あなたを呼ぶ声(12):異形の去るとき 彼の選択

 13

ダイヤの2。トランプに封じた力は変幻自在の黒い硝子だ。硝子は使役者である久住音葉の意に沿って、柔らかくも固くもなる。一度に使える絶対量には限界があるが、形と固さを変化させる硝子のおかげで、どうにか湯の神の攻撃を防げている。

「とはいえ、一時的です。完全に密封してしまえばまず底をつくのは空気だ。それに、強い衝撃に耐えきれるほど、この空間は丈夫ではない」

 音葉は紅の背後に立つ湯の神、絹田兎一にダイヤの2の特性を説明しながら、ダイ

ヤの2に囲まれた黒い階段を下りていく。階段の一番下には硝子でできた黒い壁。その壁の向こうには楠木智之の身体を取り込んだ雌神がいる。

 絹田邸の二階は、突然の雌神の襲撃を避けるため、ダイヤの2によって完全に密封されている。厚く黒い硝子は二階部分への水分の侵入を阻み、そして一階へとつながる階段を下りると、一階につながる部分は真っ黒な硝子によって阻まれている。

 密封しているにも関わらず、硝子の向こうからは失踪者の部屋と同じ匂いが漂ってくる。加えて、ゴン。ゴン。とガラスを殴るような音が響いていた。

「どうして出てきてくれないんだ。この硝子のようなものは何だ。どうして会ってくれないのか、会って。会って。会って」

 硝子の向こうから聞こえるのは男の声だ。それなのにどうしてか女性のような印象を受ける。声が響く硝子の前に立った音葉は振り返って紅を見た。

「水鏡紅。スペードの1とクラブの1」

 音葉が紅の姓名を呼ぶとき、紅は音葉の願いに逆らえない。それが紅と音葉の契約だ。紅は、彼に二枚のトランプの札を渡す。

 紅の前で音葉がトランプを床へと落とす。床に触れる前にトランプは消え、同時に音葉の輪郭が少しぶれたように見えた。

 空気が揺れて、目の前の硝子が飴のように溶け始める。途端に、いくつもの拳の形に硝子が押し込まれて飛んできた。紅と音葉は慌てて何段か階段を駆け上った。粘性を得た硝子を破るまではいかないのか、階段の中腹、踊り場部分までくるとごぼごぼと音を立てて壁の向こうへ戻っていく。拳が壁の向こうへ戻るとそれにあわせて硝子も元に戻っていき、再び壁の形になる。

 雌神は、しばらくの間、拳を打ち込み続けていたが、拳では破れないと悟ったらしい。今度は飴細工のような顔がいくつも階段へ突っ込んでくる。

 踊り場まで入り込んだ顔は表面に張り付いた硝子を食い破ることができず、伸ばした首をぐるぐると回して階段を舞った。まるで、妖怪絵のろくろ首だ。

 音葉が踊り場へ近づいた顔の後頭部、首の部分を叩き、顔と首の接続を切り離す。すると、顔だけが硝子に包まれ、階段に転がり首は階段の向こうへと戻っていく。ダイヤの2は首を押し返すように、階段の最下段まで戻っていき、壁の形に戻る。

「音葉。このままじゃ何も変わらないよ」

 足元に転がったのは四つの頭。音葉は硝子で固めた顔を念入りに確認している。

「どれも違う顔だ。これで4つ。絹田さん、彼女は一体何人取り込んでいる。これらの顔に見覚えは」

 階段の上に座る絹田は硝子に包まれた顔を眺め、首をかしげる。

「雌神衆として見た顔がある。だが半分は知らない顔だ。私の知らないところで接触を持った顔だろう」

 さらに顔が4つ。階段の向こう側で硝子を抜けようともがいている。

「これはじり貧だな。顔の彫刻ができていくだけで、いずれ君は負ける」

 壁を抜けてきた顔が紅の横を抜けたので紅は更に階段を駆け上がった。音葉は背後から迫る顔を避け、足元の顔を同じように首を折る。首との接続が外れた顔は勢いを殺せず絹田のほうへと飛んでいった。

 絹田は両手で顔を受けとめると向き合いそして嗤った。

「こいつは知っている。権田の得意先の会社にいた社員だ。あの男、そうとう悪趣味だな」

 絹田は片手に顔を持ったまま立ち上がると、勢いよく腕を振り上げ、顔を踊り場の上方の硝子に投げつけた。顔はその先にある黒い硝子と、その向こう側の窓ガラスを突き破り、建物の外へと飛んでいった。

 それを追うように、絹田が窓に向かってジャンプをし、家の外へと飛び出していく。

「待って。音葉、彼が外に出た」

 硝子を抜けようとした雌神の顔が全て引いていく。硝子の向こうの気配が消えるのを待って、音葉は周囲に張り巡らせたダイヤの2を解除した。黒い硝子の結界が消え、二階建ての住宅の玄関が現れる。玄関は開いたままになっており、玄関は水浸しだ。

「さて、外はどうなっているかね」


*****

 おそらくは男性の身体だろう。カーキ色のパンツは水にぬれて下半身に張り付いている。腰から上は服を着ていない。下半身同様水にぬれているが、問題はそこではない。紅たちに向けた背中には男の顔が二つ、肩甲骨と腰からは五つの腕が生えていた。

 背中から生えた腕は、絹田邸の庭を走る絹田兎一に向けて振り下ろされる。間一髪で腕を避けた絹田は、左手で右肘を押さえていた。

 家の外に飛んだときか、紅と音葉が家を出るまでの少しの間に怪物に襲われたか。

「紅、鑑定だ」

 音葉の声に従って、紅は怪物を見た。目に流れ込んでくる情報と小さな頭痛。こめかみを押さえる頃には紅には答えが見えている。

「スペードの9」

 言葉にしてしまえば、単なる記号と数字だ。だが、スペードの9という言葉を口にすると空気が変わる。


 スペードの9。紅が告げるノイズの種類には規則がある。記号はノイズの性質、数字はその強さを示す。音葉たちは絵札以上の数字を示すノイズに出会ったことがない。

 スペードは、物理的な力を示す。超常的な力で筋力を得るもの、触れたものを爆発させるもの、ノイズの特性は様々だが全てが物理的な力へと昇華される。

「9だって。とんだ上級じゃないの」

 紅の答えに思わず声が出た。

「見た目と違って質量がすごく大きい。水が肉に変化して、復元を繰り返している」

 鑑定に成功した紅には、雌神の性質が見えている。彼女の言葉を信じるならば音葉がやるべきは力を削ぐことだろう。9なんて数字、まともにやりあえば死にかねない。

 クラブの1。音葉は手元に用意した札を見た。クラゲの形を持つクラブの1は、触れたものを単純に増やす。そしてもう一つ、ノイズに触れれば、ノイズの力を奪う。奪取と増殖。それがクラブの1の性質だ。

 相手の力を削ぐのに遣おうと思ったが、絹田の復元速度を見る限り、クラブの1程度ではどうにもならないだろう。

「それにしても、不老不死を与える神、傷を癒し、命を復元する存在が、性別を与えられただけで、こうも暴力的で醜くなるっていうのは、酷く滑稽だな」

「そんなこと言っていないで何とかしてよ」

 鑑定を終えた紅は、雌神から距離をとって音葉の後ろに立っている。

「何とかって言われてもね」

 雌神の身体から次々に腕が生えては絹田に向かって撃ちこまれる。外れた腕はそのまま肩口から外れて地面に落ち、瞬く間に朽ちていく。

 湯の神の復元能力を使った芸当なのだろうが、見た目からは、どこまで削れば復元が追いつかなくなるか想像がつかない。クラブの1で太刀打ちできないとしても、他の手段が必要そうだ。

「あれじゃ、復元能力自体を潰さないとどうにもならない。御坂警部は何て言ってた、こっちに来るって?」

「取調室の死体が爆発してかなり慌ててたけど、こちらの居所は聞いてきた。たぶん、30分から1時間で来ると思う。応援を呼ばないことが前提だけれど」

 御坂のことだ。死体の爆発のタイミングから、音葉たちの状況も薄っすらとは察しているだろう。ノイズを間近で見られる恰好のチャンスだと分かれば自分が一番に来ようとする。彼女はそういう人間だ。

「そうだとしても、長引かせるわけにはいかないな」

 御坂が到着する前に、周囲の住人たちが庭を覗く前に、この騒動を解決したい。音葉は、呼吸を整え、目の前の異形を観察した。

 雌神は、生成した腕で絹田を探し、撃ち込んでいる。ベースとなる肉体から噴き出た水分が、数秒で渦を巻き、肉を生み出し、腕へと変化する。復元する水を止められれば効果的だろう。

 音葉は手持ちの札を頭に思い浮かべて、自分の足元に集中する。腰から下だけがぐっと重たく、存在感が増していくような感覚。スペードの1の性質により強化された両足で、地面を蹴り上げ、跳躍する。

 いつもなら4、50センチしか跳べない身体が、一蹴りで絹田家の二階の屋根よりも高く飛び上がる。そのまま雌神の真上、彼女の後頭部の位置まで動き狙いを定めた。

 雌神は楠木智之の顔だけで絹田を補足している。背中や腕に現れた顔は、まともに周囲を見ていない。

「紅、クラブの6」

 空中で身体を回転させると、紅の呆れた顔が目に入る。彼女はクラブの6を使うことに反対らしい。だが、ノイズを鑑定するタイミングと、手札の選択だけは、音葉の絶対的な権利だ。紅が反対しようとも、音葉が願えばカードは現れる。

 札に描かれたのは水球。表面では目玉が生物のように蠢いている。

「水をつかって復元するっていうのは運が良かった」

 雌神の真上から彼女に落下する。落ちる勢いを利用して、音葉はクラブの6の札を楠木の頭部に差した。頭蓋骨が守るはずの頭部が泥のようにうねり、クラブの6を吸い込んでいく。

 カードの半分以上が頭部に入ると発光し消滅する。頭部を中心に黒い液体が吹き出していくつもの目玉が現れた。

「ヒサシブリノソト! ミズ! ミズダ!」

 身体に現れた目玉が甲高い声をあげる。雌神は驚き背後にのけ反った。彼女の眼前に着地した音葉は、彼女の腹部に回し蹴りを入れる。上半身ばかりが腕で重い雌神はバランスを崩してよろめいた。

 その隙に雌神との距離をとる。概ね十歩。音葉の左には膝を地面につけた絹田兎一の姿がある。計算の通り、都合の良い位置にきた。

「君は、あんな奇妙なものまで使役するのか。まるで怪物だな」

 雌神は身体を六本の腕で支え、二本で顔を掻いている。しかし、顔に憑いた目玉たちは雌神の顔から離れず、顔を掻いた腕へと広がっていく。

「あれは、水に反応して増えるんです」

 クラブの6。少し前に遭遇した、他人の目にとり憑くノイズだ。水を媒介にして他者の眼に入り増殖する。雌神の基本的な構成は水分だ。クラブの6にとっては格好の餌だろう。

「復元を繰り返そうとするほど、あの目も増えていく。まさしく天敵だ」

 そう。おそらく絹田にとっても相性が悪い。だから、絹田はクラブの6が現れた瞬間から、雌神との距離を一歩広くとっている。

 雌神の肩甲骨に生えた腕は早くも目に覆われており、顔も左眼の周りを覗いて全てが黒く染まっている。

「最終的には、あれはあの目玉に呑みこまれるのか」

 クラブの6を出し抜こうとしたのか、雌神の腹部と左胸が盛り上がり、皮膚が裂ける。身体から噴き出た水は、瞬く間に肌色の肉へと変貌し、自らの体表を覆う異形を取り除く腕へと変化する。しかし、生成される腕の表面にいくつもの黒い筋が現れたかと思うと、表皮の変わりに目玉が腕を覆い尽くす。どうやら、雌神の復元速度とクラブの6の増殖の速度は拮抗するようだ。

 それでも、クラブの6ができるはそこまでだ。

「あのまま、数日間増殖を繰り返せば、いずれは復元能力を上回るかもしれません」

「だが、そこまで到達したときに君の制御できる状況かどうかはわからない、か」

「さあ、どうでしょう。ところでまだ僕たちに話していないことがありますよね」

「話していないこと?」

「あなたは、過度の復元によって佐原正二の身体が崩壊したと話した。でも、それは正確ではない。もし、雄神であるあなたが佐原正二を崩壊させられるなら、権田剛に雌神をけしかける必要はない。

 絹田兎一。今のあなたは他人を復元する能力を持たないのではないですか」

 絹田からの答えはない。彼は、ただクラブの6に覆われ、徐々に肥大化していく雌神を見つめている。四方に伸ばした腕の支配権はすでにクラブの6にあるのだろう、全ての腕が力なく地面に落ち、その表面を生き生きと目玉が這いまわる。まるで死体に群がる虫のように。

「佐原正二の死体は湯の神の復元能力により死亡したものとよく似ている。だから、自分の力を説明する際に佐原正二のことを引き合いに出した。けれど、警察でも佐原正二の死体の状況については関係者にも話していない」

「あれだけ特徴的な死体だ、犯人の特定に役に立つと考えるのも無理はないだろうね。だが、私が死体の状況を知っていたからどうしたと。佐原は雌神の肉人形だった。それだけだろう」

「警察で死亡した肉人形は名前を呼ばれて爆発した。佐原正二は発見時すでに死体だった。加えてその死体も爆発はしなかった。あれは、佐原の死体は、あなたが雌神に干渉した結果生じたものだ」

 今度は絹田がしっかりと音葉の姿を見た。こちらの意図に気が付いたのだろう。

「君は、私に選べと言いたいのか。そのために、あれの動きを封じたのだと」

 

*****

 久住音葉は、私の問いには答えない。だが、庭に転がる雌神に手を出すこともしない。水鏡紅は玄関前の柱に身を隠し、こちらの様子を伺っているだけだ。やはり、私の選択を待っている。

 雌神の前に歩み寄ると、彼女の身体を包んでいた目玉の一部が剥がれ落ち、楠木智之の顔が現れる。久住音葉が目玉の力を抑えたのだろう。

「ああ、会いたかった。私を置いていくな。会いたかったんだ」

 口から零れ落ちるのは雌神の言葉か。それとも、彼女が取り込んだ人間の声か。

「私は、一つになるの。それが、元の形」

 そう。彼女の言う通り、私と彼女は本来一つの存在だ。だが

「もう、元には戻れないんだ。それは、お前だってよくわかっているだろう」

 彼女は目玉に押さえられ起き上がれない。私はしゃがみ込み、楠木智之の下あごを撫でた。首の付け根をつかみ、無理やり顔を持ち上げ、楠木の眼を覗き込む。

 下あごを濡らす水が、私の手に触れる。指先が熱を持ち、皮膚が泡立った。彼女の下あごもまた、徐々に熱を帯び始めている。

「無理に戻ろうとすればこうなると、あの時見せたじゃあないか」

 佐原正二、私に助けを求めた男は、私の力を受け入れることができなかった。形こそ人間のそれに戻ったものの、そこまでだった。

「違う。それは違う。私は、お前を一つに」

 楠木智之の顔が崩れ始め、声の調子が高くなっていく。集めた人間の声帯から、欲しい声を探しているのだろう。下あごの肉も溶け始め、私の手を包み始める。だが、人間の形をやめた肉が、私の手を取り込むことはできない。熱を帯び、向かうべき形を失い、焦げた匂いと共に溶けて地面へと落ちていくだけだ。

 こうなってしまっては、復元することすらできない。だから、彼女は佐原正二を再び取り込むことを断念して、彼を解放した。彼の身体は私によって汚染されたことに気が付いたから。

「確かに、私のほうがこの目玉よりも早く君を殺せるだろう」

 それは同時に私自身の終わりでもあるだろう。彼女を全て殺すには、私の全てを彼女に与えなければならないだろう。それくらい、今の彼女は質量を持ってしまった。

「まあいいだろう。これは私を追いかけてきた過去だ。結局、源之助と会った時から最期はこうなるはずだった。久住音葉、選択の機会を与えてくれて感謝する」

 彼女の崩れた顔に右手を差し込む。右手に反応して、彼女の顔が激しく熱を持つ。右手を吐き出そうとしたのだろう。彼女は顔の中心に口を復元した。鼻のあるべき部分に差し込んだ右手は口腔内を彷徨った。手首に彼女の歯が刺さり、痛みが走る。

 手首から流れはじめた血は、口腔を通り彼女の中に流れ込んでいく。私の身体は急速に熱を失い、早くも意識が薄れ始めていた。右手首から流れ出ているのが単なる血ではなく、多量の水であることに気付いた時にはもう遅い。

 彼女の口は水であふれ、呑みこみきれなかった水があふれだしていく。事態を悟った彼女は、水を体外に押し出そうと右手を吐き出した。

 私は、数歩、彼女から距離を取り、彼女に噛まれた右手をさすった。まだ力は残っている。手首に空いた穴はみるみるうちに塞がっていく。同時に、私の身体からも力が抜けていく。もう、私を構成する水はほとんど残っていない。

 雌神が呑みこんだ水は、彼女のなかで拒絶反応を示している。クラブの6と呼ばれた目玉たちに押さえられ、身動きが取れないまま、彼女の身体は復元できずに死んでいく。湯の神と呼ばれた存在はここで潰える。

「私もこの身体のままでいるのも難しくなってきたらしい」

 短く切りそろえた髪が肩にかかるまでに伸びている。おそらく、私の顔は宣宮司栞のものになっているだろう。宣宮司栞は今どのような顔をしているだろうか。

「栞。栞か」

 崩れていく雌神の身体から、宣宮司栞の名前を呼ぶ声が聞こえる。私は、この声の主を知っている。どうして彼女の中から?

 その答えを知るまで意識を維持することができない。私は、もう。

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