あなたを呼ぶ声(5):彼女の足跡

 音葉たちの暮らす街から、電車を乗り継ぎ約二日。飛行機での移動であれば一日で移動できる距離だと聞くが、残念なことに音葉たちにはあまり懐の余裕がない。

 目的の温泉街に降り立つころには、身体が随分と凝り固まっていた。音葉は電車を降りて久しぶりの解放感に腕を大きく伸ばした。他方で、車内を終始うろうろしていた紅は、身体も十分にほぐれているのか、ホームまで漂ってくる硫黄の匂いに惹かれるように、ホームの端から温泉街の様子を覗き込んでいた。

 御坂心音から正式に事件の解決を請け負って四日。音葉たちは、宣宮司栞が最期を迎えた温泉街に足を踏み入れた。

 温泉街と言えば、観光ガイドに載っているものだ。どこか安易にそう思っていたが、探し当てるのには随分と苦労した。この温泉街は観光地としてほとんど知られていない。それどころか、当時の新聞記事に書かれた自治体名も市町村の合併があって消失しており地図を検索したところで見つからなかった。

 結局、宣宮司栞が所属していたプロダクションに再度事情を聴き、麓の町の役場で正確な場所を確認する羽目になった。町役場の人間曰く、この温泉街は昔から保養地として使われているのだという。

 温泉街が位置する山の麓には、東西に分かれて大きな町が広がっている。二股に分かれ、東西へ流れ出る川に沿って作られた山を分ける国道。その中間地点から山へ分け入るように作られた温泉街には大小15の温泉旅館、ホテルが立ち並んでいた。

 温泉街の横を通る国道は、完全に東西の連絡網にのみ使われており、観光バスや自家用車よりも、長距離運送用のトラックの方が多く走っている。

「保養地っていうけど、別荘とかがあるようには見えないよね」

 紅の感想に、音葉も頷く。町役場で話を聞いたときには、「山の向こうの奴らにとって保養地なんだ」という話をされた。だが、電車で乗り合わせた山向こうに暮らす住人曰く、この保養地は、音葉たちが初めに訪れた町の保養地なのだという。

 だが、目の前に広がる光景は、人気が少なく、観光バスも見当たらない静かな温泉街だ。こうなってくると麓の人間が保養地に使うという話ですら、若干怪しく思えてくる。


 改札を出て温泉街に入っていくと、アスファルトの歩道がタイル敷へと変わる。各旅館への搬入や車での来客を考慮した結果なのか、車道はアスファルトのままだが、見る限り電柱や電線はなく視界は開けている。

 歩道と車道の境には、石でできたオブジェが並んでいる。駅前に掲げられた温泉街の掲示板によれば、これらの石像は、この町の温泉の効用を守る湯の神なのだという。しかし、どう見ても並んでいるのは桶を持ったタヌキ、キツネ、そして河童だ。

「湯の神が触れると温泉に長命の加護が与えられる。髪は動物の姿を模して度々入浴に現れる。だっけ」

 紅が、掲示板の説明をぼんやりと思い出しながら、狸の像の前にしゃがみこんだ。狸は手拭いで下腹部を画し、桶で顔を隠している。それでも狸だとわかるのは、桶の底が半分割れており、隠したはずの狸の顔が覗いているからだ。

 その隣に並ぶ狸と同じ体型の石像は、頭を隠そうと桶を持ち上げているが、頭に乗った皿を隠しきれていない。

「動物を模して温泉に来るなら、河童は駄目だろう。空想上の生き物だぞ」

「もしかしたら河童出るのかもしれないし」

 それはどうだろうか。湯の神の伝説を謡い、街中を整備するときになんとなく河童を採用したというのが真相のように思える。

 温泉街を形作る意匠をネタに雑談の花を咲かせていると、駅からずっと下り坂だった道が川べりに架けられた橋にたどり着く。橋を越えると、その先にあるという湖に向かい山肌をホテル・旅館が埋め尽くす。ここから先は、一転変わって上り坂だ。宣宮司栞が死んだのは、ホテル街を抜けた先の湖だという。

 後ろを振り返ると、国道との接点であった駅は小さく、一度谷を下ったがゆえに、視界から国道が消えてしまう。橋を渡り終えれば、なおのこと国道は見えなくなるだろう。

 この橋は、訪問者の現実感を失わせる境界線だ。橋の左右に立つ、桶を持った狐と狸の石像に迎えられ、朱色の欄干に手をかける。橋の中央付近まで歩くと、今度は二匹の河童が手を取り踊るような石像が現れる。そして、橋の反対側、温泉街の奥へとたどり着くと、橋の両端では人間を模した石像が訪問者を招いている。

 人間には身体の凹凸がなく、男なのか女なのかもわからない。橋の左に立つ像は肩を抱え、橋の右に立つ像は両手で顔を隠している。温泉街にも関わらず、まるで苦悩を現すような仕草をしている理由が、音葉には皆目わからない。

「紅。話を聞くべきホテルと旅館の場所は押さえているか」

「大丈夫。でも、従業員とか宿泊客の情報って聞き取れるものかな?」

「さあどうだろう。ただ、女優の溺死事故という話としてなら、誰かしら語ってくれる人間がいてもおかしくはない。どこの町だって、タブロイドが好きな人が一人二人くらいはいそうじゃないか?」

 宣宮司栞は湖で溺死した。同乗者の夫と共に、自動車ごと湖に沈んだのだ。


*****


 加藤末勝。32歳。独身。システムエンジニアとして勤務。会社での勤務態度は至って良好。元々は残業が多く、四六時中会社にいるような社員であったらしいが、このところ、社内の残業禁止の風潮に合わせて帰るのが早くなっていたという。

「とはいえ、仕事に遅延が出ていたわけではありません。元々、残業を減らすために全員の工程を見直しているだけですからね。それに、彼は今回行方が分からなくなるまで、特段問題らしい問題は起こしていませんでした。」

 人事担当者は、御坂の問い合わせにそのように答えた。加藤が勤める会社は、社員数20名の小規模な会社であるが、誰も失踪直前の加藤に不審な様子は思い当たらないと話した。裏を返せば、社員の誰もが加藤のプライベートを知らないということでもある。

「加藤さん、休日も何をやっているのかわからなかったんですよ。週明けとかに話しても外出したなんて話は聞かなかったですね。ただ、まあ僕たちプログラマーとかシステムエンジニアの中には引きこもりがちな人間もいるから、そこまで変だとは思わないんです。とはいえ、休憩中もプログラムの本を読みふけることはあっても、他のことにはまるで興味がないし、読んでいる部分も自分の仕事に関わるところばかりで、興味がよくわからない……友人関係とかは正直わかりませんね」

 こんな調子だから、会社では突然の無断欠勤の理由も、失踪の理由も全くわからない。

 社内では問題を起こしていないから、プライベートが原因だろう。あるいは何かに巻き込まれたか。それが、彼の勤め先の総意だ。

 加藤末勝と同様失踪した、山田紘一は不動産業の給与計算を担当していた。工藤祐介は、大手量販店のバイヤーとして、食材の仕入れに各地を飛び回る営業マンだ。それぞれに勤めている会社や業務の内容は異なるが、共通するのは社内での人となりに関する評価だ。彼らは、いずれも社内の人間から「プライベートがよくわからない」という評価を受けている。また、社内での交流も薄かったものとみえる。

 ところで、この三人と、佐原正二は、各自の業務上関連することもなければ、暮らしているアパート、マンションも異なる。彼らを繋いでいるのは、住居の大家が楠木智之であるということと、絹田兎一が供述した謎の集会の参加者であるということだけだ。

「しかし、そもそも集会がどうやってできたのかがわからないね。彼らの共通点である、楠木智之がメンバーに入ったのは最後だ。彼らは一体どうやって知り合ったのだろうね」

 捜査本部は御坂の疑問に金剛鬼字の会と答えるだろう。

 だが、久住音葉は金剛鬼字の会の構成員に失踪者たちの顔写真を見せている。金剛鬼字の会の回答は、該当者なし。

 もっとも、同会は、佐原正二と接触した謎の女性も構成員ではないという。捜査本部は、その女性が構成員だと確信しているため、久住の話を報告したところで、会側が構成員の身元を隠しているだけだ、情報屋に惑わされるなと鼻で笑われた。

「私は捜査本部の考え方は合理的だと思います。久住さんは会側の警戒心を和らげて、信ぴょう性が高い話を聞いているのかもしれません。それでも、彼が金剛鬼字の会の全容を掴んだわけではない」

 巣守の意見はもっともだ。だから、御坂も捜査本部の見解を切り捨てるつもりはない。だが、彼女の直感は、失踪者たちのつながりはもっと別にあると告げている。

「まずは、目の前の情報に集中するしかないか」

 現状、残っている手がかりは金剛鬼字の会の元構成員、権田剛という男だけだ。

 行方知れずになったという権田剛の居室は、彼が失踪して三ケ月を経過してもなお権田名義の居室になっていた。賃貸物件での家賃滞納は大事だろうと思ったが、大家の話によると、権田の口座から未だに賃料の引落ができているらしい。

 それが、彼自身の貯蓄によるものなのか、失踪後もどこかでその口座を利用しているのか。口座の利用履歴がわかれば、居場所が特定できる可能性はある。

「本部の方は、特に進展はないそうです。口座の調査、優先的にやっておくと返答がありました」

 署内の部下への連絡を終えて巣守が電話を閉じた。その後も二人で事実の整理を進めていると、鍵を手にした大家がどたどたとアパートへ戻ってくる。

「あの人は女遊びが激しいから。またどこかの女の家に転がり込んでいるんでしょう。特にトラブルもないし、家賃の支払いも滞っていない。別段、彼に何かがあったとは思えないんですがね」

 そんな感想を述べる大家に礼を言い、権田の部屋の扉を開けた。すると、部屋の中にこもっていたのであろう匂いが御坂の身体を包み込んだ。身体の芯から吐き気が湧いてくる甘ったるい匂い。死人の匂いとは異なるが、とても厭な匂いだ。

「巣守、先に入って窓開けてくれないか。なんだこの匂い」

 御坂は耐え切れずドアを開けたままその場にしゃがみ込んだ。しかし、隣にいた巣守も御坂たちの入室を待っていた大家も、御坂をきょとんとした目で見つめるだけだ。

「おいおい、君たちはこの匂いが耐えられるっていうのかい」

 皮肉を投げても、巣守は首を傾げるばかり。どうやら本当にわからないらしい。

「匂いですか?」

「いいから、先に入って窓を開けてくれ。これじゃあ私は部屋に入れないんだ」

 この匂いでは考えがまとまらない。声を荒げると、巣守は慌てて部屋へ入っていった。リビングの窓を開けて、風が通り始めたのだろう。数分も経たずに、不快な匂いは薄れ始めた。耐えられる匂いになった頃合いを見計らい、部屋へと踏み込む。ドアノブを握っていた手は汗にまみれていて御坂は嵌めていたグローブを予備のものへと履き替えた。

 権田の部屋は、最低限の家具だけが並んでおり、がらんとした印象を与える。キッチンも使っていないのかとてもきれいだ。佐原や楠木の部屋と同様に生活の気配が感じられないのが気に入らない。なにより、見渡す限りこの部屋には匂いの原因がない。

 キッチンのゴミ箱や排水溝を覗いてみても中は空だ。冷蔵庫も空で、冷凍庫には氷が溶けたあとの水が残っている。キッチンの電灯は点くところをみると、コンセントが抜けているのだろう。どうにも妙だ。

「巣守。大家はこの部屋を何度か清掃したとかそういった話はしていなかったよな」

 本人に尋ねるのが早いのだろうが、大家は御坂が部屋に入ろうとした段階で、警察官が部屋に入ることを確認する目的を果たしたのだろう。いそいそと帰ってしまった。

「聞いていませんね。家賃が振り込まれていれば、特段問題はないから放置しているのではないでしょうか。アパート入り口のポストもぎゅうぎゅう詰めになっていましたし、関わりたくないというのが本音かと思います……そういえば、この家は新聞がないですね」

「契約していないだけだろう。最近は多いさ。巣守は一人暮らしだっけ」

「ええ。寮だと何かと不便なので、署に近い場所にアパートを借りています」

 安月給なのに頑張るものだ。もしかすると、巣守も御坂同様に部屋中に趣味の収集品が山積みになる生活をしているのかもしれない。

「男の一人暮らしっていうのは、冷蔵庫や冷凍庫は空っぽなのかい」

「空? さて、どうでしょう。長期で部屋を空けるときは考えますが、ビールだったり、あと出来合いのものですが多少は物を入れておくと思います。この部屋の冷蔵庫は何も入っていないんですか?」

「ああ。それどころか、冷蔵庫の電源が抜かれている。冷凍庫に水が溜まっているところをみると、何かしら使っていたんだろうに」

 これはまるで家主自身が長期で外出を計画していたようだ。

「他の失踪者と、権田の件はやはり少し質が違う。のではないでしょうか」

「そうかもしれない。だが、私たちが、他の失踪者の部屋をみたときに、細かく確認をしなかっただけかもしれない」

「そうでしょうか。こっちの部屋を見る限り、そういう話ではないように思います」

 巣守は、リビングルームから寝室を覗き込みそう呟いた。巣守の後ろから寝室を覗きこむと、壁と天井のいたるところに写真が貼られている。遮光カーテンが閉め切られていて、御坂には何の写真かよくわからない。

「巣守。電気をつけて」

 巣守が電気をつけると、室内の異様な風景が浮かび上がった。部屋中に貼られた肌色の写真。見渡す限り性行為中の女性の姿だ。寝室の中央に置かれたベッドを囲むように、壁と天井、そして床に写真が貼りつけられている。

「いわゆるハメ撮りでしょうか」

 巣守は部屋に入ろうとはしない。鉄面皮が崩れ、眉をひそめ、嫌悪を浮かべていた。

「巣守はしないの、ハメ撮り」

「しませんよ」

「それはなにより。でも嫌がってばかりはいられない」

 室内に貼られている写真を見ると、どれも身体ばかりで顔は映っていない。どんなアングルでも首から上が映っていない。映っているベッドや背景の壁、装飾などは写真によって異なっている。ざっと見る限り、撮影場所は10か所を超える。

「ちなみに、巣守はラブホテルを使うかい」

「場所の特定は鑑識に任せませんか」

「それもそうか。しかし、これは何というか」

 写真に写る身体はどれも別人だ。部屋中の写真を照合する気にはならないが、床に散らばった写真や、壁の写真をみても、同じ女性と思われる写真はない。もっとも、ここまで大量の女性の裸体を見せられると気味が悪く、まともに照合できる自信はない。

「何人くらいいるんだろうね、これ」

「まさか写真を一つ一つ付け合わせる気ですか」

「必要ならば。こういうのって何のために撮影するんだろうね。販売でもするのかな」

 性産業というのはどんな時代でも流行る。御坂とて知らないわけではない。だが、室内に貼られた写真が誰かの性欲を充足させる要素は見えない。

「少なくてもこの部屋は、販売用の在庫ではなくコレクションだと思います」

「アイドルの写真を壁にはるのと同じってことかな」

 しっくりこない。御坂は自分の発言に首を傾げつつ、室内に踏み入った。床の写真は、歩く場所を確保して貼り付けられている。権田という人物は、それなりに神経質なのかもしれない。よく見れば、床に貼られている写真と、壁や天井に貼られている写真はアングルが異なる。撮影のアングルにも統一感があるようだ。

 ベッドの上を探り、不審なものがないことを確認し、御坂はベッドに寝転がった。

「こいつは流石に趣味が悪い」

 見渡す限りの裸体の女性。権田はこの光景を見ながら何を思っていたのだろうか。ベッドから起き上がろうとしたとき、一つだけ、裸体ではない女性の写真が目に入った。

 ベッドの上に立ち天井に手を伸ばす。背伸びをしてようやく目的の写真をつかみ取った。写真は粘着テープで天井に貼られていたが、指で何回か引っ掻いてやると思ったよりも簡単に剥がれ落ちた。

 ベンチに座りカメラに向かってポーズをとる女性。親しい友人との写真撮影か、はたまたグラビアの切り抜きか。撮影場所は大学だろうか。講堂らしき建物が写っている。この女性だけは顔がはっきりと写っている。

 そして、御坂はこの女性の顔を見たことがあった。

「巣守。また繋がりが見つかったよ。ほら、彼女だ」

「宣宮司栞ですね」

 宣宮司栞。なぜ、権田は彼女の写真を裸体の写真と並べて貼っていたのか。それに、この写真は、久住音葉の事務所で見た芸能プロダクションの写真とは異なる。

「巣守。便利屋に連絡して、件の芸能プロダクションとアポが取れるか確認して。警察が行くよりは、彼らの方が話は早いかもしれない」

「写真の出所を探すんですか」

「その通り。単に好きなアイドルとして写真を貼っていたのか。それとも別のつながりがあるのか。それと、権田剛の周辺をもう少し探りたい」

 今回の失踪者や被害者の中で、初めて個人が垣間見えた部屋だ。乱れた性生活のコレクションと、そこに紛れた宣宮司栞の写真。久住音葉が言っていた通り、事件関係者の間にはまだ繋がりがあるかもしれない。



*****

 宣宮司栞の所属プロダクションは、彼女の死亡を皮切りに経営を縮小した。

 宣宮司の死から3年。当時は子供向け番組を中心に俳優や声優を排出したが、今では離れるタイミングを逸して居付いた数名の俳優と共にほそぼそとした経営を続けている。

 宣宮司栞の死はそれほどセンセーショナルな事件ではない。それでも規模を縮小したのは、二度と宣宮司栞のような俳優を出さないためだと社長は語る。

「彼女は非常に有望な女優だった。劫火侍は、深夜枠の小さな番組にでしたが、確実なファンを掴む作品でしてね。特撮業界は実のところ子供だけでなくて大人のファンも多い。彼らの人気を掴むことで、他のジャンルにも足を広げやすくなる。宣宮司はうちのプロダクションのモデルケースになる予定だった」

 撮影中に、彼女の元にはいくつもの出演依頼があったらしい。残念なことに音葉には彼女の演技の良し悪しはわからないが、隣に座る紅は鼻息を荒くして同意をしていた。だが、そうであるならば劫火侍放送終了直後に宣宮司栞が死んだ事情がわからない。

「それは僕も同じです。彼女の人生は順風満帆だった。彼女の夫であるシロウさんも喜んでいた。宣宮司の女優業については非常に理解がある様子だったのだがね。

 彼は劫火侍の成功をいたく喜んでね。次の仕事の案を僕に話すくらいだった」

 しかし、現実には劫火侍の撮影終了後二か月、宣宮司栞とその夫は共に命を断つ。

「僕は彼女たちが死んだ理由に見当がつかなくてね。僕らの仕事は売れる逸材を見つけることだけれども、見つければそこで終わりではない。

 別のプロダクションへ移籍する、というのはよくあることだし、その後の活躍を見ることもできる。でも、命を断たれては、彼女たちの先を見ることはできなくなるだろう。それが、僕は怖くなってしまってね」

 そう話す社長の顔からは先ほどまでの明るさが全て抜け落ちていた。

 

*****

 温泉街の人々は、想定外に宣宮司栞の死を語らなかった。3年という月日は、温泉街に暮らす人々の顔ぶれが変わるには少々短い。宣宮司栞の事件を知らないのではなく、話題にあげたくない、口を閉ざす人々からはそういった思いが感じられた。

 空振りの二日間を過ごし、音葉は宣宮司が最期に宿泊したホテルの一室で寝転がった。事件のことを聞いて回っているのは、ホテルにも知られているらしい。部屋に料理を運んできた仲居の表情が、初日よりも硬い。初日は少々雑談に付き合ってくれたのに、今日は機械的に料理の準備と説明を終えて部屋を出ていってしまった。

 勇んで温泉街へ来てみたものの、とんだハードルにぶち当たってしまった。

 他方、落ち込む音葉の隣では、並べられた料理に目を輝かせた紅が座っている。この二日間、彼女もほとんど聞き込みはできなかったようだが、目の前の料理に機嫌は上々だ。

「落ち込んでも仕方がないし、まずは食べてから考えようよ。今日もおいしそう」

 彼女の言葉は正しいが、手掛かりが掴めない現実は心に重たい影を残す。

「んー。そうだ、宣宮司栞のことではないけれど、面白い話は聞いたよ」

 川魚の焼き物を平らげ、ほおを緩ませた紅は、不意に座敷の奥へと入っていった。

 持ち歩いているウサギのリュックサックを開くと、彼女は一冊のパンフレットをもって戻ってきた。彼女は畳に転がる音葉の前にパンフレットを置いた。

「川の向こうにアトリエがあるんだけどね、そこのパンフレット、もらってきたんだ」

 渋々ページを開くと、目に入った記事に背筋がざわついた。身体を起こし、姿勢を正してパンフレットの他のページも確認する。

 アトリエ『湯の鳥』。このアトリエのオーナーは、温泉街を訪れる美術家、芸術家の卵に場所を貸している。紅が持ってきたパンフレットは『湯の鳥』にて作品を作り、または公開した芸術家たちの記録だ。

 平屋建て、20畳の空間に、各芸術家の世界が表現される。パンフレットは、オーナーが温かく迎えた訪問者たちとの暖かい思い出なのだろう。だが、紅が付箋を貼り付けたそのページに広がっている作品だけは、他の作品と毛色が違う。

「オイカワセイシュウ?」

 及川清秋。湯の神伝説と神降ろし。温泉街に伝わるという湯の神の伝説に基づき、伝説の内容を再現しようとした展示だという。公開期間は3年前。宣宮司栞の死亡した時期を挟んで前後1か月。

 展示されていたのは、動物や人間の死体を模したような精巧なオブジェである。説明によると一からシリコンで作られているというが、人工物というよりは、剥製に見える。

 それらのオブジェは全て、この地に伝わる湯の神伝説を表現したものだという。

 そして、パンフレットの右上に掲載されたオブジェは、音葉たちが楠木智之から見せられた『栄光の手』だ。作品名は、『堕ちゆく神』。

「そのオブジェ、楠木さんのところでみた奴とよく似ているでしょ。オーナーは明日もアトリエにいるから話を聞きたければ、どうぞって言っていたよ」


*****

 アトリエ『湯の鳥』。朝早く尋ねると、湯口(ユグチ)と名乗るオーナーが快くアトリエに迎え入れてくれた。今は、誰の個展もやっていないため、喫茶店を行っているのだという。カウンターの奥からクッキーを見繕って机に置くと、湯口は近くのロッキングチェアに大柄な体を沈みこませた。

 先日、紅が事情を説明していたらしく、机には個展の来館者名簿と、及川清秋の個展の記録が置かれていた。

「昨日、彼女からだいたいの事情は聴いていてね。正直、例の事件について聞き込みをするのは難しいよ。当時は、地元新聞がきて、あちらこちらと根掘り葉掘り、あることないこと嗅ぎまわられたんだ。外からみれば、宿泊客が勝手に死んだという話に見えるけれどね、この町にとっては触れられたくない過去というわけだ。

 せっかく、温泉街の印象をよくしようと頑張っていた時期だからね、尚更応えたんだろう。僕? 僕はそこまで嫌な思いはしていないね。僕は、ここの温泉が好きで居付いた、外から来た人間だ。こうやって喫茶店とアトリエをだらだらと続けている物好きに過ぎなくてね、街の人々とは少し温度差がある。

 ただね、及川君には嫌な思いをさせただろうと少し残念な気持ちはある。及川君の作品が事件と関係があると騒がれてね、個展を畳む時期が早まってしまったんだ」

 

 湯口が及川清秋に出会ったのは、宣宮司栞の事件が起こる半年前、温泉街の木々が紅く色づき始めたころだ。当時、及川清秋は、アトリエ『湯の鳥』と川を挟んで真向かい、現在音葉たちが宿泊しているホテルに連泊していた。

「キャンピングカーに乗った年齢不詳の宿泊客が長期滞在していると噂になっていてね」

 温泉街にキャンピングカーで訪れる客は珍しい。しかも、一か月分の宿泊料を前払いで支払い、部屋とキャンピングカーを行き来しながら、温泉街を調べて回っている。

 見た目は、20後半から30代半ばほど。素性は知れず、仕事も見当がつかない。ホテルの従業員が知っているのは、その人物が及川清秋と名乗っていることだけだという。

 そんな噂の人物は、アトリエ『湯の鳥』の二軒隣にあるうどん屋にいた。ランチタイムの終わり際、湯口がカウンターで定食を食べながら、店長から噂を聞いていると、隣に座った客が突然うどんを吹きだした。

 その客は、温泉街では見かけぬ顔だ。軽やかな笑い声と共に揺れるポニーテールが印象的だった。ニットのカーディガンに七分丈のシャツ。お世辞にもきれいな格好とはいえないし、何より秋口の温泉街では少々寒い。

 その証拠に、客は小さくくしゃみをして、丸眼鏡を鼻先へずり落とした。

 客は、眼鏡を直しながら湯口と店主に頭を下げ、もう一度へへと笑った。

「すみません。笑いを堪えきれなくて。その従業員、私が女湯に入るところを見ているんですよ。流石に性別はわかるでしょう。それに、女一人で長期滞在なんて、不倫旅行か海外旅行、金持ちの道楽と相場が決まっている。

 正体不明なんて言わないで憶測を流さないで何が噂だと思ったら可笑しくて」

 そこまで話して、彼女は胸元で掌をポンと合わせた。

「あ、申し遅れました。私が、そのキャンピングカーの宿泊客。及川清秋と言います。皆さんが気にしている私の素性ですが、そうですね。大雑把に言えば芸術家です。

 この町にはモチーフを探してやってきたので、もう暫く滞在する予定です。ここのうどんはとても美味しいので、贔屓にしますよ」


「及川君は、地方の伝説や民話を取材して歩いていてね。気に入った話を見つけると、その場で作品を作って歩いていると話していた。そのまま話が弾んでね、彼女のキャンピングカーの中を見せてもらったよ。

 想像がつくと思うが、キャンピングカーは彼女の移動アトリエだ。このパンフレットに乗せた写真のように、彼女が作るのは立体的な作品が多いらしい。車内マネキンや、型取りのための各種道具、それに像の材料になる金属やシリコンが保管されていた。いちいち自分の家に戻るのが面倒で移動アトリエを作ったと話していたよ。その話があまりに珍しくてね、そのまま、うちの展示場を使わないかと打診してしまった」

 及川清秋も『湯の鳥』を訪れて乗り気になったのか、うどん屋で出会ってから二日。及川は湯口のアトリエを半年契約で借り受けた。この時も、前払いで利用料を持ってきたので、湯口は驚いたという。

「当初はまだ何を作るかも決めていないと話していたからね。個展を開ける準備ができてからでいいし、趣味のようなものだからお金はいらないと言ったんだが、聞かなくてね。

 初めの2か月は、アトリエはがらんとしていたよ。たまにやってきては、温泉街の地図や麓の街で集めてきた資料を並べて考え込んでいるほうが多かった。元々、湯の神伝説が気になってここに来たらしくてね。まずは伝説に関する情報収集をしているのだと話していた。確か、個展を終える際に、取材ノートや資料の写しを置いていってくれたから、必要なら物置を探しておこう。

 話を元に戻そうか。彼女が作品制作に着手を始めたのが3か月目に入ってからだ。まず初めに、見せてくれたラフスケッチが、その『堕ちゆく神』と題されたオブジェだ。彼女は、それが湯の神伝説の終着点だと話してくれた」

「湯の神の終着点?」

「申し訳ないが、私は民話の類は苦手でね。細かい内容はよく覚えていない。ただ、彼女曰く、湯の神は最終的にはそのオブジェのようになるのだという。人に宿った後に合一することはできないと話していたね」

 ところで、『堕ちゆく神』――男女の手が絡み合い、花のような造形をしたオブジェ――には、手のモデルがいた。男のモデルを誰にしたのかはわからないが、女のモデルは『湯の鳥』に何度か足を運んでいた。

「その方は宣宮司栞という名前でしたか?」

「セングウジ? そんな苗字だったかはわからないが……栞という名前ではあったよ。道しるべになる名前と及川君が話していたから漢字も間違いないだろう」

 音葉が宣宮司栞の写真を見せると、湯口はこの人だと頷いた。

「ホテルの女湯で長湯していて彼女に出会ったと話していたよ。栞さんも長期滞在するという話だったから、及川君が頼み込んだらしい。

 とはいえ、あの作風だろう。最初は随分と嫌がられたみたいだ。頼みこんでモデルになってもらったが、作品を見る前にあの事件だ。及川君も随分と落ち込んでいた。

 それに加えて、警察の事情聴取だ。彼女も流石に応えたらしくてね。警察の疑いが晴れたところで展示を引き払うことになった。面白い作品を作ると思っていたんだけれどね。アトリエの作品のほとんどを廃棄して、彼女は温泉街を去ってしまった。

 ん? この手のオブジェがどうなったか? それも含めて及川君が全てを廃棄したと思うが……いや、まてよ。そういえばいくつかは譲ってほしいという客がいて、売り払っていたよ。もしかしたら、それも誰かが買っているかもしれない。ウチの会計を通して販売しているから、記録を探してみるよ」

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