝子職人は無奏(むそう)と名乗った。生まれは近くの山村で、16で帝都へ向かったという。その後、帝都にて硝子の加工技術を学び、職人として国中を流れ歩いていると話してくれた。
「ここに留まる前は、海岸線沿いの集落を回っていました。そうしたら子供のころに聞いた怪談が伝わる島の話を聞くことができたのです。島では硝子細工が御守りになっていた。大変興味深くて、半年ほど島で暮らして彼らの文化を学びました」
寺に並べられている硝子細工は、牛や馬、羊といった家畜、鳥や兎、魚と多種多様な動物のをしている。帝都の硝子工房でも腕を買われていたに違いない。
「帝都をでるとき私が作れたのは、硝子を膨らませてできる容器や、皿くらいなもの。こんなに精巧な硝子細工は島以外で見たことがなかった」
無奏は愛おしそうに硝子細工を撫でる。だが、集落の人々にとって、彼が撫でるその作品は、わだつから身を護る装身具でしかない。
「不満はありません。島でもそのように使われていたのです。黒ずんできたら入れ替えるのも同様。
ああ、わだつというのは、綿田津神、古典に記される海の神を示しているわけではない。ここらの集落は、あの島から流れ着いたものがその名前を伝えたのでしょう。
漢字で表記するならば、和もしくは輪を絶つと書いて、和絶、輪絶するのがよいでしょう」
無奏は紙にその文字を書き記した。
「どうやら、想像していたものと違いが大きいようですね。時化と共にやってくる病にしては禍々しいと考えていますか? 鷲家口先生」
鷲家口、とは誰のことだ。私は無奏の顔をみた。光の加減か顔は見えない。
「話を続けましょう。島で和絶が恐れられていたのは、単純な致死率からではない。確かに、和絶に罹患した者のほとんどが亡くなります。しかし、最も恐ろしいのは、亡くなったことに他の島民が気が付かないことです。
島民たちは、自分たちの中に潜み、感染者を増やす和絶を何より恐れていた」
その話は、老人から聞いたわだつの印象と合致する。だが、それは同時に抗体を持つ者、保菌者が現れたとも説明できる。
「島が怯えるものの正体、集落が怯えるものについて、歴史の集積や、個人の知識が理解を妨げる。和絶はそうやって、物理的にも社会的にも集落を分断し、死をまき散らすのです。
だからこそ、島民たちは彼らの持つ知識だけで、和絶とその元凶たる百々(とど)を硝子に封じる術を探す羽目になった。結果、彼らがたどり着いたのがこの硝子細工なのです、和絶により命を落とした者たちと同じ姿をした硝子人形があれば、百々はそちらに寄っていく。彼らは島独自の経験の蓄積により、その結論にたどり着いた。
もっとも、それは撲滅する行為にはならない。水に沈んでいた百々は、水に還さなければならない。しかし、それを知らずに百々を陸に引き上げた人物がいた。
今の貴方にはその結末が想像つかないかもしれない。でも鷲家口先生は、気付きつつあるのではないですか? 今、あなたが何に侵されているのかを」
言ったでしょう? 忌まわしき信仰は歴史の中に埋まっていた方がよいのだと。
無奏の声が、聞き覚えのある声に変わり、私の身体は大きく揺さぶられた。ここには無奏と私しかいないはずなのに、誰かが鷲家口眠なる人物の名を呼んでいる。
鷲家口とは誰だ?
いや、そもそも私とは誰なのだ?
*****
照明が灯った硝子細工の保管室は、水鏡が進んでいった方向から、反対側へ向かって緩やかに下り坂になっている。
照明がついたのを確認し水鏡が音葉らのいるところまで引き返してくるまでにはまだ時間がかかるだろう。等々力の提案に応じ、音葉は部屋全体の構造を確かめるため、水鏡とは逆方向へと下ることにした。
保管室は広く、どこまで行っても硝子細工が並んでいる。ケースに年代と名前が書かれているのも全く同じ。硝子細工の並びは不規則で、ところどころ空のケースが見受けられる。中には磯山妙子の名が刻まれたものもあり、音葉と等々力は顔を見合わせた。磯山妙子のケースの中は空っぽだ。おそらく、磯山医院で遭遇した硝子細工が入っていたのであろう。だが、磯山妙子のケースのどこにも開閉した様子はない。一体、彼女はどうやって出入りしていたのだろうか。
疑問は絶えないが、答えを得る前に、音葉と等々力はその光景に遭遇した。保管室の端、透明なガラスに仕切られた先に覗く巨大な穴に。
穴は深く大きい。保管室のように人工的に仕切られたのではなく、街の地下に自然にできたかのように見える。保管室は洞窟の天井付近に突き出るように作られていた。洞窟のはるか下には小さく光が見えるが、その正体はよくわからない。ただ、一本の線のように光が伸びており航空写真で見た町の様子のような印象を受けた。
「どこに消えたのかと思えば、こんなところまで来ていたのですか」
目の前の光景にあてられ、声を失っていた音葉と等々力の間に入り込む奇妙な声。音葉の右、肩よりも下から響くその声は、音もなく現れた卵のような怪人から発せられた。
「驚かない。動かない。私はあなたたちに危害を加えるつもりはない。ご友人が迷子になっていたから連れてきただけですよ」
卵は刻無と名乗った。町の歴史資料館の館長を勤めていると話す怪人は、警戒する音葉に対し小さな腕で背後を見るよう促した。振り返ると、水鏡が気まずい顔で立っている。彼女の背後ではフードで顔を隠した男が水鏡の背中に何かを押し付けているように見える。
視界の端で等々力が身を固める。刻無の意図は読めないが、音葉にも抵抗は得策ではないことは感じられた。
「慌てずに。私たちにもあまり時間はないのです。私から一つ質問をします。
鷲家口眠先生の行方をご存じありませんか?」
*****
看護師が診察室に駆け込み、海岸の集落から患者が運ばれてきたと告げた。身体が重くなり動かなくなったとの訴え。付添人が担いで運んできたという。
付添人らは「とど」が患者の「れいべ」を奪ったと訴えている。時化に船の様子を観に行ったのが原因と話すが、先日までに運ばれた5人との共通した行動はない。
定期的に往診に出向いているが、海岸の集落は総じて健康な者が多い。風邪や食中毒といった病は集落にいる医学の心得を持つ者らが対応してしまうこともあって、私がこの病院に来てからこれほどまでに重病の患者が続いたことはない。
3日で5人。海岸から身体が動かなくなったと訴える患者が運ばれている。いずれも病院に到着した時点で身体は固まり呼吸も止まっていた。それでも、心臓は鼓動を続けており、死の兆候はない。
病の正体も、患者の病状もわからないことが多い。ただならぬ事態に怯える看護師らをなだめて、私は患者を一番奥の病室に搬入、隔離し、治療を続けている。
6人目の患者の到着を告げた看護師の唇は青白く、顔は血の気が引いている。患者の発生頻度から、海岸では何かの感染症が広がっていると予感しているのだろう。
私は、看護師に患者を措置室に運ぶこと、磯山に措置室に来るよう伝えることを指示し、診療の準備にかかった。磯山はこの病院で唯一の男性の看護師である。口が固く、胆力もある。一連の患者の診療に立ち会っており、何より元々海岸の集落で暮らしていたという。
この奇病に関しては他の看護師や医師よりも知識がある。
「とどは確かに存在するんです。昔から時化が終わるとああいう患者が出た。ただ、この5年ばかりはぱたりと収まっていたから、みんな忘れた。御具のおかげでとどを避けられていただけなのに、どうして忘れてしまったんだろう」
磯山は二人目の患者を前にそう漏らした。彼が言う通り、患者は時化が収まった頃合いから運ばれ始めた。御具とは何かと尋ねると、磯山は懐から馬を模した細工を取り出した。
材質は硝子。掌に収まる大きさだが本物の馬のように見える。御具を揺らすと中で液体が揺れた。
「海水が入っているのです。とどは海から来るから、海水に弱い」
海から来るなら、海水には強いのではないか。私の疑問に磯山は首を横に振った。海水に振れる間は「とど」は形を変えないし、動物に憑かない。だから、時化でなければ陸に上がることは難しい。無奏と名乗る僧侶が教えてくれたと、日ごろ無口な男が饒舌に語る。
まるで正体のわからない病気の解説。医学的な知識も乏しく、地元の人間という理由で雇った男の言は信用できない。だが、無奏という名前が出てきた瞬間、私の考えは変わった。
その僧侶の名前は、磯山以外からも聞いたことがあるのだ。彼とは大学の同級であり、地域の民話を収集していた。この地域にも頻繁に訪れており、病院に立ち寄った際は収集した民話を話してくれる。彼の話に無奏と呼ばれる僧の名前があった。
「磯山君。君の話、もう少し聞かせてもらえないだろうか。僕がこの奇病を治す手がかりになる」
話を持ち掛けたときの磯山の顔を私は忘れない。自分の使命を自覚したような引き締まった表情。後にも先にも、磯山のそのような顔を見たことはない。
6人目の患者は女性だった。年齢は40代半ば。他の患者と同様に、見た目に異常はない。共に措置室に入った磯山の顔は表情を硬くし彼女の脚を見つめていた。彼の瞳は、無奏の教えに従い、「とど」とそれ以外を見極めてようとしている。結果がでるのはもうしばらく先だろう。
私は下半身の観察を磯山に任せ、患者の顔を確認する。触れると氷のように冷たく、硝子のように固い。ガラス玉のような眼が天井を向いているだけだ。
頬や耳、頭皮も全て硝子のようだ。しかし、鼓動が残っているように、体内には異常がない。たとえば、口腔などに異常は見られない。それが他の患者たちに共通した特徴だった。
私は、何も考えることなく、指を患者の口に差し込んだ。鋭い痛みが走ったのはそのときだ。咄嗟に指を引き出すと、グローブが切れ、中指から血が出ていた。カチン。患者の口の中で歯がかみ合う音が聞こえた。
「磯山君、この患者は」
出血する右手を押さえながら後ろを見ると、磯山は大きくうなずいた。下半身もまだ硬化が始まっていないようだ。私の目にも、彼女の右足首が動くのが見えた。
「磯山君。昨日、海水を運んできていただろう。持ってきなさい」
彼女の右足には白い粉が付着している。海水が渇き、塩が残ったものだろう。つまり、この病は海水で進行を遅らせるあるいは治る可能性がある。
私は、彼女に噛まれた右手の応急措置をしようとグローブを脱いだ。グローブが何かにひっかかり破ける。噛まれた指からは滲んだ血は固まり、鋭い刃のようになっていた。噛まれてから3分も経っていない。
感染。頭をよぎる言葉を裏付けるかのように、患者の口から黒い液体が零れ落ちた。
*****
あの傲慢な医師。何もかも見透かしているような態度が気に入らない。れいべを抜かれた人間たちがどうなるのかも、とどが何を目的としているのかも、あの男は理解できないだろう。
彼は威張り散らし、自分の知識が人を救うと宣い、村の人々に崇められて快感を得るだけの男なのだ。私の話を何一つ聞いちゃいない。だから、さっきも彼女の口に手を入れた。
とどは、彼女の口から身体に侵入した。顔の方がより皮膚が透き通ってみえるのだから、一目瞭然だ。5人も犠牲者を見ているのに、気付かないのだろうか。
あの男もそろそろとどに侵されているだろう。胸の奥が軽くなる。これで、私は自由になれる。
冷蔵庫の奥に手を伸ばすが、海水を貯めたタンクがない。確かにそこに置いたはずなのに。私は冷蔵庫を覗き込んだ。
私の後ろには5人の人影が立っている。病室のベッドに眠る患者はいない。ゴキュリ、ゴキュリ。彼らが喉を鳴らす音がする。私は私の背中を見つめて、不思議に思った。私の目は前についているのに、どうして背中が見えるのだろう。
そんなことより、海水。ああ、そうだ。海水は5人の身体にかけたのだった。関節が少しくらい柔らかくなるのではないかと思ったのだ。そして、彼らの一人を抱き上げようとして。
口からあふれた黒い液体を。とどを。私も被ったのだ。
私は、冷蔵庫を覗き込む私にむかって腕を振り上げた。御具のおかげかちょっとの液体では動きが鈍らない。一度気絶させるべきだと誰かが囁いている。そうだ。私は私を気絶させる。
そして、あの男を。医師を。医師の知り合いを。無奏と名乗る僧侶を殺めなければならない。
海に還される前に。この安住の地を。
私は、私の背中に向かい、勢いをつけて5本の腕を振り下ろした。早く眠ってくれ。私。
*****
刻無に導かれ、螺旋階段を下りると、硝子で出来た森が音葉たちを出迎えた。地の底には光源などあるはずがないのに、硝子はうっすらと光を放っていて気味が悪い。樹木の内側、硝子と硝子の隙間を流れる水が光っているようであるが、それが何であるか、音葉には想像がつかなかった。
頭上を見上げても地上と異なり星はなく、広がるのは闇。闇の中に一か所だけ強い光を放っているのは、30分前に足を踏み入れた硝子細工の保管室だ。
刻無は、音葉たちのいるこの土地を職人街だという。トウワシンポウのヤマダ、磯山妙子、過去の人間の姿を模し、硝子細工たちが人々を誘い込むもう一つの職人街。それは、地上と変わらないと思っていた。
しかし、地上の職人街に山や森はない。
「これは、彼らの過去の記録の再現ですよ。黒硝子、百々、あるいは和絶。様々な名前で呼ばれるあれらは、この街で生まれたわけではない。彼らがここに流れ着く前の記録を再現したのが此処、硝子の森。彼らの核心が潜む場所であり、精霊祭の祭壇が置かれた地、そして、この街の忌むべき歴史が眠る場所でもある」
刻無の後をついて進むと、樹木が途切れ、二階建ての巨大な洋館が現れる。洋館の敷地からさらに地下に向かって、硝子の鳥居が並んでいるのが目に入る。洋館の玄関前には円形のステージが置かれている。
ステージ上ではかがり火が焚かれ、数名のフードを被った人影が、足元の黒い塊に向かって何かを唱えていた。
「やはり精霊祭は始まっていましたか、鷲家口先生が現れたおかげで予定が早まってしまった。群来君。彼らの目を惹いておいてください。私は彼らを洋館の中へと連れていきます」
刻無が一行の最後尾、水鏡の後ろを歩くフードの男、群来栄一に声をかけた。群来が音葉たちを遠ざけようとしていたのは、精霊祭のことを知っていたからであると、刻無から聞かされたが、保管室で再会して以来、群来は音葉と水鏡に声をかけることがない。
刻無の指示に頷き、群来はかがり火の方へと駆け寄っていく。
*****
初めに倒れたのは船を係留する若者だ。
時化の後で、御具も新品に替えたばかりだから、油断したのかもしれない。彼らは、時化の後も、豊漁が続くことを喜び、船から網を引き揚げた。「とど」が潜んでいたとするなら、あの網の中だろう。
若者は、魚を仕分け、船を整理し、帰路で倒れた。突然片足が動かなくなったと伝えられ、周囲の漁師はひどく驚いた。彼が動かないと主張する足は酷く冷たく、つるりとした肌触りだったという。漁師たちは不安に思い山の上の病院へ彼を運ぶことにした。
ところが、異変はこれに留まらなかった。付添人らが若者を病院へ運ぶ間、集落では一人、二人と同じ病で倒れる者が現れた。感染経路はわからない。5人目が倒れたころ合いから、またたくまに集落中に感染が広がっていった。
そのころになって人々はそれが「とど」によるものと気づき始めた。だが、感染源である「とど」の姿は見えない。御具は彼らに漠然とした距離を教えるだけで、感染を押しとどめる効果はなかった。
助けを求めて村一番の古老の下に集まった若者たちも、みな、御具を黒く染めていた。
「誰一人、同じ漁場にも同じ船にも近づいていない。それどころか、カズ、こいつは感染者にすら近寄ってなかったんだ。それなのに、こいつの御具も黒い。
村中にとどが広まっているならもうどうにもならない。でも、俺たちは倒れた奴らと違って動けている。じいさんもそうだろ。まだ何とかなるはずだ」
若者は自分や仲間、ひいては古老を助けたい。救われたいと願うだけだ。今までも、そういった人間は見てきた。海は恐ろしい。ほんの一瞬、運の悪さが災いするだけで、命が消える。だから、人はここぞというときに、古い知恵を頼り、神を頼る。だが、人々の願いが報われるとは限らない。
古老は、若者の手を取り優しく微笑んだ。右の人差し指、少し研がれた爪で皮膚を裂く。古老の爪から流れ出た黒い液体が、若者の身体にしみこんでいく。
「どうして、じいさん、あんた」
異変に気付いたのは、手を握った若者と、カズと呼ばれた者だけだ。カズは顔色を変え、古老の家を逃げ出した。他の若者は何が起きたのかわからず、自分の御具を不安げに弄っている。
どうして、古老がすでに「とど」に侵されているか。「とど」は、若者にそれを教えてやるべきか暫し悩んだ。とても単純なことだ。この家には、異変が起きた直後から色々な人が出入りしている。その中に、「とど」がいた。ただそれだけのことなのだ。
古老も集落の人間も、「とど」についてよく知っていた。そしてよく身を守っていた。多くの部分が、彼らの守りに遮られ、海へと還っていった。だが、今「とど」はここにいる。
そして、若者もまた、「とど」になる。理由などない。「とど」が、ここにあり、「れいべ」が失われた。ただそれだけのこと。だが、教えてやる必要はない。とどは立ち上がり、御具をいじる彼らの顔を撫でた。皮膚につけた小さな傷。それだけで彼らも「とど」になる。
そうすれば、すべてのことが分かるのだ。
*****
大学にて論文が認められて、フィールドワークに出ることが難しくなっていた。
集落の人々には、また来夏には訪れたいと伝えたのに、結果として数年間、大学を出ることができなかった。とんだ不義理をしてしまった。それでも、私が送った手紙に対して、豊漁祭があると返信してくれた若者たちには感謝している。
降って湧いたように増えた大学の講義を済ませ、私は急ぎ集落へと足を向けた。
豊漁祭は、余分な収穫を海へ還し、海の怒りを収めるよう祈る祭りだという。和絶の件もあるが、この地域の集落は、海からくる何かに怯えている様子がある。
海では人間はもろい。人は海からくる脅威に対抗できる術は少ない。この地域に暮らす漁民はそのことを肌で感じているから、海に対する畏敬の念が強い。
恩師は私の論文を読み、そう結論付けた。だが、実際に現地に足を運び、彼らの話を聞き続けた私には、恩師の考えは上辺だけをなぞったようにしか思えなかった。
彼らは、もっと具体的な脅威と向き合っている。だから、海との距離を一定に保とうとするのだ。豊漁祭という風習をみることで、脅威の手がかりをつかむことを私は期待していた。
集落への旅路は順調であった。豊漁祭の一晩目を終えるころには集落につける見込みである。
峠を越えて集落のある海岸が見えてくると、潮風が私を出迎える。不思議なことに故郷に戻ってきた感覚に陥ったが、同時に以前と異なる潮風の香りに、小さな不安の火が胸に灯った。
胸の奥の火がうねりを上げ始めたのは、見覚えのある僧服を見かけてからだ。山中の寺院に居を構え、集落に硝子細工を配っていた男、名は無奏という。
「ああ。先生。なんということでしょうか。こんな日にあなたと出会うとは」
無奏は、額に汗を光らせて険しい表情をしていた。私の記憶にある無奏は、余裕をもって彼の歩んだ道を話していた。記憶と現実の変わりように、私は戸惑い、集落の異常を察した。
だが、私が豊漁祭の話を伝えるにつれて、無奏の顔からは焦りが消えていく。深刻な表情は変わらないが、再会した直後の青ざめた顔は少しずつ色を取り戻していた。
「豊漁祭なんて、私が戻って一度も行われていない。確かに、今年は例年に比べて魚が取れていたんだ。でも同じくらい時化も多かった。だから、彼らは豊漁祭を開こうと準備をしていた。豊漁祭となれば、準備には時間がかかる。時化で外出を控えている者も外にでることが増えるだろう」
「待ってくれ。無奏。君はあの集落には和絶が起きていると言いたいのか。」
「起きている。という表現は正しいかわからないですが、わだつが現れているのは確かです。山の病院に手遅れの患者が運び込まれたと聞きました。寺に集まっていた御具も黒ずんだものが多い。予兆はあったのに、私は見逃していたのです。だから、私は彼らを救いに来たのです」
先生。先生にも、私たちを助けてほしい。頭上の木々が光を遮り、横を走る無奏の顔が見えなくなる。声がくぐもり、潮の香りがきつくなった。一体何から何を助けるつもりなのか。私の問いに答えてくれるはずの無奏の顔はもう見えない。
*****
初めに聞こえたのはドアを壊す音。
次に聞こえたのは、女性の声だ。
見たこともない記憶に包まれて、視界は半分もない。身体を揺さぶられているが、感覚が鈍い。
「目を覚ましてください。あなたはまだ戻れるのですよ、鷲家口さん」
聞き覚えがある、酷く気に入らない声だった。鷲家口とは誰だ。声の主はどこだ。
「反応があります。彼もまだ助けられる。水を」
体中を塩辛い水が襲った。体中に貼りつく膜が壊れ、感覚が戻ってくる。
初めに視界に入ったのは、卵のような怪人がバケツの水を顔に被せる光景だった。
声を出そうとしたが間に合わず、鷲家口眠は大量の海水を飲み込んだ。激しい嘔吐感に見舞われ、喉奥から大量の何かが吐き出された。柔らかく冷たい、ゼリーのようなそれは、眠の足元に黒い水たまりを作った。
刻無は、眠の様子など構わずに、眠の嘔吐物に海水を振りまき何度も踏みつける。
「鷲家口先生。大丈夫ですか。その、刻無さん。彼の容態は」
慌てた様子で室内に入ってきたのは、等々力正行だった。彼と刻無が一緒にいる理由はどこにあるのか。入口でこちらを覗く二人組をみて、眠は自分が意識を失っている間のことを察した。
彼らは、どこにあるとも知れぬ存在しない職人街を見つけ出し、眠を救ったのだ。
ならば、眠がするべきことは、久住らに自分の見たことを伝えることなのだろう。しかし、自分の身体を覆っていた黒い液体。なぜこの街の人間はこれを支持しているのだろうか。鷲家口の疑問は表情に現れていたのだろう、顔を覗き込んでいた刻無が口を開いた。
「あなたの熱意と執着に応えて、ひとつくらいなら答えますよ」
「和絶。町で起きた現象の名前だろう。こんなもの、どうして受け入れている」
「おや。ずいぶんと症状が進行していたのですね。
彼らは割れない卵を作りたい。随分と前に塀から落ちてしまったものですから。もっとも、割れない卵などというものは早々作れるものではありませんがね。
あなたと共に捧げられていた人々がまだいます。彼らを解放したのち、ほんの少し昔話をしてさしあげましょう。あなたが聞きたかったこの町の過去の話です。
もっとも、あなたはその大半を既に観ているかもしれませんがね。」
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