あなたを呼ぶ声(11):異形のいる現実

 12 

土地の土を踏むのは4か月ぶりだ。前に踏んだ時には夜明けまでに土地を去ることばかりを考えていたので、改めて見る土地の風景に私は思わず足を止めた。

 私がまだ社に入る前、この土地には目の前に広がる人工物はなかった。そこにあったのはうっそうと茂る木々と、その間を飛び回る動物たちの影だったに違いない。時間にして数十年。山は切り開かれ、土地には人間が暮らすための街が生まれ、温泉街として客を招く宿ができた。

 改めて街をあるいてみれば、温泉宿以外にも人々が暮らすための施設が点在している。病院、食堂、店、住宅。ここは、人を寄せ付けないかつての山ではなく、人が根付き生活するための拠点へと変わったのだ。

 人間と動物との違いは様々だが、特徴的だと感じるのは、生存に必要のない施設にも価値を置くことだ。例えば、私の目の前に建っているアトリエという施設のように。

 アトリエ「湯の鳥」。湯神衆の一人が勤めるホテルの真裏にあるそのアトリエは、ホテルの従業員たちが使う食堂の隣に立っていた。アトリエの先は住宅街であるため、観光客も従業員もこの道を通ることは少ない。

 湯神衆の記憶を通して街を把握しているつもになっていたが、小規模の街でさえ、彼らが通らない道があり、知らない場所がある。この身体になってわかったことの一つだ。

「こんなに早く戻ってくるとは思わなかったな。そこの、そこの青年、いやその姿は女性なのか……いや、やはり男性だな」

 私は、初め彼女が自分に話しかけているとは露とも思わなかった。後ろにまとめたポニーテールを揺らして、彼女は私の周りをぐるぐると回った。

「しかし、体格からして随分と違うな。個体ごとの特性をどの程度復元できるのかはよくわからなかったが、ここまで変化するとは予想外だった。いや、動物や植物ベースだと個体差がわかりにくいだけで、実は同様の現象は起きていたのかな」

「あの、誰かと人違いなさっているのではないですか」

 女性は目を大きく見開いて、私の顔を覗き込んだ。ほんの少し目をそらし、何やらいくつか独り言を言うと、打って変わって真剣な目で私の顔を覗き込んだ。

「いいや、間違ってはいないさ。こういう可能性だって予想はしていた。たぶん、私の声のかけ方が間違えているんだ。こういえば伝わるだろう。久しぶり、そして初めまして、宣宮司」

 彼女の言葉を最後まで聞くことはなかった。私の左手は的確に彼女の首を捉え、絞めた。男の身体の形にしておいたのが功を奏した。彼女の首は一瞬で折れる。少なくても、今、彼女は声を出すことができない。

「苦しいよ、宣宮司栞。いや、それとも彼女が契約した何かなのか。私は君を売りはしないよ。私の名前は及川。宣宮司栞の友人だ」

 だからこそ、彼女が首にかけた私の指を丁寧に外しながら言葉を発した状況に、私は初めて恐怖を覚えた。

 

 及川と名乗る女性は、私をアトリエに招き、自らの作品を見せて回った。アトリエ湯の鳥の一階に展開された彼女の個展は、私の持ついかなる記憶よりも確かに、私のことを描いているように見えた。

 山全体を意識したオブジェに網の目のように流れる水。続く展示は山中に生きる動物が並ぶ。事情を知らずに展示を見れば豊かな自然を示す展示だが、動物の瞳には山と同じように網状の水が流れており異常だ。

 続く展示では動物の形が徐々に既知のものから崩れていく。二足歩行で歩く蛙、右の前足だけで踊る兎。「鳥獣戯画を模したものだ」と彼女は説明するが、私には原型に関する情報がない。

 動物からずれた動物たちの先にあるのは、動物と人間の混ざりものだ。そして、その先、展示の最後には二人の人間が立っている。見た目は男女一人ずつのように見えるが、形状は本物の人間というよりは私に近い。

「そう、彼女たちには性別が欠けている。わかってくれたかな。私が君を『湯の神』をどのように理解しているということが」

 彼女は私の隣に立って私の顔を見上げた。彼女自身、女性にしては身長が高いと話していたが、180センチもある体ではどうしても彼女を見下ろす形になる。

「いや、そこは気にしなくていいところだよ。私が聞きたいのはそんなことじゃあない。君がこの土地に足を踏み入れた理由だよ。

 ああ、いやいや。大方予想はついている。ただ、こんなにも早く戻ってくるとは思わなかっただけでね。君が知りたい情報なら私も知っているよ。

 街の入口で起きた事故だろう。崖下に落ちた車の運転手の名前は金沢史郎だ。それとね、事故があって以降、街が少し騒がしい。

 君が社から『脱走』したときと同じだ。湯神衆とその子分どもが何かを隠したがっている」

 彼らは何を隠したがっている。私の質問に答える代わりに、彼女は目の前の男女のオブジェの中央、欠けた手の先にある奇怪なオブジェを掴み、私の胸に押し付けた。

「何を隠したがっているかって? そんなものは君が一番知っているだろう」

 おそらく、このときの彼女は笑っていたのだと思う。だが、何度思い出そうとしても、彼女の表情を正確に思い出すことができない。

 いや、それはおそらく正しくないのだろう。私は、彼女の表情が何を表しているものなのか、未だに理解ができていないのだ。

 だから、この記憶は、及川清秋が、私と宣宮司栞がいずれ直面すべき過去が存在することを告げられたことを示す単なる事実に過ぎない。

 それなのに、最近はよくこの日のことを思い出す。


*****

 事件はまだ終わっていない。そう告げた音葉に対し、絹田兎一はさきほどまでとは異なり一切の反応を示さなかった。絹田は音葉と紅を無視し、窓の外を伺っていた。音葉も自分が侵入した背後の窓に気を払ってみたが、特段妙な気配はない。

「紅。ノイズの気配はあるか」

 頭まですっぽりと被ったフードを左手で少し後ろに下し、紅は音葉の顔を見上げた。視界の端で窓の外を伺う絹田への警戒を続けながら、彼女は眉をひそめて音葉の表情を伺っていた。

「彼以外には気配はないよ」

 ポケットの中の携帯電話にも連絡はない。時間はまだあるはずだ。絹田兎一は一体何を気にしているのか。

「なるほど。ここ数日この家を見張っていたのは君たちか。侵入してから私と話をする時間を計算するために、時間を見計らっていたというわけだね」

「何を言っている?」

 顎に手を当てて何度も頷いていた絹田の動きがぴたりと止まった。

「ん、何を? だから君たちは」

「僕たちはこの家を見張ってはいない。ここに来たのは今日が初めてだ」

 口にして、冷や汗が流れた。ここにきて、絹田と音葉の間にズレが生じている。絹田はさっき何と言った。

 ここ数日、絹田の家が見張られている。

 だが、警察は彼の家を監視していない。それに、音葉たちは昨夜温泉街から戻ったばかりだ。昨晩は御坂警部たちと事務所で情報共有をして、今日の計画を立てていた。

「見張っているだって? 誰が、いつ?」

 今度は絹田の顔から表情が抜け落ちた。音葉に向けられていた視線が外れ、左右にせわしなく動き始める。その動きに合わせたように、紅が音葉のコートの裾を引っ張った。携帯電話にはまだ連絡はない。

「音葉。この匂い」

「何だ。紅。あいつの様子が」

「違う。音葉、あの匂いがする。すぐ近くに、ノイズがいる」

 匂い。ノイズ。窓の外で、水が滴る音がした。二階の屋根に水が数滴跳ねる乾いた音。そうだ。背後の窓は侵入時に開けたままにしている。

 気が付けば絹田の目が再び音葉を捉えている。

 いや、違う。彼が見ているのは音葉ではなく、音葉たちの背後。

「紅。ダイヤの2」

 とっさに叫んだ音葉の叫び声は、屋根に降り注ぐ水の音にかき消された。


*****

「楠木智之を拘束する? 久住君。ああ、なんと言ったらいいか。ううん、巣守、こういうとき君なら何て言うかな」

「拘束する理由が見つからない。先ほどの話が楠木智之の拘束の依頼と結びつく理由も全く理解できない」

 珍しく額に右手を当てて天井を仰ぐ素振りを見せた御坂心音の隣で、巣守元弥は音葉の依頼を断る理由を述べた。御坂は巣守の答えに納得したようで、よくやった流石は私の部下などと言いながら、音葉に向き直った。

「私だって可能な限り君の調査に便宜を図ってきている。佐原正二の異常な死体、権田剛にかかった数々の犯罪容疑、今回はこちらも成果をあげたい案件だからね」

「だったら、お願いします」

 事務所に戻ってきて三時間。御坂警部たちには温泉街で知った事実を話せる限りの範囲で話したつもりだ。そして、音葉たちも警察が調べた佐原正二の事件と、権田剛の事件に関する調査結果を聞いている。

「必要な情報はほぼそろったと言っていい。あとは時間的な猶予が欲しいんです」

「それがわからないよ、久住音葉。君は、三年半前の事故で死んだはずの宣宮司栞は生きていると言う。権田剛の追跡から逃れるために仕組んだ偽装事故、その際に彼女が得た『何か』によって、彼女は権田剛を始めとする失踪者たちを襲った。まあ、君の意見によると失踪者たちを襲ったのはアクシデントで、本当は権田剛だけを狙うつもりだったのだろう。

 だが、集会に出ていた人間はすべて失踪した。妙な話だが、現在宣宮司栞がターゲットにするべき人間はもういないはずだ。それに、楠木智之は今までの話にほぼ関わりがない」

「集会の最後の参加者です。それに、おそらく」

「その『何か』を今持っているのが楠木智之だって言うんだろう。その論理飛躍はさすがに私たちも説明をつけられない。せいぜい保護名目で一晩というのが限度だろう。だが、そもそも彼は友人と旅行中だとかいう話だったが?」

 それなら、おそらく帰ってきているはずだ。音葉たちは、温泉街から戻る車中で、同乗する楠木智之の姿を見ているのだから。


 楠木智之、当の本人は不思議なほどに簡単に警察の申し出を受け入れた。佐原正二の変死体が発見された件について、関係者から話を聞きたいという名目で訪問すると、何の抵抗もなく警察署にやってきたという。

 捜査本部に波風を立てずに事を運ぶことだけでも綱渡りだ。本人が抵抗なく警察に来てくれたのなら、ひとまず本部が口を出してくる確率は減っただろう。楠木を来客用の応接室に通したという報告に、巣守は胸をなでおろした。

「そういえば、楠木の妻はどうだった?」

 以前に家を訪れた時の様子が気になって、訪問した巡査に尋ねてみると、彼は首を傾げた。

「奥さんですか? いや、自宅には楠木さん1人しかいませんでしたが」

「楠木智之一人? たしか彼の家には妻がいたはずだが」

「いいえ。本人も自分一人だと言っていましたよ」

 おかしい。巣守も御坂も楠木智之の妻と名乗る女性に出会っている。

「彼は独身だって?」

「いいえ。結婚はしていると言っていましたよ。ただ、何か奥さんと不仲らしくて、熟年離婚ってやつなのですかねぇ。もう半年近く家に帰ってきていないそうです」

 楠木友恵。警官は手帳にメモした楠木の妻の名前を読み上げた。巣守達が会った女性も同じ名前を名乗っていた。それに、便利屋の久住音葉たちも楠木夫妻に会っているはずだ。半年前などではない、つい最近のことだ。楠木は何かを隠している。

 念のため警官から警棒を借り受けて、巣守は応接室へと向かった。警察署の二階、総務課の隣。階段を下り、二階の廊下に出ると捜査本部から追い出される上司の姿があった。

 着古したコートに書類を押し付けられ、廊下に押し出される様子はまるで刑事には見えない。彼女は耳元の跳ねたくせ毛を右手で掴みながら捜査本部のドアに向かって悪態をついた。

 そしてコートのポケットから缶コーヒーを取り出すと、片手で器用に缶を回転させる。一言二言独り言をいうと、こちらに気が付いたらしく肩をすくめてみせた。

「今から金剛鬼字の会のガサだそうだ。わざわざ夜間にやることはないだろうに、もう20時を回っているんだよ」

 どうやら、御坂は捜査本部の捜査方針に対して異論をつけにいったらしい。

「警部にとっては本部の方針なんてどうでもいいんじゃないですか」

「それはそうなんだけどね。権田剛を嗅ぎまわっていたから意見を聞かせろと言われてね。面倒だから調査の結果話してやって、金剛鬼字の会よりも、権田を探すか、権田と接触した女を探せ、女は元警察官だって言ったら揉めに揉めて追い出された。

 お前は警察に呼んだ管理人のじいさんとでも話していろってさ。そうだ、巣守。楠木智之は無事に連れてきたのだろう」

 そう。問題は楠木智之だ。

「ええ。今、応接室に通したという報告を受けたので、会いに行こうかと」

「警棒もってそんな険しい顔してかい? 穏やかじゃないね」

 御坂はコートの袖に隠れていた腕時計を確認した。まだ8時を過ぎたばかりだ。久住音葉からの依頼は明日の朝まで。期限はまだ先だ。

 巣守は、御坂に同行するように促して応接室へと足を向けた。

「警部。警部は楠木の妻を覚えていますか」

「ああ。友恵さんだったかな。楠木の行方が分からないと不安がっていたね」

「ところが、智之は半年前から妻は家にいないと話している」

 隣を歩く御坂の気配がとがったものに変わった。

「そいつは、妙な話だね。応接室、そこの突き当りを曲がったところだっけ」

「ええ。まずは、話を聞いてみてですが、何か妙な感じがしましてね」

 総務課を通り過ぎて二部屋。会議室の隣にあるのが応接室。扉を二回ノックするが、中からは声がない。応接室にはいった客人がノックに反応すること自体が少ないだろうから、それだけで怪しむ理由にはならない。

 だが、隣に立った御坂がコートの袖で口を塞いだ。

「巣守。お前、気が付いていないか。この部屋から妙な匂いがする」

「匂い? どのような」

 特に変わった匂いはしない。御坂にだけわかる匂い。権田剛の部屋に踏み込んだ時のことが頭をよぎった。手に持っていた警棒を握り直し、応接室の扉に耳をつける。

「楠木さん、入りますよ」

 できるだけ警戒されないような声を上げて、ドアを開くと、隙間から生ぬるい空気が廊下に流れ出た。

 部屋の中心に置かれた木製のテーブルをはさむようにソファが二つ。客人であるはずの楠木智之の姿はそこにはない。だが、部屋の中には何かがいる。

「楠木さん?」

 声をかけながら一歩中に入る。返答はない。だが、奥のソファの後ろ側で何かが動いたのが見えた。袖口で口を押えつつ部屋に入ってきた御坂と目配せをし、更に一歩部屋の奥へと入っていく。

 ソファの後ろ側に何かがいる。肌色の何かがソファの端で動いた。あれは、人間の足か?

「楠木智之。いるのなら返事をしろ」

 ソファの後ろ側でずるりと何かが這ったような音がする。意を決してソファの後ろに回り込むと、身体があった。

 背中だ。男の身体が、何かを床に押し付けている。肩甲骨のあたりが隆起し、男は左腕を振り上げて、床に押し付けた何かにむけている。何か? 誰かか?

 考えを巡らせる前に、身体が動いた。警棒を背中に向けて振り下ろす。だが、男の背中に警棒を下しきる前に、警棒は男の右腕に掴まれた。

 右腕。何故。目の前の出来事に頭がついていかない。男の腕は床に伏した誰かを以前押さえている。しかし、巣守の振った警棒は、男の右肩から生えた腕が掴んでいる。そして、左腕は振り上げたままなのだ。

「警棒は痛い。痛いのは厭だ」

 男の首がくるりと回転し、巣守の顔を見た。巣守にはそれが楠木智之かどうかを判断する能力は残っていなかった。意識が遠のきそうになるのを間一髪で堪え、左手を男の顔に向けて振り下ろした。それでも、男は巣守の手を左手でつかむ。左腕がおかしな方向に曲がっている。

 眼前の光景に呑まれそうな巣守の意識を、御坂の叫び声が引き戻す。彼女は声とともに男の後頭部を思い切り蹴り上げた。目から意識が消えて、男の身体が巣守のほうにのけ反った。

 いったい何が起きている。

 

*****

土砂降りの雨音が掻き消えると、窓際に立っていた久住音葉がふらついて近くの椅子に座りこんだ。雨が降り始めるまでと違い、窓は全て塞がれている。窓どころか、部屋の壁面も全てが黒く塗り替えられた。触れた手触りは黒曜石や大理石の肌触りに近い。おそらく硝子なのだろう。

 久住たちが侵入してきた窓の部分は窓の形ではなく所々が部屋の内側へとへこんでいる。凹みは少々気味の悪い形をしており、まるで人の手のように見える。窓から侵入してくるいくつもの掌。酷く気味が悪い。

「君たちは、また随分と変わった特技を持っているものだね」

 声をかけると久住音葉と水鏡紅の二人が私のほうを向いた。

「それよりも、あれ、何日も前からこの家を張っていたんですか」

 どうやら彼らがここを何日も張っていたというのは私の考えすぎだったようだ。

「ああ。少なくても一週間は様子を伺っていたな。今日は一段と強い気配だ。ところで、あまり驚いているようには見えないのだが、窓、硝子の向こう側のモノが何か気にならないのかい」

 咄嗟のこととはいえ、部屋中を硝子で覆うような真似をするのだ。おおよそ予想がついているのだろう。だからこそ、彼らはこの部屋に来た。

「あなたの片割、雌神でしょう。湯の神は二つに分かれた。雄神がそうやって自我をもって動けるなら、雌神が動けない道理はない。それに、雌神がこの街にいるのは、あなたが権田剛に雌神を仕向けたからだろう」

 そのとおり。やはり、それがわかっているから初めから私と話をする姿勢で部屋に入ってきたというわけだ。こちらが何も話さずにいると、沈黙が気まずいのか、久住音葉が再び口を開いた。

「堕ちゆく神。あの妙な腕のオブジェを使ったんだろう。オブジェそのものには力はないが、そこに何かの細工をした。雌神が寄ってくるように仕組んだそのオブジェを、森本智美の姿を借りて、権田剛に渡したのだろう。

 だが、権田剛と雌神が接触しても、権田剛は死ななかった。いや、雌神が権田剛とは別の人間を狙って動くようになった。佐原正二、加藤末勝、山田幸一、工藤祐介。あなたの思惑と違うところで人を襲う雌神を抑えることができなくなった。

 だから、あなたは僕たちに失踪者たちの行方を探そうとしたのだろう。誰か一人でも行方を掴めれば、雌神を止める方法があるかもしれない」

「そうだね。概ねその通りだよ。君たちが答えを見つける前に、彼女も私にたどり着いてしまったようだけれどね」

 堕ちゆく神。清秋はあのオブジェに酷い名前を付けたものだ。雄神と雌神に分かれてしまった二神が元に戻ろうとするも戻れない現実を描いたと話していた。

 私は、彼女と一つになろうとは考えも及ばないが、彼女はそうではないのだろう。だからこそ、堕ちゆく神の痕跡を追って、私のところまで来た。

「音葉、繋がったよ。でも、御坂さんのところには楠木智之がいるって」

 携帯電話を操作していた水鏡紅が声を上げた。警察と連絡を取っていたらしい。久住音葉が話すのをやめて携帯電話を借り受けた。そして、こちらをみて、携帯をスピーカーに切り替えた。ところで、彼女は、今、楠木智之といったか?

「いったい何がどうなっているのか説明してほしいね」

 電話に出た御坂刑事の声は苛立っている。話を聞くと、どうやら警察署内で楠木智之が暴れたのだという。

「話が全然通じない。警察署につれてきたときには確かに楠木智之と名乗っていたが、応接室にいる間に気が触れたらしい。お茶を入れに来た女性警官を犯そうとしていたところを私と巣守で取り押さえた。

 以降はほとんど話ができていない。わけのわからない話ばかりでついていけない。女性は誰もが自分を愛するとかなんとか」

「ふむ。それは、おそらく肉人形だ。楠木智之ではない」

「肉? なんだ、今のは久住君の声ではないな、誰かいるのか」

 久住音葉は咄嗟にスピーカーを切り、携帯を水鏡紅に返した。慌てた水鏡が電話を耳に当てて話をつなぎ始めた。

「肉人形。重要な情報はすべて奪われて、ほんの少しの記憶と身体だけになった抜け殻だ。源之助は、社の儀式で長く浸かりすぎた湯神衆のことをそう呼んでいた。

 まあ、楠木智之ではないことについては君たちもよくわかっているだろう。外で君たちのガラスを叩いているのが楠木智之、楠木源之助の血筋の男だろうからね」

「よく、わからない。それじゃあ、警察署にいるのは」

「失踪者の誰かだろう。彼女が楠木の以前にベースにしていた肉体だ。他の肉体と違って、彼女自身を封じている身体だから、形は残っている」

 私の話を聞いて、水鏡紅が電話口で失踪者の名前を伝える。それはまずい。声をかけようとする前に、電話の向こうで騒ぎが起こったような音が電話から漏れ聞こえた。目を見開いた水鏡紅が口を開けながら、久住音葉と私を交互に見た。

「正解したようだ。肉人形は本名を伝えると自分の事を思い出して崩壊する。おそらく署内には死体が散乱しているだろう。情報を伝えるのを少し早まったな」

 久住音葉の目が冷たくこちらを刺す。

「どのみち、肉人形はすでに死んでいる。名前を失っている間だけ、生きたように動き続けているだけだ。それよりも、外にいる楠木、いや雌神をなんとかしないと、私たちは死ぬぞ。奴はまだその硝子を叩いているんだろう」

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