鏡の国(8):奇跡の代償

 硝子の樹木に囲まれた硝子製の洋館。その地下一階には天井も壁も鉄で造られた独房が並んでいた。

 街の地下は黒硝子の巣であり、全てが硝子細工で再現されている。硝子の樹木が満ちる地下へと踏み入った際に受けた印象を早々に裏切られ、音葉はあっけにとられるばかりだった。

 それどころか、鷲家口眠はその独房の一つに繋がれていた。房の床には大量の黒硝子が敷き詰められ、眠も半身が黒硝子に包まれていた。声をかけても、虚ろな反応を示すだけで、到底助かるようには見えない。

 何が、あるいは誰がこのような仕打ちをしたのか。知り合って二日と経たない男ではあるが、怪異に命を奪われる謂れはない。音葉らの到着がもう少し早ければ、眠を失うことはなかっただろう。

「諦めるのはまだ早いですよ」

 独房を前に立ち尽くす音葉をよそに刻無は独房に体を滑り込ませた。眠に近づくと、慣れた手つきで持ち込んだ海水を眠に浴びせかけ、口に含ませる。すると、どういう仕組か眠の身体から黒硝子が剥がれ落ち、液状の黒硝子が吐き出された。

 激しく咳きこみつつも意識を取り戻した眠の様子に、音葉はほんの少し安堵を覚えた。

*****


 独房のある硝子細工の洋館から更に坂道を下ると、地上には存在しないロータリーがある。さらに下方には地上とそっくりに作られた職人街が存在する。職人街には大量の硝子細工が並んでおり、縁日を再現しているのだと、眠は語った。

 硝子細工による縁日の再現は、職人街までにとどまり、ロータリーには硝子細工がいないという。代わりに旅館が建っており、9人の男女が館内に立てこもっているという。

 眠が黒硝子による侵襲を受けたのは、旅館にいた者の一人、磯山上路に黒硝子を飲まされたためだという。

 洋館中の独房を探し回ってみれば、眠のように黒硝子に包まれた4人の男女が見つかった。いずれも刻無が持ち込んだ海水のおかげで一命をとりとめたが、意識はもうろうとしていて話はきけそうにない。

 他方で、独房を巡るうちに捕らえた数人の老人たちは意識もしっかりしており、受け答えができる。だが、彼らは黒硝子の協力者であることは認めてもその内実は決して口にしなかった。眠が旅館で遭遇したという男女とは顔ぶれが異なるし、何より、磯山上路の姿がなかった。

 刻無曰く、人間が地下へ出入り道は音葉たちが通った階段しかない。磯山医院から硝子細工の通り道を通ってきた音葉は道中で誰にも遭遇しなかったし、人間の出入口を通ってきた刻無らもそれは同様だ。

「捕らえた老人や磯山上路さんが行っていたのは陰夜祭(インヤサイ)という儀式です。ここに姿を見せないのならロータリーのあたりにいるのでしょう。群来君たちが追いついていることを期待して後を追いましょう。

 その間、私から少し歴史の講義をいたしましょう。音葉さんたちも、鷲家口先生も、黒硝子とこの街の関係について興味があるのでしょう?」

 刻無はそう言って、音葉たちを地下の先へ、街の過去へと誘うのだった。


*****

 薄々わかっていると思いますが、鷲家口先生が視たのは黒硝子の記録です。かつて、海岸沿いに広がる集落では、御具と呼ばれる硝子細工を用いて、黒硝子から身を護るという風習が根付いた時期がありました。

 ええ、よく覚えていますね。この土地には先住民による精霊信仰があった、現代では、御具は、硝子細工を精霊の拠り所として崇める信仰であったと説明されています。私の意図でそのように説明しているわけではありません。街が長い時間をかけて作り上げた「表向き」の説明です。それ以上にこみいった歴史は黒硝子に触れざるを得ない。しかし、このような怪異を公に語るのは憚られることは鷲家口先生も、そちらの刑事さんも自覚があるでしょう。

 その顔。私の資料館での言葉について、少しは理解していただけたということでしょうか。

 あまり時間はありません。話を戻しましょう。鷲家口先生が見た通り、鳴治期に黒硝子はこの土地に現れた。しかし、御具による防護を提唱した僧侶、無奏が語る通り、黒硝子の起源はここにはありません。黒硝子の歴史を語るためには、まずはとある島のことを知らなければなりません……そうですね、便宜的に黒島(クロシマ)と呼びましょう。


 鳴治以前、この国が海外と接触を絶っていたころ、黒島には島内で生計を立てている集落がありました。集落の住人は概ね50人。島の周りは潮の流れが複雑で、当時の航海技術では本土との頻繁な交流を持つことは難しかった。そのため、彼らは島内で畜産や農業を営んでいたといいます。

 黒島は私が知る限り、鳴治政府が踏み入るまでに数百年の歴史を維持してきました。島の様子が変わり始めたのは、鳴治政府が黒島との積極的な交流を求め始めてからです。

 そんな歴史は聞いたことがない? それはそうでしょう。鳴治における開国は、鎖国による文化の停滞を取り戻すための積極的な外国渡航の歴史として語られるものですからね。しかし、この国は必ずしも海外ばかりに目を向けていたわけではない。

 この国の周囲には、いくつもの小規模な島があります。それらの島には本土とは異なる文化の集落が根付いていました。鳴治政府はそれらの集落の文化にも有益な知見があると考えていたのです。黒島もそうした開国政策によって注目された集落の一つでした。

 政府が黒島に注目したのは、海岸一帯を治めていたある藩の記録がきっかけです。記録によると、藩主が不治の病に臥せったことがあるそうです。家臣は治療法を求めて国中を駆けた。そして彼らは黒島に伝わるという、万能の秘薬の噂を嗅ぎ付けたのです。

 侍衆が持ち帰った秘薬は、黒く光る液体で、島の医師はゆめゆめ秘薬の存在を口外してはならないと語ったそうです。

 島から戻った侍が藩主に飲ませると、一晩のうちに、藩主の肌は透き通り快復しました。その後、藩主は長命となり、老いることなく長年藩を治めたといいます。もっとも子はなせずに命を落とし、その後は藩自体が取り潰されたといわれています。記録に出てくる人物は皆死亡しており、藩自体も存在したか特定できないとされています。

 そのためか、黒島に関する記録はここで途絶えています。

 しかし、当時の政府は、この真偽のしれない秘薬を国力強化の道具と考えた。もっとも、彼らは黒島の記録が荒唐無稽であると理解していた。だから、直接的な調査を避け、海岸一帯を対象とする研究に資金提供を行い、情報収集を行うこととした。

 ある者には民話を、ある者には信仰を、あるいは海岸の経済を調査させる。場合によっては医学の知識や、海外から学んだ新技術を広めていく。そうして海岸の人々に近づき、より具体的な情報を探そうとしたのです。もっとも、調査で判明したのは、海岸一帯の集落が「とど」と呼ばれる何かに怯えている事実だけ。

 それどころか、近隣で病院を営む医師からの流行病の情報を最後に、研究者たちは全て音信不通となってしまった。

 研究者たちの連絡が途絶えて二カ月。政府は調査のため陸軍小隊を派遣しました。小隊は、山を抜け、今の綿貫地区に入ったところで奇妙な光景を見たそうです。

 山肌から海岸にかけて立ち並ぶ硝子人形。彼らはまるでそこで暮していたような表情や立ち姿をしており、人間が硝子に変じたかのようであったといいます。

 黒硝子の記録では、人々は御具を用いて侵食を防いでいた? 確かに、先生のおっしゃるとおり、御具は黒硝子の侵食から彼らの身を守っていた。ですが、それは完全ではなかったのです。先生の見た光景は、陸軍小隊が到着以前のこの土地の様子なのでしょう。

 もっとも、御具は不完全にも効果を示したため、調査隊は生き残りを見つけることができました。一名は僧侶で、名を無奏といい、もう一名は刻野(トキヤ)と名乗る民俗学者でした。二人は硝子化した集落を回り、生き残りを探していたと話しました。

 ええ。鷲家口先生が観たのは刻野の記録です。彼と無奏は御具により一次的に「とど」の侵食から逃れ、同じように難を逃れた仲間を探したのでしょう。

 生物の体内に侵入した黒硝子は、生物を自身が操りやすい、硝子状の体組織へと変化させる性質を有します。鷲家口先生は既に体験したでしょう。もう少し遅ければ、あなたの身体は硝子化していたでしょう。

 ただし、それは黒硝子が体内に入る場合に限られる。久住さんは磯山医院で磯山妙子の似姿をとった硝子細工と交戦したのでしたよね。等々力さんは磯山妙子に拘束された。ですが、久住さんも等々力さんも鷲家口先生のような症状はでなかったでしょう?

 無奏と刻野は黒硝子のこの性質を知っていた。加えて、無奏は黒島での経験から、黒硝子を体内から除去する方法も知っていた。黒硝子は海水を酷く嫌う。海水に触れる間は硝子を変形させることも、動物を取り込むこともできないのです。

 その性質を知るがゆえに、彼らは黒硝子の侵食を回避し、救える命を探して海岸を歩き回ることができた。

 しかし、調査に入った小隊の面々からすれば、無奏らの話は出来が悪い作り話にしか聞こえなかった。そのため、小隊は無奏と刻野を捕らえ拷問と尋問を繰り返した。

「無奏らは尋問で嘘は述べなかった。海岸にいた人々は黒硝子の侵食によって硝子化した。この地には黒硝子が潜んでおり、適切な措置を取らなければ自分たちも硝子化しかねないと説明した」

 刻無の言葉が重たく響く。それは保管室にある硝子細工や、街で発見された硝子化死体もまた。

 しかし、刻無の話が本当なら、集落は黒硝子の感染拡大で壊滅したことになる。なら、音葉の眼前で歴史を語る刻無や陰夜祭などという儀式を行い、旅行者に黒硝子を呑ませている者たちは何者なのだ。


*****

 群来栄一は、父や綿貫旅館の人々より「とど」が「れいべ」を奪いに来ると聞かされ育ってきた。

 「れいべ」が何を示すかはわからないが、「とど」は人から何かを奪う恐ろしい存在だ。他方で、父が顔を出していた寄合では老人らが「とど」を讃え酒を飲みかわしていたし、職人街では「とど」を優れた硝子細工と評する者もいた。

 子に伝える際は恐怖を煽り、大人同士ではその存在を肯定する。矛盾した言動を聞くにつれ、群来は「とど」の物語は、子供を怯えさせ外出を控えさせる作り話と思うようになった。

 中学3年の夏。職人街で精霊祭が行われる日。群来はその考えを証明するため、友人とある実験を計画した。それは、自分が大人と見せつけようという思いつきであり、まさしく子どもの悪戯だった。だが、時に悪戯は思いもよらぬ結果を引き寄せた。

 精霊祭は、職人街の店先に、硝子細工や露店を並べ、三日三晩続けられる祭典である。硝子に宿る精霊に感謝し、祈りを捧げて1年の災厄を防ぐとされている。しかし、子供にとっては物珍しい露店を練り歩き、皆で賑やかに騒ぐことこそが重要だった。但し、街では子供は大人の同伴が言いつけられているため、その騒ぎにも限度があるのだ。

 群来の父は精霊祭の頃合いは寄合衆の仕事が忙しい。旅館の従業員に付添いを頼むのは気が引けるため、群来は精霊祭に顔を出したことがなかった。ところが、その年は、同級生の姉を同伴者として精霊祭へと出かける約束を取り付けられたのだ。

 職人街は、精霊祭のころにはいつもより人でごった返すという。友人曰く、東西に長い一本道なのに、同伴者とはぐれることもあるという。他方、職人街を一本外れれば祭の喧騒は立ち消える。どこかで路地に逸れて大通りにでて、少し離れた路地を使い職人街に戻ってくる。同伴の目から逃れられるという。

 そうすれば、付き添いの目をごまかし、深夜まで屋台を見て歩くことができる。

 友人の提案は「とど」の物語が作り話であると証明するとても簡単な方法に思えた。

 群来は、友人の発案に乗り、精霊祭の夜、彼の姉と祭りに出かけた。

 初めて出かける精霊祭は、何もかもが目新しかったが、計画にばかり気持ちが傾いていたため祭の様子は全く思い出せない。

 計画の実行までに覚えているのは、通りの西端で路地裏に紛れる際、胸の奥に感じた刺さるような痛みだけである。友人の姉から離れるのは思った以上に簡単で、灯りの少ない路地裏を駆けて海岸側の通りにでた。路地裏と海岸通りを分けるように並んだ手のひらサイズの硝子細工を飛び越えると、嘘のように祭りの音が掻き消えた。

 路地裏では聞こえていたざわめきが消えて、時たま走り抜けていくトラックの排気音だけが響く。あまりの変わりように、群来は来た道を振り返った。職人街までは100メートルもないのに、路地裏から差し込む光は遠く、一切の音が聴こえない。

 背筋がざわつく感覚に、群来は通りの先で友人と合流する約束を忘れ、路地裏へと引き返そうとした。そんなときだ。

「れいべ。れいべ。こっちへおいで」

 耳元で聞こえる籠る声。群来の肩を冷たい何かが掴み、群来を車道へ引き寄せた。

 バランスを崩し車道へ倒れこむ瞬間、群来は黒く巨大な幕と、幕の隙間から延びる硝子製の腕を見た。

 それが、群来が初めてみた「とど」の姿である。


*****

 硝子の洋館は、「とど」の生まれた地を再現したものだ。それは、街の人々が「とど」を崇め地下を献上した際に、自然と立ち現れたという。以前より「とど」が生物を硝子化し操ることは知られていたが、洋館の出現を期に、彼らは「とど」が硝子を生成できることも知った。

 その奇跡を目の前に、彼らは「とど」の力を確信し、「とど」との取引に応じたのだという。そして、今に至るまで洋館を中心とするこの巨大な洞穴を神域と崇め陰夜祭を執り行ってきた。

 老人たちは、神域について人間の通り道と「とど」の通り道が逆であるため人には神性を捉えにくい場所であると話す。

 群来たち人間は、地上から神域に入る。初めて目にするのが硝子の洋館で、そこから鳥居が連なる下山ルートを通り、街へと降りていく。街は奥に進めば進むほど、現実の職人街と酷似していき、洞穴の最奥には黒い硝子に覆われた巨大な壁がそびえている。

 「とど」は日ごろ洞穴の奥に隠れており、陰夜祭になると街を通り鳥居をくぐって洋館までやってくる。そして、“供物”を受けて人々の願いを叶えるという。

 陰夜祭の主役は「とど」であり最奥から洋館へ、洋館から地上へと向かう方向こそが重要であり、その道を逆に歩く限り、「とど」と合一できないという。

 陰夜祭や街の秘密を知る“大人”となった群来が老人たちから伝え聞いた「とど」の物語は概ねそのようなものであった。

 だが、群来自身、黒硝子に神性など感じ取れない。最奥に歩を進めようが、地上に向かって歩を進めようが、感じられるのは常識の埒外、異質な存在が満ちる不快感だけだ。

 二階建の洋館から下山するルートに連なる硝子の鳥居。神教と西洋が織り交ざり統一感を欠く光景は、学のない群来ですら「とど」の出自を予感させる。神性などという属性は、贄に捧げた人々を区別し、自らの心を護るための詭弁に過ぎない。

 鳥居を下りきると、ロータリーが現れる。中央では、ペンライトを持った男たちが転がっている硝子細工を検分していた。

 警戒を解くため声をかけて近づく。彼らが検分している硝子細工は脚を砕かれていた。表面のデザインや顔の輪郭からするとごく最近“作られた”ものであろう。

「群来くん。私はこの顔を見たことがある」

 硝子細工を指して声を上げたのは、観光局の上司だ。日頃の厳かな表情は掻き消え血の気が引いている。

 上司曰く、地面に転がる硝子と同じ顔の女性は半年前、観光局を訪ねていた。

 彼女は上司に珍しい硝子細工の話を聞いたと語った。僧侶のような名の職人が作ったと聞いたが知る者がいない。硝子細工専門店で観光局への訪問を薦められたと言う。

 深入りする前に街を出てもらおう。上司は、女性に、職人の話は昔話であり、そのような硝子細工は存在しないと伝えた。

 その後、女性が行方不明になったニュースは聞かなかった。助言を聞き入れ街を後にしたと思っていた。上司はそう呟き、口を押えたままロータリーの端へと駆けていった。

「彼に誰かついていてほしい。それと御具の配置は終わっているか」

 上司と共に硝子細工を検分していたもう一人の男が頷いた。彼の首には、イルカの硝子細工がかけられている。彼が動く度、細工の中に入れた海水が揺れて光を反射する。

 御具。動物を模した硝子細工に海水を入れたそれは、身に着ければ黒硝子からの接触を防ぎ、道に並べれば黒硝子の通行を妨げる。既に途絶えた技術であるが、資料館に保管されていたものを持ち出してきた。

 黒硝子にとって御具の存在は予定外らしく、神域の入口からロータリーにかけて、黒硝子が彼らの前に姿を現した気配はない。

「建物も見て回りましたが、硝子細工に奴らは入っていません」

「陰夜祭の参加者は?」

「隠れていませんでした。あとは、旅館の中か奥に逃げたのかと」

 神域の深い場所には職人街が再現されている。しかし、そこに人は長くいられない。

「まずは旅館を探しましょう」

 旅館に向かった群来の足は力強く地面を踏み硝子の破片を粉々に砕いた。


*****

 集落内は無人で硝子細工に占拠されている。加えて、それらの硝子細工が元は人間であったという無奏らの証言を信用できるほど、鳴治政府はオカルトに染まっていなかった。結果、小隊には調査を続行せよという場当たり的な指示だけが出た。

 不死の妙薬を求めるのに硝子化が信じられない? 鷲家口先生は自覚がないようですが、日頃から間近にある者でなければ、超常は受け手に都合のよい範疇でしか認識できないものですよ。

 さて、政府の指示に困ったのは調査隊だ。彼らにとって集落を占拠する硝子細工こそが現実です。無奏と刻野の証言は如何に荒唐無稽でもその現実を説明する唯一の解釈だ。

 だが、その証言を受け入れると、自らが危険に晒されていることを自覚せざるを得ない。他方で嘘だと決めつけると目の前の光景に説明がつかない。どちらの解釈もとれないまま、彼らが疲弊していくことは無奏や刻野の目からも明らかでした。


 日が経つにつれ統率は乱れ、一人、二人と隊員が姿を消していく。そして、駐留地の裏側で発見された硝子化した同僚の姿に、調査隊の不安は爆発しました。

 調査隊の面々は、斜面を登り、集落から離れようとした。そこに付け入ったのが、山間の診療所に勤める無入(ナイリ)と名乗るその医師でした。彼は硝子化の治療法があると嘯きました。

 そして、無入は、調査隊の前で黒い液体状の薬を取り出しました。無入は、診療所の外に立つ硝子細工の漁師に薬を呑ませると、漁師は元の姿に蘇ったといいます。名前や生年月日、自分がどのような生活を行っていたか、こと細かく話す漁師をみて、調査隊は薬の効果を真実と受け入れてしまった。


*****

 ロータリーに出現した旅館や店舗は、地上には存在しない。地下に迷い込んだ供物の多くは硝子細工に囲まれた職人街を抜け、ロータリーの光景に混乱し、同時に安堵する。自分は異界にいるという認識と、硝子細工の姿がない安全圏についたという気の緩み、食料と水、黒硝子から身を隠すための場所があることで、供物らには油断が生じる。

 特に旅館は黒硝子から身を隠すのに都合が良い程度に入り組んでいる。そのため供物とされた人々は、やがて旅館に隠れるという。しかし、いくら入り組んでも、各階層の出入口はエレベーターとエレベータホール横の階段しかない。通路を一周すれば全ての部屋を覗ける。

 曲がり角が多く先を見通せない通路は黒硝子たちが隠れるのに好都合で、かえって接近を許してしまう。

 実際に、陰夜祭の参加者は反抗的な供物であっても旅館の構造を利用して効率よく黒硝子に捧げてきたのである。

 しかし、今日、彼らの立場は逆転する。

 各階の出入口は、群来と刻無と志を共にした男らが塞ぎ、二人一組で各階を捜索した。結果、30分も経たぬうちに陰夜祭の参加者は捕らえられ、2階の宴会場へ連行された。


 群来は全階の捜索が完了したことを確認し、同行者たちに宴会場から離れるよう告げた。ここからが、群来の仕事の本番だ。

 宴会場に入ると、両手を背中で縛られた15人の男女が思い思いの場所に座っていた。年齢は50代から70代。群来は、彼らに近づき、一人ずつ顔を名前を確認していった。

 群来が観光局に勤めたのは、役所や職人街、寄合などに顔を出せるからだ。群来がその場にいることに過剰な不信感を持たれずに済む。その立場を利用して、黒硝子を崇める者の顔や名前、素性を調べていった。

 群来は今まで、精霊祭をよく知り、街を訪れる訪問者に警告を与える。警告を与えた後の結果については興味を持たないように振る舞ってきた。彼らは、この瞬間まで、群来が陰夜祭や黒硝子を嫌悪していたとは思わなかっただろう。

「こんなところで会うなんて奇遇だね、岩代さん。そういえば昨日から非番でしたっけ」

 群来の呼びかけに、男は顔を伏せる。岩代志治、先週55歳を迎えた綿貫旅館の板前だ。家には妻と9歳になる息子がいると話していた。

「岩代さん、4年前に交通事故に遭ったでしょう。当時から幸いにも軽傷だったと聞いていたが、それ以来、ドライブの話をしなくなりましたよね。岩城さんはもともと遠出が嫌いだったはずだ。ドライブは奥さんの趣味でしょう。よく厨房で、のろけ話をしていましたね。でも、あの事故以来あなたはドライブの話をすることはなくなった。

 旅館の皆は、遠出を控えているだけと噂していたけれど、そうじゃない。あの時、あなたの家族は無事ではなかったのでしょう」

「それ以上は言わないでくれ」

 岩代は涙混じりの声で群来に懇願する。しかし、宴会場にいる誰も、群来を停める術を持たないし、岩代は自分の耳をふさぐことができない。

「貴方の家族は既に事故で死んでいる。岩代さん、あなたの帰りを待っているのは、家族の記憶を基に作られた紛い物の硝子細工だ」

 岩代の顔から生気が抜け、震えた声が漏れる。この悪魔。卑怯者が。と群来を罵ったのは部屋の隅に座らされた女性だ。

「卑怯? 松前弘子さん。確か、あなたの母は末期がんを宣告されてもなお延命を続けているのでしたね」

 群来の暴露に松前の瞳が大きく開かれた。

「松前さんは、綿貫の漁協で掃除婦として働いていますよね。それだけでは生計が成り立たないから、週に2日ほど駅前のスーパーでも店員として働いでいる。先月、作業中に腰を痛めたとお聞きしましたが、その後調子はどうですか?

 あまりに辛いようであれば、お母様の介護を夫に任せた方がよいのではありませんか。それとも、母の介護は他人に任せるわけにはいきませんか? 既に人ではないから?」

 松前の顔からも血が引いていた。唇は震え、群来と目を合わせることすらできない。他の面々を見渡すと、誰もが群来から顔を逸らしていた。群来の指摘に、真実に耐えられないことに自覚的なのだ。

「さて、今回の主催者は誰ですか。新発田さんか、それとも佐久間さん?」

 一人一人、目の前にしゃがみ込み、彼らの名を呼んでいく。誰もが顔を背け、自分は関係ないと意思を示すことに群来はいらだちを隠さなかった。

 反応が変わったのは6人目。磯山上路の名前を呼んだ時だ。

「群来君。あんた、自分が何をやっているのかわかっているのか」

「上路さんこそ自覚があるんですか。あなたたちが捧げてきた犠牲者が」

「生きている。彼らのれいべはとどが覚えている。君こそ、わかっていない」

「本当にそう思っているのですか? あなたは、黒硝子が自分達を救うと?」


*****

 目が覚めると旅館の布団に寝かされていた。女将が群来の顔を見て廊下を駆けていく。友人と夏祭りに出かけ、そこから記憶が飛んでいた。いつ、どうやって旅館に戻ってきたのか、なぜ眠っていたのか、女将が驚いた理由もわからなかった。

 身体は焼け付くように熱く、呼吸をするのも難しい。息苦しさで意識が朦朧としていると、大人が何人も部屋に集まってきて、群来の口元に何かを流し込んだ。こみあげる強い吐き気と共に、群来の視界は曇り、再び意識を失った。

 夏祭りの夜、「とど」と遭遇した後のことで群来が覚えているのはそれだけだ。


 群来が快復したのは夏祭りより1週間後。身体の熱さや息苦しさが取れ、晴れやかな目覚めを迎えたことを、今でもよく覚えている。その晴れやかな気分が数時間も経たずに曇ったことも。

 大人たちによると、群来は夏祭りの夜から原因不明の高熱に倒れて床に伏したという。

 無理やり、友人と共に夏祭りに出かけたことも叱らない。それどころか、父も含め、旅館の誰もが、群来の話を静かに聞くのが気味が悪かった。

 変化に気がついたのは、登校してからだ。一週間、高熱で休んだとされている群来に対するクラスメイトや教員の接し方は何一つ変わらない。ただ、夏祭りに行った同級生の姿だけが見えなかった。

 友人の座席は教室にはなく、クラスメイトも教員も、誰一人として彼を知らなかった。そして、彼のことを尋ねようとした群来自身でさえ、友人の顔や名前を思い出すことができなくなっていた。

 記憶をたどり、彼の自宅を訪ねてみても、そこには友人の家族とは似ても似つかない人々が暮らしている。一週間前までは頻繁に友人の下に出かけていたはずなのに、まるで違う現実があった。

 記憶と事実の齟齬。当時の群来には、自分の記憶が間違っている、自分の体験が偽りであったと判断することができなかった。それほどまでに、顔の思い出せない友人の存在は群来の記憶に焼き付いていた。

 群来が友人と再会したのは、大学進学後のことだ。数年ぶりの帰省のために駅に降り立った群来を迎えたのは、あのころと同じ姿の友人だったのだ。

 改札を通る群来の目の前を通り過ぎた彼の姿をみて、群来はあの日以来思い出せなかった友人の顔を思い出した。何しろ、あのときと同じ姿のまま、高校生らしき一団と歩いていたのだから。

 10年以上も経過しているのに見た目が変わらないはおかしい。そもそも自分は友の顔を覚えてすらいなかったのだからと言い聞かせた。しかし、群来の身体は自然と友と歩く高校生らを追いかけていた。

 つかず離れずの距離を保ち、時折聴こえる大声から会話の内容を伺った。どうやら、友人と共にいる高校生はネットで知り合ったらしい。友人が高校生らを案内しているようであった。

 だが、友人による街の紹介は群来の目からみて少々奇異なるものに映った。名物である硝子細工、それを売る職人街のあたりを避けて、路地裏へ人気の少ないほうへと高校生たちを誘導していたのだ。

「まて、群来君。その話はここで続けてよいものではない」

 群来の昔話を、磯山上路の声が遮った。先ほどまでと異なり、明らかに狼狽した声に、陰夜祭の参加者らの視線が磯山へ集まる。

「群来君。君の主張は分かる。だが、その話は」

「他の方々は知らないというのでしょう。事実は隠されるべきではない。あれを信仰するならば、あなたたちはとどの、黒硝子の事実を全て受け止めるべきだ」


 あの日、10年ぶりに見かけた友を追いかけた群来は、彼が袋小路に高校生らを誘い込んだのを見た。そこには何ら観光するべきものはない。それどころか、周囲の建物にも窓がなく、小路の様子を確認するような物好きはいない。

 敢えて誰かを誘い込む理由があるとは思えない。不安を覚え、群来は意を決して袋小路に入った。そして、あの夏以来忘れることのなかったその姿を見た。


 高校生らは、ある者は宙に浮き、ある者は壁に叩きつけられ、ある者は地面に伏せていた。彼らを蹂躙するモノは袋小路で黒い幕を膨張させている。それの身体は幕に隠れているが、幕の隙間からはいくつもの硝子製の腕が伸びている。

「れいべ。れいべ。質の良いれいべ」

 籠った声は、あの日、夏祭りの夜に聞いたものと同じで、先程まで聞こえていた声によく似ている。

 信じたくはなかった。だが、腕が動く度に、幕に隠れたそれの顔が見える。それは口から硝子の腕を伸ばし、高校生たちを痛めつけ、幕の中へと引きずり込んでいく。二人目を引きずり込んだとき、幕の中のそれは小路に立ち尽くして自らを凝視する群来の姿に気がついた。

「あのときのれいべ。覚えている。口惜しい。口惜しい。今日は私にそのれいべを捧げてくれるのか」

 友人の顔をした化物は群来に嗤いかけた。


「磯山さん。あのときあなたが通りかからなければ、僕は高校生らと一緒に食われていたでしょう。あなたが咄嗟に僕にも通行証を渡したから、黒硝子は僕を食らわなかった。

 そして、僕は彼の顔を見て、夏祭りのとき自分に何が起きたのか、何故、友人が消えたように感じたのかを思い出した」

 夏祭りの夜。群来は、久方ぶりに仕事が空いた父と共に祭を訪れたのだ。些細なことで父と喧嘩になり、群来は祭の喧騒から逃げるように通りへ飛び出した。父の車になど乗りたくなくて、寄合集の集会に父を迎えに行くときと同様に、家に帰るための車を拾おうと思ったのだ。

 しかし、その夜、群来がいたのは綿貫地区ではなく精霊祭の会場だった。そして、祭の外では黒硝子が供物を求めていた。

 群来は、食事中の黒硝子と遭遇し、予定外の供物としてそれに侵された。彼が今も人でいられるのは、後を追いかけた父が黒硝子を祓ったからだ。しかし、群来には食事中の黒硝子が保持する記録が流れ込んでしまった。

「伊藤ハルキ。夏祭り直後に転校した二年の男子生徒の名です。そして、彼と同じ時期に転校した生徒が、南伊里ケイスケ(ナイリ-)。南伊里は、概ね十年周期で街のどこかの中学校、あるいは高校に所属している。

 そう、磯山さんが僕を助けてくれたときに幕内で僕を呼んでいたあの顔だ」

 祭の夜に群来に混ざってしまった記録。それは黒硝子に取り込まれた伊藤ハルキの南伊里ケイスケに関する記憶である。


「あの時、磯山さんは他人に話してはならないと言った。初めは外の人間に知らせてはならないという忠告だと思っていた。けれども、あなたが本当に隠しておきたかったのは、ここにいる彼らに対してなのでしょう」

磯山を見ていた者達は青ざめ小さく震えていた。

「皆さんは黒硝子は儀式のとき以外人を襲わないとでも思っていたのではないですか? そんな保証はどこにもない。やつらは、無差別に人を襲う、あなた達も例外ではない」

「違う。妙子は、妙子はそのようなことはしないと約束した」

「妙子? 磯山さんの娘さんですか。そうか、あなたは本当に黒硝子が人の魂を保存すると思っているのですね」

 群来は、磯山上路に顔を近づけた。彼が自分の娘である磯山妙子を黒硝子に捧げたことは知っている。なら、彼に真実を突きつけるにはこれが良いだろう。

 群来は自分の頬に手を当てた。その輪郭がぐにゃりと歪むと、磯山の目が見開かれる。

「ほら、私が磯山妙子なんだ。これでもあなたは、黒硝子に魂が保存されると、そう思っているの? お父さん」

 宴会場に磯山の叫び声が空しく響いた。群来栄一であり、磯山妙子でもあった硝子人形は、すくと立ち上がり、硝子の喉を震わせて笑った。


*****

 薬を受け取った調査隊がどうなったか。それは、久住さんたちの想像の通りですよ。黒硝子を体内に取り込んだ者たちは例外なく黒硝子に取り込まれる。

 もっとも、調査隊の全員が取り込まれたわけではありません。薬を飲んだ者の変調を見れば、それが不死の妙薬であることは明白ですし、怪異に疎くても、何か異様なことが起きていることはわかる。

 故に硝子細工を生きた人間のように変える薬が人間を硝子細工に変える効果を持つことを知り、薬を飲むことを控えたのです。

 なら、なぜ今も黒硝子が地下に潜んでいるのか? 彼らは黒硝子が有害であることより、それが硝子化した人間を正確に再現できることに価値を見いだしたのですよ。彼らは無入を通して、黒硝子と取引をした。

 ええ。其の通り。現在この土地に暮らす者達は皆、過去を再生できると聞いてこの土地に移住してきた者たちの末裔です。

 非常に都合が良い話だと思いますが、私たちは久住さんを利用して歴史の清算をしたいのです。無論、初めに話した通り、人のことは私たちが解決します。久住さんには、黒硝子を退治していただくだけでよいのです。

 さて、どうやら彼らはあの旅館にいるようですね。私たちもそこへ向かいましょう。

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