鏡の国(2):硝子細工は港町に潜む

 港町の起源は、神が吠え、国の在り方が変わった鳴治(メイジ)5年まで遡る。

 国の形が変わり、西洋文化が流れ込み、文明開化が謳われるころ、港町には数十名の入植者があった。

 この地方では、鳴治期に入植した開拓民と、先住民の折り合いが特に悪く、争いが絶えなかったといわれている。現在、開拓が進んでいない土地の中にも、双方のもめごとの収拾がつかなくなり、放棄されたという歴史を持つ場所も多い。

 もっとも、この港町に限っていえば、開拓民と先住民の仲が良好だったという。互いに漁の技術を高めあい、採掘された資材が土地全体を潤した結果といわれている。

 資料館の展示ブースでは、町の起こりから、現在の発展まで、事細かに年表を貼りだされていた。その時々、この土地で作られ使われた道具がケースに陳列されている。展示ブースを見る限り、ガラス細工の技術は、古くからこの土地にあったものらしい。

「元々ここに暮らしていた人たちは、ガラス細工で何をしていたのだろうね」

 突然声をかけられて、紅は思わず飛び上がった。振り返ると黒いワイシャツの男のさわやかな顔が目に入った。

「やあ。学生さんかい?」

 怖い。紅は思わず両手で自分の肩を抱いて後ろに下がった。

「ああ、ごめんよ。驚いたかな。学生なんて珍しいなと思って、つい声をかけてしまった」

「学生じゃないです。それに、そんなに珍しいですか」

「珍しいだろう。まあ、学生どころか、客自体が珍しいんだけれどね」

 男は周りを見渡す。確かに資料館の中は見学者が少ない。外には観光客が多かったのに、どうやら資料館は人気がないらしい。

「それで、君は何を探していたんだい」

「え?」

「君は何かを探していると思って声をかけたのだが、見当違いだったかな」

 男は紅の顔を見つめる。そして、何かを思い出したように両手を合わせた。

「そうだ。自己紹介を忘れていたね。僕は鷲家口眠(ワシカグチ‐ネムリ)という。ちょっとした仕事でこの町にやってきている」

「じゃあ、町の人じゃないの」

「この町に来たのは今回が初めてだよ」

「なら、私と変わらない」

「少なくても、僕は君よりも2時間ほど長くこの資料館にいる。展示物は一通り見て回ったし、君が何かを探しているなら、少しは助けになると思うんだけれど」

 例えば。鷲家口は紅の隣に立って年表を指さした。

「先住民たちが使っていたというガラス細工の技術が伺えるフロアはどこか、とかね」

 鷲家口と共に訪れた資料館の二階には、ガラス細工が並べられていた。他の博物館や資料館ではあまりお目にかからない。しかも、どのガラス細工も年代物だ。

「こうやってみると、どれも見たことがあるガラス細工に近いね。職人街に行けば似たようなものが売っている」

 鷲家口が言う通り、動物を形どった細工、ベルやグラスのような工芸品が目立つ。確かに、パンフレットでみたガラス細工と変わらない。

「装飾品ではないの」

「どうも、この土地の人は、ガラス細工を精霊の依代と扱っていたらしい」

 精霊の依代。動くガラス細工の話を思い出した。だが、依代としてのガラス細工が可動部分を持っていないなら、いくら精霊が宿ったところで動きだしはしない。

「ただ、少し不思議なところがあってね」

「不思議?」

「ここに来るまで資料館には先住民の宗教については展示がなかっただろう」

 確かに鷲家口の言う通りだが、紅にはそれがどういうことかよくわからない。

「実は、この先にも先住民の宗教に関する展示がないんだ。それなのに、ここだけ、このガラス細工だけが精霊の依代として置かれている」

 それは特段不思議なことではない。先住民が残した資料がそれしかないからだ。

「なるほどね。でも、この港町では先住民と開拓民は仲良く手を取って街を発展させてきたはずなんだぜ? どうして先住民の宗教に関する記録だけ消えてしまうのか。僕は不思議でならないんだ」


*****

 港町だから、名物は海鮮料理と思っていた。音葉は目の前に出された野菜の素揚げと鶏肉のスープに目を丸くした。

 店のパンフレットによると、山間部には農場と養鶏場があり、新鮮な野菜と鶏が名産だという。確かに、野菜は甘みがあって美味しく、鶏肉もくどさがないから食べられる。

 鶏2分の1羽入りとメニューに書かれたのを見た時はぎょっとしたが、箸をおいた今、目の前の器は空になっている。

 昼ご飯を求めて職人街を抜けると、そこ四階立ての商業ビルが建っていた。入り口から出てくる観光客は必ず立ち止まり、建物を振り返って首を傾げる。そんな様子が気になって近づいてみれば、鳴治期の町並みを再現した商業施設であり、地元の名産品を提供する飲食店が多数入っているとの紹介が書かれていた。

 ビルの中に入ってみると、観光客が首を傾げていた理由はすぐにわかった。

 目の前に広がるのは木造建築の並ぶ商店街だ。上を見上げれば青空が広がり、空を飛行船が飛んでいる。

 振り返ってみれば、そこには確かにビルの入り口がある。ここは商業ビルの中なのだ。そう思って空を見れば、それは吹き抜けの天井に描かれた精巧な絵なのだとわかった。

 なかなかに面白い趣向だと思った。

 とにかく中を見て回りながら、比較的値段の安い店に入ってみれば、鶏のスープが出てきたわけである。

「いやあ、よく食べるねえ」

 相席になった男が音葉の隣で感嘆の声を上げた。横を見れば、男は音葉の食器の中を覗き込んでいる。男の手元にある海鮮丼を見ると、まだ3分の1ほど残っていた。

 見ず知らずの男ではあったが、音葉の顔をみて人懐っこい笑顔を見せた。

「食べないんですか?」

「食べるよ。ただ、おじさんは、君の食べぶりに少し感心しちゃってさ」

「海鮮丼は具が温くなると生臭さが増して美味しくないと思いますよ」

「同じ意見の奴にあったのは久しぶりだ。ちょいと待ってくれよ、今食べ切っちまうから」

 男はどんぶりを手に取って丼の中身を一気にかき込んだ。男の喉がごきゅごきゅと妙な音を立てたので、音葉は思わず男から離れると、男は恥ずかしそうに頭をかく。

「よくない癖だと思っているんだがね。喉元が細くて。ところで、君は旅行者だろう? こんな平日に、何の用でここに来ているんだい」

 旅行者だと予想しつつ、何をしにきたのか? という男の質問がひっかかった。

観光だと答えておく。男はそうかそうかと頷くが、その目は音葉を信用していない。

「ただの旅行者は、動くガラス細工のことは知らないと思うんだよねぇ。おじさんは」

 続く男の言葉に、音葉は硬直した。

「いやね、職人街で動くガラス細工の話を聞いて回る若者がいるって噂を聞いてさ。みんな、つっけんどんな態度を取っていただろう。職人街では、その話題は禁句なのさ」

 自分のことが噂されている。そう話す男を、音葉は警戒した。周囲に気を払うが幸いなことに男と音葉の会話を聞いている者はいない。

「どうして、禁句なのですか」

 慎重に言葉を選ぶ。何の話かわからないと白を切ってもよかったかもしれない。だが、音葉の反応から男は、自分の指摘が的を射ていると実感しているだろう。

それに、小さな情報でも、手掛かりがあるのならば逃したくはない。職人街で聞き込みを続けても、空振りが続くような予感がしていたのだ。

 だが、音葉の予想に反して、男は首を傾げて唸ってしまう。男の喉からあのごきゅごきゅという音が漏れてくる。

 首のコリを取るかのように不自然になんどか首を傾げると、男は息をつき、音葉に向きなおった。

「さあね、私が理由を知りたいくらいさ。君と同じでずっと調べているんだよ」

 男はそう話すと、カウンターに置かれたコップを手に取り、喉を鳴らす。男はもう何年も動くガラス細工の噂を追いかけているのだという。

「そんなに昔からあったんですか、この噂」

 音葉の問いに、男は一瞬、表情を硬くしたが、すぐに表情を取り戻し。地元では有名な噂だと話す。この町の外にまで噂が広がったのは比較的最近かもしれないと男は続けた。

 眉を顰める音葉の様子に、男は慌てたのか、調査の成果が上がらない理由を話し始める。職人街の人たちの態度もそうであるが、何よりも男の顔が割れているのが一番の原因だろう。彼は警戒されているのだ。音葉はそう思った。

「だから、協力者が欲しいと思っていたんだ。ここまで調べた以上、何かを掴むまでは引くに引けなくなってきていてね」

 それに、仲間がガラス細工のある場所を見つけたというんだ。男が何気なく言った言葉に、音葉は興味を持った。男の目は音葉の変化を逃さず、ニヤリと笑みを見せる。大きな手がかりだろう。ただ一つ問題があってね。男は続けた。

「仲間が言うような場所はないんだ。それに、仲間も行方不明になってしまってね」


*****

 展示室で見つけた職員に、鷲家口眠が詰め寄った結果、紅は鷲家口と共に館長室に通された。音葉と離れて資料館に来たのは、彼が探している踊るガラス細工の手がかりを得るためであったのに、気が付いてみれば悪質なクレーマーになっている。

 それもこれも隣の奇妙な男のせいだ。だが、当の本人は、自分がクレーマー扱いされているとは露にも思っていない。部屋に通されてからも、鷲家口は先住民のガラス細工に関する仮説と管内の資料についてぽつぽつと紅に話しかける始末だ。

 やがて、鷲家口の中で仮説がより具体的に固まってきたところに合わせて、二人の前に小さな男が顔を出した。首が見当たらず顔と身体の境目がはっきりしない。

 紅には、男が大きな毬のように見えた。

「どうも、うちの職員が不勉強なばかりに少々ご不快な思いをなされたようで、まことに申し訳ありません。館長の刻無(トキナシ)と申します」

 刻が無い。館長の名刺に書かれた苗字に、紅は居心地の悪さを覚えた。どこかで似たような文字を見たような気がしたが、思い出せない。

「それで、館長さんは展示品について、細かい知識を持っているんですかね」

 隣に座った鷲家口の目は、刻無を値踏みしている。全身の動き、顔の表情、上から下まで確認する。紅も話しかけられる前に、このように見られていたのだろうか。

「ええ。まあ、彼らよりは知識を持っておかないと館長は務まりませんからね」

 刻無は鷲家口の様子を気にすることなく、展示品に関する、特に鷲家口が詰め寄ったガラス細工の歴史について滔々と解説を始める。

 だが、先住民が持っていた技術であること、精霊の器として使われていたこと、その技術を先住民と開拓者が分かち合い、技術を向上させたこと。刻無が話す言葉は、いずれも資料館を歩けば目に入るものばかりだった。

 隣に視線をやると、鷲家口は足を小さく揺すっていた。

「その話は資料館でも一通り読んだんですよ」

 我慢の限界がきたのか、鷲家口が口を開いた。刻無は彼のその様子を待っていたとでもいうように、両手を汲み直し、ソファの上で胸を張った。もっとも、毬のような体が少し縦に伸びた程度で、注意していなければ、刻無が体勢を変えたことはわからないだろう。

「では、それ以上、私からお話しできることはないと思いますよ」

 刻無の小さな顔が厭らしく目を緩める。おそらく、鷲家口のようなクレーマーは定期的に現れるのだろう。刻無は、そういった客に対する扱いもこなれているわけだ。

「本当にそうですか。あなたは、資料館の館長として、ここに展示されているモノのことをよく勉強なさったのですよね」

 だが、残念ながらこの男はクレーマーの中ではしつこい部類に含まれる。鷲家口は、刻無が型通りの説明に終始する場合には仮説を突き付けて話を詰める必要があると話していた。今がその時というように、身を前に出して語調を強める。

「ええ。一般の職員よりは」

「なら、あのガラス展示には不自然な部分があるとお気づきでしょう」

 刻無が15度ほど傾いた。鷲家口の周りの温度があがったため、紅は肩をすくめた。正直なところ、事前に聞いた鷲家口の仮説は、紅もすんなり受け入れられるものではない。成り行きで一緒にいるが、居心地が悪い。

「このあたりの地域は、鳴治期における開拓事業によって、先住民と開拓者がぶつかることが多かった。両者が衝突し、荒れ地になってしまったところも多い。その状況の中でこの町は鳴治から緩やかに発展し続けた。その理由は、先住民と開拓者の間の関係が良好だったことにある。それが、この港町の歴史の概要でしたよね」

「ええ。よく勉強されている」

「だからこそこの資料館の展示には疑問がある。どうして展示に、先住民の宗教に関する記述がない。精霊をガラスの器に宿すものと信仰されてきた。その記述は、過去の遺物を現代の人間が見直したものに過ぎない。今でも先住民と、開拓者の子孫が共に手を取って発展を進めているなら、先住民の宗教が廃れる理由がわからない」

 刻無は、鷲家口の言葉をじっと聞き、うんうんと頷いた。だが、顔に張り付いているのは先ほどまでと変わらない緩んだ目だ。いくら語調を強めたところで鷲家口の仮説は見方の一つに過ぎない。刻無はそれをよく知っている。

「文明の進歩ですよ。ただ、純粋な事実として申し上げる。この町は、先住民と開拓民が交流したことで、互いに多くの文化、技術、世界を知った。その積み重ねの結果、ガラス信仰は形を変え、アクセサリーや実用的な物品に姿を変えたのです。そこに、信仰を捨てる大きな出来事なんてなかった。信仰は自然に薄れたのですよ。

 世代を追うごとに、信仰を語れる者は減り、風習の意味は形骸化したにすぎない。

 それと、これは私の意見ですがね。古くからの信仰が変わらずに残り続けることは必ずしも善ではない。私たちは信仰を失って、繁栄を得た。忌むべき信仰を過去形で語ることを責められるべき理由はない」


*****

 食事を終えた後も、男はしつこく話しかけてくる。音葉がガラス細工の噂に興味を持っている以上、彼は音葉を仲間に引き込みたい。そうした思惑を隠すつもりもないのだろう。

 だが、いくら話を進めても、彼の仲間が見つけたという場所の話には至らない。結局、話を切り上げることもうまくできずに、音葉は男と連れ立って店を出た。

店の外に出れば、再びあの奇妙な光景が目の前に広がる。

「このビル、相当凝った作りをしているよねぇ」

 続いて出てきた男が隣で上を見上げる。視線の先にあるのは空ではなく、幾重にも交差した橋と、何重にも積み重ねた木造建築だ。音葉たちがいた店は、ビルの二階に位置する「路地裏」にある。

路地裏と呼ばれているが、実際には橋の下に作られている。「橋」というのは三階部分に位置しており、路地を出れば、ビルに入った時と同じ、青空の広がる空間が現れる。ただし、入り口でみた青空は、音葉が立っている場所とちょうど真逆にある。

 音葉が足を踏み入れたビルは入り口だけでなく、あらゆる所が奇妙な構造をしていた。ビルを吹き抜けにして、青空を作っているため、商店街の店舗は、ビルの中央に作られた歪な塔のような形をした場所に固まっている。一階から眺めれば、建物の上に建物が継ぎはぎされているように見える。

 音葉たちのいた路地裏は、三階で中央の棟から外壁に向かって伸びている橋の下にあった。橋は何のためにかけられているのかといえば、三階の外壁に昔の町並みを再現しただまし絵が描かれているためだ。

 そのうえで、階段がない場所でも、道が緩やかに上下しているため、歩いているうちに二階から一階へ、あるいは三階へと階層をまたいでしまう。

現に今も広場に出てきて地図を眺めれば三階と書かれており、音葉は立ち止まった。振り返っても階段らしきところはない。

「俺も初めに通った時は驚いた。さっきの下の階が見える通路があっただろ。あれ、実は下の階じゃなくて、だまし絵なんだ。ずっと一階が見えているから、階層が上がったなんて思わない」

 隣にたって看板を覗き込みながら男が種明かしをしてくれる。そんなことがあるだろうか。音葉は驚いて先ほどまで歩いてきた通路を覗き込んだ。手すりの先には確かに空間がある。だが、よくよく覗き込んでみれば、一階だと思っていたのは床に描かれた絵だ。

「凝っているよな。単純に四階建てのビルを作って中に店を詰め込めば、もっと店数も増やせるし、迷子もならない。これだけ広いのに、店は一三軒しかないんだぞ」

 確かに、男が見ている地図を見ても、店が極端に少ない。道端の民家や雑貨屋の中には町並みを保存するためのオブジェも多く、それらは中には入れない。道が入り組んでいるために、正確にはわからないが、この建物にはデットスペースのような部分が多い。

「楽屋裏なんですかね」

 ビル内の路地はどこも狭く、仕入れトラック等が入れる余裕もない。何より路地で店員らしき姿を見かけない。おそらく店員専用の移動経路が張り巡らされているのだろう。

「君、いい着眼しているよね」

 男は右手の指先で地図をなぞった。

「君なら、仲間が見つけたらしい場所について、見つけられるかもしれない。僕はね、職人街にも『楽屋裏』があるんじゃないかと疑っているんだ」

 ビルの最上階には、ビル内の奇妙な風景の全体像が見える喫茶店になっていた。遠近感や高低が狂ったビルの内装は、全てこの最上階の喫茶店のためにあるらしい。

 窓際の席に座り、室内を眺めて初めてそれがわかった。歪んだ街の景色だったはずのそれが、店の窓からは賑やかに広がる古い街並みに見える。

 音葉は、喫茶店へと連れてきた男を待つ間、その奇妙な風景に魅入っていた。

 男は喫茶店への道すがら、自らをトウワシンポウの記者、ヤマダと名乗った。山田は、音葉をこの喫茶店に連れ出し、音葉が求めた資料を揃えるまで待っていてくれと言い含め、飲食店街の外へと出ていった。

「お連れ様、遅いようですがお代わりはいかがですか」

 店員の薦められるままに紅茶を貰う。紅茶を置いた店員の手首が120度近く曲がったのをみて、音葉はふと自分の手首を押さえた。

「どうかいたしましたか?」

 首を傾げる店員に、音葉は何でもないと曖昧な笑みを返した。店員が手首を戻すときにごきゅというどこかで聞いた音が響いた。

「そうですか。では、ごゆっくりと」

 店員は音葉に背を向けてカウンターへ戻っていく。その雰囲気にぎこちなさを覚えるが、理由が分からない。そのうちに、ヤマダが戻ってきた。

 ヤマダの持ってきた、港町の地図と観光ガイド、それにどこから集めたのか港町の歴史についての冊子、それと文房具一式を手に取る。

 店員に断りを入れてから、机に地図を広げ、観光ガイドと地図の位置を照らし合わせ、実際に歩いてみた感触を地図上に書き記してみた。

「ほぉ。うまいもんだねえ」

 音葉の作業の合間に、ヤマダがいれる相槌も、地図が細かくなるにつれ、気にならなくなっていく。

 情報を書き込めば書き込むほど、職人街周辺に、『楽屋裏』の余地がないように思える。この港町は駅前から漁港にかけて一キロほどの緩やかに広がる斜面に広がっている。斜面の角度が緩やかで、崖や段差はない。その中で職人街だけが唯一片側が崖になっている。

 ヤマダの仲間は、職人街に見慣れない路地を見つけたという。ガラス細工を見たのはその先の通りでのことらしい。

だが、職人通りには、裏路地がない。脇道はいずれも海岸沿いの大通に出るための道であり、抜けた先は片道3車線の車道だ。車道を超えた先は倉庫がならび、倉庫の向こう側は海である。見知らぬ通りなど存在する余地がない。

音葉が職人街を見て歩いた記憶は、地図上でも裏付けられる。当然、裏路地はない。

 もう少し細かい地図のほうが良いのかもしれない。音葉は先ほどビルの二階で味わった奇妙な感覚を思い出した。坂を歩いているわけではないのに、気が付けば三階に到達する。細かいところに注意を払わなければ分からない。

 この喫茶店の窓から見えている光景も、店の外に出てビル内を歩き回れば、歪んだ壁と奇妙なオブジェ、そして入り組んだ迷路へと姿を変える。表向きに見えている形が本当の形とは限らないのだ。

 例えば、建物が地図上の記載より小さく、その差分が路地裏になっているというのはどうだろうか。一度想像してみるも、何かしっくりこない。ヤマダの仲間が路地を見つけたという話をしたことが気になった。

 建物内で道を見つけたなら、路地とは言わない。路地というからには、少なくても建物と建物の隙間のようなものだろう。そうでなければ、職人街の建物の中に、このビルのような内装の建物がある。

 念のため、ヤマダと店員に尋ねてみるが、二人とも、このような内装の建物は、このビル以外知らないという。つまり、ヤマダの仲間は職人街の建物の中で路地を見つけたわけではない。やはり、その路地裏は屋外にあるのだ。

 ヤマダの話が正しければ、その路地裏は通行人の意識に残らないような、幽霊のようなスポットだ。

職人街を歩き回った時の写真を見返してみる。職人街にあるほとんどの建物の写真はとったはずだが、見落とした場所はなかっただろうか。

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