あなたを呼ぶ声(2):偶像を求める男たち
4
二組の両手が絡めあって、合計二〇本の指が菊の花のように広がっている。触れてみると、蝋のような手触りで、指先に油のようなものが付く。
匂いも蝋のようであるが、何で出来ているのかはよく知らない。手についた蝋のようなものは、指同士を何度もこすりつけると消えていく。
そのオブジェは青白く、まる死者の手だ。何度見ても気味が悪い。
倉庫の奥に置いてあるからなおのこと気持ち悪いのだ。いっそ、外に出して日の当たるところにおいてやれば、薄気味悪さもなくなるかもしれない。
いや。オブジェに手をかけようとして、彼はためらった。
もう少し、このままにしておこう。彼はオブジェを置いたまま、倉庫を後にした。
ひどく、手が痒い。
*****
楠木(クスノキ)。佐原正二の住むマンションの大家は、マンションから500メートルほど離れた一軒家に暮らしていた。
「ここ、ほかの失踪者の住むマンションとも近いよね」
紅が広げている地図を見ると、律儀にも失踪したとされた場所に青いシールが貼られていた。そこから音葉たちのいる楠木家まで赤い線が引かれている。
「どのマンションとも同じくらいの距離。ここが中心?」
「さあね。でも、どのマンションの管理人も、楠木夫婦がやっている」
御坂が絹田に聞きだした失踪者たちの唯一の共通点だ。門についたベルを鳴らして待つ。誰も現れないのを見て、紅がもう一度ベルを鳴らした。
「留守かな」
「どうだろうな。駐車場に車はある。出かけたなら車はなくなっていると思うけれど」
紅は首を傾げて気のない返事をした。そして、今度はベルを数回ならし、名前を呼ぶ。
すると、車の陰から白髪交じりの頭が顔を出した。車の陰から現れたのは、佐原正二のところで出会った管理人の夫だ。
「絹田さんのところの便利屋か。佐原さんの部屋が見たいのか。それとも、他の部屋か」
いったい何回確認すれば気が済む。楠木は顔をしかめて家の中に入ろうとした。
扉の把手に右手をかけたが、その瞬間、把手から右手を放して、飛びのいた。大家は左手で右手首を押さえている。
「どうかされたんですか?」
紅がすかさず門を飛び越えて、楠木のもとに駆け寄った。どさくさに紛れた侵入だが、楠木は紅の行為をとがめない。玄関前にうずくまる彼に駆け寄った紅は、彼の右手をみて口を押えた。
「いいから、早くドアをあけろ。救急箱がある」
楠木に言われるまま、紅は玄関の把手を掴もうとして一瞬固まった。そして上着から咄嗟に取り出したハンカチで把手を掴み、楠木を家の中に入れる。どうやら、把手に何かがついているらしい。
屋内に入った楠木と何か話すと、一度扉を閉め、音葉のところに駆け戻ってきた。
「何があったんだ」
「わからない。わからないけれど、あの大家さんの右手、扉の把手に貼りついていた」
紅は門のカギを開けて、音葉を通す。二人はそのまま、楠木家の玄関に向かった。
玄関の把手には白い皮がべったりと貼りついている。紅の言う通りなら、この皮は大家の右掌だ。だが、玄関には血の跡が見当たらない。
「紅。あの管理人、手から血をだしていたか?」
「血は出ていなかった」
不自然だ。把手についているのが皮ならば、掌のほとんどの皮が取れたはずだ。だが、把手についている皮に血はついていない。それに剥がれたばかりにもかかわらず、からからに乾いている。まるで、脱皮した皮のようだ。
「何、この臭い」
少しだけ開いた扉から玄関を覗いた紅が、鼻を摘まんだ。紅に倣って玄関を覗き込んでみるが、特に不審な臭いはしない。
「音葉は臭くないの?」
「ああ、よくわからない」
音葉と紅は互いに顔を見合わせて首を傾げた。
*****
楠木智之(クスノキ‐トモユキ)。失踪者がいた四つのマンションの管理人はそう名乗った。包帯を巻いた右手をしきりにさすっている。包帯の隙間からは左手の皮膚と同じ色が見えて、楠木が包帯を巻く以外の措置をしていないことがわかった。
だが、包帯には血が滲む様子はない。それに、皮がむけているのに、左手と同じ色をしているというのも解せない。
「佐原さんが死んだっていうのは本当なのか」
そう口にした楠木の顔からは血の気が引いている。
楠木は、初め、手は大丈夫だ。何をしにきたと、音葉に対して矢のように質問を投げかけてきた。もっとも、彼に音葉たちと話をするつもりはないことは明らかだった。彼は、矢継ぎ早の質問をすることで、音葉たちに出ていくように急かしていたのである。
ところが、紅が佐原正二の名前を出した途端、表情が変わり、言葉が途切れた。
沈黙の後、音葉たちが警察なのかを尋ね、警察と直接関わりはないとの紅の説明に、逡巡した。
そして、彼は音葉たちにリビングルームで待つように言い残し、再び家の外に出た。
数分後、リビングルームに戻ってきた彼の手には、奇怪なオブジェが抱えられていた。オブジェを持った楠木が部屋に入った途端、紅は俯いて口元を押さえた。
少しせき込み、テーブルにあった水を一気飲み干すが、ややもしないうちに再び咳き込む。そして、ジャケットの内ポケットに入れていたガムをとりだした。
「やはりな。妻もよくガムを噛むようになった」
紅の様子を見て、楠木は承知したように呟き、オブジェを音葉たちの前の机に置いた。
「やはりって、どういうことですか」
「久住さんといったね。その様子だと君にもわからないらしい。おそらく女性にだけわかる匂いなのだろう」
迷惑をかけてすまないな。楠木は紅に謝った。
「その、オブジェのせいなんですか」
オブジェ。机に置かれたそれを何と呼べばいいのか、三人は机を挟んで言葉を失った。
モチーフは人間の手なのだろう。四つの手首が絡み合い、一つの太い茎になっている。手首の先、四つの掌もまた互いに絡み合い、合計二〇本の指が天に向かって伸びている。
人間の肌に比べると白く、近づいてみると蝋のような艶がある。四本の手のうち、二本は角張り、ごつごつとした職人の手だ。それに外側から絡まるように組み付いている残りの二本は、手首も指も細くて長い。
「男の手と、女の手」
紅の指摘に、楠木は黙ってうなずいた。男女の死蝋化した手。それが組み合わさり、花のような形を作っている。まるで、「栄光の手」だ。
「どうしてこのオブジェを僕たちに見せるんです」
「佐原が死んだのも、他の三人が消えたのも、こいつのせいなんだろう」
陽の光の入らないリビングルームに、楠木の声だけが落ちて溜まっていく。
「こいつは、加藤(カトウ)さん、君たちが絹田さんと探し回っている住人から預かった」
*****
楠木智之が、失踪した四人の賃借人と奇妙な会合を開くようになったのは、ちょうど半年前。場所は楠木家の最寄り駅裏の居酒屋だという。
楠木は複数所有する不動産を貸して生計を立てている。管理しているマンションを見て回るのが日課であり、近所の人間よりもマンションの住人の方が見知った顔だ。家に近づけば近づくほど知り合いがいない。もともと人見知りがちな楠木が、マンション管理人の仕事で最も気に入っている点だった。そして、知った顔の少ない近所の居酒屋で酒を飲み、しらない人々の話に耳を傾ける。一人の時間を楽しむこと。それが楠木のちいさな生きがいだ。
ところが、その日に限って、居酒屋には知り合いが四人もいた。
その場にいたのは、佐原正二を含め四名。彼らは管理人である楠木が店にいるのを見かけたという理由だけで、楠木を個室へと引き込んだ。
それぞれの仕事のこと、生活のこと、マンションでの近隣との関係。何気ない話を肴に語り合う中で、一人が唐突にそのことを話題にした。
――男としての魅力を取り戻せる
皆が適度に酔っており、話が下品な方向に振れていたので、精力増強剤のようなものと容易に予想が付いた。精力増強剤など、いまや探せばどこでも手に入る。効果のほどはさておいて、飲み屋の個室で話すには興味の乗らない話だった。
「ところが実際に出てきたのはこのオブジェ、というわけですか」
そう。あの居酒屋で彼らの一人がこれをとりだした。もっとも、あの時見せられたのは男女の手が一つずつで、一回り小さいものだ。
このオブジェをとりだした男は女の手の部分を愛おしそうに撫でまわした。彼はこのオブジェを手にした成果と称し、楠木達に携帯電話に記録した女性との情事を見せた。
他の男たちは明らかにそれに興味を示し、食い入るように携帯電話を見つめ、目の前に置かれたオブジェに興味を惹かれていた。
非常に奇妙な状況だった。誰かが男の話を検証しようと言いはじめた。
あの店員がかわいい。あの店員にしよう。相手を無視して、勝手に狙いを定める光景に、楠木は気味の悪さを感じていた。
男たちは、持ち主の指示に従ってオブジェに水を垂らした。
「水? てっきり火をつけるのかと思った」
便利屋は思いもよらない感想を述べた。確かに火をつけてしまえば、そこで話は終わったのかもしれない。だが、あの時の男たちはこのオブジェの正しい使い方を実践した。
水にぬらすと、オブジェの表面が艶めかしさを増し、指先からどろりとした液体が零れ落ちた。効能を試すといった男は、その液体に指先をつけ、それを舐めた。その途端、楠木には男の輪郭が少しぶれたように見えた。
男は、そのまま個室を出て、目当ての店員へ向かっていく。
楠木達はそれを部屋の入り口からそっと覗き込んだ。
「それで、無事店員を口説くのに成功したと」
それどころか、店内にいた他の女性までが彼に気を取られていた。オブジェから滴る液体を舐めただけで、男は店内の女性の注目を浴びるようになった。
住人達への実証は十分すぎた。他の住人は、後日、オブジェをもらう約束を取り付けたという。何度か居酒屋に顔を出すなかで、彼らから内緒話のようにその話を聞かされた
「あなたは、もらわなかったんですか?」
普通に考えれば、そんなこと起こるわけがない。
楠木はオブジェを貰おうなどとは思わなかった。
なら、何故ここにこれがあるのか。便利屋はそう言いたいのだろう。楠木は、これを住人の一人が失踪する直前に譲り受けたのだ。
話を戻そう。住人たちは、件の飲み会以降、定期的に居酒屋に集まるようになった。
彼らは、楠木を見つけると必ず会合に呼んだ。楠木は、特に目的意識もなく、なされるがままにオブジェの効果を語る奇妙な会合に参加し続けていた。
住人達はみな、オブジェの魅力に憑かれていた。彼らはそれぞれが皆、女遊びにふけっていた。本人たちは上機嫌だが、はたから見れば気味が悪い。それに、彼らの話をいくら聞いても、それがオブジェの効果だとは到底思えなかった。
仮に、オブジェに何らかの作用があったのだとすれば、効果があると信じたことで、男たちの淫らな性質が解放されてしまった点だろう。要するに、彼らは元々女遊びに耽る性質だったというわけだ。
目の色を変えて話す男たちの横で、静かに食べ物を食べるだけにも関わらず、不思議と男たちは楠木を手放さなかった。おそらく、秘密を共有する者だったのだろう。
そうこうしているうちに、会の雲行きは怪しくなった。佐原正二が消えたのだ。気が付いたのは楠木だ。消える前から、彼の様子は少しおかしくて、気になっていた。
以前は仕事の話が多かった佐原が、回を追うごとに女の話しかしなくなっていた。しかも、話題にあげる女の前では口にしがたい内容ばかり。いくら開放的な性格だったのだとしても、まるで何かたがが外れてしまったような印象を受けた。
だから、家賃の振り込みが滞った時、楠木は彼の様子が気になり部屋を訪れた。女遊びで見持ちを崩し、家賃を払えない状況になったかと疑ったのだ。
「あとは君たちの知る通り、部屋の中に彼の姿はなく、行方もつかめなかった」
変わったこと? 変わったとこと言えば、一緒に部屋に踏み込んだ妻が部屋の匂いで気分が悪くなったと言っていた。おそらく、あの部屋にはこのオブジェがあったのだろう。
「この前探したときはなかったって? それはよくわからない」
居酒屋の会合にも佐原は顔を出さなかった。そのころには、他の住人達もその状況が気味悪く感じたのか、会合は行われなくなった。マンションの巡回中に見かける彼らにオブジェの使用感などを聞くのはルール違反だし、楠木にその話を尋ねる者もいなかった。
そして、佐原の行方がわからないまま、時は進み、ある日、家にこれが送られてきた。
自分の行方が分からなくなったら、このオブジェのせいだ。早くオブジェを壊してくれというメモを付けて送ってきた男は、佐原正二と同様に、姿を消した。それが、四日前のことだ。
「そう、君たちが初めに部屋を見たという加藤さんだ。彼は他の奴らが消えたのを、このオブジェのせいだと思ったらしい。私もね、ひょっとしたらという気持ちがぬぐえない」
楠木はそう言って、包帯に包まれた手の甲を掻いた。
*****
男は洗面台に両手をつき、鏡の中の自分の顔を見つめた。
先ほどまで満ちていた嬌声が嘘のように静まり返っている。鏡越しにベッドの上の毛布が小さく上下をしているのが見えた。疲れ切って眠ったのだろうか。
さすがに男も疲れている。テレビでは午後五時のニュースが始まり、平日にも関わらず、一日をホテルで過ごしてしまったことに気が付いた。
今日は、そんなつもりがあったわけではない。ただ、通勤途中に目があっただけだ。
それが気づけば、このざまである。人間は一度快楽を知るとそこから抜け出せなくなる。自分の中の自制心が日に日に摩耗していっている自覚はあった。
だが、快楽はいくらでも手に入るのだ。その状況に、男は抗えない。
濡れた身体をタオルでふき取り、洗面所に置いたカバンから慎重にそれをとりだす。
互いに縺れ絡まりあう男女の手。女の手は八本すべてが別人の手だ。触るだけで男の背中に電気が走る。対して男の手はすべて同じ手である。
この違いはどこから来ているのであろう。成長し、株分けするオブジェなどという奇怪な代物にそんな疑問は意味をなさない。重要なことはこれが快楽を約束することだけだ。
しかし、どうにも女の手と男の手の違いが気になる。身体中の精を放出し、女を支配したという、充足感と万能感が、男に冷静さを与えていたのかもしれない。
八人の女性の手が、八本に分かれた男の手と絡まりあう。オブジェが男に与える力を象徴しているのだろうか。このオブジェさえあれば、男は自在に女性を支配できる。
個々の株の力の強さを示すのが、女性の手の数なのではないか。
初めにこの株をもらった時、女の手は一本だった。それがいつの間にか、二本になり、四本になり、株分けをした。その後、再び女の手は増え、八人の手になった。
もはやオブジェを使わなくとも、男は視線と気配だけで女を支配できる。
そろそろ、株分けの時期かもしれない。
彼は、株分けをした四人の顔を思い出そうとした。だが、男の顔は覚えられない。得意先で、独身で、そこそこ収入もあるが、浮いた話を聞かない。外に見せないだけで女を囲いたくて仕方がない。彼が株分けをしたのはそうした人間たちだ。得意先を歩き回って、慎重に相手を選んだ。
第一に、そうした人間でなければ、この奇妙なオブジェをほしがらない。
第二に、株分けした人間にはオブジェに溺れてもらわなければならなかった。
またあのような人間たちを探すのは、ひどく面倒だった。なにより、探している間は女が抱けない。それだけでつらい。
目を閉じて物思いにふけっていると、背中にしな垂れかかる女の気配を感じた。目覚めてしまったらしい。まったく、もう少し寝ていてくれなければ、疲れが取れない。
頭の片隅によぎるそうした想いも、漂う匂いと女の感触に、直ぐにぼやけてしまう。
男は腰に当てられた彼女の手をどける。そう慌てるな。これから夜が始まる。
振り返ると、彼女の手が何本も男の身体に組み付いた。視界が肌の色に包まれて、他には何も見えない。
そんなにたくさん求められても、応えられない。一人ずつ、ゆっくり楽しもう。
けれども、彼女はそれを受け入れない。我先にと男の身体を掴み、自分の方へと引き込んでいく。他の腕に奪われそうだとわかると、より力を込めて男を引っ張る。
男の骨や筋肉が悲鳴を上げ始めるが、男にとってはそれすら快感だ。女が自分を求めている。その充足感に包まれて、男は生を吐き出した。
彼女はそれに歓喜したのだろう。先ほどよりも遥かに強く、男の身体を求める。男の身体はいくつもの方向に引き伸ばされ、ちぎれていく。
ああ。このまま。このまま快感の中にいよう。
視界をよぎった赤い染みが男のぼやけた思考を現実に引き戻した。
視界には何本もの腕がうごめき、洗面所は赤く染まっていた。男の身体からは急激に体温が奪われている。何だ、これは。男の脳裏に、あのオブジェの姿が浮かぶ。
贄は十分に渡しただろう? 声の代わりに漏れるのは血だ。鏡に映る両腕が、両脚が、胸元が、陰茎が、男の身体の殆どが、無数の腕により小さく引きちぎられていた。足元に広がるのは、真っ赤に染まった床と男の身体であった肉の残骸だ。残骸の中では、肌色の蟲がうごめいている。
いや、あれは蟲じゃない。手だ。
女の手が。ミンチになった男の身体を更にバラバラにしようと取り合っている。髪の毛を掴まれ、顔を上げさせられる。もはやベッドルームは見えない。洗面所の入り口は肉の壁に阻まれている。
そして、肉壁から生えているのは女の顔だ。茶色に染めた髪の毛が目元を隠している。表情は分からないが、どこか心惹かれた。男の身体は眼前の化け物に引きちぎられ、死が迫っている。それなのに、男の頭の中は、肉壁から生えた女のことでいっぱいだった。
女の顔はぬっと男に近づいて、彼の顔をべろりと舐めた。
あなたもわたしのものよ。耳元でささやいたその声はとても甘く、男は彼女になら全てを奪われてもいいと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます