賭け事と秘め事(3・終): 賭け事と秘め事
3
「Fの3」
「着水。及川清秋、やはり、あなたの強さは僕の記憶を覗きみたからこそ。本来のあなたは僕の戦艦が位置を知る術はもっていない」
「次の手番は君だよ」
「Bの2」
「着水。Fの4」
「着水。Cの1」
「着水。Eの3」
「着水。D の1。何かあたりをつけて選択しているようだが、当たるかどうかは運しだい。君が嫌っていた展開のようにみえるよ、及川清秋」
清秋の潜水艦を沈めて以降、西松崇は別人のように強気の姿勢を崩さない。
「着水。ところで、西松崇。君は、宣宮司栞のことをどこまで知っているのかな。例えば、彼女の家族構成」
「知らないからこそ僕はこのゲームに乗ったんですよ。それに、宣宮司栞の家族のことを知っても、僕には益がない。僕が知りたいのは」
「あくまで泥状死体の謎だけか、それじゃあ、切り口を変えてみよう。君は、私のことをどこで知った。Eの4」
「着水。その記憶なら、もうすでにみていると思っていました。顔は前からパンフレットで見ていましたよ」
「パンフレット。それは、宣宮司栞が死亡したあの温泉街での個展のことかな」
「そうです。たまたま、僕もそのパンフレットを見たから、あなたを見た時に声をかけることができた。Eの1」
「なるほど。着水だ。では、君はあの温泉街に行ったことがあるのかな。Dの3」
「着水。いいえ、ありませんよ。あるならもっと事件のことをよく知っていた、そうは思いませんか。Aの2」
「着水。思わないね。泥状死体の件と、宣宮司栞が訪れた温泉街を結びつける要素はどこにも見当たらない。君がなぜそんな考えに至ったのか、甚だ疑問だ。Bの3」
「着水。Bの2。言っている意味がわかりません」
「着水。君は自分の発言を疑問に思わないのか。仕方がない、賭けてはいないが一つ教えてあげよう。私はね、個展のパンフレットに顔写真を載せることはしないんだ。それに、あの個展は売れなくてね。パンフレットを持っている人間は数が知れているんだよ」
西松の目の焦点がぼやける。先ほどまでの強気な視線が消え去り、ゲームを始める前の少し疲れた、不安をかかえた目に戻り、視線を左右にさ迷わせ始めた。
「西松崇、言っただろう。私は君をすべて剥がすのだと。このつまらない潜水艦探しの時間を使って、君が知らない君のことを教えてあげよう」
彼は清秋の顔に目を向けた。言葉の意味がわからないというメッセージを込めて。
*****
及川清秋が西松崇のことを知ったのは、街を訪れて2日目のことだ。
その日、清秋は森山十市の足取りを追い、彼が最期に宿泊していたという簡易宿泊施設を訪れた。
森山は湯神衆でも古参であったため、3年半もの間、湯の神の加護を失い生き続けることは難しかったらしい。彼の最期は、簡易宿泊施設にて老衰で発見されたというものだった。突然の老衰で話題になっているかと思ったが、どうにもそのような情報は見当たらない。もしかすると、街にたどり着いた時点では既に力を失い、肉体も本来の年齢に近づいていたのかもしれない。
だが、彼が死んでいたからといって、宣宮司栞との接触がなかったと決めつけるのは早計だろう。なにしろ、宣宮司が奪ったのは雄神だ。雌神衆である森山は、宣宮司を見つけただけでは延命はない。彼が真に求めていたのは雌神のはずなのだ。
それに、途中から鶏口水江の足取りが途絶えたことも気になる。彼女らしき死亡記事はどこにも見つからない。
運よく宣宮司に接触を果たし、鶏口だけが生き延びた可能性も捨てきれない。今になって宣宮司が現れたきっかけが湯神衆との接触にあるというシナリオも考えられなくはないのだ。
死してなお、森山十市の足取りには価値がある。そう考えて、清秋は調査の続行を決めた。
森山が宿泊していた簡易宿泊施設は、仕事帰りの人々で賑わう商店街から一本外れた路地裏にあった。
陽は傾き始めているが、路地に並ぶ飲み屋はまだ明かりを灯していない。通りの中で宿泊施設だけが、宿泊者の出入りと、一階の食堂で早めの夕食をとる利用者たちの姿で賑わっている。
定住せず、流れて暮らすのであれば、このような施設は願ったり叶ったりなのだろう。山から離れるにつれ、森山たちの滞在先にはこうした日雇労働者向けの施設が増えていく傾向があった。
食堂の奥には、宿泊カウンター兼食券引換所があり、エプロン姿で恰幅のよい女性が受付をしていた。清秋は、前に並んだ利用者と同じ蕎麦の食券を購入し、受付に並び、女性に声をかけることにした。
「森山十市(モリヤマ‐トイチ)さん、ですか?」
受付の女性は小林(コバヤシ)と名乗った。年は40代前半だろうか。宿泊施設で働いて1年ほどという。食券の受け渡しの際に、人を探していると伝えると、探している人の名前か写真を見せてほしいと協力的な態度を見せた。
ところが森山の名前を告げると、小林は目を丸く見開き、眉をひそめた。
「もしかして、お客さん雑誌記者じゃないでしょうね?」
「違います。えっと、芸術家をしていましてね」
私は懐から出した名刺を小林に差し出した。名前と、携帯電話の番号だけを載せた簡易的な名刺だ。清秋は、アトリエを持たないので、住所を載せることはできない。使う度に不審に思われるので
はないかと気が気でないが、不思議なことに名刺を渡すと多くの人が納得を示し、警戒を解く。
「友人を捜しているんです。この街にいると聞いたのですが、住所がわからなくて。それで、森山さんがその友人に会ったという話を思い出しまして」
「それでうちに?」
「最後に連絡を取った時はここにいると」
「それって、いつ頃のことなんです」
「半年くらい前だったかな」
問答を繰り返すと、小林は合点がいったのか、何度か頷き、私に腰かけるように促した。しばらく待つと、蕎麦をもって戻ってくる。彼女はエプロンを外し、小脇に冊子を抱えていた。
「半年前なら知らなくても仕方がないと思うのだけど、その森山さんという方はすでに亡くなっているのよ」
「亡くなって? いつのことですか?」
「もう3、4カ月になるかしら。うちの部屋で息を引き取ったので、大変だったのよ」
「それで、さっき雑誌記者か? と尋ねたんですね」
「あら。本当にあなた何も知らないのね。森山さんの一件を取材するような記者なんかいないでしょう。警察も特に何か問題があるとは言っていなかったし……それよりもあれ」
小林は私に顔を近づけ、部屋の端のテレビを指さした。ワイドショーが宣宮司栞の一件を取り上げている。画面に映ったフリップを見る限り、まだ何ら新しい情報は出ていない。
どうやら、宣宮司が発見した死体はその形状が特徴的だという。ネット上では、ドロドロに溶けた死体だったという噂も流れており、身元の特定は難しいようだ。
ドロドロの死体について清秋は思い当る点があるが、仮に清秋の想像通りなら、警察は死体の謎を解明することはないだろう。
「あの宣宮司とかいう女性がね、森山さんを訪ねて何回かこの施設に来ているのよ。それで、その件で警察やら探偵やらが何回もうちを訪ねてきててね」
「あの女優さん、確か死体を見つけたとか……」
「森山さんとは全く関係ないし、話題になっている死体発見現場はこの近所ではないわ。ただ、何だか重要参考人らしくて、彼女がここで誰と何を話したかって尋ねられているのよ」
「その話していたという人が森山十市?」
「たぶんね。とはいっても、うちも宿泊者と誰があっているかなんて、管理しているわけじゃないから」
小林と名乗る女性の話が正しいのだとすれば、森山十市からではなく、宣宮司栞から接触を図っていることになる。
だが、宣宮司にとってみれば、湯神衆は追跡者だ。森山が宣宮司を見つけたなら話はわかるが、宣宮司から接触を図る理由は想像がつかない。
「その、宣宮司さんは、有名な女優なのですか」
「有名かは知らないけれど、どうして?」
「ああ、いや…普通、俳優は芸名を使うだろうから、宣宮司栞という名前で面会にくるっていうのは不自然と思いまして」
「それなら、警察は写真をもってきてたのよ。きれいな女優さんよね。聞き込みの後に昔のホームページを調べたんだけど、同じ顔だったから、本人なんじゃない」
「本人の顔、ね。彼女は1人で?」
「1人だったみたいね。森山さんとつるんでいた常連客が、宣宮司さんを見たって話を警察にしていたのだけど、その話によると付き人みたいなのはいなかったそうよ」
なるほど。宣宮司は誰かと一緒に行動をしていたわけではないらしい。ならば、なおさら彼女から森山十市に会う必要性があるようには思えなかった。
「でも、宣宮司さんが一人で来ていたなんて、当然の話じゃない? 彼女自身は死んだことになっていて記憶喪失なんでしょう。
そんなこと聞いてきたのあなたが初めて……そうでもないか、あなたで二人目ね」
清秋の前に、彼女にその質問をしたのは、西松崇と名乗る男性だという。不動産会社に勤めており、彼が探していたのは森山十市の方だという。
「その人は、森山さんが家賃を滞納していて立ち退きを求めるのに行方を探しているって話だったのよ。でも、森山さんの友達、さっき話した常連客の人ね。彼が言うには、森山さんは流れの仕事をしてる人だから、家賃滞納なんてのは考えにくいって」
「そのご友人、森山さんについて詳しく知っていたんですね」
友人とは、鶏口水江のことだろうか。清秋は、共に山を下りた湯神衆の名前を思い浮かべた。
「コウさん、菅原小路(スガワラーコウジ)っていうんだけど、彼も日雇い労働者でこの辺の街をふらふらと放浪してるのね。コウさん曰く、森山さんにうちの宿を紹介したのが彼らしいわ。
森山さんがこの街で仕事を探しているから、どこか良い宿ないかって尋ねてきたんだそうよ。いろんな現場で一緒になるうちによく話すようになったとか」
「それだけで、彼が家賃を滞納するような人物じゃないって?」
「そうね。あと、コウさんがいうには、森山さんは実はお金持ちらしいのよ。日雇いでうろうろしてるのはなにか理由があるからで、普通に金は持ってるって。札束もってるところを見かけたことがあるんだって」
湯神衆は街の富裕層であったのは事実だ。宣宮司の捜索のために資金をもって下りていたとしても不思議ではない。鶏口水江に、わざわざ男に偽装して森山と行動を共にする理由はないだろうし、おそらく、菅原小路は鶏口水江とは無関係だ。宣宮司栞とも関係はないだろう。
話を聞けば森山の生活の一部始終は知れるかと思ったが、小林曰く、最近は宿泊施設に顔を見せないという。
とすれば、気になるのは、森山十市を追いかけていた西松崇である。西松は、森山十市の消息を訪ねるうちに、彼に会いに来る女性のことを知るーー菅原小路が西松のしつこさに負けて話したらしいーー。以降、西松は、森山に会いに来る女性のことをしきりに尋ねていたらしい。
「ところで、その西松さんっていう人が訪ねてくるようになったのは、あのニュースが流れるようになってからですか?」
「いいや、もっと前だね。ニュースが流れるようになってからはむしろ来なくなった。森山さんが亡くなる直前くらいから来てたんじゃないかなあ。森山さんとは結局一度も顔は合わせていなかったようだけれどね。
ただ、今思うと、彼は本当に森山さんに会いに来ていたのか、あの女優さんを探していたのかは、よくわからないねぇ」
そう話す小林の視線はテレビに映る宣宮司栞の顔写真に向けられていた。
*****
西松は、清秋が淡々と語る物語についていけなくなっていた。
清秋が言うには、西松は、清秋と出会う以前、それどころか、安本満のところにネタ探しに行く以前から、宣宮司栞を捜していたという。しかも、彼女と繋がりがある森山十市なる人物のことまで調べていたことになる。
「全く記憶にないという表情だね。でも、揺さぶりで話すにしてはできすぎた話だと思わないかい。私は、芸術家ではあるが、小説家ではない。起こらなかったことについて克明に話すのは不得手でね。信じてもらえると話が早い」
だが、西松には清秋の語るような記憶はない。西松が宣宮司栞の名前を認知したのは、安本のところにネタ探しに行く前日、泥状死体の情報を整理していたときだ。
「本当にそうか? 君は、存在しないはずのパンフレットの顔写真で、私の顔を見ていたのだよ。君の記憶は、果たしてどこまでが本物なのか、そもそも、先ほど私の潜水艦を沈めたのは本当に君か?」
質問の意図がわからない。だが、清秋は、何か決定的なことを話している。西松は、そのような気がして彼女の話を遮ることができなかった。
しかし、不思議と彼の右手だけが不満げに机の端を指で叩いていた。気がついてもその動きを止めることができない。
ゲームで追い詰められた現状で、どこかおかしくなってしまったのだろうか。
「いや、残念だけど、君はそれが正常なんだよ、西松崇。いや、今この場に至っては権田剛(ゴンダータケシ)と呼んだほうが正しいのかな」
「ゴンダ……誰ですか?」
「まだ、顔を現さないか。ゲームを仕掛けてきたのは西松というよりは、君の思惑だと、私は思っていたのだけどね。権田。
それとも、私が君のことを知っていることに怯えて表に出てこられないのか。
まぁいいさ。なら、もう少し時間潰しの話を続けるだけだ」
*****
小林いわく、西松崇は宣宮司栞の報道以降、宿泊施設に顔を出すことをぱたりとやめたという。それまでは、森山の生前の様子などを聞きこんでいたようだが、収穫らしい収穫は得られていなかったというのが小林の言だ。
そして、つい先日、簡易宿泊施設の近くでカメラを覗き込んでいる西松の姿を見かけたという。
翌日、清秋は、小林が西松を見かけたという場所をくまなく回ってみることにした。
小林が西松を見かけたのは宿泊施設からほど遠くない繁華街だという。営業マンだといっていたが、一眼レフカメラを持って街角でずっと立っていた。あれはあれで素性の知れない男だと彼女は話した。
教えてもらった通りは繁華街の入り口に面していた。車道を挟んでこちら側、清秋が立つ側がオフィス街の末端で、車道の向こうには飲み屋が立ち並び、昼過ぎにも関わらず着崩したスーツの男たちが通りを歩く人々に声をかけている。
清秋の経験則に過ぎないが、この10年、地方の中小規模の市では、人口減少とそれにともなう産業の衰退の結果、街から人が減っていく傾向がある。街のなかでも特にその煽りを受けるのは繁華街だ。個人経営だった飲食店がたち行かなくなり、チェーンの居酒屋や、コンビニエンスストアにとってかわられる。しかし、そもそも街に人が寄り付かないため、次第にそれらの店を息を潜めるようになっていく。
少し前であれば日も落ちないころから酒をあおる人々がいたはずなのに、店が開くのはすっかり日が落ちて暗くなってからだ。
それがどうして、この街では昼間から繁華街を歩く人々が多い。街自体が好景気に迎えられているようにもみえる。
原因は町外れで建設進んでいる巨大な建造物群にあるのだろう。現場の前を通っても国の研究施設らしいということしかわからなかったが、建設特需が街を賑わせているのだ。
そして、そうやって賑わう街には様々な人間が入り込む隙が生まれる。
西松崇という男もまた、そうした街の揺らぎにうまく入り込んだ人間のように見えた。
繁華街の入口、コンビニエンスストアの向かいの電柱の影によくたっている。道路の向かいの喫茶店から通りを眺めていると、確かに小林の話の通りの人影がいた。紺色のスーツで髪はツーブロック、体つきは中肉中背といったところだが、通行人に比べると若干肩幅が広い。おそらく上半身に偏ったトレーニングをしているのだろう。電柱の影に隠れるようにして立っているが、肩幅が邪魔をしてうまく隠れられていない。
鞄の類はもたず、ただじっと肩の高さに構えたカメラのファインダーを覗いている。清秋が喫茶店に入ってから三十分は経過しているが、よくもまあ警察に通報されないものだ。
「お客さんも気になりますか、電信柱の幽霊」
紅茶のおかわりを運んできた店主が、清秋の横で西松崇を指差した。
「電信柱の幽霊って、あれ、実在しているんでしょう」
「ええ。私も店の常連も皆知ってますからね。でも、不思議と誰も声をかけない。だからまるで幽霊だって話しているんです」
店主の話が面白くて、清秋はつい吹き出してしまった。皆が見えていて不審なら話しかければいい。もしくは通報すれば少なくても彼の素性、あるい実在性くらいなら証明ができる。
「お客さんの言いたいこともわかります。でもね、あちらは繁華街だからうちの客層が近寄る場所でもなくてね。ここを通る人たちは皆、繁華街ではなくて通りの向こうの駅に流れていく。
興味をもって近づきそうな常連もいるのだが、最近顔を見せなくてね。だから」
「検証はしていないままで、幽霊というわけですか」
「ええ、まあ。時間ができてもその頃には姿が見えないことも多いですからね」
「なるほど。あれ、何してるんでしょうね」
「人を捜しているんじゃないですかね」
人? 店主の見解の理由を聞こうと振り向くと、彼はカウンターの客の呼び掛けに答えて戻っていくところだった。
小林の話を聞く限り、彼の狙いは森山というより宣宮司だ。だが、肝心の宣宮司がこんな街中を彷徨いているようには到底思えなかった。あの事件の経過からすれば、何らかの形で警察の保護下に置かれている可能性が高い。
少なくても清秋には繁華街の入口を撮影し続けることにあまり価値が感じられなかった。
*****
「おそらく、あのときの君は宣宮司すらも探していなかったんだろう。報道の段階で、君、いや、権田剛は宣宮司栞を直接見つけ出すつもりはなかったはずだ。
君が捜していたのはおそらくは宣宮司と接触した可能性のある警官だ」
二週間前、警察は泥状死体の身元と第一発見者、宣宮司栞の足取りを追うためにかなりの人員を割いていた。
そのなかには、宣宮司が接触した人物の足取りから、あるいは先に死体として発見された佐原正二から繁華街に根をはる金剛鬼字の会と呼ばれる組織の関係者を洗い出している捜査員がいた。
西松崇は、宣宮司の情報を得る足がかりとして、その捜査員を探すため、日夜繁華街を張り込んでいた。張り込みのしかたが不自然だったのは、捜査員から声をかけてくる可能性も残しておきたかったからだろう。
「及川さん、僕は本当にあなたがさっきから何をいっているのかがわからない。僕が繁華街の入口で何日も張り込みをしていただなんて。僕は、確かに泥状死体と、宣宮司栞について調べている。だけど、あなたを見つけるまでの何日間かは別の取材源を探して」
「高本前雄(コウモト-サキオ)という名に聞き覚えは?」
「……ある。確か、前に取材した」
「組織犯罪対策係の警官だ。つい二日ほど前、君が私に出会った日、この男はとある倉庫にて死体で発見された」
死体、倉庫。彼女が口にした単語には聞き覚えがあった。倉庫の端に吊るされた警官の死体。そして、その顔を覗き込んでいる男……死んだ警官の瞳に映ったその顔は、西松がよく知る男の顔だ。
「なんで、こんなこと…知らない」
「知らないなら、そんな表情はしないだろう。君のその顔は、覚えがあるという顔に見えるね」
電信柱の幽霊こと、西松崇の監視を続けて3日。彼は一日10時間程度繁華街の入口に立ち、じっと通りの人間を撮影し続けている。何度か試しに彼のファインダーの前を通り過ぎてみたが、まるで定点カメラのように動きを見せなかった。
動きを見せたのは4日目の昼。いつものようにカメラを構えていた西松が、不意にカメラを降ろし、繁華街から出てきた警官の後をつけはじめた。
「なぜ知っているかって? それは私も同じように君と警官を尾行したからさ。もっとも、君たちが繁華街の雑居ビルに入ったところで見失ってしまった。男性用トイレの手前で待っていたんだけれど、戻ってきたのは君だけだった。あまりに帰ってこないからトイレを覗き込んでみたが、刑事の姿は消えていてね。そして先頃、死体発見のニュースが届いた。
高本刑事が死んだのは、あのトイレの中。殺したのは君なんだろうと思った。それでますます興味を持ってしまってね。君が何かを探してホテルに出入りしていることは知っていたし、ちょうど良い機会だと思って君の前に現れた」
何が何だかわからなかった。清秋の話していることは全く想像がつかない。彼の手と口は、西松の意図と関係なしに、清秋のマップを選択し、追撃を続けていく。清秋は、西松の指と戦いつつ、彼に対し、彼の知らない西松崇の話を続けている。
だいたいにして、清秋に遭遇したのはこのホテルが初めてなのだ。見かけた時に、パンフレットのことを思い出して、宣宮司栞があの街にいた時期と重なることに気が付いた。個展会場のアトリエは宣宮司が泊まっていたホテルの裏側。温泉街のメインストリートから外れはするが、街の住人たちが懇意にする飲食店が立ち並ぶ。長期滞在していた宣宮司がアトリエの付近を歩いていてもおかしくはない。
おかしくはない?
「僕は、宣宮司栞がいつからあの街にいたのかをどうやって知った……死亡記事、そう死亡記事を読んで。いや、変だ。死んだ時期はわかっても、滞在期間の情報はない。そもそも、なんで、僕はアトリエが宣宮司栞の宿泊先ホテルの裏にあるなんてことを知っている
。宣宮司栞の宿泊先などという情報を一体どこで聞いたんだ……?」
自分の中に、自分と違う記憶がある。
これは誰の記憶だ。宣宮司栞の顔が目の前に浮かぶ、報道で映された映像ではない、もう少し若い頃、大学に入りたての頃の彼女だ。
あの頃はまだ、彼女は役者ではなかったはずなのに、なんで彼女のことを知っている……これは西松の記憶ではない。
どうして、他者の記憶が紛れ込んでいるのかわからず、西松は、胃の中から何かが噴き出してくる重苦しい吐き気に襲われた。
視界が揺らぎ、意識がどこかへ拡散していく。西松崇とは誰なのか、混濁する意識のなかで西松は自身に問いかけ、そして消えた。
*****
首ががくりと折れ、西松崇は意識を失った。しかし、彼の両腕は前ほどまでと同じように清秋のフィールド上をさ迷い、3分の1以上もつけたばつ印を増やそうとしている。
「その動き、気味が悪い。いい加減向き合って話をしようじゃないか」
「今まであなたの気味の悪い話に付き合ったんだ。少し我慢してくれてもいいだろう。他者の身体というのはどうにも馴染まないんだよ」
「だからといって、顔すらあげずに話されるというのは気分が悪いよ、権田」
「権田ね。懐かしい名前だが、私も姉と同じように名前に拘りはなくてね」
鎌首を持ち上げるような素振りであげられた顔はくしゃくしゃに歪み、感情を読み取ることすら難しい。
「権田剛の身体はずいぶん前に失われた。そろそろ名前を捨ててもいい頃だろう。ああ、あの忌々しい女、思い出すだけでも腹立たしいよ」
「女? それは、宣宮司のことかい?」
「いいや、違う。鶏口とか言った若さに憑かれた屑だ。あんたも探していたんだろう。私はこの街であいつに会ったんだ。
雄神の気配を纏っている、雌神に襲われると言って近づいてきた。おかげで姉さんの仕掛けには気がつけたが、結局あの女が雌神を呼び寄せたんだ。おかげで、身体を棄てる羽目になった。まぁ、あんたには関係のない話だ。俺は、あんたから記憶を奪って、姉さんに会いにいく。ずっと探していたんだ。今度こそ絶対に逃さない」
彼は力強く清秋のフィールドを指す。選択したのはEの10。
「着水。つくづく運のない男だね。それで、新しい名前は」
「西松崇だ。そんなことにこだわってなんの意味がある」
「意味はあるさ、賭けの清算のために重要なことだ。今、私とゲームをしている男は権田剛ではなく、西松崇。それはとても重要なことだ」
西松崇と名乗り、西松崇の身体を操る男は、清秋の言葉の意味がわからないのか、首をかしげた。自らが異形に呑まれていてもなお、察しが悪いのは哀れだ。だから、姉に出し抜かれ、清秋に一矢報いることすらできない。
「まあいいさ。君の後悔や諸々の事情は、気が向いたら後で確認させてもらうよ。今は、君が西松崇だと認めたことが最重要だからね。では私の手番だ。Dの8」
清秋の選択に、西松崇を名乗る者は目を見開いた。自分が何を見落としていたのかに気が付いたのだろう。顔全体がぶるぶると震え始めていた。
「だが、ルールは絶対だよ。それでなければ賭けは成立しない。西松崇、私の選択はDの8だ」
「着弾。沈没」
「これで君は最後の潜水艦を失った」
「なぜ潜水艦の位置がわかった。西松崇の記憶を覗いただけでは、最後の艦の位置はわからないはずだ。お前が、艦の位置を正確に当てていたのは、この男の記憶を盗み見たからだろう」
西松崇と名乗ったそれは、目に見えるほど明らかに狼狽している。自分のほうが早く清秋の記憶を奪うことができる。彼が抱いていた確信は清秋のたった一手で崩れ去ったのだ。
せめて、運がなかったで終わりたい。こちらへの問いは彼の願いの賜物だろうか。だが
「もちろん、最後の一隻を除いて、他の全ての艦については、最初の賭けの報酬、西松崇のゲーム開始5分前の記憶を基に探り当てたものだ。
まさか、君、君も西松崇という名前だから呼びにくいな。ベースの方を西松A、君の方を西松Bとでも呼ぼうか。
私も、西松Bが、西松Aの書いた図面を直前で書き換えるとは思っていなかったから、潜水艦がなかった時には驚いた。いったいどんなイカサマを使ったのかと思ったよ」
「何がイカサマだ。お前のほうがよっぽど性質が悪い」
「性質の悪さなんてのは、問題ではないさ。私は西松Aと取り決めたルールに何一つ反していないし、西松Aにも勝機があるように、彼にだって同じ条件を与えた。私のほうが先に潜水艦を仕留めたのは、間違いなく私の運の問題さ。
さて、話を戻そうか。私はね、攻撃が外れたあのとき、君の関与に気付いて、もう一つの賭けに出た」
「もう一つ。だって。その後も潜水艦の位置を特定することなどできなかったはずだ。こちらを読み切ったのか」
「それができれば賭け事に強い主人公として名を馳せられたかもしれない。けれど、今日の私の目的は賭けを楽しむことじゃないのでね。君に確実に勝つため、私は時間を稼ぐことにした。君が私の潜水艦をひとつ、ふたつ撃沈してくれるまでね」
結果、幸いにも清秋の選択したマスに潜水艦は現れず、西松Bは清秋の潜水艦を撃沈させることに成功した。
「そして、私は君の潜水艦の位置を確認した。ほら、君の手元にあるだろう。相手の宣言を確認するための控え」
清秋は、西松Bに対して、自分の手元に伏せた紙を広げて見せた。西松Bは未だこちらの思考に追いつけないのか、上下左右に目を動かしては小さなうなり声を発している。
「ここまで言ってもわからないなら、君は絶対に私に勝てなかった。安心していい。でも、可哀想だからね、最後にヒントを一つあげよう。君は、私から勝ち取った記憶を見るのにどの程度時間をかけたのかな」
「時間……まて、そんな。馬鹿な。だって、お前はこの男の記憶を見る素振りなんて見せなかっただろう」
「私はこの賭けに慣れているからね、記憶を再生しながらゲームを続けるくらい簡単なものさ。
さて、西松B。君にはお礼を言わなければならない。君がもしあと数ターン、西松崇だと宣言してくれなければ、最後の賭けは空振りに終わっていたかもしれない。
記憶を賭けるんだ。賭けの対象物は可能な限り厳格に規律されなければならないというのが、この力のルールらしくてね。西松崇の記憶に、君の記憶が含まれるのは君の名乗りのおかげでもある。重ね重ね感謝するよ。それでは、清算だ」
西松崇は、ようやっと自らの過ちに気づいたらしい。両手で顔を押さえ、喉から絞り出すように声を上げようとした。だが、彼の口から噴き出るのは、声ではなく、黒い液体状の何かだ。清秋は、これを記憶と呼ぶ。溢れた液体は西松の衣服を濡らし、彼の座る椅子と床を黒く染めていった。
ひどく饐えた臭いがする。色も悪く、品の悪い記憶で溢れているのだろうと思うと、清秋は少し嫌な気分になった。
西松崇の顔からは表情が抜け、全身は力なく机に崩れ落ちた。
清秋は、たっぷり3分間、西松が動かないことを確認し、彼が漏らした液状の記憶を指でなぞり、口に含んだ。
*****
その手、あなたのことを殺しに来ますよ。
鶏口水江と名乗る女は、ベッドに入る段階になって、突然そんな話を始めた。首を絞めるのでも好きなのかと尋ねると、彼女は近づいて、俺の身体の匂いをしつこく嗅いだ。
他の女と違い、こちらになびく気配がない。それどころか、まるで魚の鮮度を確かめるような、こちらを値踏みするような雰囲気が、とても気味が悪かった。
声をかけられたときから思っていたんですが、この匂い、どこで手に入れたんです。いや、もっとはっきり聞いたほうがいいですよね。あの女芸術家の気味の悪いオブジェ、どこで手に入れたの。
何も具体的な質問じゃない。鶏口の憎悪が乗っただけの質問だったが、それだけで、彼女が『手』のことと、『手』がもたらす力のことを知っているとわかった。
さて、どうしたものか。『手』は、俺の生活に劇的な変化をもたらした品だ。今までだって女に困ることはなかったが、
あの日『手』を渡された時から世界は一段と俺の自由になった。『手』に幾重にも塗り込まれている何かは、身体につける、口に含むたびに、俺の男性としての魅力を強めてくれる。過剰に摂取すると抑えが効かなくなるが、適量摂取して街をあるけば、女を選び放題だった。しかも、女と交われば交わるほど、『手』は成長する。
俺の身体から『手』に戻った水が、『手』を成長させ、ただのオブジェだったはずの『手』は株分けされるようになった。次第に力が強くなり、一度の摂取量も少なくて済むようになった。そして、そのころから街中でアレの気配が感じられるようになった。
『手』を俺に渡した女は、これを待っていたのだ。アレが近づくたび、女の狙いが鮮明になっていく。アレはやがて俺の前に現れて、『手』ごと俺を襲うだろう。そういう気配だ。
俺は女を捜したが、どこを捜しても彼女の姿は見つからなかった。このころには欲求を抑えようにも抑えが効かなくなり、気がつけば知らない女を漁っていた。その時間が、アレへの対処の時間を奪っていく。
だから、鶏口水江が『手』のことを知っていたのは僥倖だった。俺は鶏口から聞けるだけの情報を聞き出し、『手』が姉が死んだ土地で作られたものであり、人間を再生する力を持つ代物だという話をきいた。『手』に付与されているのは女の身体を不老に保つ力であり、男には害なのだという。俺や株分けした奴らが女に好かれるのは、男の魅力ではなく、その力が女の不老を保持することに、本能的に気が付くからだと鶏口は話した。
魅力的なわけがないじゃない。その匂い、男にはわからないけど、すごく臭いのよ。でもね、嗅いでいるうちに、それが自分にとって必要だとわかるの。身体がそれを欲するようになるのよ。
鶏口は、『手』の持ち主は、『手』と対になる男の不老を保つ力が近づいてくるのを狙っているという。それは、俺にとっても良いことのように聞こえたが、『手』の力に影響を受けている今、それと接触すると、俺は死ぬのだという。
にわかに信じられなかったが、力を男に与え続けてみればよいといわれ、ホームレスに呑ませ続けてみて、俺の認識は塗り替わった。目の前で筋肉が膨れ上がり、身体のあちこちに目や口が現れたかと思うと、ホームレスは俺の目の前で泥のように溶け、雨水と共に流れていった。
神の恩寵にも限度がある。鶏口は、俺にそう言って、『手』の使い方と、迫るもう一つの力を避ける方法を教えていった。
だが、結局のところ鶏口が狙っていたのは『手』の独占だ。俺が死なない程度に力をコントロールする方法を教えて、俺ともうひとつの力、雌神が遭遇しやすいように各地に俺の匂いを残そうとした。会うたびに遠方のラブホテルを求めていたのも雌神が匂いをたどりやすくするためだったのだろう。
俺がそのことに気が付いたのは、雌神と知らず、その女を抱いたときだった。雌神は男に憑く。そう聞いていたから、女には警戒していなかった。ひょっとすると、鶏口はそこも計算にいれていたのかもしれない。
結果として、俺の身体は雌神に取り込まれ、そして、俺が最後に抱いた身体は、雌神が社の外にでるきっかけとなった湯神衆であること、現在の雌神の身体は、姉の夫であった金沢史郎をベースにしていることを知った。
かくして、俺は『手』を失い人生を失うところだった。
だが、俺に『手』を仕掛けた女にも、鶏口水江にも計算外だったことが一つ存在する。それは、俺が力に適応したことだ。雌神に遭遇する直前、俺は何人かの株分けした男たちに会った。
彼らと俺の違い。それは、一度取り込んだ力を『手』に戻すことができることだ。それは一つの保険でしかなかったが、俺は全ての株に自分が取り込んだ水を返すことにした。
鶏口の話を信じるならば、力は水に宿っている。水が保存した情報が、俺たちの身体を不老に保つのだ。ならば、仮に雌神に遭遇して、肉体が滅んだとしても、株分けした『俺』が意識を取り戻し、新たな生を謳歌しないとは限らない。
そして、俺は西松崇というカメラマンの身体に宿ったのだ。時を同じくして、姉も街にいることがわかった。報道に映った姉の姿、発見されたという泥状の死体。西松崇に宿った当初は交信が取れていたのに、急に交信がとまった俺自身の身体。
俺は、雌神をけしかけるために俺に『手』を渡した女が、姉だという疑惑を持つようになった。
姉は『手』のあった土地で命を落としている。雌神は姉の死を調べに行った金沢史郎の肉体をベースに活動をしている。では、『手』の源である雄神は姉の身体をベースにしていたとしてもおかしくはない。
そして、俺がこうして他人に宿れるのであれば、姉も神に接触していれば同じことを行えた可能性はある。
何より、俺を殺そうと異形の力を差し出してくるやり口は、姉らしいと思った。
だから、俺は、新たに手に入れた西松崇の身体を使って、姉を見つけ出すことに決めた。俺と悟られず、姉に近づき、今度こそ姉を独占する。それが権田剛、いや、西松崇の存在意義だ。
*****
「全く、酷く気持ちの悪い記憶だった。賭けに負けたとはいえ、清算するには味が悪すぎる」
清秋は、ほの暗い部屋の片隅で、部屋の主から渡された紅茶に口をつけた。
「インスタントの紅茶は好かないんだけれどね、でも美味しい。これが美味しいと感じるほどに、あの記憶は不味かった」
「前から聞こうと思っていたのだけれど、記憶に味があるの」
部屋の主は、闇に隠れて姿が見えない。清秋が訪問してきていること自体、外の人間には知られたくないのだという。
「記憶の出方によるね。今回のように、液状になって出てくると、記憶を確かめる一番手っ取り早い方法は呑んでみることだ。幸い、呑んだところで記憶に侵される可能性は低い。胃を通るんだ、消化され、消化できないものは排泄されるからね」
「そんな当たり前のように言われても、全然想像がつかない」
「それはそうだろう。どんな人間も、他人の感覚を100%体験することなんてできない」
「でも、あなたはできるでしょう。清秋」
「たまにはね。でも、それだって本当に本人の記憶だったのかは怪しいものさ。今回のは、特に怪しくあってほしい」
主が闇の向こうで大きく息を吐いたような気がした。おそらく、彼女はこう言いたいのだろう。清秋の見た記憶に誤りなどない、と。
「わかっているさ。とにかく、昨日の西松崇で、権田が接触していた男たちは全て確認したし、全員に憑いていた雄神の残滓、権田剛の記憶は奪い取った。佐原正二他数名は接触できなかったが、彼らは全て死んでいるのだろう」
「ええ。警察には伝えていないけれど、彼らが死ぬところは自分の目で見た」
「見たね。君が殺した の間違いじゃないか」
闇の奥で彼女が少し笑ったのがわかった。肯定の意か、否定の意か、改めて尋ねるのは野暮だろう。
「そういえば、鶏口さんはどうなったの。森山さんは亡くなるのを確認したけれど、結局、行方がつかめなくて……でも彼の記憶によれば、鶏口さんはまだ生きている」
「安心していいよ。生きているが、もう立ち直れないし、記憶は戻らない。過去の経歴をすべて忘れて、気立てのいい受付として働いているよ」
清秋は、簡易宿泊施設の食堂を切り盛りする女性の姿を思い出した。森山と違い、鶏口水江は女性であるがゆえに、簡易宿泊施設のようなセキュリティの甘い施設に滞在するハードルが高かった。
とはいえ、彼女たちが街から持ち出した資金にも底はある。鶏口が考えた苦肉の策が、住み込みでの仕事だ。幸いなことに、そうした施設では、人員募集を見つけるのは容易い。こうして、宿泊客である森山十市とは全く関係のないパートとして施設に入り込み、活動拠点を確保していたのである。
名前をいくつも持っていたのは、森山十市との関係性を悟られないためだろう。最後に使った名前が小林アキラ。水江としての記憶は全て清秋が奪ったが、コイントスを一度正解したことに免じて、彼女には小林アキラとしての人生を返した。
顔かたちも変化させていた現状、彼女が湯神衆の一員であったと看破できる人間はもういない。
「そう。それじゃあ、本当に」
「清算は終了だ。5年以内に君が雄神と決別できれば君の勝ち。君が望む消したい過去を私がすべて清算する。あの時、アトリエで交わした賭けはこれで終了だ。宣宮司栞、君の人生はここから始まる」
部屋の主は、窓辺近くに身体をずらし、清秋に見えるように小さく礼をした。アトリエで、『堕ちゆく神』のラフスケッチを前に泣いていたときと同じ姿だ。
「さて、外の警官から貰えた時間は30分だ。この前のように2時間とか記憶を奪うと、警官たちが怪しむのでね。そろそろ出ないと不審者として捕まってしまう」
「それじゃあ、懐かしの再会はこれで終わりね」
「ああ。しばらくはこの街に滞在しているが、もう会うこともないだろう。この前は、君の3年半について仔細な話を聞かせてくれてありがとう。貴重な体験談だった」
清秋は、宣宮司栞に礼をして、彼女の部屋を後にした。
*****
3年半前、宣宮司栞に対し、湯の神を奪う計画を与えたのは清秋だ。当時、清秋は湯の神伝説を調べるうちに、それが湯の神が実在する怪異であること、そして、街全体が怪異の力を奪い、人間に付与するために作られた実験場だと知った。
自分の人生を棚に上げていうことでもないが、その時の清秋はちょっとした義憤に駆られた。いや、義憤というのも嘘だ。湯の神を捕らえるシステムを構築した楠木源之助(クスノキ‐ゲンノスケ)に挑戦したくなった、彼が為すことができなかった、神からの本当の解放という難題を解決して見せたかった、というのが本心だ。
今思うと、本当に子供じみた想いであるし、相当にヒマだったのだと思う。
けれど、当時、清秋の周りには、まったく都合のいいことに、『湯の神』と適合率の高い宣宮司栞という人物が存在し、清秋に対して『湯の神』を排除するように願う人物もいた。
――すべて終わった。神は消えて、彼女は救われた。例の男の残滓も残っていない。
チャット画面の向こう側で、清秋の報告に、彼はどんな表情をしているだろうか。
――湯神衆はどうした?
――消えたよ。1人生き残ったが、記憶は私がもらうことにした。
――鶏口か。彼女は初めから湯の神と適切な距離が取れていた。“彼女”とは別の形で才能があると思っていたよ。子孫よりもよっぽど優秀な子だった。
どうやら、鶏口水江が生き残ることまで彼の中は織り込み済みだったようだ。そのことは少し悔しいが、結果発表で悔しがったところで、結果も評価も覆った試しがない。終わったことは終わったことだ。
彼の言う子孫というのは、雌神に取り込まれた哀れな男のことだろう。宣宮司を救ったという便利屋に接触した結果、『手』の仕掛けに気が付いて故郷に帰ったらしい。しかし、訪ねた場所では祖先が待ち構えており、祖先と気づかぬままに雄神の匂いをつけられた。求めていた手がかりも空振りで街へ戻ってきた途端、雄神の匂いに釣られた雌神に喰われ、命を落としたのだ。なんとも哀しい最期である。
もっとも哀しいのは、本人も他の誰も、なぜ彼が死んだのか知ることはない点だろう。清秋と、画面の向こうの彼が口を開かなければ、真相は永遠に闇の中だ。
――とにかく、アトリエの使用料分は働いた。この件はこれでおしまいとしよう。
チャットの返信はない。その代わり、ルームのユーザー名が消えた。全て終わったら初めから何もなかったことに。アトリエで個展を開くときに出された条件を思い出した。
「結局、彼は最後まで実験をやり遂げたってわけだ」
真の秘め事は存在していることすら知られない。だから、存在しないのだよ。
3年半前、アトリエを後にするときの楠木源之助の言葉を思い出した。近い将来、あのアトリエも忽然と消えるに違いない。
楠木源之助は、怪異と共に秘め事になる。
山は人の手に戻り、土地は栄えていくだろう。
彼はようやく桃源郷を作り上げたのだ。
せめて、望み通り、何もなかったことにしておこう。
清秋はそう心に決めると、チャットのログを消した。カウンターに置かれたコーヒーはすっかり冷めてしまっている。
「マスター。お代わりもらえますか? それと、この前の電信柱の幽霊、今日はいないけど誰も見ていないの?」
賭け事と秘め事 了
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