鏡の国(5):透明な顔

久住音葉と水鏡紅。動くガラス細工を捜しているという二人と時間を忘れて話しこんでしまい、随分と遅くなってしまった。ホテルに戻ったころには、外が紫色に染まり始めていた。朝陽が昇るまで、ほとんど時間がない。

 ジャケットからルームキーを取り出しつつ、鷲家口眠は、昨日までの出来事を思い出していた。

 町を訪れて間もなく見つけた硝子化死体。思えば、あの死体を検分する機会があったのは幸運だったのだろう。等々力の依頼は、まさしく硝子化死体の調査であったが、死体が見つかったのは3か月前。等々力の手元には当時のファイルしかなく、現物はすでに土の下だ。現物をみていなければ、人間の硝子化など半信半疑で、依頼自体を放棄していた可能性も十分にある。

 職人街でガラス細工の製法を見学したが、工房で作っているガラス細工と、死体につけられたガラス細工は全く別物とだろう。そもそもガラスなのかすら疑ってかかるべきかもしれない。

 しかし、残念なことに、表向き、これ以上硝子化死体の成分を調査することは難しい。眠が務めた検視を終えて間もなく、地元警察は遺族に遺体を引き渡してしまったのだ。

 曰く、病院で眠が行った検視で死因は明確となり、また現場の状況から殺人の可能性は低い。事故死であると判断できた以上、遺族への引き渡しを拒む必要性がないのだという。食い下がってみたが、既に病院に遺体はないし、地元警察の動きは鈍く、遺族の意思は固い。

 硝子化死体は二日後には葬儀場で灰になることだろう。確かに、等々力の言う通り、地元警察はこの件について深入りしたくないのかもしれない。もっとも、それが幸いして肝心の硝子化部分がどのような状況であったのかは深く追求されないようだ。遺族に引き渡された遺体の小指部分が欠損していることについては、今のところ問題になっている気配はない。

 しかし、ホテルの部屋に持って帰ってきた小指について、これといって調査結果が出ているわけではない。血管上の入り組んだ空洞が出来ている、精巧な小指状の彫刻であるがそれ以上の何かであるようには見えない。久住音葉たちが探しているような動くガラス細工というには少々作りが精巧すぎる。

 一つの硝子を加工して作ったと思われるこの指が、自在に動き出す場面を、眠は想像することができなかった。

 だが、久住音葉たちが調査している動くガラス細工の噂。それと、眠が遭遇した硝子化死体の間には何かしらのつながりがある。眠の勘は確かにそう告げていた。

 部屋に入ると、ベッドに倒れこむ前にパソコンを開く。食事中に簡単に送っておいたメールに対し、等々力から返信が来ていた。

「先日来集めていた資料がようやっと揃ったので時間がほしい。眠が宿泊しているフロアの別の部屋を確保した。可能な限り内密に打ち合わせを」

 どうやら等々力は面倒なことに首をつっこんだようだ。眠は等々力の申し出を受ける旨返信し、眠ることにした。打ち合わせまではまだ数時間ある。とにかく、体中にまとわりつく重さを取り除きたかった。

*****

 これはあくまで眠の見立てに過ぎないが、等々力正行という男は、情報収集能力が高く、根回しの手際が良い、優秀な捜査官だ。

 眠は、常日頃、等々力の依頼を受けて事件現場を訪れる。私人かつ旅行者という身分で関わることが多いのに、不思議と、警察関係者から拒絶されたり、嫌疑をかけられることはない。今回のように、多少渋い顔をされることはあるがどこの警察も捜査協力を了承してくれる。

 等々力正行は警察組織における要人ではないか? そんな眠の疑問は、つねに等々力によってはぐらかされている。彼が属する部署が、眠に依頼するような事件の担当だから、どの警察も対応してくれる。権力ではなく業務分担の問題だと等々力は言う。

 だが、警察もそれほどドライな組織ではないというのが眠の偏見と実感だ。自分の手柄は手放したくないし、他部署の介入をよく思わない。それが表に出てこないということは、等々力が属する部署が特異な権限を有しているか、さもなくば等々力の根回しが効いているからだろう。

 とにもかくにも、等々力の手際の良さといえば感動的で、彼が資料をそろえるのに一日欲しいと話すとき、資料はたいてい半日で揃う。ところが、今回に関していえば、半日で揃えるはずの資料に三日かかった。そのことだけでも等々力が今回の件で手を焼いている事がうかがえる。

 予定の時刻より少しだけ早く起きた眠は、水鏡と久住に電話をかけ、雑談を交えて等々力からの情報を提供した。町に現れる硝子化死体と失踪者の多発。この町で起きていることの手がかりは蒙昧としているが、伝えておけば彼らの方でも何かを掴み取ってくるだろう。そんな予感があった。

 ホテルの一室、眠の部屋から三つ隣の部屋を叩くと、見慣れた男が顔を出した。まだ9時を過ぎたばかりだというのに、等々力はグレーのスーツに薄い髪の頭を乗せている。頭についた二つの細い目が眠を穏やかに迎えた。

「おはようございます。鷲家口先生。食事は済んでいますか?」

「ルームサービスでも? このホテルのメニュー、結構お旨そうなものが並んでいる」

 眠の申し出に、等々力は首を横に振った。そして、ベッドにおいたコンビニエンスストアの袋を持ち上げた。

「私も食べる時間がなかったのですが、食べきれない量を買ってしまったようでして」

「朝からコンビニご飯なら、ホテルでも警察署でも変わらないよ」

「なるほど。ただ、メールでも書いた通り、署内で話をするのは少々憚られる状況になっています。ここなら、部屋に誰か入ってこない限り、打ち合わせを視られることもない。鷲家口先生の部屋と同じ階に空室があって何よりでした。

 さて、そのあたりの状況も併せて、わかったことを手短にお伝えしたいのですが」

 等々力正行が硝子化死体のことを調べ始めたのは半年ほど前だという。きっかけは彼が働く警察のとある部署に入ってきた死体の情報だ。

 発見場所は町から20キロ離れた海岸。夜釣りをしていた一般市民が海岸に転がっていた精巧なマネキンを持ち帰ったところ、マネキンではなく硝子と人間の身体が入り混じった奇妙なオブジェだったのだという。あの死体を家に持ち帰って検分してしまったのだとすれば酷く驚いたことだろう。眠は名も知らぬ発見者に憐れみの情を抱いた。

 さて、海岸で発見された硝子化死体は、上半身と左足、右の側頭部が人間の身体で出来ており、それ以外は硝子状の素材でできていた。血管や筋肉と硝子は元々繋がっているかのように癒着していたという。癒着を剥離しようと試みたが、癒着部分の筋肉も硝子のように固く、容易には剥離できる状態ではなかったという。

「硝子は確かに固いけれど、剥離ができないというのは違和感があるな。多少周囲の繊維が傷ついてもいいならいくらでも剥がせるだろう」

 眠の疑問はもっともなもので、医師たちも同じことを考えた。とにもかくにも硝子と肉体を切り離してみないことには、何がどうなっているのかわからないのだから。だが、肉体を切り離した結果については、検視報告書のどこにも載っていない。それどころか、そこから先の記録はぱたりと途絶え、検視の際に硝子化部分の剥離を提案したという医師も姿を消した。それどころか公式の記録上は硝子化すら認められなかったことになっている。結局、遺体は発見時の免許証から身元が判明し、家族が遺体を引き取りにきたのだという。

 等々力たちの部署に事件の一報がもたらされたのはちょうどこのころだ。彼らが引き受けた仕事は、地元警察が記録を改竄して隠した死体の硝子化現象の解明、そして忽然と姿を消した医師、遺体を引き取った家族の行方を捜すことの二つだった。

「いつも思うんだが、事件性があるかどうかもわからないことを解明して何を行うつもりなんだ」

「それは鷲家口先生が気にする必要はないですよ。ただ、強いて言うなら、私たちは、事件を“宮入り”させるかどうかを判断しているのです。先生といつも話している通り、私たちの現在の常識では判別ができない事象はいくつもあります。それを、判別できるまでの間、保管し、記録するのが私の勤めている部署の役割です。私たちは、事件を後世まで保管するべきものか、現在解決するべきものかを判別しているのです。さて、話を戻しましょう」

 等々力たちは、失踪した医師を追いかける班と、遺体を追いかける班に分かれて捜査を始めた。等々力が配属になったのは、遺体を追いかける班だ。だが、この捜査は、あっという間に暗礁に乗り上げる。

 死体に関する情報は、失踪した医師による欠落した検視記録のみ。死体を引き取ったはずの家族の住所を訪ねると、別人が住んでいた。葬儀が執り行われた斎場に現れた遺族とこの家の住人は全く顔が一致しなかった。

 更に、火葬された遺体は硝子化の様子などない、普通の人間だったという。遺族を語る何者かに加えて、肝心の硝子化死体も影も形もなく消え去ったことになる。こうなってくると、失踪した医師の検視記録のほうが疑わしくなってくる。

「硝子化死体など、そもそも存在しなかった」

 等々力達も眠と同じ印象をもった。実際に、等々力以外の班においては、今回の事件は存在しなかったという結論を出して捜査を終えたという。

「私はどうにも気になりましてね。なんというか、手際が良すぎるのです。偽名を使って見られたくない遺体を引き取りに来る、そこまでは考えつくと思います。けれども、硝子化していない死体を準備して実際に葬儀を行う。普通はそんなリスクなんて取らないでしょう。回収した死体ごと姿を消せばよいし、何よりそんなことをしたら、肝心の硝子化死体の処分が宙に浮いてしまう。

 でも、それこそが、事件を表に出さないためのコツなのだとしたら。葬儀で通常の遺体が焼かれることで、硝子化死体という奇妙な話が有耶無耶になってしまうことが目的なら」

 等々力は胸に抱いた疑問を解決するため、周辺を調査し、硝子化死体の発見記録を見つけた。この町では、いくつもの硝子化死体が発見され、ただの死体として処理されている。

「表向きには記録はありませんし、私たちの部署でもこの地域で硝子化死体が出るという報告は受けていない。現在のところ、事件化はされていない。

 ですが、資料というのは一度作成されてしまえば、完全に消すのは難しいのが警察組織のいいところであり、悪いところでしてね。探せばいくつも痕跡は見つかる。少なくてもこの町では、十年以上前から、身体の一部が硝子化したという死体の発見例が続いている。そして、幸か不幸か私が調査を始めた以降に新しい死体がでた」

 それが、初めに眠に送ってきた依頼というわけだ。もっとも、眠が依頼を引き受けたときには、すでにその遺体も火葬に伏され、跡形もなくなっていた。だからこそ、眠が発見した硝子化死体は、等々力にとっても渡りに船だったのだという。

 さて、問題はここからだ。今回、眠が見つけた硝子化死体はゴトウと名乗る遺族により引き取られた。遺族は、外淵地区の住宅街で暮らしているという。火葬の前に今一度硝子化を含めた死因の調査を依頼するため、等々力もゴトウ一家に会いに行ったという。

「彼ら曰く、死体の身元はゴトウトモハル。25歳の男性。スーパーでアルバイトをしていたそうです。ゴトウは両親と妹と一緒に暮らしています。アルバイト先での勤務状況も良好だった。恨まれるような身辺関係はなく、家族も思い当たることはないとのことでした」

 遺族は皆一様に気落ちした様子で話をしてくれたが、遺体には決して目を触れさせてはくれなかった。家族の遺体を何度も切り開きたくはない。彼らの意向に抵抗することは困難だった。

 ゴトウが勤めていたスーパーマーケットにも、既にゴトウの死去について家族から連絡が入っており、退職等の手続きを始めていた。

「スーパーマーケットにも、家族にも不審な点はない?」

「今のところは。身元が明らかになったという判断もわからなくはありません。もちろん、引き取られた死体が、本当に硝子化死体と同一なのかという疑問は残ります。関係者は一様に、死体はゴトウトモハルのものだと話すし、ゴトウトモハルがどこかで生きているという話もない。ゴトウトモハルは、確かにこの町で生きていた人間で、先日海岸沿いで死んだことになっています」

「それじゃあ、あの死体をこれ以上どうにかすることは難しいってことか。それじゃあ、今朝がたメールにあった失踪者ともつながらない」

「いいえ。そこが奇妙なのです。そして、私が先生と内密にお会いしたかった最大の理由でもある」

 等々力はそう言って、テーブルの上に十枚ほどの顔写真を並べた。

「先生。この中に、先生が見知った顔はありますか?」

 男が6人。女が4人。雑踏の中で撮影された写真もあれば、知人同士の飲み会の席の写真らしきものもある。交差点で撮影された写真の男と、証明写真の女については、どこかで見た覚えがあった。それも、この町に来てからの話だ。

「そうだ。この交差点の男は、発見した死体の顔とよく似ている。あの死体は顔が硝子化していなかったから。つまり、彼がゴトウトモハルということか」

 眠の回答に、等々力は深くため息をついた。

「やはり、彼がゴトウトモハルでしたか。やはり、ここで打ち合わせをしていてよかった」

*****


 踊る硝子細工。黒硝子と呼ばれる素材を使い作られる自在に動く“生きた”細工。その噂なら、古い住人には知られた怪談のひとつです。職人街で行われていた精霊祭という祭りに付随したお話なので、祭りを止めて以降はとんと聞かなくなりました。面白がって話すような話でもありませんから、最近の方は知らないかもしれませんね。

 祭りをやめたのがいつごろか、ですか。そうですね、かれこれ20年近く前ではないでしょうか。職人街が観光地として発展していくなかで、精霊を模したガラス細工、そうです。元々この土地に伝わっている細工を作る職人が減ってきたのが大きな要因です。

 精霊祭の内容ですか? 海岸沿いにガラス細工を並べて、中に火を灯すんです。そうして、海からくる精霊を迎え、精霊凪が終わるまでの間、そこに留めるための儀式なのだそうです。綿貫の家はうちの旅館も含めて古くからこの町で暮らしていますが、あの風習はさらに昔、私たちの祖先が移住してくる前からあったものと聞いています。

 神事の一種ではありますが、神社や寺は関わることがありません。精霊祭の進行を握るのはあくまでガラス細工を作る職人たちです。彼らの役割は、生活に必要な工芸品を作るだけではなかった。土地を訪れる精霊を迎え、諫め、送り出す神官としての役割も同時に担っていたのです。だから、祭りのトップは職人頭が務めていたんです。

 そういった性質のものなので、精霊祭は、はっきりいって観光資源にはなりませんでした。地味ですし、見た目を派手にするような変革は、儀式の性質を変えてしまうため職人たちが嫌がった。

 ですが、観光地としての知名度やガラス工芸品の注目度が上がるにつれ、伝統的な儀式の為に何か月も準備を進められる余裕は失われていった。やがて、準備を行うことが難しくなったため祭りは取りやめられるようになったのでしょう。

 そうですね。もし、観光客向けに趣を変えていたならば、今も何らかの形で続いていたのかもしれません。ですが、結局は職人街は、精霊祭という伝統を過去として切り捨てた。町の発展において不要だと考えたのです。

 さて、話を基に戻しましょう。踊るガラス細工が出るという噂は、その精霊祭の最中にだけ流れる噂でしてね。精霊を迎えるための細工が欠けると、その隙間を縫って、出し物小屋が現れるのだといいます。とても小さなテントで、観客は3,4人が限界。小屋自体は数頭の牛、あるいは羊が牽いてくると言われます。

 馬ではないのか? 不思議と馬という話は聞いたことがありませんね。私が小さなころは真っ黒な羊が小屋を牽いてくると聞きましたが、可惜は牛だと話していました。三治さんはどっちだったかしら、栄一さんは三治さんから聞いていませんか? そう。まあ、群来の家も綿貫の生まれですからね。私や可惜とあまり違いはないでしょう。

 夜、海岸線沿いの精霊硝子を眺めていると、見世物小屋が現れて声をかけてくる。小屋の主人はテントの陰に隠れていて、声は聞こえど姿は見えない。ただ、真っ黒な影のような存在だといいます。

 世にも珍しい工芸品があるから、見に行かないか? 小屋の主人の誘いに乗ってテントを覗き込むと、中では赤いドレスを着た透明な顔の女性が舞っているのだといいます。透明な顔の中では時折、黒い水のようなものが流れて、それに合わせて女性の表情が幾重にも変化する。

 素晴らしい舞に感激した見物客は一通り舞を終えた女性に握手を求めます。そして、彼女の手を握った時に、それが生身の人間ではなく、冷たく固いガラス細工であることに気が付くのです。そして、小屋を出る前に小屋の主人に忠告を受けます。

 彼女のことは誰にも言ってはいけない。誰かに話したら「れいべ」がなくなるぞ。欠けた精霊を戻して、彼女の舞はお前の心にとどめるのだ。と。


 旅館の女将は、群来三治と可惜が戻ってくるまでの繋ぎにと、町に伝わる怪談を話してくれた。彼女の話が終わるころには、三治と可惜も事務室に顔を出して、彼女の話す怪談を聞いていた。

「お二方が知っている踊るガラス細工。もとい、動くガラス細工の噂というのは女将が話してくれたものと同じですか?」

 音葉の問いに対し、二人は頷く。細部――見世物小屋を牽いている動物や、小屋の主人の姿など――にはバリエーションがあるが、総じて女将の話した内容の通りだという。篠崎ソラが学生たちから聞いた話は随分と大雑把ではあるが大筋では女将の話と合致する。

 おそらく、学生たちが聞いたというガラス細工の噂もこれと同じものなのだろう。

「質問してもいいですか。最後の『れいべ』がなくなるぞってどういうことでしょう」

 水鏡の疑問に、女将たちは互いに顔を見合わせた。

「それはよくわからないんだよ。俺も親父から聞かされた時に、同じことを聞いた覚えがあるが、親父もわからないといっていた。ただ、この噂はその見物客が広めたものだから、見物客の『れいべ』はなくなってしまった。でも、多くの人間は珍しいものを見たことをずっと黙っていられるほど強くない。だから、見世物小屋を見かけても近寄ってはいけないってばかり教えられてな」

「昔はね、どういうわけか綿貫の人間は精霊祭の夜は早く帰って家にいなきゃいけなかったんですよ。職人街の祭りをちゃんと見てみたいとだだをこねると、大人たちが今の話をするんです。そして、『れいべ』を取られるかもしれないのだから外に出てはいけないと諭すのです」

「でも、れいべが何かわかんないなら、諭しようがないでしょ。納得いかないよ」

 水鏡の指摘はもっともだ。女将たちは、それぞれに笑いあって見せた。だが、彼女たちの親、祖父母といった大人たちは、子供には何かわからないといいながら、明確にそれを恐れていたのだという。

「踊るガラス細工自体が存在しているか?という質問に関しては、存在自体が疑わしいと思いますが、私たちの親は、この話を怖がっていた。そういう意味では、過去には、精霊祭の夜に恐ろしい出来事があったのではないだろうかと、子供ながらに想像したものです。

 とはいっても、綿貫から職人街まで行くにはトンネルを抜けていかなければなりませんし、夜に子供たちだけで職人街まで足を伸ばすのは難しいので、怪談話の有無にかかわらず、私たちは精霊祭に立ち会うことは難しかったのですが。ですから、親たちがこの話を私たちに伝えていた意味はわかりかねます。

 それと、彼女たちが話していたことがもう一つ。見世物小屋の硝子細工は余所からきたモノで、その話は職人たちには決してしてはいけないのだ。と」

「それも明確な理由は教えてくれなかったのですか?」

「そうですね。私の親は理由は話してくれませんでした。お二方の家ではどうでしたか?」

 三治は少々考える素振りを見せたが、話を聞いたことはないと答えた。他方で、可惜は、理由を聞いたような覚えがあるという。但し、親ではなく、先日訪れた学生たちにであるが。

「彼らは、その噂をすると『とど』が覗きにくるから話してはいけない。と聞いたようです。噂のことを一通り聞かれた後に、コウジさんが話していたんです。この海域にトドはいないよなって。それでなんの話か気になってしまって」

『とど』に、『れいべ』。土着の人々の言葉だろうか。水鏡があったという資料館の館長に尋ねれば何かがわかるかもしれない。それにしても、学生たちはそんな怪談をどこで仕入れたのだろうか。

「それは、件のライターの持ち主から聞いたそうですよ。漁業について調べていると話したら、この町の主産業はガラス工芸だろうという話が始まってしまって、そのまま町の歴史について聞くことになったそうです。その中で、海岸線沿いで調査をするなら、黒硝子の見世物小屋に気をつけろと言われたみたいですね」

「ええっと、一つ確認したいのですが、精霊祭は、毎年いつごろ行っていたのですか?」

「ちょうど半年ほど前。学生たちが来たころですね」

 つまり、彼らは街で既に存在していない出版社の人間に出会い、すでに終わってしまった祭りに絡む怪談を聞いた。だが、仮に、祭りが続いていたならば、学生たちが滞在していた時期は丁度祭りの時期に重なっていたというわけだ。


「ミノルとコウジだっけ。彼らが会った東和新報とかいう出版社の男のほうがよっぽど怪談じみているよね」

 一通り女将たちから聞き取りを終え、音葉と水鏡は食事のために空き部屋の一つに通された。準備の為にと女将たちが部屋を出て、二人きりになったところで、水鏡がぽつりと感想を口にした。

 音葉もその意見には同意する。問題は、音葉自身もまた、ミノルたちと同じ怪談と遭遇していることである。トウワシンポウのヤマダと名乗ったあの男は、ミノルたちに漁協で怪談を披露した男と同様の存在に思える。

「同一人物かはわからないでしょ。ヤマダも、ミノルたちの会った男も気味が悪いけれど、害はない。怪談じみた男たちよりも、むしろ『とど』と『れいべ』のほうが問題なんじゃないかな」

「でも、あれは何の意味を持つかよくわからないだろ」

「女将は笑い話のように話したけれど、あの人たちも『とど』と『れいべ』という何かがあることを感じ取っていると思うよ。群来だって職人街で私たちを捕まえたのは、『とど』が私たちを視ていたからじゃない?」

 視ていた。水鏡の言葉に、音葉は旅館に入る前に抱いた疑問を思い出した。

「その視ていたって話だけど、誰が僕たちを視ていたんだ」

「いろんな人。店員もそうだし、歩道とか店舗ですれ違う人たちも私たちを視ていた」

「それは、すれ違って目があうことくらいあるだろう」

「違う。そうじゃないの。あの人たちは私たちと直接目を合わせない。でも、雑踏の中から私たちを監視していた」

 初日に街を歩いたときにも、多少視線は感じていたが、どれも音葉が声をかけた店員や、音葉と店員の話を聞ける範囲にいる人間からのものだ。だが水鏡のいう視線は随分と異なる。

「気のせいじゃないのか?」

「この写真を見てもそう思う?」

 水鏡は、携帯電話を取り出しいくつかの写真を見せた。どの写真も職人街の散策中に彼女が撮影していたものだ。

 写真の中の通行人、その誰もが横目でファインダーを捉えている。彼らは、車道の反対側の歩道を歩いているのだから、水鏡の携帯に視線をやる理由がない。

 別の一枚は、店舗の出入口とショーウインドウを写したものだ。店の前を歩く人々に混ざって、一人の女性がはっきりと水鏡のファインダーを捉えている。

「この写真、彼女を撮ろうと思ったものか」

「違うよ。知らない人。私は店の入口を撮影していたのだけど、この人は私のカメラを見ている。それだけじゃない、店内にいるこの人も、身体はレジの方を向いているけれど、さっきの写真と同じで視線はカメラを見つめているでしょ」

 水鏡が指した箇所に写っているのはベレー帽をかぶった男性だ。レジで支払いをしているようだが、カメラに写った左目はやはりファインダーを捉えている。端的に気味が悪い。

「観光客だったり、店員だったり、いろんな人が私たちを視ていた。私には理由がわからなかったけど、たぶん、群来にはガラス細工の噂と結びついたんだよ。あの喫茶店でも、他の客はみんな音葉と篠崎さんの電話に耳を傾けていた。それぞれに雑談をしているように見えて、みんな私たちを監視していたのだと思う」

 職人街で写真撮影をしていた観光客は音葉たちの他にも大勢いた。水鏡の撮影した写真全てにたまたま彼女の携帯電話と視線が合致した人が写りこんでいた、というのは少々強引な説明だろう。彼女の言う通り、町の人々が音葉たちを監視していたという方が理解ができる。

 視線を向けている人々は町の人間に限らない。横目で様子を伺っている通行人たちは土産袋を持っている。おそらくは、観光客だろう。彼らが音葉たちを監視する理由がわからない。

「お前ら、そんな古い写真まで集めてきてるのか」

 背後からの声に、音葉は飛び上がりバランスを崩した。だが、襖にぶつかる前に屈強な男の腕が身体を支えた。転倒の危機を回避し、安堵の息を吐くと、腕の主が音葉の顔を覗き込んだ。

「悪いことをした。驚かせてしまったな」

 声の主、群来栄一は、旅館に来た時と同じ、オレンジ色のダウンジャケットとジーパンを身に着けていた。だが、白い歯を見せ困ったように笑う顔は、出会った時よりも柔らかい印象を受けた。

「裏に自宅があってね。三治叔父さんと暮らしている。食事まで時間があると聞いたから顔を出したんだ」

「それはまたどうも……」

 どうにも居心地が悪い。音葉の返答を聞いて、群来もそのことに思い至ったらしい。両腕を離すと、両手を首の後ろにもっていき後ろに下がった。

「それで、女将さんたちの話で知りたいことはわかったか?」

 この街から離れるつもりになったか? それが群来の本音だ。

「群来さん古い写真って言ってたけれど」 

 どう答えるべきか悩むうちに、水鏡がカメラを正面から捉える女性の写真を見せた。

「資料館の資料まで撮影していると思わなくてさ。こんな場所で撮影している写真もあるんだな」

「群来さん、この写真に見覚えがあるんじゃないの?」

「これは初めて見た。後ろに写っているのは、職人街のガラス工房の一つだろう。あそこは老舗だって聞いていたが、昔と今と変わらないんだな」

 彼女が見せた写真は数時間前に撮影したのだから、建物が現代のそれと同じなのは当然だ。しかし、群来はどうして、この写真を昔のものだと話しているのか。

「ここに写っている女性。磯山妙子(イソヤマ‐タエコ)だろ」

「イソヤマタエコ?」

「そう。20年以上前の話だが、町の広告塔だったらしい。でも、これだけ美人なものだから芸能プロダクションの目に留まって、都会に出て行ったって話だよ。三治叔父さんもファンだから、当時のパンフレットをまだ持っているんじゃないかな」

 水鏡が写真を撮ったのは数時間前。写っているのは20年以上前のモデル。時間と被写体がかみ合っていない。そして、ついさきほどまで、音葉たちは似たような話を聞いたばかりである。

 音葉は首筋が急に冷えるような感覚に襲われた。

*****

「この写真の男が、ゴトウトモハル。つまり先生が発見した硝子化死体と同じ顔で間違いはありませんね?」

 写真から見覚えのあるものを2枚選んだ。だが、等々力の表情は硬い。

「そうだったと思うが……どうかしたのか?」

「試しにゴトウの立ち寄り先でこの写真を見せたら、誰もがゴトウトモハルだと話してくれました」

「それならほぼ間違いなく写真の彼はゴトウトモハルだろう」

「いいえ。彼の名前は斎藤和人(サイトウ‐カズト)。4年前に捜索願が出されています。この写真は、彼が大学在学中に撮影したものだそうです」

「他人の空似?」

「では、もう一枚。こちらの女性はどこでみたか、先生は思い出せますか?」

 等々力は眠が選んだ女性を指さす。つい先日、しかも等々力と一緒に見かけた記憶があった。

「ああ、そうだ。彼女は交通課の」

「交通課の巡査と同じ顔です。ですが、この写真は10年前に捜索願が出された女性です」

 10年? 眠は等々力の顔をみた。彼の目は嘘をついているようには見えない。だが、10年前の捜索願と同じ顔のままでいられるか。何より、捜索願が出た人間が警察官として働けるのか?

「鷲家口先生が選ばなかった他の8枚も、皆、現在捜索願の出された失踪者です。彼らが暮らしたのはこの町ではありませんが、失踪の直前に必ずこの町に立ち寄っています。そして、私や私の同僚が同じ顔の人物をこの町で見かけている」

 斎藤和人と同じ顔をしたゴトウトモハルの死体は身体の一部が硝子化していた。

「まさか、等々力。その見かけたというのは」

「察しがいいですね。半数は既に死亡が確認されています。事故死または病死とされているが、死体の一部に硝子状に変化した形跡があった。もちろん、署内では“何もなかった”として処理されています」

「君が今回調査を依頼したかったのはそういう話か」

「ええ。署はこの件は封殺しておきたいのでしょう。常に私の動向を他の署員が監視しているようでしてね。署内で話すのは憚られるのです」

 失踪者と同じ顔の硝子化死体が存在していることは事実だろう。だが、肝心の死体は遺族と言い張る何者か達により検分することが叶わない。硝子化死体が等々力が見つけてきた失踪者たちと一致するかどうかを確かめる術がない。

「ゴトウトモハルという身元が偽りだと証明するのは難しいのか」

「今日明日でとなると困難だと思います。ゴトウの家族は遺体は彼だと主張するでしょうし、ゴトウのことを知る人たちも同じです。実際に何年もこの顔がゴトウとして生活した形跡がある以上、斎藤和人の写真があっても、あの死体がゴトウではないとは言い切れない。他人の空似と先生も言ったでしょう?」

 調査を進める手札がない。眠は一旦議論をやめて、等々力が机においた資料に手を伸ばした。地元警察の捜査資料は改ざんされていて役に立たない。等々力の集めた当時の捜査員たちの資料には硝子化死体の情報が混ざっているが、眠は名探偵ではない。等々力が話した以上のことを引き出すのは難しいだろう。

 検視報告書に至っては硝子化に関する記載は完全に消されている。これでは硝子化部分以外も改ざんを疑いたくなる。

「等々力。この磯山という監察医とは連絡を取ってみたか?」

「磯山ですか。まだ接触はしていませんが、どうかしましたか」

「この検視報告書、全部同じ監察医が署名欄にいる。改竄後の報告書として名前を揃えているんなら、3か月前の案件で行方不明になった医師とは別だろう? 先日私が行った病院には名前はなかったんだ。磯山上路(イソヤマ‐カミジ)。この監察医は、ゴトウトモハルが運び込まれた病院とは別のところで働いている可能性が高い」

「なるほど。早急に探してみましょう。その間、先生は買ってきた朝食の処理にご協力ください」

 等々力は目元を緩め、ベッドに置いたコンビニの袋を持ち上げた。

 眠が4つ目のジャムパンを頬張るうちに、磯山上路の居所は判明した。眠の記憶の通り、彼はゴトウトモハルが運び込まれた病院の者ではなかった。外淵地区で個人病院を営んでいるようだが、電話をかけても応答はなかった。

 磯山医院は斜面に並ぶ住宅街に建っていた。門に掲げた看板には内科、皮膚科の文字。住居前の敷地に病院を新築したのだろう。二階建ての白い建物の後ろにはトタン屋根の住居が構えられている。

 玄関のすりガラスの奥は暗く、中の様子を伺うことができないが人の気配はなかった。試しに扉を引いてみると音もたてずに扉が開く。眠を迎えたのは、整然とスリッパが詰められた靴箱と、磯山医院と書かれた内扉。靴箱に外靴は見当たらない。

「すみません。誰かいませんか?」

 反応はない。後ろに続く等々力に目配せすると、奥に入るように促された。

警戒しつつ内扉を開く。待合用のソファーが4脚並び、玄関の左手には受付カウンターがあった。正面には廊下が続き、診察室、処置室と表示がかけられている。暗い廊下の先に光が差し込んでいる。おそらく階段があるのだろう。カウンターに踏み入っても看護師の姿はない。

「看板によると、今日も診療をしているはずですが……誰もいないようですね」

 眠がカウンターに入ったのを確認して、等々力も待合室に踏み込んだようだ。周囲を見渡し、ソファーの上の埃などを確認している。

「母屋の方を確認してみますか? 車はありませんでしたが、あちらなら人がいるかもしれない」

 等々力の意見ももっともだが、そもそも、この院内の状況はどういうことなのか。カウンターはきれいに清掃されていて、埃が積もる様子はない。カルテ置き場には一週間前の記録。少なくても一週間前の段階では診療をしていたはずだ。レジには札と大量の小銭。空き巣や強盗の被害に遭った様子はない。

「休診日というには妙だ。病院全体で何かの事件に巻き込まれたんじゃないか?」

「例えば、硝子化死体を巡る何かの陰謀にですか?」

 眠にもまだそこまで飛躍するつもりはない。等々力に反論しようと眠はカウンター内の事務机に手を置いた。パキリ。渇いた音と共に掌に痛みが走った。

 思わず飛びのき、右の掌を見ると薄っすらと血がにじみ出た。どうやら刃物に触れたらしい。よく見ると、机上には細長く鋭い、カッターの刃のような硝子細工が転がっている。細工は真ん中から折れているが、表面は血がついている。気付かないうちにこれに手を触れたのだ。

 パキリ。

 先ほどより大きな音が聞こえ、背筋を悪寒が駆け抜けた。直後、上階からいくつもの硝子が割れる音が響き、病院全体が少し揺れた。

「何かおかしい、等々力、いったん外に」

 等々力の返事を待つよりも早く、カウンターの前を透明な塊が飛び去り、勢いよく内玄関の扉を突き破った。


*****

 群来栄一が三治のコレクションをもってきたのは食事が終わったころだった。白いセーターに着替えた群来は、コレクションと共に三治本人も引き連れていた。

「磯山妙子の珍しい写真を持っていると聞いて気になってね」

 三治は磯山妙子の熱心なファンだと話した。水鏡が写真を見せると良い写真だと喜び、家から持ってきた写真集やパンフレットを見せてくれた。どの写真も水鏡が撮影した女性と同じ顔をしている。他人の空似というには似すぎている。

 それどころか、三治の持ってきた写真集やパンフレットには、磯山妙子以外にも職人街で撮影した人物と同じ顔が写りこんでいるのだ。水鏡と音葉は言葉を失い、互いに顔を見合わせた。

 確かに群来たちがいうように、これが20年前の写真だとしても違和感はない。目の前で起きていることに合理的な説明がつけられなかった。

「そういえば、三治さんは、学生たちが話していた『とど』の下りについても知っているんですか?」

 思考が追いつかず、音葉は会話の糸口を失った。黙り込んだ音葉をフォローするかのように、水鏡が三治に硝子の噂について尋ねた。

「ああ。『とど』というのは知らないが職人街の噂だろう」

「職人街の噂?」

「女将が話していた噂は、綿貫地区で伝わっている話だ。栄一に話してきかせたのも同じ。もちろん、可惜さんが知っているのもそう。見世物小屋を引っ張る動物の違いは些細なバリエーションの一つでしかない。あれには、職人街で伝わる別バージョンがあるんだよ」

 三治は、職人街に伝わる噂には、綿貫地区のそれの後日談があるのだと話した。

 職人街に伝わる噂によれば、見世物小屋の主人と別れた男は、小屋が硝子工房の並ぶ通りに走っていくのを見たという。それをみて、男はどこかの工房が新技術を仕入れたと思い、その技術を盗んでやろうと考えた。

 男はこっそりと見世物小屋をつけはじめた。ところが小屋が角を曲がる度、見世物小屋との距離が離れていく。男はムキになって全速力で見世物小屋を追いかけた。すると、見世物小屋も男から逃げるようにスピードを上げていき、やがて硝子工房街の茶屋の前で立ち止まったのだという。そして、小屋は茶屋の入口に向き直ると、するりと茶屋の陰に消えた。

 男は驚いて茶屋の前まで駆けつけた。男には茶屋と奥にある路地に見世物小屋が消えたように見えたのだ。ところが茶屋の隣には工房があり、小屋が通り抜けられるような路地はない。

 ならば、小屋は工房に入ったのだろう。男は夜中にも拘わらず、工房の戸を叩いた。しかし、眠い目をこする工房の主人に見世物小屋の話をしても、何も知らないという。工房の中を覗き込んでも、男が見た見世物小屋は姿も形もなかった。

 では、茶屋に入ったのか。しかし、茶屋の戸を叩いても同じように見世物小屋の痕跡は見つからない。そのうちに、騒ぎを聞きつけた職人たちが茶屋に向かって集まってきた。男は、集まった職人たちに動くガラス細工のこと、見世物小屋のことを知っている者がいるか訪ねて回ったという。

 けれども、工房街の住人は誰一人、動くガラス細工など見たことがないという。

 結局、見世物小屋の正体はわからず、職人たちは男が幻を見たと結論付けた。その後も男は職人街で見世物小屋を捜し続けていたというが、翌年の精霊祭の夜、海に落ちて溺死した。

「というのが職人街の噂だ。『とど』という単語はわからないが、見世物小屋の者が男が約束を破ったことを知ったのは、男が見世物小屋を捜して職人街で行方を聞いて回ったのがきっかけだというわけさ」

「つまり、男が聞いて回った職人の中に、見世物小屋の主人がいた?」

「いずれにしても、子供に言い含めるための話だ。職人街は、綿貫みたいに祭りとの距離が離れていない。怖がらせるためにはある程度のディティールが必要だったんじゃあないかねぇ」

 三治の推測はそれなりに納得がいく。だが、仮に子供を怖がらせるための噂だというのなら、男が死ぬまでに一年間も期間が開くのはしっくりこないし、死ぬところまで物語が必要だろうか。

 おそらくこれは実際にあった話を基に作られた説話なのだ。

「その話だと見世物小屋は何処に消えてしまったんだろうな」

「さあなあ。一番気味の悪いところだよな。仮に人間大の硝子細工を運ぶ見世物小屋があったとして、建物と建物の隙間に隠す方法はないだろう」

 気がつけば、群来と三治が見世物小屋の消えた先について議論を続けている。音葉は全く同じことを考えたことがある。トウワシンポウのヤマダ、彼が音葉に聞かせた裏路地の話だ。

「それに茶屋と工房のどちらかに隠れたところで、叔父さんの話のとおりなら見世物小屋はそれなりに大きいわけだろ。男が駆けつけるまでに解体して片づけておく方法なんてないじゃないか」

 そのとおりだ。その見世物小屋はどこにも隠れる場所がない。ガラス細工は人間のように動くのだという。ならば、人間に化けて隠れてしまうのはどうだろうか。では、動物や小屋自体はどこに隠したのだ。流石に工房も茶屋も人間以外のものを隠せないだろう。

「硝子は加熱により形を変える。流体としての性質……裏路地……建物の隙間、か」

 ふと閃いたことがあった。もし、水鏡が言うように職人街のあらゆる場所で何かが音葉たちを監視していたとするならば。喫茶店での一幕がよぎった。

「あの、三治さんの家には古い資料がたくさんあるんですよね。昔の地図も残っていませんか?」

 

*****

 内扉を破った塊が大きな音を立て、眠は反射的にカウンターの下に隠れた。しゃがむ瞬間に見た限り、待合室に等々力の姿はない。眠がカルテを物色している間に処置室にでも入ったのか。

 続けて音がしないことを確認して、眠はカウンターから待合室の様子を伺った。内扉には巨大な硝子の塊が突き刺さり、扉の硝子は玄関に散らばっていた。廊下の奥には硝子を投げ入れた何かがいる。だが、気配らしきものは感じられない。

「鷲家口先生。無事ですか。等々力です」

 案の定、処置室の方から等々力の声が聞こえた。無事と答えると、等々力は処置室の窓から出ると返ってきた。ならば、眠が逃げるべきはカウンター裏の窓ガラスか。

 パキリ。

 振り向く前に背後から聞きたくない音が響く。眠は咄嗟にカウンターから飛び出し待合室側の床に這いつくばった。鈍い音と共にいくつもの重たい何か――おそらく硝子の塊だ――がカウンターに衝突する。

 続いて廊下の奥、階段と思われる場所からガラスを踏みしめる音が聴こえてくる。確認している余裕はなかった。音葉は身をかがめて両腕で頭を護り、待合室の奥に据えられたソファーの下へと飛び込んだ。

 眠が頭を護りながらソファーの下に滑り込むのと、廊下から内扉にかけて、大量の硝子片が飛んでくるのはほぼ同時だった。内扉に何枚もの硝子が刺さり、けたたましい音をあげる。同時にカウンターの奥からも氷柱のような形状をしたガラスが何本も飛んできた。窓ガラスに当たり、硝子同士が擦れる嫌な音がする。

 間違いない。この病院には何かがいて、眠たち訪問者の命を狙っている。

 廊下に響いていた足音は一階に到達したらしい。硝子を踏みしめる音が消え、代わりに何かが軋むようなキュイ キュイという音が近づいてくる。とても人間が普通に歩いた時の音のようには思えない。

 硝子化死体のことが頭をよぎる。肉体と癒着した硝子の四肢。もしそんなものをつけて歩いたならば、こんな音がするだろうか。想像した光景はあまりに馬鹿げていて、馬鹿げているからこそ今の状況に似あっているように思えてくる。

「当院の診察券はお持ちですか。初診のかたは保険証の提示をお願いします」

 謎の音の主が声を上げた。ガラス管を通したようなくぐもった声。等々力は無事に脱出できただろうか。


「当院の診察券はお持ちですか。初診のかたは保険証の提示をお願いします」


「当院の診察券はお持ちですか。初診のかたは保険証の提示をお願いします」


「当院の診察券はお持ちですか。初診のかたは保険証の提示をお願いします」


「当院の診察券はお持ちですか。初診のかたは保険証の提示をお願いします」


 音の主は、機械的に同じ発言を繰り返しながら待合室に近づいてくる。キュイ。キュイ。それは廊下の端から出て、待合室に音を響かせた。だが、ソファーの下からの視界には相手の姿がない。

「当院の診察券はお持ちですか。初診のかたは保険証の提示をお願いします」

 声は眠の隠れたソファーに近づいている。だが、姿が見えず、声とキュイという音だけが響く。

 まさか、本当にそんな馬鹿なことがあるだろうか。動くガラス細工、久住音葉の話した噂を思い出した。ソファーの端がみしりと音を立てる。

「本日はどのようなご用件ですか。問診票への記載をお願いします」

 目の前に現れた音の主の姿に眠は息を呑んだ。それは、想像通り、いや想像していたよりもはるかに透き通っていた。

 硝子で出来た人間の顔。ソファを覗き込んだそれが、眠の顔前にいた。

「問診票への記載をお願いします」 

 顔が動き、くぐもった声が響く。透明な顔の中で、黒い液体が目まぐるしく駆け巡ったのをみて、眠は意識を失った。 

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