あなたを呼ぶ声(7):伝説から現在へ

 楠木源之助邸は、温泉旅館『山水邸』に隣接して建てられている。山水邸と同様、二階建ての木造建築であるが、旅館である山水邸と異なり装飾は少なく、木材を炭焼きをしたような黒い壁面が目を惹く。及川清秋の手記にも合った通り、この館は現在一般客に対しても公開されており、内部に保存されている楠木源之助と温泉街にまつわる各種資料に関する閲覧、検証も自由に行うことができるようになっていた。


 アトリエ『湯の鳥』の主人、湯口氏が受け取った及川清秋の手記。その記載によれば、清秋は主に温泉街周辺での聞き取りと、聞き取り時に出てきた体験談の裏付けを基に『湯の神』伝説の解体を試みていた。このアプローチ自体は非常に興味深く、単純に読み物として面白い。

 だが、音葉には、及川清秋が『湯の神』伝説を解釈しようとしたのではなく、伝説として語られている事実の有無を確かめることに執着しているように感じられた。

 例えば、彼女が温泉街の西側で行った作物の栽培実験。これは、山の植物が麓では育たないという話の実証を目的としたものだろう。だが、伝説の解釈にここまでの実験が必要かと言われると、首を傾げてしまう。

 また、彼女は伝説の検証の結果、楠木芹に対して楠木源之助の残した資料の一部を非公開にするように伝えている。おそらく、調査の過程で彼女は『湯の神』伝説について一つの結論に行きついたのだろう。そのために、調査を終え、資料を非公開にする選択を取った。

 

 他方で及川清秋の手記には気にかかる点がある。彼女が湯口氏のところに残した手記は何冊にもわたるが、ナンバリングがいくつも抜けている。おそらく、彼女が非公開にした資料と関わる記述が残されている部分なのだろう。彼女は楠木源之助の資料を非公開にするのに合わせて該当する資料を自ら持ち去ったわけだ。

 だが、そうであれば、逆に湯口氏のもとに手記が残されていること自体が不自然だ。彼女が調査した重要な点を歯抜けにした資料では、『湯の神』伝説の調査に訪れた人間が、かえって興味を持ってしまうだろう。

 まるで、及川清秋に誘いこまれているような感覚だ。


*****

「どの棚にも音葉が探しているようなものはなさそうだよ」

 源之助邸の奥、資料閲覧室の棚を調べ始めて二時間。進まない調査に紅が音をあげた。

「帳簿に手記、宿泊先名簿。どこを見たって音葉の考えるような儀式に関する記載はないよ」

 儀式。紅の言葉に閲覧室内にいた灰色の髪をした管理人が手を止める。音葉は手元の資料から目を離さずに、管理人の動きをうかがった。

 及川清秋が自らの手記を隠したというのであれば、楠木源之助邸には『湯の神』の核心に関する資料はない。確認するべきは公開されている資料ではなく、非公開になった資料の方だ。

「存在しないわけがないだろう。旅館を作るときには普通、地鎮祭をするものじゃないのか。それに、観光ガイドでは『湯の神』伝説というのがうたわれているんだ。実際に祭りや儀式くらいないほうがおかしい」

「申し訳ありませんが、そうした資料については観光協会の方針にて非公開のものもございます」

 新たに資料を探そうと棚に向かう紅の前に、灰色の髪の管理人が立つ。彼女は音葉と紅に深々と頭を下げ、資料の閲覧を断った。

「つまり、山水邸建設に当たっての地鎮祭等の資料は閲覧できない?」

「そのような資料があるかは申し上げられませんが、お二人が探そうとしている棚については閲覧不可となっているものが多くございます」

「そう。それじゃあ貴方でいい。もし知っていることがあれば教えていただけませんか」

「私が? さて、お二方が知りたいことについて、私が知っているならご協力できるかもしれませんが」

「及川清秋」

 管理人の眉がピクリと動く。

「山水邸の資料の一部不開示は彼女の提言でしょう。僕は、彼女が何を調べていたのかを知りたい。三年前、この町で宣宮司栞という女性が死亡した。及川清秋が調査していた、『湯の神』と彼女の死の関連性がしりたい」

 管理人は、音葉の問いに答えず、代わりに音葉の瞳をじっと覗き込んだ。瞳の色素も抜けているのか瞳は茶色く白目との境は灰色に近い。

「あなた、私が誰か知っていて声をかけたのね」

「ええ。及川清秋が非開示にした資料を見るには、あなたに尋ねるしかないと思ったんですよ。楠木芹さん」

 管理人、楠木芹は音葉の返答に大きく息を吐いた。

「そうですか。いいでしょう。私も、宣宮司さんの事件については本当のことが知りたい。それに、及川清秋は、自分以外にそのことを尋ねてくるものがいれば、資料を見せてほしいと私に頼んでいたのです」


*****

 楠木源之助は、山水邸の建設と並行して、湖に大きな社を建立した。山水邸完成の半年前に出来上がったこの社では、源之助が主導するある儀式が行われていた。

 儀式は湯神衆(ユカミシュウ)と呼ばれる六名の男女により執り行われる。女性は雄神衆(オガミシュウ)、男性は雌神衆(メガミシュウ)と呼ばれ、それぞれ三名ずつ。当初は建立時の協力者が担当していたという。

 湯神衆が行う儀式は、この地の温泉に健康長寿の加護を与える湯の神を祀る儀式だ。その全ての工程が社の中で完結するため、湯神衆以外の住人はおろか、楠木芹ですら一度も儀式の様子を見たことがないという。

 実際に儀式を取り仕切っていた、芹の養父、楠木和重が芹に聞かせた話と、楠木源之助の手記に残された記録から推測する限りでは、この儀式はおおむね次のような手順で執り行われていた。

 儀式が行われる場は、社の中心。御神体が安置された神の寝所である。

 寝所内は、部屋の左右に大きな水槽があり、湖から湧き出る源泉が引かれている。左側が雌神の寝所、右側が雄神の寝所とされる。双方の寝所を分かつ通路には、湯の神の御神体がある。御神体がどのような形をしているかは、記録に無く、芹も聞いたことがない。湯神衆も楠木和重もともにその点については口を噤んだという。

 儀式の手順についてであるが、まず、湯神衆により、山で採れた様々な食物を祭壇に捧げるところから始まる。祭壇は雄神、雌神双方の寝所の前に設置されている。神官は双方に供物が並べられた状態で、寝所の中央、御神体の前に立ち、祝詞をあげる。

 祝詞の内容については毎年の温泉街の経営状況や、山で採れた食物についての事項が多く、山の恵みにより滞りのない生活ができていることを感謝する内容だという。祝詞としての定型的な表現よりも、一年の成果の報告部分のほうが長い。

 そして、祝詞が終わると、湯神衆たちは寝所に体を沈める。つまり、神の寝所にて入浴するのだという。

 入浴時間はおおむね二十分から三十分。湯神衆たちが全員寝所から身を上げると儀式は終了する。

「なんか、すごく変わった儀式だね」

 観光協会会館二階。楠木芹の執務室で、音葉と紅は、楠木芹から『湯の神』を祀る儀式について聞いていた。

「紅。まあ、僕も同じ感想だけど、何かもう少し」

 音葉が紅のあられもない感想をたしなめると、前に座る芹が小さく笑った。

「いいえ。いいのです。私も叔父から聞いたとき、ずいぶんと不思議な儀式だと思いましたから」

「今はその儀式は行われていないのですか?」

「ええ。三年前、社が倒壊したのを契機に儀式は途切れています。そう、宣宮司栞さんが巻き込まれた事故です。事故の影響というよりも、儀式の詳細を知る人間がいなくなったのが原因です。そのころを境に、湯神衆も失踪、死亡が続いてしまったために、神事を復興しようにも詳細がわからないのです。それに、湯神衆がいなくなり、儀式がなくなってから町中の雰囲気が良くなったように思うのです。町中にあった妙な雰囲気が消えたというか……。それで、久住さんたちは儀式の詳細だけでなくて、宣宮司さんが亡くなったときのことも知りたいのですよね。私が知っていることで良ければお話しします」

 宣宮司栞は大雨の影響で倒壊した社の撤去作業中、社の地下、神の寝所と湖をつなぐ取水口で発見された。倒壊から撤去作業まで一週間。当時の湯神衆の証言によれば、七日前に社を閉めるときには人がいなかった。だとすれば、宣宮司栞は社が崩れた当日に社に侵入し、倒壊に巻き込まれたことになる。

 ところが、ここで一つ厄介な問題が残る。倒壊した社の出入口は正面の扉のみ。扉は特殊な錠により施錠されており、湯神衆以外の者は鍵を持たなかったという。

「それはつまり、宣宮司さんが中に入るには湯神衆の誰かの手引きが必要、ということですね」

「ええ。それどころか、社の中にいたのが本当に宣宮司さんなのかどうかもよくわからない。実際、死体が発見された当初、身元の分かる物を身に着けていなかったことや、社の仕組みから、その死体は雄神衆の誰かではないかと言われていたのです。

 警察から観光協会に全員の居所を確認するように申し出が入りましてね。その時にはすでに雌神衆一名、雄神衆二名と連絡がつかなくなっていたので、彼らのうちの誰かが事故に巻き込まれたというのが警察の当初の見立てでした」

 だが、行方不明の湯神衆の自宅を捜索した結果、各々の持つ鍵が発見されたことから、警察はこの死体について第三者の可能性を疑うようになる。仮に雄神衆のどちらかだとすれば、彼女たちの家に鍵がある説明がつかないからだ。

 そして、警察は行方不明の湯神衆の手引きで入った第三者が何らかの理由で事故に巻き込まれた。あるいは湯神衆により殺害されたという仮説に行きついた。

「ですが、そこから捜査はてんで進みませんでした。死体の身元が宣宮司栞であることが判明したころには、捜査員にも異動があり、捜査の手が緩んでしまったのです」

 芹は言葉をつぐみ、ほんの数秒、下を向いた。

「当時、私の義父、楠木和重は、宣宮司さんの事件について、ひどく思い悩んでいました。警察は社の倒壊に観光客が巻き込まれた事故として処理しているが、本当にそうなのか。湯神衆がもう少し機能していれば、宣宮司さんが死ぬことはなかったのではないか。最期の数か月はそのことばかりを話していまして」 

 芹の義父、和重は、宣宮司栞の死から3カ月後、脳梗塞にてこの世を去った。温泉街に残った湯神衆もこの三年のうちに全員他界しており、社にかかわる様々な事情は温泉街の中から消えつつあるのだと、芹は語った。

「いくつか確認したいのですが、宣宮司栞さんの夫、金沢史郎さんも当時、事故に巻き込まれたという話をネットニュースの記事で見かけたのですが」

「夫、ですか。社で発見された死体は一つでした。後日、男性の死体が一つ見つかりましたが、それは湖を囲む森の中に駐車してあった車両の中から発見されたものです。こちらも身元がわからず、警察の方が苦労していたことは覚えています。ただ、ちょうど義父の死と捜査の時期が重なっておりまして、私はその件については詳しいことを知らないのです」

 どうやら、事件の全体像は当時報道された内容と異なるらしい。

 音葉は、一度宣宮司栞の話題から離れ、楠木芹が提供した資料に目をやった。

 及川清秋が非公開を指示した文書は、楠木源之助が行っていた儀式に関する記載と、その背景である『湯の神』伝説の原型、山水邸及び社の設計図。そして、楠木源之助と、及川清秋によるいくつかの実験についての記録である。

 楠木芹の今までの発言からすれば、おそらく、及川清秋はこれらの資料の中の何かが宣宮司栞の死と繋がっていると考えたのだろう。

「それと、もう一つ。及川清秋は、街を離れる時、貴方にどんな話をしたのですか?」

 彼女は当時、宣宮司栞の事件や、湯の神伝説について何らかの見解をもったに違いない。だが、それを公開せずにしまい込む理由はいったいどこにある?

 

 久住音葉と水鏡紅が見つけた宣宮司栞の死亡記事。通常、こうした事件の記事は警察についた記者クラブから発表されるものが多いが、どうやらこれは記者が独自に取材を進めて書いた記事らしい。

 巣守元弥は、県警から取り寄せた捜査資料と、件の記事を目の前に、調査結果をどのように御坂心音に伝えればよいか考えあぐねていた。

 久住たちが見つけた新聞記事。そこには温泉街で金沢夫妻が車両事故にあい死亡したと書かれている。だが、県警の資料を読むと、金沢栞が死亡したのは記事が報じた日時よりもさらに六か月前。今から半年前のことであり、現場も温泉街に建てられた儀式用の社であるとされている。三年前に起きた車両事故で命を落としたのは金沢史郎と思われる男性だけだ。事件の根幹から記事と捜査資料には相違がある。

 県警に資料を問い合わせた際、先方ではすでに迷宮入り、要するに捜査員が不在になり忘れられた事件となっていたらしい。県外からの問い合わせに、現場は慌てふためいていた。資料を送ってくれた警官は電話でそうぼやいた。

 しかし、単なる事故の捜査について、捜査員不在で解決が後回しになるというのは巣守の経験からは違和感があった。よくよく尋ねてみれば、初めに担当した捜査員二名は、それぞれ事故死、行方不明となっているという。

 絹田敏則(キヌタートシノリ) 巡査部長は、通りかかった建設現場の崩落に巻き込まれたというが、詳細が分からない。森本智美(モリモト‐トモミ)巡査も、寮に辞職願をおいて姿をくらませた。

 捜査員両名が不在となったことで金沢栞の案件は完全に宙に浮いたのだ。


 捜査資料を見ると、事件自体にも謎がある。例えば、金沢栞が死亡した社は、事故当時限られた人間以外が出入りできなかった。ところが、崩れた社から見つかったのは観光客である金沢栞の遺体である。関係者以外の出入りができない以上、疑いの目は関係者に向いたが、絹田巡査部長らが接触した段階ではすでに数名が失踪していたという。

 さらに三年半が経過した現在、温泉街に当時の管理状況を知るものはおらず、事情を聴くことすら難しい。絹田巡査部長たちは失踪者の捜索を続け、事情を聴こうとしていたようであるが、両名が消えた後、関係者の捜索は中断してしまっている。


 もう一つ気になるのは金沢史郎の事件だ。金沢栞の事故から三か月後、金沢史郎は温泉街のはずれで死体で発見されている。温泉街に出向く以前の久住の調査によれば、金沢栞と金沢史郎は共に温泉街に向かい、そこで死亡したはずだが、夫妻の死亡には三か月の開きがある。

 しかも、金沢史郎が発見されたのは温泉街へ向かう山道であり、宿泊者名簿に金沢史郎の名前はない。つまり、彼は事故当時温泉街に滞在していたわけではなく、何かの理由で温泉街に向かっていたと考えるのが妥当だろう。

 また、金沢栞の死と同様に、事故自体にも違和感がある。金沢史郎が乗っていた車両は山道を逸れて崖下へと転落していた。ドライブレコーダーの記録によれば、車両が発見されたのは事故発生の二日後。事故当時、温泉街付近は晴れており、ドライブレコーダーに残った道路の映像でも視界良好であることは明白だ。

 それにも関わらず、金沢史郎は事故の直前、視界が悪い、前が見えない、ハンドルが取られるなどの発言を繰り返し、カーブを曲がり切れずに崖下へと落ちている。

 車内を映したレコーダーには金沢史郎一人しか映っていないが、事故直前、彼はしきりに目の周りを手で払っている。ところが、映像を見る限り彼の目の周りに視界を遮るものはない。

 司法解剖の結果を見ても、金沢史郎の目には異常が見られず、ただ落下の衝撃で全身の骨が骨折し、筋繊維が引き裂かれているという記載だけが残っている。

 どこか整合性が取れていない。

「例えば、レコーダーに映った史郎と死体の史郎は別人、とかね」

 思考がまとまらず天井を見上げると、相変わらずの寝癖で跳ねた髪の毛と、人の心を読もうとする黒い瞳が目に入った。

「まるで私の思い付きのように、奇妙な説を披露しないでください。御坂警部ほど突飛な考えは私にはありません」

「それは済まなかったね。何やら巣守が悩みが深そうな顔をしていたから気になって覗いてしまった。金沢史郎が二人いるという仮説は、あくまで私の思い付きだよ。ところで、その様子を見ると、調査は暗礁に乗り上げているみたいだね」

 御坂心音は、巣守の後ろから離れると、隣の席の椅子に座り、くるりと椅子を一回転させた。相変わらずの能天気な動きに、他の島で執務をしている捜査員たちの視線が一瞬集中する。

「そう渋い顔をするなよ巣守。久住音葉から連絡が入ってね。もう数日間は現地に滞在する予定らしい。調査の進捗について大雑把なところは聞けたので、君とも情報共有をしておこうと思ったわけだ。

 もっとも、君も宣宮司、いやここでは金沢栞と呼ぶ方がわかりやすいか。金沢栞の死亡事故について、違和感を覚え始めた頃合いのようだけれど」

 私も、ということは久住音葉たちのちょうさでも、この奇妙な状況が裏付けられたということだろうか。巣守は、御坂に捜査資料の内容をかいつまんで説明した。


「なるほど。巣守の違和感をまとめるとこういうことになるのかな。

 1.金沢栞が事故現場へ侵入した方法

 2.失踪した関係者、久住たちいわく湯神衆というらしいね。湯神衆の行方

 3.捜査当局が湯神衆の捜索を中断した理由

 4.絹田巡査部長、森本巡査の死亡、失踪時期が事故直後に重なった理由

 5.金沢史郎の死が、金沢栞の事故の三か月後である理由

 6.視界良好の道路で、金沢史郎が事故を起こした理由

 7.金沢史郎の事故直前の様子と司法解剖の結果が整合しない理由」

「まあ、そんなところでしょうか。もともとの調査目的からは外れてきている自覚はあるのですが、記録を読めば読むほど、当時の捜査の粗さが目立つというか」

「粗い、か。確かに、君の指摘の通りだろうね。これじゃまるで捜査になっていない。だが、その感想だけは私と巣守の間に留めておくべき事項だ。この事件が粗い捜査で終わっているのには理由があるのだから」

 御坂はそう言って、絹田巡査部長の死亡事故に関する資料を指さした。

「ほら、ここにあるだろう、宇津宮(ウツノミヤ)という名称」

「地名ですか」

「いや、君の思っているウツノミヤとは字が違う。これは、苗字、あるいは案件の分類といったところだろうね。宇津宮ケース。本庁からの指示で捜査を中断することになる隠語だよ。この表記があるということは、絹田巡査部長の事故の後、県警には宇津宮なる捜査員が派遣されてきて、事件を閉じたはずだ」

 確かに、県警の担当からは同じような話を聞いた。初めに問い合わせをした際に、事件自体は捜査終了になっていたと思うと話していた。

「そういえば、今回の捜査本部でも誰かが宇津宮が来るとか言っていましたね。どこかの応援がくるのかと思っていましたが」

「おや、そう。あの死体の報告を聞いて、宇津宮って言葉が出るほど有名になってきたのかな……宇津宮ケースは、現状、警察がもつ知見では捜査を続行できないと、どこかで認定された事件だ。迷宮入りと少し違うのは」

「不可能犯罪、あるいはオカルト紛いの事件ということですか」

 思い返してみれば、御坂は資料室から古い事件の資料を借り出してきては読みふけっていることが多い。彼女の部下になってから、巣守も同じ資料を見たことがあるが、その多くは迷宮入りか、あるいは歯切れの悪い報告が並んでいる資料だった。おそらく、あれらは全て彼女の言う宇津宮ケースと呼ばれているものなのだろう。

「そのとおり。君が先ほど話してくれた絹田巡査部長の死亡事故、意図的に話さなかったようだけれど、もしかして死体が佐原正二と類似していたのではないかな」

御坂の指摘の通り、絹田敏則巡査部長の死体は、骨も筋肉もミンチのようになっており原型がとどめられていなかった。瓦礫に潰された結果、骨が粉々になるということは想像できるが、ミンチのように混ぜられた状態になるというのは理解しがたい。 

「人の形をしているが、中身は生きた人のようではない。それが宇津宮が介入した理由だろうね。ただ、残念なことに久住音葉の調査でも、県警の記録でも、当時のことを知るものが残っていない。宇津宮が捜査を中断したおかげで、めでたく一連の事件は迷宮入りというわけだ。

 ところが、佐原正二の死亡、新たな失踪者の出現をきっかけに、過去の失踪者たちが町に現れ始めた。おや、どうしてそんな顔をする。君が集めた資料を見れば、他にも存在しないはずの人間がこの街をさまよっていたことがわかるじゃあないか」

 さきほどまでのやや諦めたような声色が一転して裏返り、御坂は巣守の机上の資料を掴み取った。

「ほら、この女性の顔、どこかでみたことがないかい」

 彼女が開いたのは森本智美巡査の履歴書の写真である。もう何度も資料を読んでいるので彼女の顔は頭に入っている。だが、どこかで接点があっただろうか。

「どうやら調査に没頭しすぎて忘れてしまっているようだが、私はこの女の顔を捜査会議の場で見たことがある」

「ああ。彼女、権田剛の」

 金剛鬼字の会が接触していた重要人物とされる権田剛。その権田に接触したという金剛鬼字の会の会員の顔は、森本智美そのものだった。

「ですが、捜査本部が開示を受けた会員名簿には森本なんて苗字はなかった」

「そもそも金剛鬼字の会は、あの写真に写った女性は会員じゃないと言っているんだ。名簿に森本智美の名前がないのはむしろ自然なのかもしれない」

「仮に、御坂警部の言う通り、あの写真の女性が森本智美だとすれば、宣宮司栞の事故についても、権田剛についても話を聞くことができる」

 御坂はぱちんと指を鳴らして、巣守の顔を覗き込んだ。

「よくわかっているじゃないか。巣守。彼女さえ捕まえられれば、君が感じていた違和感の大半は解決するかもしれない。何しろ、私たちに足りないのは情報だからね。

 それと、優秀な君にもう一つ、私が見つけた情報を共有しよう。絹田兎一についてだ。絹田兎一という名前は偽名だ」


 偽名。しかし、捜査本部は当初、絹田兎一の身元を確認していたはずだ。

「そのあたりが絹田のうまいところでね。戸籍を取り寄せてみれば分かるが、というか取り寄せたんだけれどね、絹田兎一という人間がいることになっている。どうやってこんなものを作っているのか想像がつかない。絹田兎一は、親族等を含めて何重にも偽造の戸籍を作りだしているんだ」

「では絹田兎一とは誰なんですか?」

「さて、今のところは誰なのかよくわからない。偽造戸籍を調べていてわかったのは、彼がこの町に来たのが3年前ということまでだ。金沢史郎が事故死した半月後に移住をしている。絹田が手に入れた戸籍によると、本籍地はこの町だ。彼は3年前。何らかの理由でこの町に滞在することを選んだ」

 移住時期の符合、事件関係者でなければ特に気に留めない情報だが、御坂同様に巣守も何か引っかかるものがある。

「いいね。その表情。私と同じで気にかかるものがあるって顔だ。そんな君にさらに朗報、消えた湯神衆の行方についてだ。これは本当にたまたま見つけたのだがね、絹田兎一がこの町に来た直後、行方が分からなかった湯神衆が一人見つかっている」

「それは、ここでという意味ですか?」

「そう。名前は森山十市(モリヤマ‐トイチ)。発見時の年齢は七五。日払いの簡易宿泊施設で死体で発見された。宿泊施設を利用し始めた当初から、身体の調子が悪そうな老人だったらしくてね。ある日、朝食の時間に姿を見せないので管理人が部屋をのぞいたら衰弱死していたらしい。ああ、残念ながら佐原正二や絹田敏則のような死体ではない。森山十市はまるでミイラのように干からびて死んでいたのだそうだ」

「ミイラ、ですか。もともと体調が悪いというのは、それほどまでに衰弱していたということなのでしょうか」

「いいや。前日も体調は悪そうではあったが普通に食事をとり、どこかへ出かけ、夕方には簡易宿泊施設に戻ってきたそうだ。その時は大変沈んだ顔をしていたらしいのだがね、それでもミイラとは程遠い、生きた人間だったそうだよ。

 運よく先日、管理人に話を聞くことができたんだが、森山はこの町で誰かを探していたらしい。故郷から出奔した人物らしいのだが、名前も性別もあやふやで、どんな顔であったかも思い出せないという話でね。老人の与太話にしか思えないが、本人はいたく真剣な顔で話していたそうだ。

 名前も性別も、顔も身体的な特徴も全く分からなくなったとしても、湯神衆である自分には、臭いでわかるのだとね」

 臭い。それは具体的にはどのようなものなのか。巣守の問いに御坂は首を横に振った。簡易宿泊施設の管理人も、それがどのようなものであるかについて、森山から聞き出すことはできなかったのだという。

 だが、そういえば、巣守も調査のなかで臭いについて見聞きした記憶がある。

「そうだ。警部は権田剛の部屋に入った時に、酷い匂いがすると言っていませんでしたか?」

「ああ。君は全く気にならなかったようだったね。そういえば、久住たちも似たような話をしていたな。水鏡君にしかわからない部屋の匂いがあった。いや、確か佐原正二の部屋の管理人、楠木智之の妻も同じように、佐原の部屋の匂いを嫌っていたという話だったな」

「楠木智之のほうはその匂いには?」

「全く気にしていなかったという。久住も同じく匂いが気にならなかったらしくてね。先日事務所で話した時に、水鏡が大層立腹していた」

 御坂心音、水鏡紅、楠木の妻、三人と、久住音葉、楠木智之、巣守の相違。

「女性にしかわからない匂い、ですが、森山十市は男性だから、説明がつかない」

 まだ何かピースが欠けている。あらゆる情報が歯抜けになっているから、全体像がわからない。

「確かに何が何だかわからないことだらけだ。だが、私たちが目撃した事象は、たった一つの何かによってつながっている。そんな気がするんだ。一つ、説明可能な現象があればすべての説明がつくんじゃないかってね。

そして、その情報は久住音葉が見つけてくる。私は彼のそういうところを買っているんだよ」

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