あなたを呼ぶ声(8):彼との対話 依頼者の顔

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 私が唐突にこんな話を始めた理由について、理解が追いつかないのだろう。だが、これは君の行く末に関わる大切な話だと、少なくても私は思っているんだ。

 まずは質問に戻って欲しい? ああ、それはすまなかった。何故、君が君だとわかったか。だったかな。それはね、とても簡単な事だ。私は、君の、いいや違う彼女ではなく君のことだよ。その仕組みを概ね理解しているからだ。

 君だって、そう思ったからこのアトリエを覗いたのだろう。自分が何者であるかが他人の手によって暴かれる不快感が、君の足を此処に向けさせたのだ。まあ、彼女が私の知り合いであることも、ほんの少し関係しているようだけれどね。

 君を知る楠木源之助は既に他界してしまった。この町に残る楠木の意思を継ぐ者たちも君のことはよくわかっていないはずだ。私だって実験をしてみるまで想像もできなかった。君の性質も、それを知りながらこんな街を作った源之助の悪意もね。

 もっとも、君が肉を得てここにいる以上、源之助の望みは潰える。私はそれで良かったと思っている。君が離れたことで幾人かの人生は終わりを迎えるがそれも本来の寿命だ。芹は先代のおかげで正常な判断力を持っているし、多少時間はかかるが、街は正常化するだろう。君のような異物との接点は文字通りただの伝説になる。

 誤解しないでほしいのだが、私は、君が嫌いなわけではない。望ましい形ではないにしろ、君は私の友人を救ってくれた。そのことにも感謝をしている。街の正常化を望むのと、君に対する好意の有無は切り離して考えてほしい。

 私は、君に感謝の意を持ってアドバイスと贈り物をしたいのだ。

 君はいずれ私の同類によって発見され、正体を暴かれ、狩られてしまう。君の心がけ次第で、猶予期間は延びるだろうが、その未来は覆せない。だから、それまでの期間が君にとっても、彼女にとっても有益なものであることを私は願っているよ。これは、私の願いの表れだ。彼女は渋い顔をしていたが、君なら、この『手』が何を表したものか、理解できるだろう。

 私の名前? そんなことを気にするのか。それは、君自身の性質、それとも彼女の記憶がそうさせるのかな……私の名前は及川清秋とでも覚えておいてくれ。それでは、縁があればまた会おう。土地から解放された『湯の神』よ。


*****

 目を開くと、周囲はまだ暗闇に包まれていた。どうやらうたた寝をしていたらしい。随分と昔の記憶を見た。まだぼやけている頭を左右に振り、重たい身体に力を入れて立ち上がる。壁にかけた時計は深夜二時をさしている。

「施錠していたつもりなんですが」

 庭に面した襖は開かれており、薄らと夜の気配が入り込んでいる。開かれた襖の前には人影が二つ。一つは背が高く、もう一つは背が低い。背が高い方の人影は昔どこかで出会った人に雰囲気がよく似ている。そして、もう一人は自分に似ている。

「依頼が中途半端なままでは良くないと思いまして。調査結果をお伝えしようと思い伺いました」

「こんな夜更けにですか。もう深夜二時ですよ」

 背が高い方が腕時計を確認するような素振りを見せた。どうやら外は月が出ているらしい。この時間にもかかわらず、室内に比べて少し明るい。

「まあ、ある意味この時間が適切な報告内容のようにも思います」

「丑三つ時が適切、ですか。怪談でも始める気ですか、便利屋さん」

 壁際の電気のスイッチに手をかけた。蛍光灯の光に照らされて、襖の前に立つ二人の便利屋、久住音葉と水鏡紅の姿がはっきりと見えた。二人とも緑のビニール合羽に身を包んでいる。

「怪談、そうですね。これは怪談だ。だから、夜明けまでには全てを終えたい。僕はそう思っているんです。絹田兎一、いや、宣宮司栞さん」

 久住音葉は、私の顔を見て、はっきりと彼女の名を告げた。

 どうやら、及川清秋の告げた未来が目の前まできているらしい。


*****

 山に入って一週間が経つ。麓の人々には、山は忌み地であるから入ってはならない。入ったとしても山の物を口にしてはいけないと強く警告された。

 ところが、いざ山に入ってみると、非常に自然豊かであることに驚かされる。麓とは異なる力強い緑、活発な動物たち。山の民を求めていくつもの山に踏み入ったが、ここまで豊かな山を見たのは初めてだった。

 麓の人々が山の物を口にしないという戒律を定めているのは、この生態系を踏みにじらないようにするためだろう。私もこの一週間、彼らの想いを無駄にしないよう、山に頼らずに探索を続けてきた。

 だが、一週間がたち、私は戒律が存在する理由が、全く別のところにあるのではないかと疑いを持つようになった。

 きっかけは、昨日見かけた猪の死骸だ。斜面に開いた穴の中に、子供の猪の死骸を見つけた。動物たちは、他者に見つからないところで死に、また死体は森のその他の生き物にとっての食料になるため、森の中で動物の死骸を見つけることは珍しい。私は、興味を惹かれて猪の死骸を見分することにした。

 死亡してから数日は経過しているのだろう。傷口にはウジがたかり、かなりの部分が喰い荒らされていた。私はウジを払いながら、まだ死骸の身体の残っている部分を探っていった。奇妙な事に気が付いたのはその時だ。

 まず、肉が非常に綺麗なのだ。ウジが腐敗部分を食べたからとも思ったが、それとは随分と違う。まるで食用に整えられたような肉の色合いの理由は水だ。猪の身体はどういうわけか水で洗われ血抜きされている。そしてもう一つ。この猪は雌雄同体、つまり雄雌どちらの生殖器も備わっていた。

 その不思議な死骸を前に、私は麓の村で聞いた逸話を思い出した。ある時、山に入った子供が兎を捕えてきた。父は山の戒律を知らない外部の人間であり、兎を捕まえた子供の手腕を褒め、兎鍋にしようと張りきったと言う。ところが、いざ兎を解体すると、中から現れたのは兎の肉ではなく大量の水であった。父は驚き兎の身体を放り投げた。すると、先ほど水があふれ解体されたはずの兎が立ち上がり、山に向かって戻っていったのだという。

 あまりに突飛な話で、何を戒めたものなのかわからないまま山に踏み入ったが、ひょっとするとこの逸話はあながち作り話ではないのかもしれない。

 その時、私は初めてこの山が酷く異質であるという可能性に気が付いた。


*****

 あなたが僕たちに依頼した失踪者の行方はいまだにわかりません。

 いくつかの手掛かりは掴みました。彼らが互いに面識があること。人間の両手を象ったオブジェを使い、女性を誘惑できると信じていたこと。オブジェの所有者の一人、佐原正二が死亡したこと、そして、オブジェが及川清秋という美術家の作品によく似ていること。

 あなたも警察で事情を聴かれていたから承知していると思いますが、佐原正二が死亡していたことから、そのほかの失踪者も同様に死亡している可能性が高い。警察はそのように見ています。

 僕も、初めに佐原正二の死体を見た時にはそう思いました。ただ、今は少し違う。

 調査を続けていて、失踪者の失踪前後に部屋に侵入している人物がいることに気が付きました。防犯カメラに映ったその人物は死んだはずの女優、宣宮司栞と瓜二つだ。

 宣宮司栞。彼女は三年六か月前、とある山あいの温泉街で死亡している。つまりカメラに映るのはよく似た他人か、彼女の亡霊。怪談じみてきたでしょう。

 いいえ、亡霊が彼らを失踪させたというほど短絡的な話ではないですよ。人探しも生業の一つですから、そんな報告で報酬をもらおうとは思いません。


 話を続けましょう。宣宮司栞は、旅行先にて、温泉街の源泉の湖を訪れたようです。その湖には湯の神を祀る社がありましてね。彼女は、社内の水場で溺死した。

 なぜ、そのような場所に水場が? 社を建てた人間はもういないので、本当の所は分かりません。ここからは彼らが残した資料を基にした僕の推測でしかない。

 でも、この推測、社の存在意義こそが今回の依頼、失踪者たちの行方を明らかにするために最も重要な点だと僕は考えています。

 湖に建てられた社、それは山に憑いた怪異、『湯の神』を堕とすために作られた。


*****

 猪の死骸と、山の麓の逸話。二つが繋がった途端、私にも山が不気味なものに見えるようになった。山は変わらず生気に満ちている。だが、そこに溢れる生気は、私の身体に流れるものとは違う。麓の人間たちが感じていた畏怖はこのような感覚から来ているのかもしれない。

 まずは何はともあれ仮説の検証だ。私は山の探索と並行し、動物の捕獲、見分、解体を試みた。兎、鳥、蛇、魚。一日をかけて私は彼らの構造を調べた。

 結果は全て猪と同じ。私の前には雌雄同体の死骸が並んだ。一回なら偶然だが、こうも続けば偶然ではない。この山は突然変異種の宝庫だ。

 植物も同じだ。ほとんどの花に花粉が存在しない。茎や実の一部が膨れているものがおおく、そこから新たな種が吐き出される。これも一種の雌雄同体だろう。

 もう一つの顕著な特徴は、その水分含有量だ。動物からは溺れたかというほどに水がしみ出した。他方で血は少なく、解体時点で血抜き後のような見た目に仕上がる。

 植物も同様で、茎や根などにナイフを入れれば、どんどんと水が染み出てくる。

 この水も不自然極まりない。動植物の外に出ると瞬く間に蒸発する。山の気温は25度。私が持ち込んだ水は当然ながら変化はない。動植物から出てきた水だけが蒸発する。

 調査を続けた二日間、一度たりとも例外はない。私は確信した。この山は未知なる水に汚染されている。麓の戒律は、このことへの警告なのだ。


*****

 温泉街の設立者、楠木源之助は、地元の住人が忌み地とする山中に踏み入り、温泉を見つけた。その温泉は、彼の満身創痍の身体を癒し、傷を直し、疲れを拭い去ったという。楠木は、その効能に目をつけて、忌み地とされたその土地に温泉街を建てることを計画した。

 彼は、『山水邸』と名付けた温泉旅館の建築と共に、源泉に宿る『湯の神』を祀る社を建てた。湯の神を祀る本殿には、本尊を挟むようにして水場が設置されている。水場は社の地下を通り、湖と通じている。

 楠木源之助は温泉街の建設以上に、社の建立に力を入れていた。その証拠に『山水邸』ができる半年以上前には社が完成している。

 他方で楠木は完成した社に人を入れようとしなかった。楠木源之助の死後、楠木の跡継ぎも同様だ。彼らは社内の管理を湯神衆と名乗る祭祀に限定させ、祭儀の詳細を外に明かさなかった。その結果、湯神衆を失ったあの街ではもはや源之助の作り上げた祭儀は失われた。

 ところで、温泉旅館『山水邸』ですが、当初はほとんど来訪者がいなかったようです。地元では忌み地とされた山だ。麓の人間は決して近寄らなかった。利用していたのは建築業者や、楠木の知り合いがほとんどでした。

 旅館ができたのは六十年以上も前。当時の利用者の足跡を辿ることは難しい。もっとも、利用者の評判はそれなりに高かったようです。一度泊まれば他の土地には行けない。そういった感想が宿泊帳に記されていました。

 温泉の効能がよかったから? そうですね。おそらくそうなのでしょう。温泉は疲れた体にすこぶる効いた。効きすぎて山から出られなくなった。

 何を妙な話をして、って顔ですね。当時の新聞には奇妙な記事があるんです。『山水邸』建立直後の半年間、麓では六つ。身体が溶けた死体が発見されている。

 ドロドロに溶けた死体。絹田さんも最近何処かでそういった話を聞いたでしょう。


*****

 汚染源は湖にあった。雌雄同体の浸食度が高い個体が見つかる方へ、山を分け入ると湖にたどり着いた。

 森が途切れ、霧に包まれた湖。魚の姿はなく、青く昏い水が辺りに広がり、動物の声もしない。水面すら揺れないその湖の中心に、それはあった。

 初めは大きな岩だと思った。湖から突きだして微動だにしなかったのと、霧で隠れていたからだろう。汚染原が水だとすれば、湖に踏み入るのは危険だ。だから、私は湖のほとりで様子を伺うことにした。

 結果、私は奇跡を見た。雌雄同体の謎も、身体から吹き出る水の正体もわからない以上、解体した動物を食べるのは抵抗がある。かといって、標本として保存できる用具は持ち歩いていない。しかたなく道中に放棄したものもあったが、湖の手前で捕まえた兎は処分できずに持ち歩いていた。

 湖のほとりに埋めようと準備を進める際、私はうっかり死体を湖につけた。すると、焦げるような音と共に蒸気が上がった。蒸気はたちまち兎の身体を包みこみ、そして、兎は蘇った。

 蘇った兎は湖の水面をかけて、岩へと向かっていく。岩は、近づいた兎をつかむように形を変えて、兎の首をとらえた。

 兎の悲鳴が聞こえると、岩に囚われた兎からは水が噴き出し、湖に落ちた。蘇ったはずの兎は、岩に捕まり死体へと戻ったのだ。

 そして、岩はゆっくりと岸へと近づき、私の前に兎を差し出して、こう言った。

「水抜きはしている。こいつは食べても無害だ」

 私の前にそびえた岩は、いつの間にかその形を変え、人間の女性姿になっていた。彼女は、肉となった兎を私に差し出して、もう一度同じ言葉を話した。

「水抜きはしている。こいつは食べても無害だ」

 彼女は、この水が何を引き起こすのかを知っている。山の汚染の手がかりは私の目の前に存在していたのだ。


*****

 楠木源之助は、湖の源泉で、死んだ動物の蘇生、動植物の劇的な治癒を見た。治癒の過程で動植物は雌雄同体へと変化する。加えて、水分含有量が増加する。

 楠木が遭遇した『湯の神』は、水を介して動植物に回復能力を与える。そういう何かだった。彼は、それを人間が利用しようと考えて、『山水邸』を建てたのです。

 ドロドロの死体と結びつかない? ええ。結びつかない。だから、今まで誰も気が付かなかった。回復能力の向上は、必ずしも人間に良い影響を与えるわけではない。そのことを楠木が巧妙に隠していたから。

 あの山の水には、生物の治癒能力を加速させる力がある。そして、そのちからの源泉は湯の神と呼ばれ、社に祀られていた何か。

「話があまりに突飛で、しかも迂遠すぎて、私の依頼につながるようには思いませんね。宣宮司栞という人物も話に出てこない。とある地方の昔話でしょう」

 絹田兎一は、音葉の言葉を遮り、話にならないと首を振った。

「ええ。これはまだ絹田さんの依頼の本筋ではない。重要なのは、宣宮司栞が訪れた街には、湯の神と呼ばれる異常な治癒を引き起こす何かが存在していたこと、そして、それが彼女の死亡した社で祀られていたことです。

 そんな顔しないでください。あなたが探している失踪者たち。彼らを結びつける共通項の一つが、宣宮司栞。湯の神の話は、絹田さんの依頼へと必ず繋がっていく。そして、あなたが宣宮司栞だという事実にも。

 そのことについては、あなただってわかっているはずだ」

 絹田兎一は少しの間、首を傾げていたが、やがてベッドに腰かけ音葉に続きを促した。彼はまだ、音葉の話を聞くつもりらしい。


*****

 『湯の神』、彼女と出会ってから一週間。私は、山中での奇妙な出来事や、山を汚染している水について、多くのことを彼女に尋ねた。だが、彼女はそのほとんどに適切な回答を持たなかった。彼女は、山に現れる人間が概ねすべて水を恐れること、動植物たちを生かすためには水が必要だが、与えすぎると死んでしまうこと、死を逃れるためには水抜きが必要なことを語る以上に、湖に満ちる水のことを知らなかった。

 彼女自身が水の中を自由に行き来できる理由や、私に見せている女性の姿以外にも様々な生物に姿を変えられる理由についても、彼女は知らないと述べた。

「源之助は、何故という言葉をよく使うが、私にはその感覚がよくわからない。私もこの水も、このようにして在る。私にとってはそれで不便はない。源之助にとっては、それでは足りないのか」

 足りない。だが、足りない理由を彼女に説明すそるのはとても難しい。

 話をまとめる限り、彼女の記憶はこの湖から始まっている。気が付いたとき、彼女はこの湖に存在しており、水を介して山全体と繋がっていた。初めのころは人間の形をとっていなかったというが、どのような形だったのかと尋ねると、彼女の輪郭は掻き消え、半刻もせずに目の前に現れる。そして、このような姿だったと告げる。

 彼女にとって湖の水は毒ではなく、他の動植物が異常な形質変化を見せることを知っていてもなお、彼女は常に湖の中にいる。

 七日も経たないうちに、私は、彼女が人間とも、汚染された山の動植物とも異なることは理解ができていたし、私の認識が間違っていなければ、山の汚染の原因は彼女にある。彼女と水は同一のものなのだ。

「私は、私たちの社会には存在しない、君と湖の水についてよく知りたいのだ」

「それは、源之助にとって有用だから?」

 そうだ。私は、彼女のことをもっとよく知りたい。長らく探していた何か、それが手の届くところにあるのだから。


*****

 宣宮司栞。彼女は、三年半前に死亡したとされている女優です。ある特撮番組の出演で注目を集めはじめ、事務所では有望な新人と言われていた。

 死亡した理由? 新聞報道によると事故死とされています。旅行中のある温泉街。そう、楠木源之助が開いた湯の神を祀る町で、彼女は命を落としたといわれている。

 彼女は湯の神を祀る社の倒壊に巻き込まれて死んだ。ところが、佐原正二をはじめとする失踪者たちの部屋には彼女とうり二つの人間が不法に侵入した形跡がある。ほんの三か月前の話だ。

 もちろん、よく似た他人かもしれない。でも、死んだはずの宣宮司栞が生きていたのかもしれない。一見すると繋がりのなかった佐原たちをつなぐ貴重な共通項だ。それに、僕たちよりも、警察よりも早く部屋に侵入し、物色をしていた彼女ならば、失踪者たちの行方に関する手がかりを持っていてもおかしくはない。

 だから、僕たちは宣宮司栞の事件を探ってあの町へ行き、湯の神のことを知った。そして、宣宮司栞が巻き込まれた事故についても。

 彼女を巻き込んで倒壊した社は、当時、祭儀にかかわる湯神衆以外の立ち入りが禁じられていた。鍵は湯神衆だけが持っており、一般人どころか町の住人たちに向けてすら公開されない施設だった。

 ところが、宣宮司栞は部外者でありながらこの社の中にいて、事故に巻き込まれたのだという。温泉街の人間たちはそのことについて不審だと思ったはずだ。特に、鍵を管理していた湯神衆は。ところが、彼らは事故の原因について、事故の真相について驚くほどに淡白な反応を見せた。

 当時捜査にあたっていた警官らには鍵のことを包み隠さず話しているし、図面等も警察に提供したという。だが、彼らは誰一人として、自分たち以外の人間が社に入れた理由については口を割らなかった。湯神衆以外の人間は、社の構造について知らされていなかったとしても、湯神衆たちがその理由について心当たりを明かさないのはあまりに不自然だ。

「神聖な場所に不法侵入された、そのことが許せなかった。あるいは、心当たりを口にすれば、侵入を許したのが自分であると疑われる可能性があったとか」

 当時、捜査に当たった捜査官たちは、絹田の意見と同じように考え、湯神衆を事故の重要参考人として事情聴取を進めていた。だが、事情聴取を始めた段階で、湯神衆は既に数名、行方知れずになっていた。

「なるほど。仮に心当たりについて話したところで、必ずしも疑いの目が自分に向くわけじゃない。事故の前後で行方不明になった人物がいるなら、当然先に疑われるのは行方不明者の方というわけか。

 便利屋さんも面白いことを考えますね。要するに、湯神衆なる人間たちは、事故の真相に関して、あるいは宣宮司栞の死に関して自分たちが疑われることを甘受してでも、周囲に隠しておかなければならないことがあった。そう疑っているのでしょう」

 そのとおりだ。おそらく、捜査官たちも遅かれ早かれ同じ結論にたどり着いたに違いない。だが、彼らはそこまで捜査するには至らなかった。宣宮司栞の夫、金沢史郎の事故死、続いて捜査官自身の死亡、失踪が相次いだためだ。

 結局、宣宮司栞の事件は、老朽化した社の倒壊事故としてまとめられ、捜査は宙に浮いたまま年月が経過してしまった。事故の真相はわからず、関係者はすべて行方知れずになり、宣宮司栞は死亡したことになった。

「しかし、実際に社では死体が発見され、身元が確認されたのでしょう。それなら、社の事故の真相はわからずとも、少なくても宣宮司栞が死亡していることは明らかだ。久住さんは、宣宮司栞という人間が生きてこの街にいる。しかも、それは私であって、私が探してほしいと頼んでいた人間たちの部屋に宣宮司栞の姿で侵入していたと考えているのでしょう。

 何から何までつじつまが合わない。宣宮司栞は事故死しているし、私は宣宮司栞ではない、捜索を依頼している依頼者が、別途失踪者の部屋を捜索して回るというのもいかにも不可解だ。

 大体にして、私が宣宮司栞だとしたら、そして、宣宮司栞なる人物が失踪した佐原たちの行方の鍵を握るのであれば、私はもうすでに事件を解決していなければならないじゃあないか」

 そう。辻褄が合わないのだ。音葉は絹田兎一の意見に同意した。

「なら」

「ここから先の仮説は、実のところ、ある一つの仮定が正しくなければ説明がつかない。そして、その仮説を証明できる人間はほとんど存在しない。だから、今回の失踪事件の真相は誰も解明することができないはずだった。

 だが、そうはならなかった。及川清秋と宣宮司栞は、自分たちが触れた現象を理解できる人間が現れることに賭けたんだ」

「及川清秋? いきなり、誰だいそれは」

 絹田は驚いたような素振りを見せたが、ほんの一瞬、反応が遅れた。おそらく、彼は思考したのだ。及川清秋という名前を自分が知っているべきかどうかを。

「絹田さん。あなたがどの程度、及川清秋と関わっていたのか僕には知る術がない。ただ、及川清秋は、あなたに宣宮司栞との計画の詳細を伝えなかったのではないかと僕は思っている」

「君は自分の話ですら一貫性を保てていないことに気が付いているか。君の見立てでは私が宣宮司栞なのだろう。なのに、その及川清秋と宣宮司栞の間には私が知らない計画があったと話す。もう何から何まで」

「おかしくはないですよ。僕は、あなたが宣宮司栞であって、宣宮司栞ではないと思っている」

 この仮説を伝えた時、御坂心音は眉をひそめ、そして盛大に笑い転げた。御坂と共に話を聞いた巣守元弥は額に手を当てた。隣に立つ紅は、相棒の奇怪な言動にフードの奥で不安な表情を見せているだろう。

 だが、絹田兎一はそのどれとも異なる反応を見せた。彼は、ただじっと音葉の言葉を聞き、音葉と紅を何度も見返すだけだ。まるで、どのように反応すればよいのか考えあぐねているかのように見える。

「宣宮司栞であって、宣宮司栞ではない。それは、どういう意味だ。過程なんてどうでもいい、君は、私を誰だと考えているのか教えてほしい」

「『湯の神』。楠木源之助が社に封じていた健康長寿の源たる存在。絹田兎一、それがあなただ。そして、あなたは今、宣宮司栞の身体を依代に、この場に存在し続けている」

 パチ。パチ。絹田兎一は大きく両腕を開き、手をたたいた。

「つまり、君が立てた仮説というのは、社には湯の神が存在しており、その力で宣宮司栞が生き返り、絹田兎一という人間になったと」

「いいえ。それは正確じゃない。僕は、あの社で宣宮司栞は死ななかったと思っている。彼女は自分の死を偽装した。

 彼女は、湯神衆らの祭儀を利用して、湯の神を自らに宿し、死体を偽装して社を脱出した。おおかた、楠木源之助が仕掛けた祭儀を破壊し、君を自由にするとでも契約して、湯の神と契約したのだろう」

 絹田兎一は、今宵初めて笑い声をあげた。ひとしきり大きな拍手をすると、両手を横に開き、ベッドに倒れこんだ。

「三年半。彼女の言ったとおりだった。本当に、その答えを持ってくる人間が現れるなんて。久住音葉、君はとても興味深い。こんな形でなければ、清秋と同じように君とも友人になれたかもしれない」

 起き上がった絹田は、さきほどまでとまるで異なる顔をしていた。顔の右半分からは目、鼻、口が消え、つるりとした皮膚だけが残っている。もう半分は、何色かの絵の具を混ぜたように顔の上で渦が巻いている。もはや、人のそれではない。

 絹田は両手で顔を隠し、顔の輪郭を何度かもみほぐすような仕草をみせた。両手が離れると、そこには先刻までの異形とも、絹田兎一とも異なる顔が現れる。

「宣宮司栞」

 隣で紅が呟いた。絹田は頷き、肯定する。

「そう。宣宮司栞。私のもう一人の友人であり、今の私自身でもある」

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