鏡の国(9・終): ハンプティダンプティは還らない

 直前まで群来であったモノは、顔の右半面だけが透き通り、輪郭を崩して形を変えた。外見が再び人肌に戻る頃には、右半面に見慣れた女性の顔が現れた。

 妙子。娘の顔をした硝子細工が磯山上路の前で嗤い、黒硝子の真実を騙る。群来と妙子の顔を持つ硝子細工は、磯山が反論できないことを確認するや、立ち上がり、勝ち誇ったような雄たけびをあげた。

 その姿は、磯山が信じてきた「とど」、妙子の姿と大きく食い違う。妙子は磯山の前に他の人物として現れたことはないし、同時に二人以上の顔になることはない。それに、群来栄一は生者だ。

 「とど」は合一を果たさない者の姿になることはない。群来が「とど」に取り込まれた過去を持っているとしても、だ。合一した人々は、「とど」を通して現世に戻ってきているのだから。

「あなたが生きていると信じても、それは事実ではない。私、僕は、磯山妙子、群来栄一であり、他の誰でもない。お前たちはみな、私たちが生き延びたと誤解する。とても滑稽で、いつでも笑いがこみ上げてくるよ。妙子は、私はこうやって笑う女性だったか? お父さん」

 妙子は磯山に口角を上げ、歪んだ瞳で笑いかける。その表情は磯山の知るものとは違う。つまり、目の前の硝子細工は、磯山妙子を再現していないのである。

 そうだ。これは、南伊里ケイスケと同じ。黒硝子の中にあるバグだ。


*****

――お前の娘は特別な「れいべ」だ。お前が勤めを果たす限り、娘は生き続ける。

 娘の事故を聞きつけ病院に駆け付けた磯山の前に、その女は突如現れた。喪服のような黒いドレスを身に着けていて、顔は白い面で隠れていた。院内にも関わらず、日傘を差すその奇妙な女を、廊下を歩く誰もが気に留めない。

 陰湿な院内で、女だけが浮いており、まるで娘の行末を示唆するようだった。

 磯山上路は、女を避けるように手術室へと向かった。しかし、女は磯山が横を通ったとき、彼に対して娘は特別な「れいべ」だと呟いた。


 女は、娘の安否確認に急ぐ磯山の腕を掴み、陰夜祭という儀式を執り行う役割を担っていると話した。彼女の手はとても冷たく、掴まれた腕が焼け付くような感触を覚え、磯山は思わず彼女の手を振り払った。

 女は、手術室への進路を塞ぎ、妙子は自ら飛び降りたのであり、助かる見込みはないと告げた。そして、怒号を上げる磯山の手に兎の形をした硝子細工を握らせた。

「お前はこの先で、娘の行末についての真実を突き付けられるだろう。だが、娘を捧げることを決意したならば、この細工を肌身離さず持ち歩くのだ。細工に黒く輝きが満ちた後、お前は娘と再会することができる」

 磯山は、彼女を振り払い手術室へと急ぎ、そして、娘に迫る回避のできない死を突き付けられた。

 手術室の前で座り込んだ磯山の横に、再び彼女は現れた。彼女は黒い日傘で手術室のランプから磯山の姿を隠しその耳元で囁いた。

「その細工は「とど」が御隠れになるご神体となるものだ。娘に会いたいのならば、細工に祈りを捧げるのだ。ご神体は黒く輝き、娘は戻ってくるだろう。一度その細工が輝いたのであれば、それ以降は輝いている間に祈るのだ。祈りが届けば、輝きは失われ、そこに娘が現れるだろう」

 磯山も街の出身だ。硝子状の正体不明の存在が、いかなる病や怪我も治療し、不死の人生を約束する。医学を学んだ磯山には到底信じられる話ではない。

 だが、それでも女の声を無視することはできず、磯山は兎を握りしめた。

 死を受け入れることは遺族の務めだが、かすかな可能性に手を伸ばさずに死を待つ理由はない。妙子が生き残る唯一の選択肢を自ら捨てることはできなかったのだ。

 結果、磯山上路の手中で兎は黒く輝き、女は娘が戻ってくることを確約した。そして、磯山が次の陰夜祭の主催者となると告げ、姿を消した。院内で誰に聞いても、彼女の姿を見た者はいなかった。手元に残った細工以外、彼女の存在を証明するものはなかった。

 結局、その夜、娘が手術室から戻ることはなく、磯山は夜遅くに自宅に戻った。

 すると、どういうことだろうか、手術室にいたはずの娘が居間に座っていた。

 慌てて病院に電話をすると、磯山妙子が運び込まれた記録はないとの回答が返ってきた。娘に飛び降りたビルのことを訪ねても、そのような場所に行った記憶はないという。彼女は街の広報誌の取材で綿貫地区の商店を回っていたと話し、いつものように笑ってみせた。

 磯山は数日前、娘から同じ話を聞かされていた。まるで娘の時間だけが数日間巻き戻ったかのようである。何がどうなっているのか理解できなかった。

 ただ、娘がいるその間だけは、兎から黒い輝きが失われ、透き通った硝子細工になっていることだけを覚えていた。


 以来、娘は、兎が黒く染まると取材や仕事で家を空け、兎が透き通ると家へと戻ってきた。日が経つにつれ、磯山は異様な環境に慣れていった。

 その後、磯山は娘から陰夜祭の参加を促され、自らの手で供物を捧げることを求められる。今思い出しても初年度の儀式は目を逸らしたくなる内容であった。

 供物として集められた人間たちは、地下空間で硝子細工らに追われ、行き詰った末に硝子細工に殺され、れいべを奪われる。

 眼前の光景を惹き起こしたのが自分であることに、深い嫌悪感と後悔の念が生じた。ところが、娘は磯山の隣に立ち、平然と儀式を眺めていた。一切の恐怖も躊躇いも見せない様子に、磯山は初めて娘が異質な存在になったことを自覚した。

 彼女は、磯山にもっと供物の集め方を工夫すべきだと提案した。街や近隣から不定期に供物を集めることを続けていれば、いずれ足がつき、儀式を継続することはできなくなる。今までの「とど」のように無暗に人を襲うことは控えて、狙いを観光客に絞り、街に疑いが向かないように偽装工作を施すのだと。

 娘が「とど」を見るのはその時が初めてなのに、なぜそれほど詳しいのか。磯山の問いに、彼女は南伊里ケイスケの名前を口にした。

――南伊里ケイスケと名乗る「とど」はバグであり、自分たちはあのような暴食を望んでなどいない。彼らのようなバグを消し去るために、磯山上路を、磯山妙子を選んだのだ。

 その言葉は娘のものではなかった。娘は、磯山妙子はあの時に死んだのだ。

 だが、それでも。硝子細工が見せる娘の仕草に、磯山は、娘が生きているという“現実”を捨てることができなかった。

「大丈夫よ。お父さん。私はこうして生きている。お父さんが核を持っている限り、私はこのまま」

 “彼女”の言葉に促され、磯山は陰夜祭の執行を続けるしかなかったのだ。


*****

 首にかけた兎の硝子細工が黒く光っていた。つまり、今、この瞬間に妙子は磯山の前には現れない。眼前の硝子細工は妙子と群来をまねて、磯山を惑わせる贋物だ。磯山は、兎を手に取り硝子細工の前に突き出した。

「お前は妙子じゃあない。妙子はここにいる。ご神体が黒く染まっていることが、その証拠だ。化け物め」

 縛られた他の参加者が何かを言っているが、どうでもよかった。

 妙子のふりをした贋物は、磯山の硝子細工を覗き込む。そうだ。よく見るがいい、これが黒く光る限り、妙子はこの中で眠っている。


「それが黒硝子の核ですか。随分と探したんですよ」


 硝子細工の背後から聞こえた声と共に、両の掌を打ち合わせたような大きな音が響いた。すると、硝子細工は小さく震えはじめ、中腰で磯山を覗き込んだまま動きを停めた。誰かが入ってくる足音が聞こえるが、硝子細工が邪魔で姿は見えない。

 周囲の人間は侵入者の姿に狼狽しているようであった。誰もが磯山に何かを叫んでいるが、音がくぐもっており何を言っているかわからなかった。磯山が侵入者の顔をはっきりと見たのは、侵入者が磯山の隣に立ってからだ。


「僕はこうして生きている。しかし、みなさんが信仰する「とど」は、こうして僕の姿や記憶を再現してみせた。それどころか、僕と亡き磯山妙子を合わせた姿にまでも変じて見せた。みなさんもいい加減に認識を改めるべきだ。とど、黒硝子が人間の姿をとるのは、奴らにとって、それが捕食に適していたからにすぎない」

 人々に話しかけているのは群来栄一だ。だが、群来栄一は、妙子の顔に変じた硝子細工だった。なぜ、彼が生きている。それに、磯山の前の硝子細工は動かない。

――鈴だ。男が持っている硝子の鈴を壊せ。できないなら、兎を呑みこむのだ。

 どこからか聞き覚えのある声が響いてくる。妙子でも、群来の声でもない。だが、磯山はこの声を聴いたことがある。

――早くしろ。兎を取られてしまえばお前の娘はもう戻らない。

 群来の右手首にはガラス製の鈴がかかっている。あれを壊すために立ち上がれるほど、磯山の心は平常ではなかった。ならば。口に含んだ兎から中身が漏れ出く。息苦しいが、これで、娘は救われる。


*****

 音葉らが地下の旅館にたどり着くと、館内には何人もの男が集っていた。彼らは皆、刻無の姿を見ると頭を下げた。彼らは黒硝子を厭う刻無らの賛同者だという。男たちは、陰夜祭の主催者たちを旅館の2階、宴会場に閉じ込めたらしい。現在、群来栄一が彼らと直接話をしているのだという。

 刻無と共に、2階に上がると、水鏡が身構えた。

「音葉。この先にいる」

 街に来る前、クラブの1

を見つけたときと同じ声。音葉は宴会場へ駆けだした。身体が不意に軽くなる感覚が、水鏡がスペードの1の力を開放したことを知らせる。

 室内からは人々のざわめく声が聞こえている。水鏡の声の通りなら、今、この中にノイズがある。

 襖を開き目に入ったのは、散らばるように逃げる腕を縛られた人々だ。老人が一人、開いた襖から抜け出そうと音葉の横にめがけ駆けてくる。

 とど。

 老人は、走りながら、黒硝子の別名を口にした。老人の目と口からは黒い液体があふれていた。音葉は後退し、老人の顎を打ち、脳震盪へ誘う。崩れ落ちていく老人の保護は背後の水鏡と鷲家口眠に任せて、意識を室内に向けた。

 部屋の中心では人影が天井を仰いでいる。半身が硝子のように透き通り、内部を黒い靄が這いまわっている。老人はこの硝子細工から逃げたのだろう。部屋を逃げ回る者たちも同様だ。だが、老人のように既に黒硝子に侵された者もいるだろう。彼らが散り散りになる前に事を納めなければ、いつ、どこで黒硝子が再び増えるか予想がつかない。

 硝子細工の奥には誰かが座り込んでいる。そして、硝子細工の横には、距離をとろうと後ずさりをしている群来栄一の姿があった。群来は右手首を押さえつつ硝子細工を睨みつけている。足元には流れ落ちた血と、ひび割れた丸い硝子玉が見える。

 どうやら硝子細工の興味は群来栄一にあるらしい。硝子化した頸がとぐろを巻くように何度か回転し、群来の方へと伸びる。

 音葉は咄嗟に駆け出し、硝子細工と群来の間に身体を滑りこませた。左の拳にはめた金属製のメリケンサックで硝子細工の頭部にアッパーを繰り出す。頭部は打ち上げられ、放物線を描くと音葉の反対へと落ちていく。頭部に追随し伸びていく首はまるで飴細工のようだ。手に残る感触も硝子というよりはまるで粘土のようで気味が悪かった。

「あんた、なんでこんなところに」

 驚きの声を上げたのは群来だ。刻無と事前に打ち合わせていないのか。入口に目線をやると、卵型の怪人は体全体を左右に振り、否定の意を示した。

「全く、群来さんも面倒なのと関わっていますね」

 刻無の横で水鏡と鷲家口眠が抗議をしたようにみえるが二人に構っている暇はない。見る限り硝子細工は未だ健在である。

 細工の前に座っていた者は肩から上が餅のように伸び、硝子細工の胸部へと吸い込まれ続けている。音葉が頭部を殴ったためか、速度は緩慢だが、もはやこの人物を救うことはできないだろう。それどころか、いずれは部屋中の人間が喰われかねない。彼らを逃がすこともできない以上、あまり時間は残っていない。

 音葉は硝子細工側に踏み込み、人体を吸い込んでいる胸部に拳を叩きこんだ。メリケンサックが硝子の身体にひびを走らせ、硝子細工はよろけてみせた。

 その隙に、腰と腕、腹部を殴打すると、硝子細工は床に倒れこんだ。吸い込まれていた人間と硝子細工の接続が切れて、血が噴き出す。

 噴き上がる血は天井を汚し、音葉と硝子細工に降り注ぐ。硝子細工は血に染まったが、音葉の服や身体は降り注ぐ血をすり抜けてしまう。

 スペードの1。力を使った反動で身体の外側が遠くなっていく。音葉はここではないどこかへと消えていく。だが、これは音葉と水鏡が望んだ結末ではない。

「水鏡紅、鑑定だ」

 部屋に響く声にかき消されないよう、明確に、久住音葉としての意思をもち声をあげる。少し遅れて、硝子細工がびくりと震え、彼女の声が音葉に届いた。

「ダイヤの2。姿を模倣し、変化する命を持った硝子。音葉、約束を忘れないで」

 約束。その言葉に引き戻されるように現実感が戻っていく。血に染まって倒れこんでいた硝子細工に向かい、部屋中から黒い靄が集まってくるのが見えた。

 クラブの1の入手時も、同じ光景をみた。水鏡の鑑定で、ノイズの力は制限される。そのため、ノイズは拡散した自分の力を核へ集める習性をもつと、かつて水鏡紅は語った。

 彼女の説明を前提にすれば、あの硝子細工がダイヤの2、黒硝子の核である。

 黒硝子は、人間を取り込み、近くの硝子細工を使い人間を襲う算段なのだろう。だが、その硝子細工はいったいこの部屋で何をしていたのか。

――悪食まで連れてきて、それほど私たちの信仰が憎いかね、刻野。

 音葉の思考は、部屋に響くしわがれた声に遮断された。

 硝子細工は黒い靄を取り込み軟体へと変化する。崩れかけた人形が溶けだし、粘り気のある黒い水溜まりのように変化する。そして、その中心から人間の手と頭部の形をした硝子細工が生えはじめた。

――それとも雪辱を晴らしたいのかね。なあ、何とか言えよ。刻野

 かつてこの海岸を訪れていたという民俗学者の名を呼びながら、黒硝子は人間型の硝子細工を作り、自らを細工の中に隠していく。鑑定は終えた。あとは硝子を破壊し、水鏡が封じればすむのに、眼前の怪異の言葉を遮り一撃を繰り出すことに踏み切れない。

 刻野。なぜ、その名前を呼ぶ。黒硝子とは何だったのだ。

「個人的な感傷はありません。ただ、彼らを使えば、一網打尽に出来ると踏んだだけです。あなたこそ、その似姿、いい加減に返してしていただきたい。それは南入ではなく、刻野の顔ですよ」

 問いに答えたのは刻無だ。床に広がった硝子たまりは、成型された人形の足元に集まり、吸い上げられて消えていく。黒硝子を吸収するほどに硝子の人形は人間の肌や衣服の質感を増していく。そして全ての黒硝子を吸った後、音葉たちの前に現れたのは硝子細工であるとは到底思えない男の姿だった。

 男を見て、背後の群来が声を上げた。

「南伊里ケイスケ……なんで、その姿なんだ」

「群来君のご友人もこの顔だったのですね。磯山妙子を手に入れて以降、その姿は使っていないと思っていたのですが、執心ですね。黒硝子の姿は、かつてこの周辺を旅した民俗学者のものです。もっとも、黒硝子の記録では、本土で彼らと取引をした初めての人間、無入慶介(ナイリ-ケイスケ)医師となっているようですがね。」

――無入慶介。懐かしい名前だ。

 クラブの1のときとは様子が違い、コミュニケーションが取れる。水鏡が遭遇した磯山妙子や音葉が遭遇したトウワシンポウのヤマダと名乗っていたときも、生きた人間のような会話ができた。だが、過去の記録を集め、模倣するだけの怪異が交流を図れるものなのか。

「久住さん。騙されてはいけません。そこにいるのは刻野の魂でも、無入慶介の魂でもない。硝子に映る似姿を模倣し続けた結果です」

――君たちこそ、誤解している。君たちは言葉を、仕草を、思考をどのように学んだのだ。

 身に着けた言動には、他者の模倣が含まれている。模倣を極めれば、自分の思考であるかのように振る舞うことができないわけではない。

「音葉。約束を忘れないで。あれは、ダイヤの2」

 忘れてはいない。それに、水鏡の鑑定、目の前で黒硝子が見せた能力は、音葉が求めていた力だ。

 黒硝子とこの街、刻無や群来の間に何があったのかはわからないが、音葉にはその全てを明かすことではできないし、音葉が求めているものとも異なっている。

――悪食め。口を挟むな。これは、私と、この街の在り方の問題だ。

「それならば、さきほど群来君が頑張ってくれたおかげで結論が出ているでしょう。この部屋にいた者たちが「とど」を崇めることはないでしょう。彼らは、自分の安全と、故人の再生を引き換えに生贄を捧げたに過ぎない。自分たちも食事の対象と知っては、生贄を捧げる意義が失われる」

 刻無の反論に、黒硝子が見せた態度は怒りを示したのだろうか。

 音葉にはその真実を知る術はない。黒硝子が両腕を、刻無と群来に向け、その指を槍のように伸ばしたのを見て、反射的に黒硝子の懐に飛び込み、その身体に何度も拳を打ち付けた。

 指が二人に触れるより前に、硝子の身体は打ち砕かれ破片となっていく。黒硝子は、それらを繋ぎ合わせて、再び無入慶介の形をとろうとするが、音葉と黒硝子の足元に広がった影がそれを許さなかった。

「もう再生はできない。さようなら、黒硝子」

 水鏡紅の声に合わせて、砕けた硝子の破片は影に落ちていき、消えてしまう。

 身にまとう硝子を失った黒硝子は、人の形を維持することもできず、影の中へと引きずり込まれる。

 部屋に満ちていたノイズの気配は消え、音葉を包むように広がる影が水鏡の足元に向かって吸い込まれる。やがて、音葉の手にダイヤの2と描かれたトランプと人間だけが残され、宴会場は静まり返った。


――――――――――――――――――――


「新聞で読んだ。そっちで何が起きているのか教えてよ。君たちの調査と何か関係があるの?」

 篠崎からの連絡は、黒硝子を封じて2日、滞在6日目の朝にやってきた。音葉は事態が落ち着いたのを見計らって綿貫旅館の番号を篠崎ソラに伝えていたらしい。

 音葉がひどく不機嫌な顔で客室の電話に出ているが、紅はそのまま布団に知らないふりをして潜り込んだ。すると、音葉は篠崎との会話をスピーカーにして紅にも聞こえるようにした。紅の睡眠を妨げるつもりかもしれないし、音葉なりに配慮しているのかもしれない。

「新聞って何のことですか?」

「『ガラス職人の集団失踪。一晩で二十人。観光名所の存続が危ぶまれる』。結構大きなニュースになっているけれど、この時期に硝子職人の失踪だなんて、君に頼んだ調査との関連を疑って当然でしょう」

「当然、と言われても困るのですが……篠崎さんが知りたがっていた動く硝子細工、黒硝子と呼ばれる技術については取材ができましたよ」

「本当? それで、実際に存在するの、そういうものは」

 布団の端から覗きみると、音葉は受話器をもってしばらく悩んで首を振った。

「いいえ。土地に伝わる御伽噺として動く硝子細工というものは語られていたようですが、その詳細を知る職人は残っていなくて」

「でも、失踪した職人の中にはいたんじゃないの?」

 流石雑誌記者、目の付け所が違う……。篠崎ソラへの説明は音葉にまかせ紅は再度夢の中へと旅立つことにした。

 あの後、音葉がどのように篠崎を説得したのかは知らないが、篠崎は音葉に調査報酬を支払うことを決めたらしく、帰りの電車は指定席を確保することができた。

 今の音葉には銀行口座がないため、報酬自体は戻ってからの支払いとのことだが、音葉の財布の紐は少しだけ緩んだ。おかげで食事を楽しむこともできるし、指定席でだれることができる。篠崎ソラには感謝をしなければならない。

 こうして、街を訪れて7日目の朝。紅は、行きと同じホームに止まった車両に乗り込み、念願のかまくらシュークリームを食べながら外を眺めていた。ホームの端、1号車の車窓からは、駅の向こうの職人街や海岸が見える。

 滞在はたった一週間であるが、街は大きく変化した。その限りでは、篠崎ソラの嗅覚は正しい。新聞は20名の職人の失踪のみを伝えたが、あの日を境に、街では100人単位で行方不明者がでた。既に行方不明であった人々が正しく消えたのだ。

 刻無はあくまで街の問題と言っていたし、紅もそれで納得している。それでも彼らが隣人を失ったことは事実だ。それが故人であったとしても。

 紅にできるのは、この変化が街を良い方向に導くことを祈るくらいだ。

「それにしても、音葉遅いなあ……」

 改札前で刻無館長に呼び止められていたが、発車時刻に間に合うのだろうか。


*****

 見た目、質感、匂い、温度。情報は多いほうが良い。必要なのは模倣する対象の具体的なイメージだ。音葉は左手に握ったサイコロを再度思い出す。

 右手に持ったのは、黒硝子を封じたトランプ、ダイヤの2。スペードの1を使うときと同様に、トランプの縁が曖昧になるイメージを持つ。すると、ダイヤの2は風景に溶けるようにして消え、入れ替わるように黒く輝く流体が現れる。

 黒硝子は姿を模倣する能力を持っていた。その力は、水鏡紅が封じたトランプにも受け継がれる。流体は音葉の掌の上で、小さな立方体にまとまり、蒼く透き通ったサイコロに姿を変えた。

 左手を開き、本物のサイコロと見比べる。形、大きさはそっくりであるが、左手のサイコロは白い。

「なるほど。二日で随分と力に慣れましたね。似せるだけでなく、変えることもできるようになったとは」

 音葉の手を覗き込んでいるのは、身長190センチもある白髪の男、歴史資料館の館長、刻無である。黄色の法衣と、動くたびに漂う香の香りは、否が応でも彼を目立たせていると思うが、周囲は誰も視線を向けない。

「あなたの姿よりは慣れますよ。本当に、元々の姿なんですかそれ」

 刻無は視線を上げて、上目遣いで音葉の顔をみた。面長の顔は、陶器のように白く、眼は細く鋭い。数日前までとのギャップもさながら、音葉よりも長身の男が自分を見上げていることが怖い。

「もちろんですよ。あなたが黒硝子を封じてくれたおかげで、私も随分久しぶりに自分の姿に戻ることができた。感謝していますよ、久住音葉さん」

 そう言うと、刻無は覗き込んだ首を戻し、改めて音葉に対し深々と頭を下げた。礼を言われるようなことはしていないので、気持ちのやりどころに困る。

「あの時の黒硝子、無入慶介の形をしたあいつは、あなたのことを刻野と呼んでいましたよね。無奏……ではなくて」

「そういった名前で民話収集をしていたこともありました。無奏さんにはよくしていただきましたね。この法衣もこの土地を離れる前に彼が私に下さったものです。

 色々と事情があって、当時、私も集落の黒硝子の蔓延に巻き込まれましてね。無入を介して黒硝子が治療薬として撒かれ始めた頃合いに黒島へと逃げ出したのです」

「黒島って、黒硝子由来の地……ですよね?」

「そうですよ。実はね、本土に伝わっていた情報は片手落ちだったのです。黒島の人々は黒硝子を海水で封じるだけでなく、侵食を止める術や、黒硝子が硝子細工に入り込んだのちの制御法まで編み出していた。君も群来君が使っていた鈴に興味を持っていたでしょう。あれは、黒島の人々が黒硝子入りの硝子細工たちを制御するために利用していた技術なのですよ。

 狭い島でしたからね、集落ごと黒硝子に呑まれることを避けるために、技術が発展したのでしょう」

「ええっと、話が迷走しているのですが、要するに、その黒島の治療であの卵型の姿になった?」

 刻無は両手を合わせて満面の笑みを浮かべた。どうやら正解らしいが、いったい何がどうなれば、この大男が卵型の怪人に変ずるのか。黒硝子よりも彼のほうが奇怪である。

「なんだか頭が痛くなってきました……そういえば、群来さんは大丈夫ですか。まだ、後処理が残っているとは思いますが」

「お気になさらず。ここからさきは私たち住人が何とかするべきことですから。それに、群来君ならこれからのほうが性に合う仕事ができるでしょう。大学を出て街に戻ってきてからは、ずっと、この街を変えたいと話していたのですからね」

 そういうものなのか。過去の積み重ねを失った音葉には群来の心情はよくわからない。だが、刻無の話す通り、前向きに生活を続けてくれるなら、それが一番だろう。

 ホームに列車の出発時刻を告げるアナウンスが入った。

「そろそろ列車に乗らないと、水鏡を待たせていますから」

「では最後に、久住さん。あなた、水鏡紅と出会う前の記憶がないのですよね」

 その通りだ。トランプ以外手がかりはなく、水鏡も以前の音葉のことを話さない。

「ならば、水鏡紅が“何であるか”も、詳しく知らないのでしょう?」

「悪食、と黒硝子は呼んでいましたね」

「耳ざといですね。あれの言葉など気にすることはありません。

 ただ一つだけ、これは黒硝子を封じてくれた私からの返礼です。もし、水鏡さんの正体が気にかかることがあれば、この名刺の連絡先に連絡をしてみてください。用件を尋ねられた時には、契約者を探していると言えば足りるよう手配はしておきます。それでは、お元気で」

 刻無はそう言って、音葉のジャケットに名刺を一枚滑り込ませた。

 

 音葉は発車を告げるアナウンスと共に1号車に滑り込んできた。紅があらかじめ荷物を積み込んだからよいものの、怪人館長と一体何を話し込むのやら。

「遅いよ。乗り遅れたら次は5時間後の列車だった」

「その時は、5時間後に乗るよ。君は荷物をもって逃げることはしないだろうから、どこかで追いつくだろう」

 その感想は信頼の証なのだろうか。ともあれ、乗り遅れることなく街を後にするのだ。紅にはこれ以上文句はない。

「でもあまりに遅いから、音葉の分のかまくらシュークリームも食べちゃったから」

「あの巨大なものを二つも食べたのか」

 音葉が眉をひそめて紅の顔をみた。

「食べたかった?」

「いや、そこまでは……ただ、海鮮丼を食べた後にあんなクリーム、胸が悪くなるんじゃないかと思って」

 音葉がそこまで話すと、向かいの座席で新聞を広げていた乗客が吹きだした。突然のことに二人であっけに取られていると、乗客は新聞を下げ、こちらに顔を見せた。

「君たちいつもそうなのか? やっぱり興味深いな」

 新聞の向こうから顔を出したのは、鷲家口眠だ。街ではかけていなかった紫色のサングラスで目を隠している。

「鷲家口先生、てっきり、あの刑事さんと一緒に帰ったのかと思っていました」

「それがね、私の仕事は硝子化死体の調査まで。今回の調査結果は表に出せるものではないし、署はそれどころではないからね。駅前までパトカーに乗せられて、そこで解放された」

 それはまた、犯罪者みたいな解放のされ方だ。

「水鏡君。君の感想は変わっているし酷いな。私が犯罪者に見えるかい?」

 音葉と紅はそろって頷いた。歴史資料館の展示を独りで見て回る女性に突然声をかける男が犯罪者に見えないわけがない。胡散臭いサングラスがその印象に拍車をかけている。

「ああ。これ。これは刻無さんがしばらくかけていろってね。私の目にはまだ硝子の影響が残っているからとさ。ところで、君たちはどこまで帰るんだい?」

 音葉が行先を告げると、鷲家口は目を丸くして驚いた。どうやら、彼もまた同じ町で次の仕事をする予定らしい。

「次の仕事では、君たちに遭遇しないことを祈るよ」

 皮肉か本音かわからない鷲家口の願いが窓から外へと流れ出ていく。


 確か、鷲家口眠の仕事は奇妙な事件の死因調査だったはずだ。

 紅と音葉が集めるべき残りのトランプは、48枚。道は長いのだから、事件解決のあとは少し休みたい。鷲家口眠の関わる事件にノイズが現れないことを水鏡紅も切に祈っている。

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