あなたを呼ぶ声(9):異能の証明 彼の約束
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楠木源之助は、山中で出会った人間の中で、私を恐れない初めての存在だった。彼に会うまでの私の記憶は、この山から始まり、この山で終わっている。気が付いたとき、私はこの湖の中に存在し、湖を通して交流した者たちへと姿を変えることができた。魚、鳥、兎や猪、動植物、そして幾人かの人間。
人間というのは山では珍しい生き物だ。源之助以外の人間はすべて動物の姿を借りて山中を散策しているときに遭遇した者たちだった。山に暮らすあらゆる生き物よりも弱いが、他の生き物よりも優れた道具を持っていた。彼らは、道具によって狩りを行い、食物を手にし、安全を確保しながら山中を分け入っていた。
人間の生活圏は主に山の外にあり、彼らは何かを求めて山へ入り、その何かが取りつくされたなら山の外へと帰っていく。拠点を山の外に置くのは人間なりの理由があるのだろう。とても、興味深い。
何人かの人間を観察し、接触を試みたものの、山の外の暮らしを知ることはできなかった。私が影響を及ぼせる範囲は、この山中のみであり、どういうわけか、私は山の外へ影響を広げることができなかった。
楠木源之助以前に接触した人間から得ることができたのは、彼と交流するために作った人間の似姿と声だけだ。
だから、源之助の提案は私にとっても有益だと感じた。
「ここに温泉街を作る。幸いなことに湖は温泉質であるし、湖の近くには程よく開けた土地も見つけた。私は、君の水に宿るその力で、多くの人間を救いたいのだ」
源之助は、湖の水、そして私の身体が、人間も含めた動植物を復元する力があることに目をつけていた。私にとってみれば、『水』が彼らを復元することなど特に不思議なことではなかったし、むしろ水を与えすぎると、私と同化してしまうことのほうが問題のように思えた。
「大丈夫。私は君と交流をすることで、その問題を解決する仮説を立てている。現に、私は君の影響下にあるウサギや植物を口にしても死に至っていないし、水を飲んでいてもこうして生きている。
多少なりとも君の影響は受けているだろうが、こうして生活ができているのだ。君が多くの人間と交流する方法だって見つけられる」
山に宿ができれば、麓から人が来る。麓の人間と交流をすれば、山の外のことを知ることができる。長らく私が知りたかった外の世界を教えてくれると、源之助は提案したのだ。
当時の私には、そこに潜む源之助の目論見など考えるまでもなかった。それに、仮に彼が何かを仕組もうとも、私はそれに縛られるとは思っていなかった。それほどまでに、私と人間には距離があった。
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湯の神。温泉街で祀られていたそれは、厳密には雄神と雌神に分けられていた。雄神には雄神衆と呼ばれる女性たちが、雌神には雌神衆とよばれる男性たちが祭司としてついており、湯神衆は社の中で神を祀り、温泉の健康長寿を祈り続けていた。
「実際の祭儀は湯神衆以外には公表されていない。ゆえに湯神衆以外は本来、祭儀の内容を知らないはずだ。だが、楠木家の三代目、芹は、おおよその祭儀の内容を聞いていた。源之助の意思に反して、秘密は守られなかった。もっとも、肝心なところについては未だ部外者である芹に伝えられることはなかった。だから、奇妙な祭儀だとは思われていても、祭儀の真実は隠されたままでいた。
ところが、そこに現れたのが及川清秋だ。
彼女は、芹と接触し、湯の神伝説と祭儀についての話を聞き、興味を抱いた。彼女は楠木源之助の残した手記や、周辺地域に残る逸話、過去の訪問客の話などを収集し、また彼女自身も実験を繰り返すことで、楠木源之助が、湯神衆が行っていた祭儀の正体を推測できてしまった。
しかも、彼女はそれを自らの芸術作品と称して形に残そうとしていた。当時の湯神衆たちの狼狽ぶりといったらなかったよ。清秋はおおむね祭儀の内容を理解したうえで行動に出ている。湯神衆たちは祭儀が外に漏れることをひどく嫌がった。
彼女の作品制作を止めたい。だが、他方で、清秋を止めようとすれば、彼女の理解が適切であることが裏付けられてしまう。だから、迂闊に手を出せず、湯神衆らは及川清秋を監視し続けるしかなかったのだ。
ところが、災難なことに、祭儀の時期と及川清秋の滞在時期が重なってしまった、そして、及川清秋が宣宮司栞と出会い、彼女たちは祭儀を利用する計画を立ててしまった。
このあたりの筋書きについては、君は概ね予想しているのだろう」
音葉に問いかける絹田の顔は、映像や写真で見た宣宮司栞とうり二つだ。だが、その口から漏れ出る声は、ぼそぼそと低く暗く、そして水の中で話しているようにくぐもっている。
もはや絹田兎一がノイズであることに疑いはない。
「その筋書きについて話す前に、いくつか確認したい。湯の神の力というのは」
「君が初めに話した通りだ。私の水に触れたものは傷が癒え、場合によっては死さえも覆るように見えるだろう。但し、いくつかの制約がある。許容量を超える水を受けた個体は動物、植物に関わらず身体を維持できずに崩壊する。
佐原正二の肉体も過剰摂取により変異した形の一つといえる。それともう一つ。清秋はこの性質をもって、私の力を治癒ではなく復元能力と称していたのだが、水の影響が強くなると、生物はすべて両性具有になる」
両性具有。楠木源之助が山の動植物について見つけた特徴の一つだ。だが、その変異は楠木源之助の時代にはあったが、及川清秋が温泉街を訪れた三年半前、音葉と紅が訪れたつい先日の温泉街には全く見られなかった。
「あなたの話した力は、楠木源之助とあったころと変わらないのですか」
「今の私にも、復元能力はある。だが、両性具有の発生率は随分と低くなった。君たちも私の力のことを知ったうえで、あの町を思い起こしたなら気が付いているだろう。かつてほど私の力の影響は及んでいない」
それは、つまり力が弱くなっているということなのだろうか。それとも、彼女、湯の神がここにいるために、温泉街では復元能力が失われたということか。
「楠木源之助が、源泉で湯の神と遭遇してから、温泉街の着工を計画するまでの間、執拗に周辺の動物を調べていた理由をずっと考えていました。彼は、あの湖の水が、生き物を両性具有に変化させること、水は生き物の傷を癒すが同時に与えすぎると水によって死に至ることに気が付いていた。
性別の消滅と、過剰摂取による死亡。湖の水を利用するにあたっての障害がこの二つだったことは明らかだ。どんなに良質の温泉だとしても、人が死亡し、あるいは性別を失うのだとしたら、そのような水を使えないですからね。
ところが、及川清秋が温泉街を訪れた三年半前。山では両性具有は出現せず、温泉の水を摂取してもそのような現象は生じなくなっていた。つまり、楠木源之助は、湯の神の復元能力を何らかの形で克服したということになる。
では、いつの段階から。山水邸を作る前からか。動物での実験で障害を克服した?
だが、一方で及川清秋の残した記録には、数十年前、山水邸を訪れた客の温泉街の食事に関する体験についての記述がある。それによれば、過去に山水邸を訪れた客は、食事により精力がみなぎる代わりに、温泉街にある食材以外は口に出来なくなり、体調を崩したという。おそらく、そのころの温泉ではまだ湯の神の力が強く残っていたのだ。つまり、楠木源之助は、障害を克服する前に山水邸を作り上げた。
彼は、山水邸を使い、人間を山に呼び込むことで、湯の神の力を弱めようとしたのだろう。湯神衆が湯の神の泉に入浴する祭儀、雄神衆と雌神衆に振り分けられた祭儀の人員。楠木源之助は、湯の神に性別を与えることで、神を二つに分け、復元能力を失わせたのではないですか。
そう、これならば、山水邸が建てられた初期、山中でどろどろの死体が発見されたというのも説明がつく。それらの死体は、湯の神に性別を与えるために捧げられ、湯の神の力の過剰摂取により身体を保てなくなった人々というわけだ」
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源之助が山中に呼び寄せた人々は、私の姿を見て戦き、そして源之助が見せた道津たちの傷がいえる奇跡に喜びの声を上げた。そして、その奇跡に自らもあやかろうとして、私とともに湖に入った。
結果、人々の身体は私の目の前で膨れ上がり、元の身体とは似ても似つかない肉の塊となって転がっている。
「これが、君の言う、人間を知るということなのか、源之助」
私の問いに、源之助は小さく首を振った。
「私が想像していたものとは少し違うな。君は、彼らとともに過ごして気が付いたことはなかったか」
気が付く。源之助の説明には私にはわからない言葉がまじることが多い。「気が付く」というのも理解に苦しむ言葉の一つだった。
だった。私は、自分の中に今までなかった感覚が生まれていることに「気が付いた」。知覚できることが増えている。それだけではない。私は、湖に浸かったものたちが、戦争を生き延びてきた復員兵であるということ、楠木源之助が新聞を通して告知した広告を見て山へとやってきたこと、それ以外にも、彼らの過去について思いを馳せることができる。
「なるほど。それならば、予想通りだ。君と君に触れた水が動物の傷をいやす代わりに両性具有へと変化させてしまうことにも説明がつく。君は誰かの傷を癒しているわけではない。君は、君に触れた生物の情報を基に彼らを復元しているに過ぎないのだ。だから、君が知覚できない、観察できない部分に関しては正確に復元することができない。
君が性別を持たない以上、君に触れた生物たちからも性別が失われる。もしかすると、君の前にいる彼らが復元しすぎてしまうのも、その性質からくるものかもしれない。君自身と違って、無限に繰り返される復元に身体が耐えられないのだ。
だが、君は僕のこの説明をまだ理解できないだろう。君自身が知覚できる情報と一致していないだろうからね」
今思えば、そのときの源之助はとても満足した表情で私と、私の前に転がった死体を眺めていた。それは、源之助の脳内にあった計画が明確な形になるという手ごたえを感じたからだったのだろう。
だが、その時の私には彼の言葉を理解できるほど、人間の情報が蓄積されていなかった。そして、これを契機に私は源之助に囚われることになる。
なるほど。目の前に立つこの便利屋は、私の過去にたどり着いた。及川清秋が告げた私を狩る者とはやはり彼のことだろう。
「素晴らしいよ久住音葉。君の考えている通りだ。今の私は、かつての私とは異なり、復元ができる範囲が狭い。湯神衆と呼ばれている人間たちが、社で入浴するにもかかわらず死なないのはそのためだ。但し、雄神の私が殺さずに復元できるのは女性だけだ。男性の肉体を治癒しようとすれば、高確率で復元が過ぎて死亡する。
そう、私が数か月前に遭遇した佐原正二のように。だが、その話をする前に、解決するべきは宣宮司栞のことだ。久住音葉。
君は、宣宮司栞が死を偽装したというが、それはどういう考えなのだ。確かに、私の身体は宣宮司栞をベースにしている。だが、実際に社の中からは宣宮司栞の死体が見つかっているじゃあないか」
「それは、宣宮司栞の死体ではなく、行方不明になった湯神衆の死体だったのでしょう。あなたの力なら、あなたが絹田兎一の顔をしていたように、肉体の見た目を変えることなどたやすい。宣宮司栞の身体を乗っ取るだけでなく、湯神衆を宣宮司栞の姿に変えて、死体として残したんだ。
それが、彼女との約束なのでしょう。宣宮司栞を消す。そのために死体を作る必要があった」
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