鏡の国(4):滞在二日目 綿貫地区にて

 港町を訪れて二日目。

 音葉は、部屋に差し込む日の光で目を覚ました。時計を見るといつもより一時間ほど早い。枕側に窓があるのだから、カーテンを念入りに閉めておくべきだった。

 重たい身体を起こし、脱衣所の鏡の前に立つ。隈が酷く、顔色も悪い。首を回すと少し軋んだ音がするし、頭痛のせいか視界もぼやけている。

 自分の疲れを確認し、脱衣所を出ると、日差しはベッド全体にかかっていた。今更二度寝をする気になれず、音葉はレストランに下りることにした。

「おはよう、音葉! ここのご飯美味しいよ」

 レストランに入ると、聞きなれた声が音葉の名前を呼ぶ。ビッフェ形式の朝食の横で水鏡が手を振っていた。いつもは昼を過ぎても寝ているのに、既に食事を堪能していたようだ。そういえば、ホテルに戻ってきた時から朝食会場に目を輝かせていた。

 水鏡に近づきテーブルをみると、皿が山積みになっており、優に二人分は食べた形跡がある。同行者とは思われたくなかったが、あれだけ大きく声をかけられ、テーブルまで来てしまった以上無視はできない。

 音葉の気持ちを知ってか知らずか、水鏡はテーブルを挟み、向かい合わせに座った音葉に自らの携帯電話を投げた。

「昨日の先生から電話が来てる。音葉と話がしたいって」

 携帯は、音葉の手に収まると同時に震えた。こちらの動きを見られているようで気味が悪い。携帯に表示されている時間を見る限り、まだ朝食の時間はある。食事をとるのは電話の後でも間に合うだろうか。

「やあ、ようやくお目覚めかい。おはよう、久住君」

 電話の声は明朗快活だ。数時間前まで浴びるほど酒を飲み千鳥足で帰った人物の声とは思えなかった。鷲家口眠、先日水鏡が資料館で知り合った男である。

「昨日の話、覚えているかい。僕は君たちに硝子化死体の情報を、君たちは僕に動くガラス細工や街の楽屋裏、いや裏路地というべきなんだろうね。とにかくその話を提供するという話」

 覚えている。むしろ、泥酔していた鷲家口のほうが忘れていると思っていた。

「ええ。とはいっても、僕たちは」

「トウワシンポウのヤマダさん、まずは彼のいう裏路地を探すのだろう。別に催促の電話ではないよ。ホテルを出てしまうと、電話の機会がないかもしれないからね。先に情報提供をしておこうと思ったんだ。さっそく等々力から返答が来た」

 別れてからまだ6時間も経過していない。

「対応が早すぎる? もう8時を回っている。世間はすっかり始業時間だよ」

 どちらかといえば、等々力なる者の対応よりホテルに戻ってから適切に連絡を取った眠に驚いているのだが、音葉の驚きは彼には伝わらなかったらしい。

「細かい話は聞けていないのだが、この街では、少なくても10年以上前から概ね3か月周期で失踪者が出ているそうだ。多い年だと年間で20名近くが行方不明になっている。それも、等々力が調べた限りでは、発見された人物は1人もいない」

 行方不明者。トウワシンポウのヤマダの話を思い出した。鷲家口も同じことを考えたのだろう。だが、彼は等々力にどのような連絡をしたのだろうか。失踪者の情報は硝子化死体とも、動くガラス細工とも関係がなさそうに思える。

「面白いだろう等々力という男は。私は、等々力に音葉君たちから聞いた話をしただけなんだ。それなのに、早々に連絡がきたのは失踪者の話。いったいどういう感覚で物を見ているのか不思議でならないだろう。

 等々力いわく、失踪者は硝子化死体とリンクするのだそうだ。硝子化死体が見つかる時期と失踪者が多発する時期はどちらも概ね30年周期。ちなみにこの前多発したのはちょうど30年前」

「それはつまり」

「今のところは断定できることはないよ。失踪者と硝子化死体の関連性については等々力がそう言っているだけで、何の論拠もない。

 それに、君が失踪者の話とガラス細工の話をつなげて考えているのは、ヤマダ何某の言う裏路地の件があるからだろ。でも、その話だって、何がどこまで本当なのか、私も君も何かしらの確証を掴んでいるわけではない。

 そもそも、現在、この街で失踪者が増えているかすらわからないんだ。私と君、互いに調査を進めてみない限り、何一つ図面は引けやしない。それでも今の話は音葉君にとっても興味深いだろうと思ってね」

「僕たちと鷲家口さんは知り合って12時間も経っていない。あなたが期待するような人間とは限らないですよ」

 電話口で鷲家口がクスクスと笑い声を立てる。

「もう12時間近く経っているじゃないか。それに、私はそういう言葉が出てくる君を気に入っているよ。こちらこそ、君たちの期待している情報を提供できるとは限らないから、妙な期待をしないでくれ。

 さて、私は私で、今日も硝子化死体についての調査を進めるよ。ガラス細工の噂に突き当たったら連絡を入れる。それと、プリペイド携帯の残高が減ってきたら連絡をいれてくれよ。約束通り、連絡手段の手配はこちらでしよう。どんな些細な情報であっても、手がかりを見つけたら教えてくれ。君たちが探しているものが、私の仕事に役立つ可能性もあるのだから」

 鷲家口はそう告げて、電話を切った。いつのまにか、テーブル上には空の皿は片づけられ、朝食のフルコースが並べられている。音葉の分までフルコースだ。

「街中で調査するならちゃんと食べておかないと」

 彼女の言う通りだが。大食漢が目の前にいると、どうにも食欲が失せる。それに、携帯電話によれば朝食の時間は思ったより残っていない。


*****

 大量の朝飯が胃に貯まり、歩くたびに胃が痛む。調査が捗らなかったのは胃もたれのせいだと悪態をつきたくなったが、残念なことに胃もたれの有無で裏路地の見つかる確率は変わらない。

 職人街から通り一つ離れた海岸線で、道端に座り、ぼんやりと空を眺めるが、解決の糸口は浮かんでこない。視界の端に見える硝子化死体の発見場所にも手がかりらしき手がかりはなかった。

 裏路地の入口がぽっかりと口を開けてくれやしないか。ありそうにない期待を込めて立ち寄ってみたものの、そこにあったのは、幾ばくかの貨物と縄、そして、痛々しい実況見聞の跡だけだ。足場の隣に下水処理目的の水路に続く穴があるが、そのほとんどは海水に浸かっている。穴の先に裏路地が広がっているとは到底思えなかった。


 ホテルでの重たい朝食の後、音葉と水鏡は、海岸沿いに広がる職人街を歩き、ヤマダの同僚が見つけたであろう裏路地の入口を探した。しかし、一般人からは見つけられない隠し通路だけのことはあり、手がかり一つ見つからない。

 ヤマダと名乗る男のデマに踊らされている、そんな想いが鎌首をもたげてくる。

「空振りといえば空振りだけど、これも一つの結果ではあるよね」

 水鏡が団子を頬張りながら、テーブルに広げた地図を眺める。地図には先日、ヤマダとあたりを付けた裏路地の入口候補が丸印で示されている。午前中に回った結果、そのすべての丸印の上にはバツが書き込まれた。

 この結果だけみれば、裏路地は存在しない可能性が高い。その限りでは、たしかに水鏡の指摘する、見つからなかったという結果が出ているようにも見える。

 しかし、音葉たちが職人街や海岸線を歩いたのはたった半日だ。探したエリアにたまたま目的物が存在しなかったにすぎない可能性は未だ残る。今のところ、職人街では動くガラス細工自体の噂を聞くことができない以上、手がかりらしき手がかりは裏路地だけなのだ。諦めずヤマダの情報に縋る他、今の音葉に取れる選択肢はない。

「でもあてもなく歩き回っても昨日と同じで成果はでないよ。記者の話がデマなのか、裏路地ではないどこかにガラス細工は隠されているのか。鷲家口先生の情報を待って次の方針を決めたほうがいいんじゃない」

 水鏡の言い分は分かる。だが鷲家口が有益な情報を持ってくる保証はない。朝の電話からすれば、失踪者や死体に関する情報は出ても、裏路地の情報は出てこないだろう。

 鷲家口の話では、硝子化死体は人間の死体に精巧なガラス細工が接ぎ木されたものと考えるのが妥当だろう。音葉が聞いた滑らかに動くガラス細工という噂とは距離がある。

「そういえば、昨日資料館に行って、手がかりらしい手がかりは見つかったのか?」

「鷲家口先生が話していた通り、街の歴史について展示されていただけだった。この土地に初めに住んでいた人たちは、ガラス細工を精霊の器とする信仰があったみたいだけど、器になったガラス細工が動き出すような逸話は見当たらなかった。少なくても展示室には展示されていなかったよ。

 先生は、あの展示は意図的に何かを隠しているんだって館長に詰め寄っていたけれど、館長もクレーマーへの対応がこなれているんだと思う。展示室にあったもの以上のことは教えてくれなかった」

「その話しぶりだと、君もあの先生と同様に何かあると思ったのか」

「どうだろう。何かしら街の歴史について話したくないことがあるのだとは思うけど……それが動くガラス細工のことかどうかはわからない」

 つまるところ、資料館の線についても行き詰まっている。お手上げだ。

「ねえ、音葉。この調査って、喫茶店にきていた記者、篠崎さんだっけ。彼女からの依頼なのでしょう。彼女が聞いたという元々の噂はどこが出所なの。この辺りで話を聞いても、誰も噂を知らない、本当にその話はこの街で流れているものなのかな」

 なるほど、水鏡の疑問はもっともだ。噂そのものが存在しなかった可能性は検討したことがなかった。一度、篠崎に確かめてみるのはよいかもしれない。

 音葉は藁にも縋る思いで、携帯電話を取り出した。幸いなことに鷲家口に頼らずともまだ残高は残っている。


*****

 締め切り10日前。取材の進捗は上々。記事も概ね出来上がってきた。どうにか今回も割り当てられた特集記事はクリアできそうである。

 数日間頭を悩ませたノルマに終わりが見え始めたところで、篠崎ソラは大きく伸びをし、凝り固まった身体をほぐした。同僚たちは取材に出かけている。編集長も編集会議に出ていて不在。同室の記者たちの姿も少ない。

「さぼりどきだね。こりゃ」

 手帳に書き留めた取材予定の箇条書き。会社の近くで検証ができるものはないかと眺めていると、懐の携帯電話が震えた。発信元は見知らぬ番号だ。いや、そういえば昨日ショートメールが入っていた。メールによれば番号の主は久住音葉。行きつけの喫茶店で出会った便利屋と名乗る青年だ。

 メールには調査の為にプリペイド携帯を購入したから念のため番号を知らせておくと書かれていた。

 席を外して電話に出てみると、彼は本当に篠崎が話したガラス細工の噂の調査の為に現地に入っているという。ダメで元々と思い調査の依頼をして1週間。篠崎は、久住音葉の行動の早さに驚いた。

「ええっと、それで、話はだいたいわかったのだけど、電話をくれたということは動くガラス細工の手がかりが掴めた?」

「いいえ。街で聞き込みをしてみましたが、手がかりはゼロです。誰に聞いてもそんな噂を知っている人すらいません。というより、取り合ってすらもらえない」

 篠崎が街を訪れた時と同じだ。自分で足を運んだ時も、手がかりは全く見つからなかった。「取り合ってもらえない」という音葉の言葉に多少引っかかりは残るが、こうなってくると噂自体が学生たちの与太話だった可能性も強くなってくる。『硝子細工が動く』という走り書きに射線を引こうとしたときだ、久住音葉から思わぬ問い合わせが出てきた。

「彼らが噂を聞いた場所について? 場所っていっても…君たちがいるその街で聞いた話だと言っていたけれど」

 答えながらも、篠崎は手帳のページをめくっていった。街のどこで話を聞いたのか、その情報はおぼろげながら聞いた記憶がある。

「待って。あった。えっと、彼らが泊まっていた旅館で話をきいたそうよ。ワタヌキ、綿花の綿に貫くとかいて、綿貫旅館。駅前の観光街から少し離れたところにあるみたい。私? そういえば、綿貫旅館は訪ねていないね……だって、旅館のある綿貫地区には硝子細工の工房なんて一つもないのよ」

 そう、だから学生たちのきいた噂も職人街やガラス工房のある地域で流れているものだと思っていた。これは盲点かもしれない。

「綿貫地区には足を向けたかって? バスの路線にあったから一応通ったけれど、ガラス工房はないし、駅前の職人街とは雰囲気が違う街よ。住宅街、いや、漁村が近いかもしれない」

 久住音葉が訪れている町は海岸線沿いにあるが、ガラス細工の産地であり、観光地としてもガラス細工を推しだしている。ところが町を支えるもう一つの産業、漁業については全くアピールされない。その証拠に、駅を下りて眼前に広がる海岸線沿いには、若干の倉庫を除き、一切の漁業関連施設がない。

 では、漁業はどの辺りで行われているかといえば、駅前地区の両脇を塞ぐ山を越えた先だ。海岸線の道路の先、短いトンネルを抜けた先に広がる綿貫地区はそうした土地だ。華やかな硝子工房が並ぶ駅前地区と異なり、築年数の古い住宅と船ばかりが目立つ。観光客向けに用意された施設はなく、町の古い歴史を詰め込んだような場所だった。

「その大学生は、なんでそんな地区に宿泊していたのでしょう」

「別に私やあなたみたいにガラス細工の噂を捜しに行ったり、ガラスに興味があって観光に行った子じゃないのよ。水産学科の学生でね」

 久住音葉も納得したような声を出した。その後、幾らか噂についての質問に答えてやるとひとしきりの感謝の言葉と共に、電話は切れた。電話の様子だと、綿貫地区も範囲に含めて引き続き調査は続行されるようだ。

「変わった子、だよねぇ」

 まともに話したのはこれで3回目だろうか。旅費等の経費は支払わない。真偽判定の結果と引き換えに定額の報酬という条件で、雲とを掴むような噂の調査を引き受けるのだから、変わった人間だと思っていた。なんなら、調査をしたフリをして金を巻き上げるつもりかと疑っていたし、まあ、最悪それでも良いと思っていた。

 ところが、電話の様子だと律儀に調査に出かけている。久住音葉は篠崎の知らない町の歴史や町の様子について詳しく話してくれたし、何より、彼自身が噂の真偽を確かめたいという気配があった。

 まったく不思議な人間ではあるが、これでネタが上がってくれば儲けものだ。今のうちに自分の仕事を続けておこう。篠崎は手帳を閉じて、デスクに戻ることにした。


*****

「それじゃあ、その綿貫地区っていうところ……このトンネルを抜けた先にある地区に行けば、動くガラス細工の話が見つかるってこと」

 海岸沿いの団子屋に長居するのも忍びなく、音葉は水鏡を連れて、先日ヤマダと訪れた喫茶店に顔を出した。

 先日とは違って、テーブル席二つを残しては客で埋まっている。ビル内すべてが見通すことのできる窓際の席は残っていたため、音葉は、窓際の席を確保し、窓の外の不思議な風景を見ながら篠崎ソラに連絡を取った。

 水鏡といえば、他の客のテーブルが気になったらしく、ケーキセットとガレットを頼んでいる。ガレットについては音葉の分も頼んでもらったが、店に入る度に食事を頼まれると資金があっという間に底をつく。篠崎からの報酬もそれほど多くはない。身分の確保もままならない状態である以上、できれば食い倒れの旅は控えたい。

 美味しそうにケーキを頬張る水鏡に、音葉は思わずため息をついた。しかし、水鏡は気にすることなく、篠崎ソラとの電話の内容について口を開く。

「綿貫旅館と言っていたけれど、観光マップにそんな旅館あったかな」

「あったよ。昨日、鷲家口先生からもらった地図には載っていた。ホテルのロビーでもらった地図は観光エリアだけしか載っていなかったんだ。

 確か、彼が仕事でいった病院がその近くにあったはずだ」

 音葉に促され、水鏡がポーチの中から地図を取り出した。綿貫地区は、駅前通りから海岸線を走り、トンネルを抜けた先。篠崎が話していたのと概ね同じ位置にある。

 地図には旅館や飲食店のマークが入っているが、駅前地区と比べると綿貫地区は圧倒的にマークが少ない。おかげで目的地の綿貫旅館はすぐに見つかった。

「これが、綿貫旅館で…ここ、この先の総合病院が、鷲家口先生が数日前に訪れた病院か。綿貫旅館の通りをずっと山側に上った先なんだね」

 音葉たちのいる飲食店ビルから旅館までは数キロといったところだ。しかし、地図を見る限り綿貫地区には駅がない。バスかタクシーを使うのがよいのだろう。

 昨日は職人街に注目していたため、地図も観光地図を使っていたし、町全体のつくりは確認していなかった。こうしてみると、この町は、山間にできた大小4つの斜面に作られていることがわかる。鷲家口の持っていた地図には等高線も入っている為、音葉たちがいる駅前地区と同様に他の3つの地区も町の上下の高低差が大きいことがわかる。

 どうやら坂が多いという印象は、観光エリア外でも変わることはないようだ。

「あれ……? なんかこの地図」

 何かに気が付いた水鏡が声をあげるのと、同時にテーブルの端に店員がぶつかった。店員が持ったトレーが傾き、グラスが倒れてテーブルにコーヒーが零れ落ちる。

「すみません!」

 店員の謝罪に続き響き渡るグラスが割れる音。慌てた店員がトレーごとひっくり返してしまったらしい。その後は、他の店員も寄ってきて、テーブル周りは一時の混乱に陥った。

 広げた地図はコーヒーに浸されてしまい、水鏡は泣く泣くその地図を店員に渡した。コーヒーをこぼした店員は何度も申し訳ないと頭を下げ、音葉たちが店を出る前には店長が代わりの地図を購入して戻ってきた。


*****

 喫茶店での騒ぎも落ち着き、慌ただしく店を出ると、階下への坂道に立つ見慣れぬ男が音葉たちに手を振っていた。

 まあ、次から次へと妙なことが起きる日だ。音葉は男を無視して彼の横を通り過ぎて、階下への坂道を歩き始めた。しかし、男は音葉と水鏡の後ろにぴたりとついてきて、背後からこちらに声をかけてきた。

「君たち、動くガラス細工の噂を調査しているんだって? 職人街でちょっとした噂になっているよ」

 男は尋ねもしないのに群来(クキ)と名乗った。町の観光局に勤めているという。

 噂の真偽を確かめに来ているのに、どうやら噂になっているのは音葉たちだという。噂自体は聴こえてこないのに、音葉たちに興味を持つ人間ばかりが現れるのは、少々気味が悪い。

「君たちならこの喫茶店にくるんじゃないかって職人たちが話していてさ。会えてよかったよ」

「それは、何か噂について教えてくれるってことですか?」

 無邪気な水鏡の質問に、群来は笑顔を返した。

「まあまあ、まずは一緒にでかけませんか? 綿貫地区の話をしていたでしょう。綿貫旅館を捜していたんだっけ。実は僕も店にいたんですよ。綿貫まではバスかタクシーで行くことになるし、この時間は残念なことにバスがない。観光局の仕事は、町のことをアピールすることだからこういうときの手助けも僕の仕事の一つなんですよ」

 群来は、笑みを崩さず音葉の肩をつかみ、半ば強制的にビルの外へと連れ出そうとする。得体のしれない相手に反撃をしようかと頭をよぎるが、相手の意図も読めない以上、むやみに暴れるのもよくない。音葉はおとなしく群来に従うことにした。


 群来の車は音葉と水鏡を乗せると海岸線の通りへと走り出す。平日の昼間ということもあってか、トラックの往来が目立つ。

「この通りは住民の行き来以外に、近隣の自治体間を結ぶバイパスになっていてね。観光客のほとんどは電車で来るものだから、結果として港から出るトラックと、この町を通り過ぎるトラックばかりが走っている。だから、観光地なのに一本横に入ると雰囲気が変わってしまう」

「その、綿貫地区っていうのは」

「ここからなら10分から15分少々というところだよ。綿貫旅館まで案内しよう。君たちは、旅館で聴けるという動くガラス細工の噂に興味があるんだろう」

 後部座席に座る音葉たちに、群来はさきほどと同じ笑顔を見せた。だが、フロントミラーに映る彼の眼は笑っているようには見えない。

「昨日も噂を探していたら人に声をかけられたんです。記者だったのですが」

「そんなことがねぇ」

「群来さんとは知り合いでは?」

「観光客にガラス細工の噂を持ち掛けるような知り合いはいないよ。だいたい、君たちはどこでそんな噂を仕入れてきたんだい」

「そんな噂? 動くガラス細工のこと」

「それだけじゃない。君たち、職人街でいなくなった人たちのことも探っているだろう。そういう話は観光客には伝わる性質のものじゃあないと思っていたのだけど」

「それは、群来さんは二つの噂について何か知っているということですか」

 群来は音葉の問いには曖昧な頷きを返すだけだ。

「これは楽しく観光をするコツなんだけれど、街に溢れているあまりよろしくない噂については距離を置くことだよ。旅先で妙なことに巻き込まれるなんてごめんだろう。ま、あれだけ熱心に聞いて回っていたのなら言っても聞かないと思うから、君たちを綿貫に連れて行こうと思ったのだけれどもね」

 どうやら、群来は、音葉たちにガラス細工の噂に関する情報をくれるつもりのようだ。それ以上の詮索はやめろという条件つきで。

 しかし、突然声をかけられて、事情の説明もなく詮索をやめるつもりはないし、彼に従う理由もない。ここは、綿貫地区での情報を集めるだけ集めて、あとはハンドルを握る男と別れてしまうのが得策だろう。

 水鏡に目配せをすると、珍しく音葉の意図を察知したらしく、小さく頷いた。


 群来の言う通り、走り出して約10分。1キロほどのトンネルを抜けると綿貫と書かれた道路標識が目に入った。

 篠崎ソラが語っていたように、景色が観光地から住宅街へと一変する。海岸線には防波用のブロックがならび、遠くに何隻もの船が停泊している。通りの反対側に立ち並ぶのは、住宅ばかり。ところが坂の中腹辺りの小さな崖より上には近代的なビルが見える。

「崖のところで、雰囲気が変わるのが下からでもわかるでしょう。トンネルを抜けた先からあの崖下までの一帯が、綿貫。崖上の、病院の辺りから上の地区は外淵(そとぶち)と言う地域でしてね。綿貫が古くからの住宅街だとすれば、外淵は街の住人の現在が詰まっている。観光客向けの駅前地区とは違って、外淵と綿貫は生活の拠点なんですよ」

 もっとも、二つは似ているようでまるで違う街ではありますが。群来はハンドルと握りながら、眼前を流れる光景を説明していった。すらすらと流れるような口上が続く様子は、彼が観光局の人間であるという話を信じさせる気になるものだった。だが、それと矛盾するかのように、群来の話には綿貫と外淵は、観光地ではないというメッセージが含まれている。


 群来の話を整理すると、綿貫地区と、外淵地区には歴史的な乖離がある。古くは先日来音葉たちが歩いてきた職人街と駅前地区、そして綿貫地区が街の中心であったという。

 外淵、それに駅前地区を綿貫と逆方向に進んだ先にある地区も、自治体に組み込まれたのは40年ほど前だ。地元住民は外淵をはじめとする周辺地域との合併に当初は強い拒否感を示したという。

「例えば、鶏料理が名物なのに、畜産を主産業と掲げないところも軋轢の一端です」

 それでも町の主たる機能は外淵に移行しているし、綿貫の人間も他の地区へ仕事を求める者が増えている。今や綿貫以外を拒否して暮らす選択は不可能だ。

 結果、綿貫地区の人間は徐々に減少し、空き家が増加している。観光局が空き家利用策を促してはいるが長続きするものは少ない。

「誤解のないように説明すると、綿貫旅館は、昔からある旅館なんです。観光以外の訪問客がよく使っているみたいで、そのおかげで今でも健在なんだそうです」

 海沿いの道を曲がり坂を上ると、住宅街の陰に三階建ての大きな洋館が見えてくる。電柱に吊り下げられた綿貫旅館の標識が、この洋館こそが群来の目的地だと告げていた。


 駐車場に車を停めると、群来は音葉たちに車の周りで待つように告げ、旅館の入口へと入っていった。奇妙な男から一時的に開放されからか、急に身体から力が抜け、音葉は群来の車にもたれかかった。

「なんか疲れる人だね」

 水鏡は車の横で屈伸や伸びをして、身体の凝りをほぐしていた。

「こちらに情報は与えたいけれど、詳しい事情は話したくない。町に来てから会う人は、そういう人ばかりだ」

 いや、本当は街に来る前からそうかもしれない。水鏡紅もまた、未だに音葉と彼女の関係を適切に説明していない。記憶を失ってからの音葉の視界は、あらゆる人の秘密に阻まれ、蒙昧としている。

「でも、群来さんは多分、他の人たちと違って、私たちに情報を渡したくないというタイプじゃないと思う」

「勘か」

「勘。といえばそうかもしれないけれど。あの人、車に乗ってからはこの街の事を色々と話してくれたじゃない。街から遠ざけたいなら、あんなに話さないよ」

 それなら、初めからそう話せばよい。ビルの中であんなふうに絡む必要性なんてどこにもなかったのではないだろうか。

「それは、車の中での話を聞かれたくなかったのかも」

「聞かれたくなかったって誰に?」

「あそこで私たちを見ていた人たちとか。たぶん、ガラス細工の話。もしかすると、失踪者の話や裏路地の話も、街中では話してほしくない話題なのかもしれない」

 見ていた? 音葉には水鏡の言葉が理解できなかった。彼女への返答を迷っているうちに、群来が旅館から顔を出した。旅館の人間が、ガラス細工の噂を聞いた大学生について覚えていたらしい。丁度、手が空いているから話を聞ける。群来の呼びかけに、水鏡が反応した。

「今日一番の手がかりかもしれないよ」

 水鏡の弾む声に促されて旅館に向かうが、音葉は先ほどの水鏡の言葉が気にかかっていた。水鏡と群来は誰からの視線を感じたというのだ。


*****

 群来に案内されたのは、旅館の玄関横に据え付けられた事務所だった。音葉たちを出迎えたのは旅館の女将と、館内で売店を営んでいる可惜(アタラ)という恰幅の良い女性、そして番頭を務めているという白髪交じりの髪が目立つ壮年の男性だった。

 男性は、事務所に入った群来をみるなり、「たまには顔を見せろ、エーイチ」と声をあげ、音葉たちは、群来青年の名前が栄一(エイイチ)であること、その男性が彼の叔父、群来三治(クキ‐ミハル)であることを知った。

 女将から、歓迎の言葉を受け、一通りの自己紹介を終えると、三治と可惜は、彼らが出会ったという大学生の話を始めた。


「あの子らが旅館に泊まったのは、半年くらい前だよ。正確な日付は後で台帳でもみれば分かる。水産の勉強している学生さんらだ。この時期になると、毎年のように隣の市から学生さんらがやってくるんでね」

 三治曰く、近隣の大学にて、綿貫地区の漁業の実態を研究している研究者がいるのだという。その研究者は、毎年、学生を連れて海洋調査と、漁業の実態調査にやってくる。そして、秋口頃には、漁協に意見書という名のプレゼンが届くのだという。

「水産資源の持続的な維持を掲げるという話でね、その道では有名な先生と町が提携関係にある。で、先生の研究の手伝い兼、授業の一環で、毎年2回、学生が綿貫地区にやってくる。一番漁場に近い旅館というと、ウチになるから、大抵彼らはうちに泊まるんだ」

 だから、学生は特段珍しい宿泊客ではないという。にもかかわらず、三治も可惜もガラス細工の噂をしていた学生を覚えている。というのも、ほとんどの学生は授業の内容に関わることと毎夜の飲み会のことしか頭になく、街の噂について尋ねてくる学生は非常に珍しかったからだという。

 さて、三治が、その学生から噂を聞いたのは、学生らが滞在して3日目の夜だ。

「仕事が一段落して、片づけがてら一服でもしようと思って表に出たんだわな。そうしたら、風呂上がりの彼らに会った。ええっと、一人はたしかミノルと呼ばれていた変わった色の髪の男で、もう一人はコウジだ」

 学生たちは、男子4人、女子2人のグループで宿泊していた。三治がそのとき会ったのは、グループの中では一番背が高く、角刈りのコウジと呼ばれる男子学生と、緑に染めた髪が目立つミノルという男子学生だ。

 旅館の裏庭。三治がいつも一服に使っている場所に、ミノルとコウジはいた。2人は、コウジの手にもったライターを見ながら真剣な顔で何かを話していた。大学生とはいえ、1年目、2年目なら未成年の者もいる。ふと、そんなことを考え、三治は彼らに喫煙について一言注意をしようと近づいた。

 ところが、声をかけてみると、ミノルから予想もしない質問が返ってきた。

「番頭さん、この旅館長いんですよね。こういうライターを持っているお客さんってここに来たことありますか?」

 ミノルはそういって三治に渡したのは金属製オイルライターだった。全体は金色で光沢があったが、表面の塗装が剥げて下地の銀が見えている。底面には『東和新報20周年記念』と彫られていた。

「心当たりはないが……しかし、東和新報20周年というと、俺が働き始めるよりも随分と昔のものだろう」

「そう、なんですか?」

 三治の回答に、二人の学生は大層驚いた。

 東和新報といえば、三治が小学生だったころ、今から30年以上前に町にあった出版社だ。地元の情報誌の制作や、新聞の地方欄の作成などを主な仕事にしていたが、ある日突然倒産してしまった。倒産した当時、設立35年と言われていたから、このライターはさらに15年程度昔の品ということになる。

「こんな骨董品、どこで見つけてきたんだ。大学に戻ってからじゃあ価値がないかもしれないが、この街じゃプレミアものだ。こんなもの初めてみたよ」

 彼らの様子が面白かったので、冗談めかして出自を教えてやると、ミノルたちは笑いもせず、血の気の引いた顔で互いに見つめあっていた。何かまずい話でもしただろうか? 三治が首をかしげていると、再びミノルが口を開いた。

 だが、話題は三治に渡したライターから、全く予想外のものに移ったのだという。

「あの、この街には、動くガラス細工の噂がありませんか?」


「待ってください。今の話、ええっと本題はこれからだと思うのですが」

 全員の視線を集めた音葉は三治の話を遮ってしまったことに後悔した。群来栄一は、三治達にガラス細工の噂のことを尋ねたいと伝えている。三治の今までの話は、いわば前座だ。突然話を遮られたら驚きもするだろう。

 声を上げてから状況に気が付き、不意に体中が熱くなるような感覚に襲われる。ところが、音葉が話をつづける前に、三治が納得したように頷いた。

「君たちも今の話に興味を持つのだね」

「君たちも? 私たち以外に誰か話を聞きに来たんですか?」

 音葉の隣に座った水鏡が尋ねると、三治は可惜と顔を見合わせて笑い出した。

「いや、そういうわけじゃあない。改めて学生たちの話をしたのは今日が初めてさ。ただ、彼らもライターの出自には興味があったみたいでね。俺と話した後も、可惜さんや女将にライターのことを聞いて回っていたんだ」

「ライターのことですか。ガラス細工の噂ではなくて?」

「それも話をしたけれど、余談みたいなものよ。話のきっかけは、群来さんと同じ。緑の髪の男の子が特に熱心でね。東和新報という会社は本当になくなってしまったのか。20周年を迎えた似たような会社はないかって尋ねてきてねぇ。東和新報なんて、もうずいぶん前に倒産した出版社のどこに興味を持ったのか」

 当時の様子を思い出しているのだろう。宙を見上げながら可惜女史が首を傾げる。三治と可惜が黙り込んでしまうと、2人の話を助けるかのように女将が口を開いた。

「チェックアウトの日に、私のところにも尋ねてきましたよ。その時は、緑の子よりも角刈りの子の方が幾分か熱心に質問をしてきたように思います。食事の際などに挨拶をしていましたが、あれほど話す方とは思いませんでしたので、印象に残っています。ただ、お二人がいうようにライターというより、少なくても角刈りの……コウジ様は、ライターをくれた人物に興味を持っていたように思いますが。

 久住さんが知りたい話とは少し横道にそれますが、当時の話であれば私からもいくらか話せることがあるでしょう。群来さん、可惜さん、お二人とも次の仕事があるでしょうから、いったん席を外して仕事を済ませてきてください。

 それでも、いいでしょう? 久住さん。水鏡さん」

 女将の口調は同意を求めるものだったが、断ることは許されない。そんな圧を感じ、音葉は黙って頷いた。


 女将がミノルたちからライターと東和新報の話を持ち掛けられたのは、宿泊5日目、最終日の朝だ。朝食を食べてチェックアウトする予定だった一行は、調査を終えた4日目の夜、遅くまで宴会場で話に華を咲かせていた。

 引率の教員が一名ついてきているとはいえ、年頃の学生たちだ。宴会場ではつい先ごろまでひそひそ声が響いていた。4日間の調査の疲れも加味すれば、最終日の朝食に現れるのは半数程度だろう。

 女将は板前長とそんな雑談をしつつ、仄暗い朝方の旅館で朝の準備を進めていた。そんな折、事務所に現れたのがコウジとミノルの二人だったという。二人は既に浴衣から着替え、調査に出かける時と同じダウンを着込んだ姿で事務所に現れた。

 チェックアウトの時間にはまだ随分と早いし、朝食もあるのだからもう少しゆっくりしたらどうか。二人の姿をみて、女将はそう声をかけた。

「けれども、それは私の勘違いで、最終日だからと海を見に行っていたと話すのです。宴会場がずっと盛り上がっていたから、てっきり二人もそちらにいると思ったのですが、研究熱心だったのでしょうね」

 常に目新しい発見が見つかるわけではない。長年綿貫地区の漁業の変遷を記録する。授業という名目を被ってはいるが、実際には担当教員の長年のライフワークの一端を手伝わされているだけだ。毎年学生の顔ぶれは変わるのだから、彼らがこの4日間で学ぶのは綿貫の歴史や漁業ではなく、フィールドワークの基礎的な手法と、地元の人間との付き合い方でしかない。

 女将にとっては、彼らが綿貫で行っている調査が、朝方まで熱心に港に出向く必要性のあるものとは思えなかった。そして、学生側もどこかでそれを承知し、了解の上でやってきているのだと思っていた。だからこそ、夜は参加者全員で語り明かすし、調査自体も毎年穏やかに行われ、目立ったことは何一つないのだ。

 ところが、コウジとミノルの姿勢は随分と研究に前のめりだ。こういった人材がやがては教員の学問を引き継いでいくのだろうか。部外者ながらにぼんやりと考えたことをよく覚えていると、女将は語った。

「それで、すっかり、お二人に感心したものだから、ほんの少し、調査の結果とか、滞在期間中の感想なんかの雑談をさせていただいたんです。コウジ様がライターの話を持ち出したのはそういった雑談の中でのことでした」

 もっとも、三治や可惜のときと異なり、コウジは女将にライターを見せなかったという。調査をする中で、海岸線沿いで漁師とは違った出で立ちの人物に出会ったのだという。

「ちょうど漁業組合の建物で出会ったと話していましたね。漁師にしてはこじゃれた風体だったので、ミノル、緑髪の学生が声をかけたのだそうです。確か、相手は記者だと名乗ったのだとか」 

 学生たちは記者だと名乗るその人物に尋ねられるままに、自分たちの授業、研究目的などの概要を話したのだという。そのどこかが記者の琴線に触れたらしく、機会があればもっと話をしたいのにとぼやきながら取り出したのが、件のライターだったのだという。

 もっとも、漁協組合も、最近の流れを汲んで建物全体が禁煙になっている。記者が煙草の火をつけようとした矢先に職員が注意を促し、記者は照れ隠しのようにライターをミノルに手渡した。

「その時に、まだどこかで会ったら取材をさせてくれと言われたらしく、コウジ様から、綿貫旅館の名前を出したのだそうです。今週いっぱいは宿泊しているから、何か用があるのであれば、顔を出してもらえると嬉しいと。まったく、最近の若者は剛毅といいますか……なかなか年上の人間に向かってそういう話をするのは勇気がいることだと、私なんかは尻込みしてしまうものです」

 とにもかくにも、ライターの持ち主は、そこでミノルたちが綿貫旅館に宿泊していると知った。そして、綿貫旅館は良い旅館だと褒めちぎっていたのだという。

「その記者という方がどなたなのか、過去に当旅館に宿泊したお客様なのかを判断する情報は何もないのですが、評判がよいという話は本当に喜ばしいことです。

 ただ、コウジ様やミノル様においては、結局最終日まで記者が会いに来なかったことを気になさっていましてね。過去に宿泊した客だったら、また顔を出すこともあるだろうから、ライターを預けていこうと思っていたのだそうです。

 群来さんや可惜さんにライターの話を聞いていたのはそういう理由です。私も、同じように質問をされましたが、ライター一つでお客様を特定できるほどではありません。なにより、朝、彼らに出会った時には、二人ともライターを持っていなかったのでよくわからなかったのです。

 率直にその旨を伝えるとコウジ様は大層しょげた様子を見せていまして、たかだかライター一つでそれほど落ち込む話でもないだろうと思ったのをよく覚えています」

 もっとも、彼らにとっては端にライターを返却しそびれたという話ではないのだろう。何しろ、相手はつい先日自分の会社で作ったライターだといって、それを渡したのだから。

「その話を聞いた時には、さすがに揶揄われたのではないかと思いました。私もこの旅館の女将を務めて長いですからね。町のことは勤める前の歴史も含めて、多くのことを学んでいるつもりです。

 群来さんたちが言う通り、東和新報はすでに数十年前に倒産してなくなった会社です。20周年のライターなどというものがあるとしても、作られたのはずっと昔の話ですし、学生たちが出会った記者を名乗る人物は、30歳前後だというのですよ。

 本当に東和新報の記者だとすれば、どんなに若くても60代に足を踏み入れているのです。30代の人間がいるわけがない」

 三治たちからも東和新報の話をきいていたコウジとミノルは、女将のその説明を聞いて、血の気の引いたような顔をして、部屋に戻っていったのだという。


 おそらく、ミノル達は番頭や売店の販売員にからかわれていると思っていたのだろうか。それが、そうした遊びとは縁遠そうな女将からも同じ説明を受け、動揺したといったところだろう。

 何を隠そう、音葉も女将の話を聞き、全く同じ感想を抱いているのである。仮に彼らの話が本当だとすれば、音葉が職人街で出会ったヤマダと名乗る人物もまた、すでに存在しないはずの会社に所属し、同僚を捜していることになる。

 しかも、その男は音葉が職人街でガラス細工の噂を調べていることを知って近づき、同僚の消えた裏路地についての情報を与えた。

 女将の話を聞きながら、音葉は水鏡の言葉を思い返していた。誰かが音葉たちを見ている。水鏡が感じた視線とは、東和新報の名を語る人物たちのものだったのか。


「さて、そろそろ群来さんたちの仕事も終わる頃でしょう。横道に逸れるのはこれくらいにして、お二人が戻ってきたら、本題の噂のことを話していただきましょう。それと、あのときお客様から預かったオイルライターは今でも保管しているはずですから、私の方で探しておきましょう。

 それと、わざわざお越しいただいたのもご縁ですから、お話が終わったら、夕ご飯も召し上がっていってください」

 流石に食事は断ろうと、身を乗り出すと、水鏡の腹がぐぅと大きな音を立てた。だが、旅館の食事は値段が張る。懐の資金はあとどれくらいだ。午前中にあちらこちらで食事をしたため、正確な残額が計算できなかった。

「大丈夫ですよ。お二人の食事代は、栄一さんが支払いますから。ねぇ、栄一さん」

 どうやら迷いが顔に出てしまっていたらしい。女将の申し出に事務所の隅で話を聞いていた群来が渋い顔をした。声をかけたのは群来からとはいえ、食事代を負担させるのは何か話が違う。やはりここは断るべきだろう。

「お言葉に甘えてごちそうになります。旅館のご飯、興味あったんです!」

 しかし、音葉の決心は、水鏡の元気の良い言葉にかき消されてしまった。全く、彼女はどこまで食い意地が張っているのだろうか。

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