あなたを呼ぶ声(6):湯の神伝説について

 今回私が滞在した温泉街、ここからはA町と呼ぼう。A町は80年ほどの歴史を持つ。とある資産家が、山奥にて源泉を発見したのが、A町の始まりだと言われている。

 資産家の手記によれば、彼は、当時勃発していた戦争を嫌い、人里離れた山々を散策し、古来この国にいた山の民を探し歩いていた。

 もっとも、山の民は資産家が生きた時代よりも更に過去の存在だ。国土が行政により整理される過程で、既に彼らは行政に組み入れられて姿を消してしまっていた。

 資産家自身もそのことは知っていたらしく、山の民探しは一種の逃避と書いている。

 それでも、彼の描いた夢は、彼の望みとは若干異なる形ではあるが、現実になる。現在A町が存在する山の麓では、神の土地と呼び、山を神聖視していた。麓の伝説によれば、この山には古くから神が暮らし、人を寄せ付けなかったのだという。彼は、伝説に言う山の神に山の民の姿を見て、麓の住民たちの反対を押し切り山へ分け入った。そこで、彼は小さな湖と、ほとりに湧く源泉を見つけた。

 資産家は、この発見をいたく喜び、山の民の集落を探すという現実逃避を、発見した源泉を元に自ら隠れ里を作り上げるという方針に変更することにした。有り余る資産を持つ人間だからこその大胆な発想だと私は思う。

 資産家は、『山水邸』と名付けた温泉宿を立ち上げることを企画し、『山水邸』を中心とした温泉街建設計画を立ち上げた。彼の資産のほとんどは、現在のA町の敷地の買い上げおよび開拓、上下水道の整備や温泉の引き込みに使われたようである。

 彼が資材を投じて作り上げた温泉宿『山水邸』の隣には、今も晩年彼が暮らした邸宅が残っている。観光協会が保有しているこの邸宅は、温泉街の歴史を記録する建物として、資産家の手記や、当時の帳簿などを保管し、希望者への閲覧を認めている。観光協会によれば、民俗学者や歴史学者、経済学者などが定期的にこの邸宅を訪れている。なお、芸術家という肩書を持つ人間が訪れたのは、私が初めてらしい。

 私が、今回A町の起こりを詳細に追いかけることができたのも、観光協会の計らいによるものだ。もっとも、私自身は、今回の調査を機に、観光協会に対してとある意見を述べており、その結果、邸宅内の一部の史料は非公開とされることが決まった。その限りでは、私はA町の観光協会に不義理をしてしまったのかもしれない。


 さて、話をA町に戻そう。資産家の酔狂な夢により生まれたこの町は資産家が見つけた湖から、山の東西を分断する国道に向かい山の斜面に貼り付くように広がっている。国道の横には線路が敷かれておりA町の最寄りにも無人駅がある。無人駅の駅舎からならば、ちょうどA町の全体像を見ることができる。

 温泉街に入るには、駅舎を出て国道を渡り、谷を下る必要がある。下った先の橋を渡ると、本格的な温泉街が広がるが、橋の手前にも民家や飲食店などが立ち並ぶ。A町に暮らす人間は、そのほとんどが温泉街に勤めているが、飲食店や量販店があるおかげで、麓に下りずに長期滞在ができる。山奥の温泉街となると、物資が不便で麓に下りなければならない場所も多い。A町のように町の中で一通りの物資が揃うのは、長期滞在を前提とする私のような旅行者に好まれるだろう。

 橋を渡った先には大小合わせて15の温泉宿が並ぶ。緩やかな上り坂の奥、最も源泉に近いところでは『山水邸』が営業を続けている。

 宿泊室数は30部屋。複数の露天風呂を持つ老舗であるが、特徴的なのは、全ての露天風呂が旅館の背面の森と崖に面し、空以外に見られる景色がないことである。

 外界と隔絶し、現実を忘れる。現代であれば露天風呂の価値が損なわれていそうだが、私は、資産家の戦火からの逃避という願いが詰まったこの露天風呂を愛してやまない。

 ところで、A町が山水邸を合わせ15の旅館を有し、町としての形が完成したのは、今から50年ほど前のことである。残念なことに、資産家はその10年前に病に倒れこの世を去っている。その後のA町の発展は、資産家の養子と、戦後復興期に、資産家の夢に集った復員兵や一部の実業家に引き継がれていった。

 他方で近隣集落からの協力者はない。A町の温泉を利用した記録すらない。

 山水邸に残された宿泊客名簿においても、麓の住人が載るのは、20年前が初めてだ。資産家の跡を引き継いだ養子が他界し、三代目――これも不思議なことに養子である――が山水邸と観光協会をまとめはじめた頃である。

 A町の住民たちの認識では、麓の住民は三代目が作った観光プランの影響を受けて流入を始めたと語られている。彼女が行った事業は多岐にわたるが、最も大きい功績は山神の伝説を、『湯の神伝説』として書き直したことだろう。

 そもそも、A町の温泉は資産家が発見したという前提に立てば、麓の人間の視点からは山に棲む神に『湯』という属性が付与される余地はない。

 ところが、実際には20年前の宣伝を契機に、山に棲む神は、『湯の神』と同一視されるようになる、温泉を守護し、人や動物に長命の加護を与える存在として、愛され、讃えられるようになり、かつての禁忌の地に棲まう神としての姿は失われるのである。

 通常、観光協会が創作した伝説などで土着の信仰が変容することは少ない。もちろん、その伝説が何年もかけて流布され、集団の構成員が切り替わる中で、物語が変容することはありうる。だが、A町とその周囲での変化は、構成員の変遷を伴わない。たった二十年での神のすり替わりはあまりに劇的過ぎるように私には思えた。


*****

 A町の人間にとって、『湯の神』伝説とは、地元から距離を置かれていた温泉街を盛り上げるために用意された物語だ。故に、A町ではこの物語の背景に入り込むのは難しいと思っていた。

 ところが蓋を開けてみれば、A町の人間は私の調査に協力的であった。初めこそ素性の知れない人間が滞在していると噂になったが、私の素性を知ったアトリエの主人、湯口氏の尽力により、私の滞在目的が伝わると、積極的に資料の提供をうけるようになった。

 協力の背景には、A町側の、『湯の神』伝説を使った宣伝活動の後押しが欲しいという目論見もあったのだろう。私は名の知れない一介の芸術家気取りの人間にすぎないが、それでも伝説について調査し、できることなら町のために作品を作ってくれるとありがたいと、観光協会会長、山水邸三代目女将から声をかけられたほどだ。

 実際に、私は『湯の神』伝説を表現したオブジェを寄贈している。湯口氏曰く、今でも温泉街の入口に私のオブジェは並んでいるという。


 さて、話題を問題の『湯の神』伝説へと進めよう。この伝説は、温泉街のPRを目的として、山水邸三代目女将であり、観光協会の会長である楠木芹(クスノキ‐セリ)氏によって編集された物語だ。

 彼女が編集した物語の大筋は次の通りである。A町の温泉は、湯の神により健康・長寿の加護を受けている。かつて、神のいないこの山に、傷を負った一柱の神が降り立った。神は、山奥の小さな湖のほとりで、山の動物たちの傷を癒す暖かい水を見つけた。神自身もその水により傷を癒したことがきっかけで、神はこの山と温かい水に愛着を持った。そこで、神は暖かい水を掘り下げて、山の動物たちが入浴できる小さな温泉を作った。更に自ら加護を与え、温かい水に健康長寿の効用を与えた。

 A町の温泉を発見した山水邸初代主人、楠木源之助(クスノキ‐ゲンノスケ)は、山に分け入り、神が作った温泉を見つけた。そこで、山の動物と共に入浴する神と遭遇し、温泉の起こりを知ったという。そして、この湯を戦火に焼かれ疲弊した人々に広げるよう神に嘆願し、山水邸の建設を始めたのだという。

 古今東西、自然に宿る神は多く存在する。私たちの暮らすこの国にもそうした分類の物語は多い。しかし、神が温泉を作り、温泉街の創始者がその神と出くわすという話は初めて聞くものだった。パンフレットにはかわいらしいイラストも付されており、終始和やかに語られるその物語は、訪問者の警戒心を緩めてくれる。

 だが、この話を広めたからと言って、長年足を踏み入れることを躊躇していた麓の住民たちが、A町に寄り付くようになるとは思えない。そこで、私はまずこのパンフレットが省略した、A町内で伝わっている伝承の詳細を調べることにした。

 しかし、調査を始めてすぐに、私は困難な課題にぶつかることになった。今回の調査では、A町だけでなく麓の町でも文献調査を行ったが、伝説の原型を見つけることができなかった。困り果てた私は、芹にタネ本を請うた。芹は、資産家、楠木源之助の手記の中に出てくる断片的な情報と、麓の住民たちに口伝、特に山の東側の住民たちの話を元に話をまとめ上げたと語ってくれた。

 私は、芹のその話を前提に改めて原型たる伝説の調査を再開した。ただし、私の調査は芹のそれと異なり、山の西側に伝わる説話も調査対象に加えたものとした。

 東西の麓を行き来し、古い説話を集めるうちに、興味深いことがわかった。山の東側と西側で、山神の認識が大きく異なるのである。


 東側に伝わる伝説によれば、古来この山には豊穣の神が住まうとされていた。それは、山の麓の土地が、多くの動植物で恵まれていたことに起因するようであるが、山中に人間によく似た何かが暮らしていることを前提として山神様という存在が語られる。また、この山神様は、豊穣の神であると同時に、自らの土地を荒らす者を許さない荒神として恐れられる存在でもあった。

 例えば、伝説について語ってくれた老人たちは皆一様に、山の麓の植物は採ってはならないと躾けられている。その中の一人、シゲと名乗る85歳の老人が語った話はこうだ。

「麓というかね、ある一線を超えたらだめと言われていたんだ。今は開発が進んでわからなくなったけれどね、ちょうどA町に分け入っていく山道、そう、その国道の上り口のあたりはね、珍しく芋が取れたんだ。芋、いま思うと本当に芋だったのか怪しいんだけどね。こう、地面に生えている草はにんにくのそれに近いのさ。だけど、引っこ抜くと、ぼこぼことジャガイモみたいな実が出てくる。色? あー色は茶色だな。だから見た目は普通の芋とおんなじなのさ。7,8歳のころにはそれがおもしろくてね。近所の奴らで集まっては、芋ほりにでかけていたんだが、親に見つかってこっぴどく叱られてね。集めて友人の家の蔵に貯めていた芋はその日のうちに全部捨てさせられた。山の物を採ったら、山神様が下りてくるだろうって言われてねぇ」

 シゲ老人曰く、芋の群生地と街は、まるで線を引いたようにきれいに分かれていたのだという。そして、彼の祖父母たちは、その線を踏み越えることを許さなかった。

 また、不思議なことにシゲ老人と仲間たちが採集していた「芋」は、山の麓では群生するが、街中では見かけることがなかったという。

「捨てろって言われた時にね、あんまり癪だから、みんなで空き地に一部を埋めたんだ。まあ、種芋みたいなイメージだったんだよ。埋めたらそこから芽が生えてくるだろう、山で生えたものじゃないから、山神様が怒るなんてことはないはずだってね。でも、あれは不思議、というか気味が悪くってね。芋を埋めた周りの芝が一週間もたたずに枯れてしまって、怖くなって掘り返しても、芋は見つからなかったんだ。あれ以来、なんとなく芋ほりに行く気にはならなくて、みんな山神様のことをぼんやりと信じたのはあの時だったかもしれないね」

 シゲ老人のように、山の植物を町で育ててみたという話は稀有であるが、シゲ老人の年代、あるいはそれよりも少し若い世代からは、山中に生息するウサギを捕まえた、山菜取りに入ったなどという経験談を聞くことができた。その誰もが、山には山神が棲んでいて、山神が許した登山道以外に踏み入り、山の物を勝手に採って帰ると山神が怒ると聞かされていた。

 私が聞く限り、山神様と呼ばれる存在に遭遇した者はいない。そのため、山神の存在を真摯に受け止めている者もいなかった。それでも、彼らは山に入ることに対して強い忌避観を持っていた。話を聞いた誰しもが、山での収穫物で苦しい思いをしていたためだ。

 あるものは山菜を食べて食中毒に、あるものは捕えたウサギを絞めようとしたがウサギの抵抗を受けて大けがを負った。また、殺して捌く前に急激に腐敗してしまい食べられなかったという話もある。いずれのエピソードにも共通するのは、山と街の間には境界線があり、街側に持ち出したものは、消費することができなくなるという点であろう。

 目の前に豊かな土地はあれど、手を伸ばすことができない。その状況が、彼らの親や祖父母の世代から語り継がれていた、山を潤しつつ、山からの資源調達を許さない山神という存在を信じさせる素地になっていったのであろう。シゲ老人たちの年代は、楠木芹が作った神話を見てもなお、山には近寄りたくないと語るものがほとんどであった。


 一方で、西側の麓では山はどのように見られていたか。山の西側は、緩やかな斜面を森が覆っていた東側と異なり、うっそうと茂る森のあちこちが崖のようになっており、国道と線路から外れて山を歩くのは非常に危険である。

 東側と異なり、開拓された登山道、現在は道路と線路が整えられているその道を除いては、安全に山中に踏み入ることができる道はない。ところが、西側では、従来から山に入り、木材や石材を採集していたという記録がある。

 資材採集のために山に入る慣習がある一方で、山の環境は悪く、けが人や命を落とす者も多かったからか、西側では東側と異なり、山を簒奪者として捉える向きが強い。山の東西において山に対する認識が異なるのは、山の地形の違い、またそれぞれの集落における山との関わり方を示す一例ともいえる。

 西側の麓にある歴史資料館の学芸員ヤマキ氏は、地域における山のあり方についてこう語る。

「町にとって山は、資源の宝庫であると共に、命を奪われる土地だったんです。

 この辺一帯は平野でしょう。畜産や、農業はやりやすかった。現に、昔からここで暮らしている人たちの家は、畜産農家が多い。一方で、建材やら鉱石といった資源は酷く乏しい。平野全体が山に囲まれている上に、鉱脈は山の反対側にしかなかった。まあ、この山ではなく平地を渡って阪大側にでれば、大きな市があるので、今ではそちらを回って調達する物流が発展しましたが、かつては資源といえば目の前の山にしかなかった。

 ゆえに、多くの人が山に分け入って、必要なものを集めていたと言われています。しかし、見ての通り、この山の西側は絶壁のようなものです。作業中に崖から落ちて死ぬもの、うまく森にたどり着いても、遭難してしまう者は後を絶たなかった。だから、次第に山そのものが人を食べるなんていう伝承ができてしまったのでしょう。山は町の労働力を奪う、簒奪者だった」

 ヤマキ氏の話から分かる通り、西側では、山は必要な環境であると共に、脅威の対象と捉えられていた。更に不思議なことに、西側では山の神といえば、山そのものを指す。神格化された存在が山の中にいる東側の考え方と異なり、西側にとっては山はそれ自体が一つの存在なのである。


 このように、山の東西に分かれた二つの言い伝えを比較してみると、奇妙な関係が見えてくる。山への侵入が比較的容易であった東側では、山の神とは山に住まい、山の恵みを司る、豊穣の神の姿が語られる。しかし、神の加護の下にある資源は、決して麓の街に適合することがない。豊穣の神は、山と麓を明確に切り離している。

 他方、山への侵入が困難であった西側では、山そのものが簒奪者として捉えられるものの、人々は、山に分け入り、その資源を有効利用しているのである。

 双方の集落にとって、山の性質はまるで正反対であり、そして、各地に伝わる信仰も正反対の性質を持っている。

 ところで、東西における神の捉え方の違いから予想される通り、楠木源之助は、山の東側にて説話を収集し、山に踏み込んだ。彼は西側に出る前に湖を見つけたため、源之助の手記には西側における山神の説話は全く出てこない。

 彼は、東側で伝え聞いた、山に棲む何か、街の生態系とは異なる土地で暮らす古き民族を空想し、山へ入ったのであろう。しかし、源之助が山に入った当時、国道は今ほど整備されていたわけではなく、両地域の人間が決死の思いで切り開いた頼りない山道に過ぎなかった。道を外れた山中についての情報は皆無であっただろう。

 源之助は、ある程度の食料と装備を持って、調査を開始した。それでも彼の手記によると、湖を見つける前に山中で食料が尽きたという。

 要するに遭難したのだろうと思うのだが、当人には遭難という認識はなかったらしい。山中で見つけたウサギを捕え、山菜などを集めて食事を楽しんだと書いてある。以前から各地の自然を渡り歩いていた源之助にとって、豊富な動植物が住まう山は過ごしやすい空間だったのかもしれない。

 毎日の狩猟、採集、釣りの結果は事細かく記載されており、彼が山の恵みを堪能して生きていたことが如実に伝わってくる。

 それゆえに、一つの疑問がわき出てくる。東側の老人たちが体験した、芋にまつわる話を前提とすると、この山の食べ物は町の人間には適合せず、また土に埋めると周囲が汚染されるような代物だったはずだ。


*****

 老人たちの体験した不思議な芋の真偽を確かめるため、私はヤマキ氏に協力していただき、温泉街の周辺にて栽培されている野菜や野草を、西側の土地に植え替えるという実験をした。できれば、東側にて実験をしたかったのであるが、協力者が見つからなかったのが悔やまれる。

 結果、老人たちの体験は、現在では再現不可能であることがわかった。植え替えた植物は正常に育ち、山の麓で調理しても、野菜は無事に私の胃に収まった。続いて、ウサギ鍋なども試してみたが、同様に身体に変調はない。

 そもそも、私はこの件の調査に辺り、長期間温泉街に滞在し、そこでは川魚や山の動物、野菜などを食べている。今のところ、健康被害のようなものは生じておらず、むしろ、温泉街に滞在してからの方が体調がよいくらいである。少なくても、現在において、山神は山の外に暮らす我々を拒絶するような素振りを見せていない。

 そんな感想を述べながら、宿泊先のホテルの料理人コジマ氏と話に華を咲かせていた時、総料理長が私に変わった体験を聞かせてくれた。

 それは、私がこのホテルに宿泊するよりも数年前のことだ。遠方からの観光バスで訪れた旅行者の一団に、古くからこの温泉街に訪れていたという老人がいたのだという。

「実を言うと、私もこのホテルで勤めてようやく25年。この温泉街で暮らす人間の中では、古株の方だとは思っていますが、4,50年前の街の様子というのは知らないことが多い。観光協会の会長が三代目になってから、リピーターは少しずつ増えてきていますが、もともとは一見の客がほとんどでした。

 ですから、リピーターで来てくれた、そのお客様が本当に珍しかったし、また嬉しかった。それで、いつもより腕によりをかけて料理をお持ちしたんです。当ホテルで古くから伝わっているレシピなども参考にして」

 ところが、その老人は、料理長が作った料理を口にして、味が落ちたというのである。

「落ちた。という表現が気になって、私はそのお客様に話を聞くことにしました。まず、初めに聞いたのは、私が用意した料理のどれを食べてそう感じたかということです。お客様は、私が提供した料理のうち、古いレシピを使わなかったもの、私たちが現在提供している料理についてはおおむね満足したと話してくれました。

 ところが、ホテルに残っているレシピを再現した料理はいずれもだめだというのです。話を伺ううちに、私は彼が何故そこまで味が落ちたと言い切るのか、レシピ通りに作ったはずの料理と、彼が当時食べた料理の間の差が何処にあるのか気になってきました。

 彼は言うんですよ、前に食べた時は、力がみなぎるような感触があって、しばらくは他の食べ物は口にすらできなかった。まともに食事ができるようになったのは、温泉街から帰って一週間も経ってからだと」

 それまでは何を食べても砂のような味しかせず、温泉街で食べた料理をもう一度食べたいという想いに囚われたのだという。料理人からすれば、ありがたい評価なのかもしれないが、それではまるでホラーだ。

 老人は、一週間の間、ほとんど食事をとらなかった。その後、彼は数日間高熱でうなされることになったというが、おそらくは食事をとらなかったことによる栄養失調と、その状態での何らかの感染症が原因であろう。何しろ、今から60年以上も前のことだ。現在に比べて、栄養状態も、公衆衛生のレベルも低かったであろう。

 老人が言うには、当時、ホテルで食事を食べた人間たちの中には、彼と同じように、空腹を感じない数日間、他の食事が喉を通らないような数日間を過ごした者が多いという。

「老人曰く、当時のお客様が二回、三回と温泉街を訪れないのはその奇妙な症状の原因がわからなかったからだというのです。当時、温泉に入り、ここで食事をしている間は幸福が満ちていた。しかし、山を出てから先、幸福感が薄れていき、最後には現実に戻るために高熱に苦しむ。その一連の流れを再度楽しもうと思えるほどではなかったのだと」

 総料理長が聞いた話を前提とするのであれば、原因は食中毒か何かだろう。だが、不思議なことに、老人曰く、必ずしも誰もがそのような症状を患ったわけでもないのだ。人によっては平然と日常に戻る者もいる。そして、そういった者の中には、食事も温泉も素晴らしい場所だと話し、以降、数年に一度、リピーターとして顔を出す者もいたという。

 体調を崩さずリピーターになるものと、そうではないものの間にどのような違いがあったのか、老人は未だにわからないと語ったそうである。ただ一つ、老人が分かったことは、総料理長が再現したレシピを食べても、温泉街の外に出て、直ぐにほかの食べ物を口にすることができる。そんな味であったということだけ。

「私もその変化のわけが付きとめたくて、お客様に特別に協力いただいて、調理過程も含めた試行錯誤を行いました。でも、最後までお客様の求める味には到達しなかった。お客様も色々と考えてくれたのですが、結局、何が違うのか、その決定的な差異が見つからなかった。

 もっとも、そのおかげで、今では常連客になっていただいていて、一年に一度のペースで当ホテルを利用いただいているのですが。え? 理由、ですか。私の姿勢に感動した、という話なら格好がつくのですが、ご本人曰く、今の料理は山を下りてから支障がなく、味も優れているから、だそうです。全く、喜んでいいものかどうなのか」


 私が滞在する予定の期間に、その老人がホテルに来る予定はなかったものだから、私は総料理長に話題の中心である古いレシピを見せてもらい、またその再現を私自身も食べてみることにした。実際に出てきた料理の細目は省略するが、どれも一流の料理人が力を入れて作った料理であり、現在のレシピで作られた料理と引けを取らない。

 だが、老人はこの料理は、彼が若かりし頃に食べたものとは異なるというのだ。食べたら一週間、他のものが食べられなくなるような美食。目の前の料理がそういった類のものと異なることはわかるが、しかし、何が足りないのか。

 彼がホテルを訪れた60年前と、今でいったい何が違うのか。

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