Track3:あなたを呼ぶ声
あなたを呼ぶ声(1):失踪する賃借人と崩れる遺体
フェロモン【pheromone】
動物または微生物が体内で生成して体外に分泌後、同種の他の個体に一定の行動や発育の変化を促す生理活性物質
――――――――――――――
1
玄関から覗き込んだ室内は暗く、人の気配がない。水鏡紅(ミカガミ‐ベニ)は後ろに押される形で、その部屋に踏み込んだ。背後の人物を睨み付けてみるが、困ったような顔で更に後ろを指してみせる。謝罪の言葉は特にない。
最低限の礼儀と思って靴を脱ごうとしたが、それも止められて、スニーカーを履いたまま廊下の奥を目指す。土足で入るほど汚れているように見えなくて、ちらりと後ろを伺えば、最後尾の依頼人は、ビニール袋で靴を包んでいるのがみえて、ため息が出た。この依頼はあまり良いものではないように思える。
嫌な予感をぬぐえないまま、紅は突き当りの扉に手をかけた。扉の先は九畳ほどのリビングだ。部屋に入って左手に空間が広がっている。左奥の壁際にテレビ、紅の目の前には食卓テーブル。そのほかは、小さな食器棚と本棚がひとつあるだけだ。
用途がないにもかかわらず広い部屋を借りてしまった、そんな印象をうけた。
右手にはシステムキッチンがあり、その奥は浴室らしい。半開きになった扉から脱衣所が見える。キッチンには家族用の大きな冷蔵庫と、オーブン、電子レンジに炊飯器。食器棚の大きさやリビングの雰囲気とは似合わないほど電化製品が充実している。
「独り暮らし、なんですよね」
相棒の久住音葉(クズミ‐オトハ)の後ろからリビングに入ってきた、依頼人の絹田(キヌタ)に尋ねると、彼はこくこくと頷いた。
それにしては。紅のイメージする独り暮らしと雰囲気が違う。冷蔵庫は大きすぎるし、電化製品の充実具合も奇妙である。けれども、脱衣所の洗面台の歯ブラシの数は一つ。
リビングの奥はおそらく寝室に使われていたのだろう。ベッドはセミダブル。机代わりにもなるのだろう、ヘッドボード部分にはパソコンが置かれている。
ベッドの反対側の壁には本棚。本棚の横には埋め込み式のクローゼットがある。中を開いてみると、男物のスーツと外套が掛けられている。足元に並べられた箱に入っているのも、いずれも男物だ。
本棚に並ぶ本は実用書とビジネス書だ。この部屋の主は広告業に従事しているのだろう、特に広告やコピーライトに関わる書籍が目につく。
紅と音葉、絹田の三人は、室内を一通り確認すると、食卓テーブルに集まった。
「どう思います? 久住さん」
初めに口を開いたのは絹田だ。伊達メガネの奥で、瞼で頻繁に瞬きをしていた。右手の指をしきりにすり合わせており、部屋に入る前に比べて落ち着きがない。
「どう思うって言われてもねぇ」
音葉は絹田の様子の変化など気にも留めずに部屋を見回している。その態度が絹田を不安にさせていることに、久住音葉という人間は気がつかない。
「それらしき気配はないよ」
仕方がないから、紅は自分の感覚を告げてみる。もちろん、音葉は納得しないことを紅はよく知っている。良くも悪くも、彼はこういうところに融通が利かない。
「紅が気配を感じないからといって、必ずしもその、幽霊とかがいるかどうかはわからないですよ。僕たちは地縛霊が見えてお祓いができる霊能者とかではないんですから」
「そ、そう言わないで下さいよ。久住さんたち、奇妙なモノを扱うの専門でしょう」
「だからそれは」
紅は思い切り音葉の足を踏んだ。痛みで言葉を失い飛び跳ねる音葉を横目に、紅は精一杯真剣な表情で、絹田に向かいあった。
「大丈夫です。この部屋に、人に害をなす霊的な存在は感じられません。この物件に住んだからって言って、住人に害が出るみたいなことはないと思いますよ」
紅の言葉に、絹田の顔から緊張が取れる。要するに、彼はお墨付きがほしいのだ。
ほら見たことか、と音葉に自慢しようかと思ったが、絹田の顔色がいまだによくないことがほんの少し気になった。
「紅。そんなに早く結論を出ゃ」
今この瞬間は、音葉の反論を聞きたくない。反射的に彼の足を踏みつけた。
*****
水鏡紅と久住音葉は便利屋だ。駅前のビルに事務所を構え、ペットや人探し、近所のトラブル解決など、困りごとがあれば手助けをする。最近では町のトラブルシューターなどと呼ばれることもある。
もっとも、本当に紅たちが探しているのは、雑音(ノイズ)だ。感知できない人に話してもうまく伝わらないから、紅はそのことを細かく説明したことがない。
虚構と現実の境界線を越えた存在。久住音葉はそれらを狩りたてている。それが、紅と音葉を繋ぐ契約だ。
もっとも、ノイズに接したことがなければ、それが幽霊と違うことは理解できない。絹田のように拝み屋のような依頼を持ってくる依頼人が現れるのは仕方がないことだ。
「ところで、この部屋、住人がいなくなってからそんなに時間が経っていないですよね」
足の痛みから回復した音葉が、絹田にふとした疑問を投げかける。
部屋の中には人の気配はない。けれども、食卓テーブルに埃はたまっていないし、他の家具も傷んではいない。音葉の言う通り、この部屋は人が消えてまもないはずだ。
「ええ。実は住人が消えてから実は三日ほどしか経っていないんです」
「三日? それじゃあ、なんでそんなに怯えているのですか。そもそも地縛霊だなんて」
これ以上はまずい。紅はとっさに音葉の口を塞ごうとした。
「絹田さん。今回の依頼、何か別の目的があるんじゃないですか」
だが、紅の手が口をふさぐ前に、音葉が疑問を口にしてしまう。いまこそ足を踏めばよかった。気が付いた時にはすでに遅い。
2
瞼が重く頭がだるい。足を踏み出すごとに全身が沈み込むような倦怠感が襲う。
男は自分がどこへ歩いているのかわからなかった。
眠たい。身体を包む異様なけだるさに身を任せて、このまま眠ってしまいたい。気を抜くと、睡魔が身体を包み込んでいく。
だが、その度に、男は自分を奮い立たせ、重たい身体を引きずった。
逃げなければ。
男の意識を占めていたのはその一言だけだ。
やがて、見覚えのある建物が目に入った。朝陽が男の身体を照らしている。あの建物まで行けば、誰か人に出会えるだろう。あの建物の職員は朝が早いのだ。
事情を説明して、警察を呼んでもらおう。男が見た光景を伝え、保護してもらうのだ。
トン。
建物の前まで歩きつくと、男の左肩に、後ろを歩く歩行者がぶつかった。ほんの少しの衝撃に、男はバランスを崩し倒れこんだ。
ところが、ぶつかった歩行者の側は、まるで何もなかったかのように、建物の中へと消えていく。その後も男の周りを多くの人間が通り過ぎるも誰も男に気を留めなかった。
人の波が落ち着くころには、男の目にはすでに光はない。身につけた服は酷く擦れており、服から露出している部分、顔や手、足は、ぶるぶると震え続けていた。
清掃中の職員が、死体を見つけたのは、それから一時間以上も経過した後のことだ。
*****
空き室の地縛霊の存在を確かめる依頼。それは、紅曰く、音葉の迂闊な質問によって、様相を変えた。
絹田の勤める不動産屋の管理するマンション、その失踪者捜索。1LDKの部屋で口にした絹田の依頼は、要するに家賃を踏み倒す住人を探してほしいというものだ。
失踪したのは、1LDKの住人を含め四人。もっとも長く行方が知れないのが三か月。
賃借人が姿を消すという事例など、不動産業を営んでいれば多かれ少なかれ聞く事例だろう。対処法について尋ねるなら法律相談か、警察に相談だ。
地縛霊だなどと偽りを述べて、音葉たちに頼む依頼とは思えない。
「上司も一度久住さんのところで相談したほうがいいという判断ですし」
失踪した他の賃借人の部屋へと向かう車内で、絹田は何度も頭を下げそう言った。
しかし、不思議なことに上司の思惑や、なぜ、失踪三日目の男の部屋に紅たちを案内したのか、その理由について、絹田は決して口を割らなかった。
佐原正二(サハラ‐ショウジ)。紅は表札に書かれたその文字を指で軽く撫でた。
行方をくらませて三か月。流石にそれくらいの期間、姿をくらましていれば知人や身内などが警察に連絡を入れるだろう。だが、絹田の話によれば、少なくても不動産屋には警察が来ていないのだという。
ワンルームの室内は、先ほどみた1LDKと同様、きれいに片付けられている。違うことがあるとすれば、机上に埃が積もっていることくらいだ。
「どうですか? 何か気が付いたこととかは」
絹田の問いに音葉は首を横に振った。音葉が紅を見たが、紅はあえて無視することにした。こんな面倒な案件を引き受けたのだ。少しくらい怒ってもいいと思う。
紅は音葉と絹田を無視して検分を続けた。
ワンルームだが、この部屋は奥行きが広い。実質二部屋に見えるこの部屋をワンルームと呼ぶのは何故だろう。
佐原は部屋の中央から奥、窓に面した部屋を寝室、紅たちが立っている手前の空間をリビングとして使っていたらしい。リビングには食卓テーブル。寝室にはベッドとテレビ。本棚やタンス、ちょっとした家具が置かれている。
本棚に並んでいる本は、建築関連の本が多い。そういえば、絹田は佐原正二が設計事務所で働いていると話していた。
キッチン周りの家電や、タンスの服にも特に異変はない。1LDKの部屋と違って、この部屋は、いかにも単身者の部屋だ。
「あの、そろそろいいですかね。だいぶん時間も経っていますし」
玄関から声をかけたのはマンションの管理人夫婦だ。管理の委託を受けており、今回も鍵を開けてもらった。妻の後ろで、夫が不機嫌そうに足踏みをしている。
絹田と音葉が顔を見合わせ、外に出ようと玄関に足を向けたので、紅もこれに倣った。
「すみませんね。何度も中を拝見させていただいてしまって」
「いいんですよ。絹田さん。相談しているのは私たちのほうですから。ただ、この部屋を開けると主人が怒るんです」
家賃を滞納しているとはいえ、賃借人の部屋に他人を入れることに躊躇する。夫の感覚は健全だと思った。だが、妻の後ろに立つ夫の表情を見て、紅はその考えを改めた。眉を顰め、目に炎を宿したような表情。彼の怒りはもっと、直情的なものだ。
「お二人は、この部屋を何回か見たことがあるんですか。その、家賃滞納が起きるようになってから」
「ええ。絹田さんと、上司のゴンダさんでしたっけ。お二人に相談に乗ってもらって二回ほど」
つまり、これで三回目。
「なあ、絹田さん。もう佐原さんがいなくなって三か月だ。手がかりは掴めないんだろ。何回部屋に入ったって同じじゃないか」
夫が不満げに話題に割り込む。言葉だけ聞けば、厄介ごとを早く手放したいという意思表示に聞こえる。けれども。
「前回部屋に入った時と雰囲気が違うところ、ありませんか」
音葉の問いに、夫は少し目を泳がせて、バツが悪そうに返答する。
「ないよそんなもん。この部屋には誰も来ていないのだから」
「奥さんの方はどうですか?」
妻は背後の夫を気にしながら、部屋を覗き込む。そして、少しだけ鼻をひくつかせた。
「そうね。あの嫌な臭いは消えたかしら」
臭い。その言葉に夫が半歩後退った。泳いだ視線が紅とぶつかり、彼は慌てて目を外の廊下に向けた。
「臭い?」
「ええ、初めに部屋に入った時はとても臭かったのよ。ねえ、あなた」
「知らん。初めから言っているだろう。私はお前の言う臭いというのがわからない」
気分を害したのか、夫は部屋の前から立ち去ってしまう。妻が慌てて後を追いかけようとして、まだ音葉たちが部屋の中にいることに思い至り立ち止まる。
「そろそろ出ませんか。手がかりはないみたいだし」
「いや、紅。あの人が言っていた臭いって気にならないか?」
音葉が質問を続けそうになる前に、音葉と絹田を無理やり部屋の外に押し出した。最後に部屋を出ることになった紅は、もう一度室内を振り返る。
ひどい臭い。妻の言葉に、夫は気分を害した。音葉が気にするのもわかるが、この部屋にはその臭いは漂っていない。部屋は静かに処遇を待っているだけだ。
この部屋には誰も来ていない。管理人の夫の言葉が酷く気になった。
*****
絹田と別れ、佐原正二の務め先である設計事務所を訪ねると、厄介な先客がいた。何台ものパトカーが止まり、慌ただしく警官がうろついている。
「どんどん面倒事になっている」
隣で頬を膨らませた紅に、音葉は苦笑いを返すしかなかった。
「とりあえず、巻き込まれる前に一度出直そうか」
紅も力強く頷いたので、回れ右をして、施設から出ようとした。しかし、目線の先には音葉たちの動きを止める人間がいた。隣に立つ紅の顔がみるみると青ざめる。
「久住音葉、それに水鏡紅。久しぶりだね」
大きな声で二人の名前を呼び、駆け寄ってくる女性。紺色のトレンチコートの前を右手で押さえて駆けてくる姿は、まるで疫病神だ。
「こんなところで会えるなんて。私はとてもついている」
手入れが行き届いていないのだろう、大きく外側に膨らんだ髪と、目の下にできた隈。全身から漂う疲労と、お気に入りの玩具を見つけたような笑顔がミスマッチで怖い。
「お久しぶりですね、御坂警部」
「ここしばらく君たちに依頼することがなかったからね。でも、とても会いたかった」
世辞に対して、心のこもった言葉が返ってくる。強行犯係の班長、御坂心音(ミサカ‐ココネ)警部は、紅の肩をがっちりと掴み前後に振りながら、音葉に質問を切り出した。
「こんなに警察がきている会社に、君たちはどんな用事なのかな」
「特に用事はないんですよ。たまたま通りかかっただけです。そうだよな、紅」
御坂に身体を揺さぶられながらも、紅は必死に頷いた。しかし、御坂は二人の反応などわれ関せず、紅の肩を掴み、音葉の手を握り、二人を会社の敷地へ引きずり込む。
見た目は華奢な女性なのに相変わらず力は強い。下手に抵抗して、取り押さえられた思い出が蘇り、音葉は彼女の言いなりに引きずられることを選んだ。
「用事がなければこんなところに来ないでしょう」
「だから、たまたま通りかかっただけだって」
「本当? てっきり、佐原正二の件で来たんじゃないかと思ったのだけど」
佐原の名前が飛び出し、音葉は言葉を詰まらせた。その様子に御坂は満足げに頷いた。
「嘘はだめだよ、久住君。君は私に嘘がつけない。それに、私は君に有益な情報をあげられるんだ。君たちは私にほんのちょっと協力してくれるだけでいい。どうせ、彼が面倒な相談事でも引き受けたのでしょう、水鏡君。
なに、本当に些細な協力でいいんだよ。まったく、二人は警戒心が強い。なら、先に情報を教えてあげよう」
御坂は会社の玄関横に張られたブルーシートの囲いを指す。そして、まるで恋人に愛の言葉を囁くかのように音葉の耳元で呟いた。
「佐原正二なら、あの中で死んでいるよ」
3
肉の焼ける音と煙。眼前に積まれた内臓の生々しい色。
箸が進まない紅をよそに、鉄板で焼けた肉が煙の向こう側に運ばれていく。
「水鏡君。肉は焼いたら食べるものだよ。炭になってしまうだろ」
なら焼かなければいいし、注文しなければいい。
「それもダメ。焼肉屋ってのは肉を食べるところだ。肉を注文しないでどうする。あ、店員さん、シロコロ一皿追加で」
しかも、よりにもよって内臓ばかりを注文する。
「焼き肉屋以外で話をすればよかっただけだと思うんですが」
「わかってないなあ」
誰も、彼女の食欲の矛先などわかるわけがないだろう。紅は肉に手を伸ばす代わりにコップの水を飲んだ。
煙が少し晴れて、ご飯を片手に肉を食べる御坂心音警部の姿が視界に入った。
失踪者、佐原正二の死体が、佐原の務めるノト建築設計事務所の社屋前で発見されてから約八時間。死体発見直後の現場に居合わせたゆえに、紅たちは御坂に捜査協力者扱いをされ、佐原の死体を目にすることになった。
それだけではない。御坂はまるで紅たちが容疑者であるかのように――そして、紅たちが容疑者ではないことを確信して――彼女たちが佐原を探していた事情を聴きだした。
災難だったのは、絹田だろう。音葉が依頼者の名前を口にだし、あろうことか三日前に失踪した1LDKの住人の話までしたものだから、絹田は警察署に任意同行を求められ、今も事情を聴かれている。
そして、絹田を任意同行させるところまで、強引に話を進めた当の本人は、警察署から抜け出してこうして目の前で焼肉を食べている。
「帳場立っているでしょう。こんなところで焼肉食べていていいんですか」
「これも捜査の一環だよ。優秀な捜査協力者、久住君。おや、君もあまり箸が進んでいないようだけど、もしかして、あれを思い出しちゃうのかな」
御坂の言葉に、ブルーシートの中で見た光景が脳裏をよぎった。目の前に積まれた内臓の色が、より鮮明に記憶を呼び起こす。
*****
佐原正二の死体は、社屋に向かって頭を向け、うつぶせで倒れていた。右脚にはブルーシートがかけられ、そこから厭な臭いがした。
むせ返るような、すっぱいような。常温で鶏肉を長く置いた臭い。佐原の死体から立ち上る腐敗臭に耐え切れず、紅はハンカチで口と鼻を押さえた。
音葉は、顔をしかめてはいたが、紅のような態度には出ない。周りにいる鑑識に会釈をし、死体の横に座り、両手を合わせる。紅の前では見せない彼の隠れた一面だ。
知り合いの検視官の影響を受けたものなのだろう。
「それで、この遺体が佐原正二さんだというのは」
「身分証があってねぇ。あと、顔」
御坂は顔が身分証と同じだというが、うつぶせに倒れて顔が半分つぶれているので、よくわからない。雰囲気は御坂の持つ身分証と同じような気がする。
「お、水鏡君もなかなか頑張るね。新人刑事はそろそろ吐くところなんだけど、捜査協力者のほうがよっぽど肝が座っている」
「あんまり巣守(スモリ)をいじめないで下さい、御坂警部。こういう現場には慣れ取らんのですよ」
紅たちの横で遺体を撮影していた鑑識が、そういって、御坂を労わった。おそらく、この現場を見て実際に吐いている刑事がいるのだろう。
死体はいつどこで見ても気味が悪い。人間の身体は命を吹き込まれてこそ意味がある代物だ。だから、命の入っていない容器としての肉体に、紅は嫌悪感を抱いてしまう。
「その新人刑事さんは、確かに気弱かもしれない。見たところ、目立った外傷もないし、突然社屋の前で倒れた?」
「まあ、ふつうはそう見えるんだよな」
どうやら鑑識と音葉は知り合いらしい。顔を見合わせて互いに頷いている。その様子を背後に立つ御坂がじっと見つめている。紅たちを捕まえた時の笑顔は消えており、彼女の顔には表情がない。
「普通はってことは、そうじゃない部分があるってことですよね。たとえば、そのブルーシートで隠れている部分とか」
「それだけじゃあないんだが、一番わかりやすいのはそこだな。正直、なんでそうなっているのかさっぱりわからない」
鑑識が佐原の死体の右脚のビニールシートを取る。あるはずの右脚がない。その代わり目に入ったのは一面に広がった肉と血。
紅は思わず口を押えた。なんとか吐き気を抑えてブルーシートの外にでるも、直後に強い耳鳴りが起きた。視界が歪み、そこから先の記憶はない。気付いたときには、ブルーシート横のベンチに寝かされており、音葉が設計事務所内で買ってきた水を手に、隣に座っている姿が目に入った。
紅は、死体をみて気絶したのだった。
*****
「結局、どうしてあんな風になったのですか」
「全くわからない」
見た目に限って言えば、これだよね。御坂は箸の先でユッケを指した。
佐原正二の死体には右脚がなかった。そこにあるのは右脚相当量の肉と骨が砕かれた何かだ。それが、右脚を砕いたものなのかすらよくわからない。
新人刑事が吐いたのは、その右脚の様子を見てなのだという。そして。
「結局、頭部以外は右脚と同じ状態でね。運び出そうと持ち上げた瞬間に、身体が崩れてしまってね。死因の究明は困難を極めるよ。だいたい、どうやって死体を運んだのか、さっぱり見当がつかないのだからね」
御坂の言葉が正しければ、今、佐原の身体は大量の肉片と、首だけだということだ。その光景を想像してしまい、紅はますます食欲をなくした。
「だから、久住君と水鏡君には捜査協力を頼みたいというわけだよ。特に水鏡紅。君は、あの場所で何を感じ取ったのか、ぜひとも聞かせてほしい」
君が気を失ったのは、別の理由があるだろう? 御坂の瞳の奥に冷たい光が宿った。
「何も見なかったですよ。ただ、あまりに衝撃的なものだったので」
「ふうん。そう。まあ、それならそれでいい。何か気が付いたら教えてほしい」
意外にも御坂は紅の認識について追及はしない。その代わり、彼女は話題を絹田の事情聴取に切り替えた。
絹田が話していることは、音葉と紅に依頼をしたときと同じ内容らしい。そして、御坂も紅や音葉と同様に姿を消して三日間しか経過していない住人の捜索依頼のことだ。
御坂は他人の嘘を見抜くのがうまい。これは、腐れ縁のように付き合いが続くうちに見えてきた、御坂心音の特技の一つだ。しかし、それでも絹田の口から秘密を語らせることは難しいらしい。
「一つ妙なこと言っていた。失踪者の部屋には見知らぬ清掃業者が出入りしているらしい」
「清掃業者?」
「そう。どれも失踪した後に見かけたという話だから、本部では重要視されていないが」
――この部屋には誰も来ていない。
紅は、御坂の話に佐原正二の部屋の管理人を思い出した。
「お、ああ。残念。本部から呼び出しだ。残りの肉は食べといていいから。それじゃあまた。良い報告を待っているよ。久住君、水鏡君」
捜査情報を一方的に話し、代金を置いて席を立つ。音葉と紅は山盛りの肉を前に、嵐が過ぎ去ったのを感じていた。
「肉、せめて内臓じゃなければ食べようかとも思うんだけどな」
「でも残すのは良くないよ」
「その言い方だと、紅は食べないんだろう」
そう言って、音葉は皿に盛られた内臓を鉄板に乗せはじめた。
「音葉、佐原正二の部屋の管理人、覚えている?」
「誰も来ていないって言っていたな。匂いの話の方が気になったが、当たってみるべきは夫の方かもしれないな」
どうやら、音葉も紅と同じことを考えていたらしい。まずは、管理人の家に行ってみるべきだろう。
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