邪な目:大切なのはあなたの瞳

 御坂心音に無理やり起こされ、飲まされたコーヒーがあまりに不味く、久住音葉は起き抜けの身体を叩き台所へと駆けこんだ。

 口に含んだ液体を吐き出すと、コーヒーの匂いと共におおよそコーヒーとは思えない香りが立ち上ってきて、胸のむかつきが大きくなった。

 呑んだものを全て吐き出して戻ってくると、紅もソファでせき込んでいる。どうやら、問題があるのは音葉の味覚ではなく、御坂が作ったコーヒーの方だ。

「一体何を入れたんですか」

 音葉は向かいに座る御坂心音に抗議の声を上げた。御坂はスティック状の袋を見せる。

「コーヒーに抹茶スティック……」

「まさか抹茶スティックなんてものがあるとは思わなくてね。入れてしまったものは仕方がないし、地域によっては飲むところもあるだろう」

「これ抹茶スティックだけで出てくる味じゃない」

 納得しかけた音葉の隣で紅が異議を唱えた。確かに、抹茶の香りはしなかったのだ。

「その他、台所にある色んな調味料を入れてみた。ああ、なんだ、水鏡君が普段していそうなことをね」

「私はしないよ」

「そうかい。どうにも、君はそういうものを入れるように思っていたのだけれどね」

 御坂は手早くコーヒーを片付けて台所に消えていく。そもそもどうして御坂が事務所にいるのか。コーヒーの不味さにばかり気がとられて、そのことを問い詰めていなかった。

「御坂警部。どうして事務所にいるんですか」

「頼みごとがあるからだよ。市役所に行ったら、事務所にいるって聞いてね」

 おおかた木曽から話を聞いたのだろう。ただでさえ面倒事を押し付けられたのに、どうやら木曽は御坂まで押し付けるつもりらしい。

「今は手が離せない案件があるので無理です」

「ああ、それはこれだろう?」

 台所の片付けが終わったのか、御坂が寝室からホワイトボードを引きずりだしてきた。ボード上に展開されているのは、音葉と紅の悩みごとだ。

「君たちが起きないから、これを眺めながら何をしているのか考えていた。君たちは木曽という男から骨董品屋の捜索を依頼されていたのだろう。依頼は無事に達成されたというのに、今度は女子高生の噂話を追いかけて、一体どんな面倒事を掘り当てた」

 ホワイトボードと一緒にまとめていた資料に綴じていた、骨董品屋の店主の写真と、ボードに貼られた噂の相関図。どうやら音葉たちが眠っている間に、彼女は資料を一通り読んだらしい。

「若野塔子、この女子高生を中心に、目の噂が広がっている。噂の内容は聞いた時点によって多少異なるが、おおよそは、誰か、というよりも目に四六時中監視されているような気がする。目のお化けがいるといったところだろう。

 広がりを気にするような噂でもなければ、特段君たちが関わり合う要素、要するに金の匂いがしないんだが」

 金の匂いという言葉に、隣に座った紅の髪の毛がほんの少し膨らんだ。どうやら気分を害したらしい。怒気は御坂にも伝わったのか、紅を見て、すまないと謝った。

「だが、私にはこれが解決しなければならない緊急の課題のようには見えなくてね。私も君たちに向けて依頼を持ってきたのだが、引き受けて貰えはしないのだろう」

 それは、不可能だ。音葉は紅の顔を見た。紅も同意見と頷いた。

「全く、なら構わないよ。早いところ、この件を片付けてくれないか。私の依頼は急ぎというわけではないからね」

 仮に今の件が片付いても、出来ることなら御坂の依頼は受けたくない。面倒事だとわかっているものに首を突っ込みたくはない。

 だが、御坂は音葉たちの沈黙を、肯定の意思表示と取ったらしい。向かいに座ると、懐から出した手帳をめくりだした。

「さて、君たちを起こすまでの間に、私も色々と思い出してみてね。君たちの力になれそうな情報がここにある」

 御坂は手帳から一枚写真を取り出し、ホワイトボードに貼った。それは、女子高生の写真でも、骨董品屋の写真でもない。冴えない風貌で少し小太りの中年男性が写っている。

「彼の名前は武藤六郎(ムトウ‐ロクロウ)。2週間前に自宅で骨董品の壺に顔を埋めて亡くなった45歳のサラリーマンだ」

 骨董品の壺。2週間前。出てきたキーワードに、紅が身を固くした。

「興味が出てきたようじゃないか。では、君たちの手助けになると祈って続きを語ろう。その前に目が痛いな」

 御坂心音はジャケットから取り出した目薬を右目に射した。


*****

 事件が起きたのは2週間前。武藤六郎が死んだのは自宅の書斎。夫婦で暮らす2LDKのマンション、その一室に、武藤の死体はあった。死因は心臓発作。

「これはさっき気になって確かめたことなのだが、彼には骨董品収集の趣味があったらしくてね。彼は、死ぬ少し前に買った、壺に顔を埋めて死んでいたんだそうだ」

「それは、事件なんですか?」

 水鏡君の質問はもっともだ。だから、私もさっき色々と考えるまで全く気が付かなかった。武藤六郎の事件は、あくまで事故とされている。骨董品を愛でている時に運悪く心臓発作が始まり、助けを呼ぼうとする前に壺に首を突っ込んでしまった。

 そう、助けを呼べずに死んでいってしまったんだ。暗い壺の中を覗きこんでしまった彼はどんな気持ちだったのだろうね。

 壺はどのようなものだったのかって? さあ、そこまでは聞けていない。ただ、壺の中はとてもきれいな装飾が施されている。その中で長く暮らしても決して飽きはしない。壺の中の景色を見つめて何十年、何百年。壺の外に出ようと思わないくらいに美しい。

 外の景色には負けてしまうけれどね。

 話を戻そう。注目するべきは、その壺の出所だ。壺は、ある骨董品屋から買ったモノだという。その骨董品屋は、つい最近、閉店したのだそうだが店主が行方をくらましたらしくてね。

「それで、その壺が、僕たちが探してきた骨董品屋から出た物だという話ですか」

「その通りだよ久住君。面白いだろう」

「今までの話に若野塔子は全く出てこない。私たちは店主を見つけたし、店主探しの情報はいらないよ」

 いやいや。私は紅の前に人差し指を立てて彼女の反論を遮った。

 ここまでは、彼女の言う通りだと頷き、ホワイトボードの前に立つ。

 事件が奇妙なのはここからだ。武藤六郎が死んだ数日後、武藤のマンション近くの交番に被害届が出された。被害者は女子高生。彼女は、数週間前からストーキングされているという。しかも、武藤六郎が死んだ翌日。ストーカーは彼女の部屋の窓に張り付いたというのだ。

 警官もさすがにバカバカしいと思ったが彼女の家を訪れて、窓の指紋を確認した。

「話が見えないですよ。御坂警部」

「死んだ人間の指紋なんて出るはずがない。ただな、代わりに、巨大な何かが窓に張り付いた形跡があるっていうんだ」

「巨大な何か?」

 久住の問いかけに、私の目はぐるりと回転した。右目の動きがよくない。

「そう、目のような影が窓に残っていたのだそうだよ」

 目。久住と水鏡は驚いたように顔を見合わせた。その様子がどこかぎこちない。もう少し、情報を提供するべきだろうか。

「ああ。そうだ。言い忘れていたよ。武藤六郎の死体なんだがね。両目がなくなっていたのだそうだ。君たちも、目について調べているんじゃないかなと思ってね」

 久住が息を呑んだ。どうやら、今度は有益な情報の提供に成功したようだ。だが、彼らは私に対して協力の意を見せようとしない。それどころか、水鏡は事務所の棚に置かれた資料をまとめ始めたくらいだ。

「あの、ちょっと君たち?」

「音葉、そろそろ時間」

 水鏡が机に置いた時計の時間を指した。それを見て、久住が小さく頷く。

「御坂警部。これから依頼人と待ち合わせなんです。紅、マボロシに下りていてくれ」

 水鏡は頷くと立ち上がり、事務所の玄関へと向かった。

「紅。依頼人に渡す資料、持ったか?」

 音葉の声に振り返った彼女の目がほんの一瞬、御坂を見た。

「うん。音葉は後で来るの?」

「御坂警部と少し話をしてから行く。依頼人に先に事情を説明しておいてくれないか」

「わかった。じゃあ、後で」

 振り返り、扉に手をかける紅に、音葉はもう一言声をかける。

「そうだ。紅。座席はダイヤの2番で頼む」

 水鏡紅が頷いて、事務所を出た姿を見て、私はほっと胸をなでおろした。

 これで、久住音葉と私は二人きりだ。


*****

 若野塔子は、喫茶マボロシのボックス席で、便利屋の報告書をめくっていた。もっとも、目の前に座る便利屋、水鏡紅と名乗る同い年くらいの女の子の視線が気になって、内容はあまり頭に入らなかった。

 何度か彼女の方を見たが、彼女はニコニコしながらストローでアイスコーヒーを混ぜている。塔子に顔を向けると、読み終わったら教えて。それまでにもう一人が来るから。

とだけ言う。

 彼女は塔子が報告書に視線を落としている間、しきりに時計を気にしている。不安な様子をこちらに見せないように演技をしながら、時間を稼いでいる。そんな印象を受けた。でも、いったい何の時間を稼いでいるのか。


 水鏡紅と久住音葉。二人の便利屋と会ったのは、1週間前。高校の保健室でのことだ。

 塔子が悪夢をみて錯乱しているところを通りかかったのが水鏡紅。

 彼女の悪夢の原因を取り除いたのが久住音葉だ。

 悪夢から目覚めた彼女を迎えたのは紅の顔だ。クラスの友人や塔子の顔にはある、疲れや悩みの気配が感じられない、陶器のような顔を見て、塔子は少し羨ましくなった。

 水鏡紅は保険医と顔見知りで、たまたま保健室に立ち寄って、塔子を見つけたという。彼女は塔子の目を見て、もう大丈夫。悪夢は消えたと言いその場を去った。

 久住と水鏡の名前、彼女たちが便利屋を営んでいることは数日後、保険医から聞いた。

 塔子を襲っていた悪夢は、水鏡の言う通りすっかりなくなった。眠りにつけない夜が続いていたせいか、その夜、塔子は丸一日眠り続けてしまった。

 その翌々日。久住音葉から塔子の自宅に連絡が入った。指定された喫茶店「マボロシ」を訪れるも、そこで会えたのはやはり水鏡紅だけだった。彼女曰く、久住は別の仕事が入ってこられないという。

 水鏡からは、夢のこと、眼の異常のことを尋ねられた。塔子の悪夢は、目を介して伝染しているかもしれない。水鏡の話す言葉は現実味がなくて、よくわからなかった。

 けれども、翌日、久しぶりに見かけた保険医に話を聞いてみれば、久住音葉にもらった目薬で、悪夢が消えてよく眠れるようになったと語る。

 保険医がみたという悪夢も、誰かに見られているという白昼夢だった。悪夢の詳細も、治るまでの流れも、治った後に、夢の話をした相手について水鏡紅に尋ねられていることまで全く同じで、不思議だった。

 それからも、何度か水鏡から連絡が入り、塔子は自分の友人や家族、悪夢のことを知っている人について情報を提供した。

 そして、昨日。久住からその後の調子が聞きたいと電話が入り、塔子はここにいる。


 水鏡に渡された報告書には、初めのページに、塔子が話した悪夢の話がどのように広がっていったのか、という図が示されていた。図の中には、交通事故にあったクラスメイトや、怪我をしたクラスメイトの名前も書かれているのが気になった。

 塔子はただ悪夢にうなされただけだが、ひょっとしたら自分も事故にあったかもしれないと思うと怖い。

 その後のページはよくわからなかったが、どうやら図に載っている人は皆、悪夢を見たり、目の疲れを訴えていたらしい。日々、顔を合わせていた人もいたのに、そんなことには全く気が付かなかった。

 しかし、その不調が目薬一つで治るのだとしたら、まるで夢か魔法だ。

「あの。久住さんはまだ」

「ん。うん。大丈夫。気にしないで、報告書を読んで」

 水鏡は同じ言葉を繰り返す。まるで、今も夢を見ているようだ。そう思った矢先、右目がチクリと痛んだような気がした。視界がぐるりと回転するような感覚、そして吐き気。

「大丈夫?」

 身を乗り出そうとした水鏡を無意識に手で制した。悪夢を見るようになってから、時折視界が揺らいで吐き気がするようになった。保健室での出来事の後は、吐き気はなくなったので安心していたが、またぶり返したらしい。

 右目を押さえて視界を塞いでしばらくすると吐き気は収まる。痛みと吐き気で掌に流れ出た涙をティッシュで拭い、水鏡に大丈夫だと笑いかけた。

「そう。もう少しだけ待ってね。そろそろ音葉が来るから」

 水鏡に久住音葉の名前を出されて、なんだかとても怖くなった。今すぐにこの店を出たほうが良い。そんな気持ちが沸き上がってくる。

 塔子は、電話で久住が話したある言葉を思い出した。

 もし、久住音葉の名前を聞いて、家に帰りたくなったら、彼が来るまで決して席を立ってはいけない。それと、彼か水鏡にこう伝えるのだと。

「あのね、水鏡さん。スペードの1って知ってる?」


*****

 久住は私に一言、二言何かを話すと、台所へ向かい食器を洗い始めた。人を待たせているというのに悠長なことだ。だが、これでは、目的に沿わない。

 まずは久住と話をすることだ。

「いいのかい。水鏡君だけ先に行かせて、皿洗いなんて。依頼人が待っているんだろう」

 久住は振り返らない。仕方がない。もっと近づこう。

「おいおい。黙って食器洗い始めるなんて、寂しいな。せっかくだし、私と話をしよう」

 久住の肩に手をかけて、彼の前に顔を覗かせる。久住が勢いよくスポンジを握ったのが目に入った。薬剤がとんで、右目に入る。

「痛いっ」

 咄嗟に目を閉じたが間に合わなかったらしい。眼の中が熱く、焼けるように痛い。私は久住から手を離し、後ずさった。洗剤というのは目に入るとこれほどまでに痛いのか。

 痛みで目の中が爆発しそうだ。眼が膨らんで、ナカミが出てしまう。


「御坂警部は知らないんだ。知らなくて本当によかった」

 振り返った久住が、目を押さえている私に向かって話しかける。右手に持っているのは、スポンジではなくて、トランプのカードだ。カードが消えて、代わりに久住音葉の右手に黒いビー玉のようなものが現れる。それはまるで液体のように形を崩し、彼の掌の上で踊る。

「待て。聞いていないぞ」

「言っていないですからね。さっきは不意を突かれましたから。お返しです」

 目の膨張が酷くもう耐えられない。眼の中は熱くて、これ以上は焼けてしまいそうだ。私は、御坂心音の右手を外し、顔を天井に向けさせた。さっきと同じように、もう一度天井に逃げれば、勝ち目はある。

 右目を開き、膨れ上がった圧を逃がすように、私は御坂心音の外へと飛び出した。

 いつもなら、外気が身体を刺すような痛みに襲われるはずだった。ところが、飛び出た先には外気がなかった。その代り、一面の黒。

「これは」

「今度は逃がさないって言ったでしょう」

 久住の声は聞こえるが、その姿がない。黒だけが私の周りに広がっている。

 この黒のことは知っている。触れたのは初めてだが、これが何かを知っている。何のために黒が存在するのか、これから自分に何が起きるのか。他の私が体験した記憶がある。

 そして、力の弱いこの私では、黒から逃れる術がないことも、知っている。

 私があげた悲鳴は全て黒に吸いこまれ、私は黒に包まれて消えていく。

 だが、まだ終わりじゃない。彼女だ。若野塔子、彼女がいれば、また私は。


*****

 マボロシに新しい客がやってきたのは、報告書を読み始めて30分も経過してからだ。

「マスター。紅は先に来ているか」

 べに。水鏡の名前を読んだその声は、電話越しに聞いた声と同じ。久住音葉。塔子はほっとして報告書を閉じた。報告書を机に置いた瞬間、右手が震え、マグカップを倒しそうになった。右目の奥がチクリと痛み、吐き気が戻ってきそうになる。

「報告書、読み終わった? 大丈夫?」

 

 心配そうな声をあげる水鏡の左側だけが黒く塗りつぶされて見えない。

「大丈夫です。報告書読み終わりました」

 異常を伝えようと思ったが、口は塔子の自由にはならなかった。何か異常なことが起きている。そう思った時にはもう遅かった。左手が塔子の意思とは関係なく机上のペンとメモを取り出し、何かを書き始める。

 その動きにつられて、水鏡がメモを覗き込む素振りを見せた。すると、左手が器用にペンを回転させ、切っ先を水鏡の方へ向ける。

 危ない。危険を伝える前に、左手は、水鏡の顔に向けてペンを突き刺していた。

――何が起きているか、知りたいか

 耳の奥でくぐもった声が聞こえる。外からではない、体の中から響くようなその声に、塔子は聞き覚えがあった。

――まずは水鏡紅。久住はいい。今はこの場を離れるぞ

 声の質からして、男だ。どこで聞いたのか、明確に思い出せない。塔子の身体は声に従い、ペンを手放し、席を立った。手放したペンは、水鏡の顔に刺さったまま、微動だにしない。水鏡は声を上げることもなく固まったままだ。

「紅さんならあちらですよ」

 店主と久住音葉がやり取りをしている声が聞こえる。

 助けて。水鏡さんが、私に。私の左手に刺されて。

 どんなに頑張っても声が出ない。まるで自分の声の出し方を忘れてしまったかのようだ。身体はもうボックス席を立ち、マボロシの出口に向かって歩き出している。

 刺された水鏡がどうなったのかすら、塔子は確認することができない。

――確認なんていらない。必要なのはここから出ることだよ若野塔子。

 声が塔子の名前を呼んだ。

――名前を知るまで、随分と時間がかかった。でも、うれしいよ。君の、いや、君たちの視界はとても新鮮だ。だから、もう少し、君の視界を借りることにするよ。塔子

 左手がドアノブにかかる。やけにひんやりとした感触が手に残った。木製のドアノブだったと思うが、これほどまでに冷たかっただろうか。

「若野塔子さん、ですよね?」

 後ろから、声が聞こえる。塔子は、久住音葉に呼び止められている。

「それとも、武藤六郎と呼ぶのが正しいのかな」

 武藤六郎。誰だ、それは?

 塔子の身体はドアノブに手をかけたまま、後ろを振り返った。カウンターにいるマスターと、その横に立つ、目元が隠れるくらいに髪が伸びた青年が目に入った。店の奥では、ペンを突き刺したはずの水鏡紅が立ち上がって、こちらに歩いてきている。塔子が刺したはずのペンは、水鏡が右手で回転させている。

「いや、武藤六郎でもないのかな。壺の中にいた、お前は誰だ」

 久住音葉が、明確に、「私」の名前を尋ねた。

 妻が骨董品集めを嫌っていることはよく承知している。引越しの時にも、新しいマンションに、そんなに汚いものを持ち込んでどうするのだと叱られた。

 結局、価値のないものについては廃棄するという方針をたて、約半数の骨董品を廃棄した。だが、それでも彼女は私の趣味を嫌っていて、事あるごとにこっそりと私のコレクションを廃棄している。

 もう、これに関しては何かを言っても仕方がない。そう思っているから指摘をすることはないが、彼女は私が廃棄に気が付いていないと思っているらしい。自分の集めたものが捨てられていても気が付かない。その程度なのだから、もっと積極的に捨ててよい。彼女の考えはこういうところにある。

 だが、実態は、彼女が捨てそうな場所に、捨てられてもよいものを置いているのであり、守りたいコレクションは部屋の奥にある。本当は全てを守りたいが、妻に捨てるなと言いだせない以上、それ以外の方法が思いつかなかった。

 その意味では、私は立場が弱く、妻の、その程度の情熱しかないなら廃棄したってかまいやしないという言葉に頷きそうにもなる。

 だから、この壺を手に入れた時には、これで妻を見返すことができると思った。


 壺は、いつも通っている骨董品屋で見つけた。骨董品集めに夢中になりすぎて、裏庭に骨董品で出来た骨董品保管庫が出来上がったという、変わった店だ。

 保管庫が危険だと言われ、市役所と周囲の住民から撤去の要請を受けていたが、店主は頑なにこれを拒否していたらしい。蒐集家らしい、好感の持てる主張に、私は店主が好きになり、頻繁にこの店に通っていた。

 ところが、その日、店に顔を出すと、いつもの老いた店主ではなく、若く溌剌とした体格の良い青年が店番をしていた。いや、正確には店の片づけをしていた。

 青年は、私が店に入ると、大きな声で歓迎の言葉を述べ、店内にいた他の客を驚かせた。どの客も見知った顔であるが、私も含め、客同士は顔を見合わせ、小さく会釈をするとそれぞれの世界に戻っていった。

 骨董品屋に来る客は、店内での交流を求めない。私たちは、自分の眼鏡にかなう一品を探しに来ているのであり、それ以外のことに気を取られたくはないのだ。青年はどうにもそこがわかっていないようだった。

 話を聞けばそれもそのはず。店主の息子と名乗る青年は、不動産会社の営業マンだという。店主の体調が芳しくないため、店を閉めることにした。今日は閉店前の売り尽くしセールだと話す。

 骨董品って、閉店した後の在庫の処理に困るんですよ。古物商の免許なくなったら売れないし、かといって引取り手がすぐに現れるわけでもないでしょ。でも、うちの父さん、庭にあんなに骨董品集めちゃっているから、廃棄するにも費用が高くって。少しでも売れそうなものがあれば、この際皆さんに買ってもらいたいなと思っているんです。

 青年の話は、語られれば語られるほど、購買意欲が削がれる話だ。

 だが、そんな青年も、一つ良いところがあった。彼は、店主が蔵の奥に隠していた秘蔵品の数々を安値で店頭に出していたのだ。

 この壺もその一つだという。青年は、購入前に壺についていくつか話をしてくれた。その中でも私の興味を惹いたのは、壺を覗くと他人の未来が見えるという話だ。店主は毎晩これを覗き込んで他人の未来を楽しんでいるのだと、青年に話したらしい。

 そんな話、嘘だと思いますけどね。と語る青年は、その壺を格安で譲ってくれた。

 仮に嘘だとしても、そんなに面白いことはあるだろうか。私はそう思って、家に壺を持ち帰り、その口に顔を突っ込んだ。


 壺の中は暗く、金属の錆びた匂いが充満していた。数秒覗き込んでいても、何も見えてくることはない。馬鹿げた話だと思っていても、他人の未来が見えないことに私は少し落胆した。

 その時だ、私の耳元にぺちゃりと何かが付着したのは。

――みたいか

 耳の奥でくぐもった声が聞こえた。自分の声とも妻の声とも違う、ねばつくような気味の悪い声。慌てて壺から顔を出そうとしたが、私の顔はすっぽりと嵌り込んでしまい、抜け出すことができなかった。

――みせてやるよ。だから、目を貸せ

 耳元についた液体が顎を伝って、顔面に流れ、そして、私の右目に向かって流れていく。右目を固くつむったが、液体は私の瞼をこじ開けて、右目に入り込んだ。

 目の中が急に熱くなり、右目が溶け落ちるような感覚に襲われた。

 そして、壺から顔を出す瞬間、自宅のキッチンの様子が見えた。


*****

 崩れ落ちた御坂心音の身体を引っ張りソファに座らせる。右目の周りは涙が飛び散ったように濡れているが、目には先ほどのような異常はない。

 御坂は「これ」の影響から抜けきった。音葉は手の中の黒い硝子玉を見て、ほっと一息をついた。

 硝子玉の中にある液体、『意思を持つ目』に遭遇したのはちょうど一週間前。木曽からの依頼に従い骨董品屋の店主を見つけた翌日のこと。

 町はずれの安宿で管を巻いていたあの店主に、紅が家出の理由を聞いたのがそもそもの始まりである。

 店主の家出の理由は、息子がいわくつきの商品を売却したことだという。店主は、音葉たちに、家出ではなくその商品を探し歩いていて外泊を続けているのだと話した。

 理由は何であれ、店主が店に戻らないと骨董品蔵の撤去が進まない。音葉と紅は、渋る老人にいわくつきの品については見つけたら教えると約束して、どうにか家に帰す算段をつけた。

 その際、店主から、酷く真剣に頼まれたのが壺だ。

 店主曰く、その壺は他人の視界を奪って未来を盗み見るという。息子は父の言葉を信じるわけもなく、鼻で笑い飛ばす一方で、客にその話をして壺を売った。

「本当に、あの壺は未来を見る力を持つ。だが、壺の中の者に憑りつかれてしまう」

 そういって、店主は自分の右の瞼をめくった。

 音葉と紅は、老人の右目の中を動く三つ目の黒目を目の当たりにした。そいつは、老人の黒目と重なると、彼の光彩を塞ぎ、緑色に輝いた。

「緑の瞳、気味が悪いだろう。だが、あまり注視するのはよくないぞ。こいつは、目から目に感染する」

 感染。その言葉に、二人はとっさに老人と距離を取った。

「ふむ。君らは息子に比べて理解があるようだな。いいか、ここからが重要だ。もし、壺を買った客が壺を覗き込んでいたら、どんなに短時間であっても、必ずこいつが目に憑りつく。そして、こいつらは、目から目へ感染を広げていくのだ。

 だが、こいつらにも弱点はあってな。私の目に憑いているのが緑色なのは、塩水を浴びたからだ。塩水を目薬がわりに射してやれば、直ぐに死ぬ。実を言うとな、これは少々塩分が足りなくて死にきらなかった奴でな。こいつのおかげで私は壺の中を自由に覗けたのだ。奴らはすでに憑りついた者には憑かないらしくての」

 何気なく話しているが、音葉たちは老人にとんでもないものを見せられている。目の中に入りこんだ正体不明の異物。

「寄生虫、みたいなものなのでしょうか」

「ふむ。それが近いかもしれない。こいつらは、人の目に憑く代わりに、他の人の視界を映してくれるのだ。うまく付き合えば便利だが、壺がなくては始まらない」

 便利だろうか。紅の方を見ると、紅も呆れた表情を見せた。それと、老人に見えないように右手の人差し指で空に文字を書いている。

 noise。彼女の書いた文字に、音葉は頷いた。紛れもない。ただの人探しのつもりが、どうやら当たりを引いたようだ。

 現実世界に紛れ込む雑音。老人に憑いたのは音葉たちが探しているそれの一つである。


 そのあとは、老人を店に送り届け、壺を探し、いつものように老人に憑いたそれを探し出す。木曽の依頼も解決し、一石二鳥となるはずだった。


*****

 ところが、話はうまく進まない。

 店主の息子は、売却先の身元や名前などの控えを取らず、近所の常連らしいということまでしかわからなかった。音葉たちは仕方なく、過去の売却リストから購入頻度の多い人間の住所を当たり、壺を探すことにした。

 そして、リストの三人目。学校の保険医を務めるという男の元を訪問した際、若野塔子と、彼女に憑りつこうとする『意思を持つ目』に遭遇したのである。


 保険医に会うために、彼が勤める高校を訪問する。そう聞いて、紅はどこから調達してきたのか、高校の制服に身を包んで事務所に現れた。

「どう、ほら。制服だよ。制服」

 喜んで跳ね回る紅が面倒で、保険医に会うと言っても高校に顔を出すわけではないと伝えそびれてしまい、彼女の勢いに任せたまま、音葉は高校の敷地内に足を踏み込んだ。

 紅は生徒のふりをして校内に入ると言い、塩水で作った目薬をもって駆け出していく。彼女が見つけた保険医が、『意思を持つ目』を見つけたら、彼女が身体から弾き出す。その後、音葉がそれを退治する。

 段取りを確認し、保健室に面する外壁沿いを歩いていると、それはいた。


 遠くから見た時は巨大な靄にしか見えなかった。だが、近づくと、巨大な水球のようなものだということがわかった。

 黒褐色の液体が、宙に浮いている。表面は攪拌されたように、ぐるぐると動いている。液面に白い大きな水たまりが見え隠れする。水たまりの中心は黒く染まっており、何かを探すように、水球の表面を行ったり来たりするのを見て、音葉は水球が巨大な眼球なのだと気が付いた。

 よく見れば、水球の端に干からびた人形のような体がくっついている。身体の水分を全て眼球に集め、膨らんだ眼球で何かを探している。そんな印象を受ける。

 現実には絶対に存在しない。紛れもない異物だ。

「紅。聞こえているか? ノイズを見つけた」

 首にかけたマイクに向かって声をかけると、雑音交じりの答えが返ってきた。

「うん。私も今、目の前にいる。保健室の窓の外」

 どうやら彼女はうまく校内に入り込んだらしい。眼球の傍にある窓を見ると、見慣れた顔が手を振っている。

「手早く済ませよう。こんなの、他人に見つかるのは問題だ。紅、クラブの1とダイヤの2。それと」

 眼球の上を黒目がぐるりと回転して、音葉を見つける。地面がほんの少し沈む感触。身体が重たくなるイメージ。左手の周りに冷たい感触。水のような。硝子のような手触りが左手を包んでいく。

 準備は十分。面倒事はこれで終わりだ。

「水鏡紅。鑑定だ」

 音葉は威勢よく彼女に向かってそう命じた。


 そして


*****

 壺に顔を入れてから数日。私は、あの壺の中で見たものが怖くて、部屋の片隅に壺をしまい込んでいた。

 あの時、右目に入ったものが何であったのかはわからないが、風呂場でいくら確認しても、目に異常らしきものは見当たらなかった。ただ、時折右目が自分の意思表示と同じようにぐるりと回るような感触があるのが、とても気味が悪かった。

 しかし、夜、目が覚めると私の身体は壺の前にいるのだ。壺に両手をかけて、壺の中に顔を突っ込もうとしている。壺の奥から風が吹きこんでいる。顔を近づけるうちに、我に返って、布団に戻る。

 壺の中を覗きたいという欲求と、それを拒む気持ちに振り回されるうちに、私は自分が何をしているのかよくわからなくなった。朝の出勤時、気が付くと高校生に紛れて通学路を歩いていたり、オフィスで他人のデスクのパソコンを覗き込むようになった。

 何をやっているのだと我に返ると、一度視界がブラックアウトし、気が付くと電車や自分のデスクに戻っている。

 壺の中での出来事がストレスになって、夢遊病にでもなったのだろうか。

 そう。壺だ。全ては壺が現況なのだ。

 私は、家に帰り、壺の前にたった。この壺を覗き込んでから、妙なことが起きている。それを確かめるには、もう一度、もう一度だけこの壺を覗き込めばよい。

 もう一度だけ。


 壺の中は暗く何も見えない。だが、壺に入った途端、右目が何かを探して動き始める。そして。壺の奥から光が漏れ始め、右目に風景を映し出す。

 オレンジ色の光に、乳白色の壁。壁にはまだらに水滴がついており、下の方には泡が残っている。視界が動き、目の前に細い腕が現れた。右腕が左腕をタオルでこすると、左腕が泡立つ。

 これは、風呂場の風景らしい。しかも、誰か他人の、女性の視点だ。私は目の前の風景が誰のものなのかが気になって、壺の中に更に顔を押し込んだ。

 シャワーで身体を流す動作、その視界の先にちらりと鏡がはめ込まれているのが見える。そうだ。あの鏡を見てくれれば、これが誰の視界なのかがわかる。

 しかし、なかなか鏡を見てくれない。まどろっこしい。早く。これは、誰の視界だ


*****


 「目」は、窓越しに手を振る紅の姿を見て、そして、自分の下に立つ音葉の存在に気が付いた。水球の表面をぐるりと滑り、音葉の姿を捉える。

――おまえ、だれだ。おれが、みえている

「見えているよ。それだけはっきりしてれば、他の人からも見えているんじゃないか」

 黒い瞳は位置を固めることなく、上下左右に小さく揺れている。まるで、音葉以外の人間に見られることを極度に恐れているかのように見えた。

 音葉の経験上、紅がノイズと呼ぶそれらは、一部の人間にだけ見えるタイプと、誰にでも見えるタイプに分かれる。二種類のタイプがどうやって分かれている理由はよくわからない。以前、紅にも聞いたことがあるが、彼女はそれを『質量の差』と呼んでいた。

 『目』は瞳を動かすたびに水球から小さな水滴を垂らしていた。それらは地面に落ちてその表面を湿らせている。音葉には『目』は質量のある方にみえる。

――見られている? 見えている? そう、見えているなら、よこせよ。おまえの目

 「目」は震えながらゆっくりと地面へと降りてくる。保健室は二階、真下は階段なのか壁際に窓がない。校庭には人がいないし、幸いなことに授業中なのか、他の生徒が窓際に立つような気配はない。

――見てやる。お前よりも、おまえのことをみてやるから、その目をよこせ

 水球の下部が地面につきそうなほどに近づくと、瞳が一度空に向かって移動した。音葉に向けた黒褐色の液面が、沸騰したように泡立ち、勢いよく水を噴き出す。

 音葉は左手を前にかざし、中空に円を描く。左手から黒い液体が零れ落ち、音葉の前に壁を作る。「目」から噴き出た水の射線を遮るように広がると、液面は一気に硬質化し、ガラスへと姿を変える。水は硝子にぶつかり飛び散るも、音葉には届かない。

――それは、なんだ。おまえ、おかしいぞ。へんな、においがする

「目なのに匂いが分かるとは、変わっているな。紅、鑑定結果は?」

 インカムで催促するが、紅からの反応がない。理由を確認したいが、「目」は明確に音葉を敵と認めたらしく、先ほどよりも勢いよく水を連射する。音葉は左手に宿した硝子を宙に展開しては、水の攻撃を防ぐことを迫られる。

「紅、早く鑑定結果を」

「クラブの」

 ようやく紅から応答が返ってくる。紅の言葉に合わせて、「目」の動きが止まり、「目」の表面が薄く光った。「目」は自分の変化に驚いたのか、水を噴射させることを止めて、球面の上の瞳をあちこちへ滑らせた。

 今更慌てたところで遅い。鑑定が終わった時点で、音葉たちの勝ちだ。

*****

 武藤六郎。御坂が語った壺の購入者の名前を出すと、若野塔子はこちらを振り返った。

 若野塔子と武藤六郎には直接の接点はないはずだ。武藤六郎には高校生の子供はいないし、彼の仕事は女子高生に出会うような代物ではない。それに、彼女とその友人たちの話の中に、成人男性との繋がりを示すものはない。

 マボロシの出入口の前に立つ、若野塔子は音葉があの時出会った彼女のままだ。制服ではなく、ベージュのコートと熊の刺繍があしらわれたマフラーをして、外の寒さに備えている。目元には保健室にいたときのような隈がないところをみると、睡眠不足は解消されたのだろう。

 だが、彼女の右目だけはあの時とは様子が違う。瞳の上を、瞳の形をした何かが覆い、彼女の意思とは関係なく、上下左右に動いている。店内は十分に暖かいにも関わらず、彼女の身体は小刻みに震えている。

 おそらく、寒さのせいではない。彼女の意思と身体の動きが一致しないのだ。先ほど出会った女子高生や、御坂と同じように。

 彼女は今、右目に憑くものに支配されている。

「いや、武藤六郎でもないのかな。壺の中にいた、お前は誰だ」

 音葉の問いかけに、若野塔子の右目だけが大きく見開かれた。だが、まだ彼女に憑いたものは、黙して語らない。音葉は、左手に持っていた黒い硝子玉を塔子に見せた。

「どうやって彼女の身体に入り込んだのか、どうやって情報共有しているのかは知らないが、自分の分身がどうなったのか知っているだろう」

 若野塔子が唾を呑みこんだ。

「何を言っているんですか」

「知らないなら自己紹介から始めようか。僕は久住音葉。そこの彼女、水鏡紅と便利屋をやっている。覚えていないか? 保健室で君とは一度会っている」

「会っている……? そうか、思い出しました。あの時の、あなたが」

「残念。僕は若野塔子とは会っていない。若野塔子は保健室の窓からお前や僕の姿を覗き込みはしなかったし、あの時は君は彼女に憑りつく前だったろう。僕は、若野塔子と話したことはあるが、会ったことはないんだ」

 若野塔子の右目が更に見開かれ、眼球が震え出した。カウンターにいたマスターが、音葉と若野の間の異常に気が付いて、カウンターの奥に非難する。

「そ、そんなことないですよ、どこかで会っているはずです。だって、私、私、あなたのこと見覚えあるんですよ。久住さんの勘違いなのでは」

「勘違いだったかもしれませんね。ところで、若野さん。右目、とても充血している。目薬をしたほうがいい」

 目薬という言葉に、若野が突然、マボロシの扉のノブを回し始める。しかし、彼女の手はノブの上を空回りするだけで、ノブは回らない。音葉が店に入った時、既にドアノブにはダイヤの2、音葉の操る硝子のコーティングをしてある。どんなにドアノブを回したくても、音葉が硝子を外さない限り、ノブは回らない。

「あれ、おかしいな。おかしいぞ、こんなはずじゃない。扉が開かないですね。え、いや、トイレ、お手洗いに行きたいんです。目薬はそこでさしてきますよ。ねえ、お願い。え、どうして、どうして開かないの」

無理やり扉を開けようとする若野塔子の身体を、音葉の横を通り過ぎた紅が押さえた。

「なんだよ、なにするんだよ、お前! なんで、怪我していないんだ」

 急に声が荒くなり、若野の右目が大きく膨れ上がる。紅が慌てて彼女の身体から離れるも、若野の目の膨張は止まらない。右目が彼女の顔から大きくはみ出し、膨らみ、そして、彼女の頭と同じ大きさにまで膨張する。膨張した右目の瞳は、膨らんだ眼球の表面を縦横無尽に這いまわり、そして、奇声をあげた。

「これ以上は、邪魔はさせないおれはぼくはわたしは絶対にこの娘を渡さない」

 若野の身体が大きく回転し、勢いよく扉を蹴りつけた。扉がミシリと音をたてて、勢いよく開く。そして、若野塔子はマボロシの外へと駆けだした。

 階段を上り始める音が聞こえて初めて、音葉と紅は顔を見合わせた。

「マスター、後で説明と会計するから」

 カウンターで目を白黒させているマスターに言い残し、音葉はビルの階段を駆け上がった。二階に着くと、三階への立ち入り禁止の札が割られている。階段を上る音は更に上から響いてきた。

「上に逃げたの」

 後ろから追いついてきた紅が、うんざりした声をあげた。このビルは5階建てで、三階より上は何もテナントが入っていない。1フロアに部屋は四つ。そのほか、非常口やトイレ、給湯室が備えられている。

「隠れるつもりか、逃げるつもりか」

 若野塔子の足音は既に遠い。

「ここで逃したら、あいつ若野さんの身体ごとどこかに隠れるよ」

 紅はそう言って、三階へと踏み出そうとする。

 音葉は、ジャケットの懐に入れておいたトランプの札に手を触れた。クラブという以上に図柄がわからない正体不明の札。これがあるかぎり、音葉たちは若野塔子に憑いた「目」を追いかける羽目になる。高校の保健室で若野塔子を助けた際に、紅は音葉にそう告げた。それが、彼女に科せられた制約の一つだ。

 しかし、闇雲に階段を上っても、若野塔子を取り逃がす可能性は高い。「目」は、あの日から一週間、音葉たちの捜索から逃れ続けたのだから。

 どうしたものかと考えあぐねていると、カードと共に懐に入れた携帯電話が鳴った。

「音葉君、君たち、あの女子高生を捕まえたいんだろう」

 電話の相手は、マボロシのマスターだ。先ほど店内でトラブルを起こしたというのに、声の調子はいつものままだ。

「今、彼女は5階の給湯室にいるよ。どうも、屋上に繋がる階段を探しているようだ。その階段は5階までしかないからね」

「え、マスターどうして」

「監視カメラ。君たち以外に借り手がいないものだからね、ごろつきが住み着いたら困るじゃないか。だから、三階より上には監視カメラをつけているんだよ」

 全く。マスターの無駄遣いには呆れるが、居場所が分かったのは助かった。

 マスターにそのまま居場所を教えてほしいと伝え、音葉は掌で、紅に先に行くよう合図をした。頷いた紅が、足音をひそめて先に上っていく。

「マスター、屋上にはどうやって上るの」

「非常階段からしか登れないようになっている。といっても、トイレの横の奴じゃない。事務所に非常出口があるだろう」

 寝室にしている部屋の端に、出入り口がある。マスターの指示を聞きながら、音葉は、いったん事務所の中に戻った。気を失った御坂心音を起こさないように足音をひそめた。今、彼女に起きられても、事態がややこしくなるだけだ。

 寝室に戻り、非常扉からビルの外に出る。隣の雑居ビルとは3メートルほどしか離れていない。その狭い路地に詰め込むように、非常階段はあった。上を覗き込んでも、人の気配はしない。

「彼女ならまだ5階にいる。水鏡君が4階まで上ってきているから、そろそろ鉢合わせるだろう。奥の事務所まで彼女を追い立てれば、非常階段に気がつくんじゃないかな。ああ、そうだ。それと一つ言い忘れていたが、その扉は内側からしか開かない。僕はこれから、水鏡君に電話を掛けるから、いったん切るよ」

 先に言ってほしい。マスターの電話が切れるのと非常扉のドアが閉まったのは、ほぼ同時だ。音葉は非常階段に取り残されたことになる。若野塔子が外に出てくるかどうかは一つの賭けだが、今は紅とマスターを信じて、上るしか術はないようだ。


*****

 若野塔子の身体を操り、階段を駆け上ったが、五階で行き詰った。喫茶店に入る前に、ビルの上に看板が立っていたのを見たので、屋上までの通路があると踏んでいたがそれらしきものがない。

 目は階段の傍に立って聞き耳を立てた。今のところ、久住音葉たちが階段を上ってくる気配はない。3階よりも上は使われていないようだから、彼らは若野塔子が姿を隠した可能性も踏まえて、各階を探りながら上ってくるだろう。このビルから出る方法を探る時間はまだある。

 幸いなことに、喫茶店で主導権を握った時のショックで若野塔子は気を失っている。抵抗なく身体が動いてくれることは、幸運だ。

 目はゆっくりと、しかしなるべく急いで5階の各部屋を調べることにした。


*****

 壺の中に広がる視界は妻のものだ。そのことに気が付いたのは、壺の中で見た風呂場や台所が、自分が暮らしている家と同じつくりをしていること、そして、視界に現れる右手のほくろの位置が妻と同じだったことがきっかけだ。

 私は、壺の中の風景が、妻のものだとわかって以降、家に帰ると妻と話すことなく部屋に入り壺を覗き込むようになった。壺の中の景色には、私はいない。その代りに、妻の生活がある。

 私と共にいないときの妻の生活がどのようなものなのか、興味があった。だが、壺の中を覗けるのは部屋にいるときだけ。私が仕事から帰ってきてからの妻の生活は、私の姿を意識したものになる。食事はどうするのか、風呂はどうするのか。明日の予定はどうするか。彼女が自分の時間を過ごしているように見えるのは、寝る前の数十分程度だ。

 それでは足りない。満足ができない。やがて、私は朝仕事に出かけるふりをして家を出て、妻が外出するまでの間、家の周りに潜むようになった。妻が外出したのを見計らい、家の中に戻り、壺を覗き込む。すると、妻の昼間の生活が見える。なんと面白いことだろう。

 妻は、朝のうちに一通りの家事を済ませると家を出る。午後のパートの前に町を歩き、スーパーや商店で食材の値段をチェックすること、それと、駅前通りの本屋で本を見て歩くことが日課になっている。

 彼女が読んでいる本のことなど、結婚の前後を問わず気にしたことはなかったが、どうやら歴史小説が好きであることを知った。本屋にいくと必ず歴史のコーナーに立ち寄り、新しい本がないかを物色している。それと、何を知りたいのかはよくわからないが、郷土資料や民俗学のコーナーに立ち寄っているのも何度か見えた。

 ほとんど名前の知られていないような作者の、特定の地方に関する旅行記のようなものを立ち読みしており、私が壺を覗いている三日間の間に、二冊購入した。

 午後のパートは喫茶店の店員だ。商店街の裏路地にある小さな喫茶店だが、2時から5時にかけて、学校帰りの高校生や、外回りのサラリーマンなどが多く姿を見せる。

 妻は他の店員ともうまくやっているようで、特に、3時過ぎからシフトにはいる女子高生ととても仲が良かった。その女子高生の親友が、喫茶店によく来るらしく、ボックス席の隅で小説を書いている彼女のところで、よく立ち話をしている姿が見えた。

 いったい、彼女は何を書いているのだろうか。妻は、仲の良い店員のことを気にして、そのボックス席へは近づかない。若者二人が楽しそうに一言二言交わしている様子が見えるだけだ。

 この壺は、妻の視界を与えてくれるが、妻が見聞きした音は聞こえない。感情も伝わらなければ、妻に動くように伝えることもできない。私は、胸の中で膨れ上がる好奇心の行き場を失い、壺に顔を埋めたまま、うめき声をあげた。

 傍から見れば、酷く愚かな姿をしていただろう。だが、私の心はすでにこの奇妙な壺の魅力に憑かれており、自分ではない誰かの視界を、妻の視界を覗くことに溺れていた。

 そして、時を待っていたかのように壺の中にいた「それ」が、私に囁いた。

 もっと他の人間の目を見たくないか。あの女の書いている小説が読みたくはないか。自分ではない誰かになりたくはないか。

 私は、躊躇うことなくその声に答えた。

 そして、私は、武藤六郎であることを捨てた。


*****

 手洗場と給湯室にも非常口らしきものはなく、残るはビルの一番奥のフロアのみとなった。そこに出口がないのだとすれば、このビルは内側から屋上に上ることができない仕組みになっている。

 だが、「目」が知る限り、そんな建物は存在しない。屋上に上ることができずとも、階下へ降りる非常階段がどこかについているはずだ。「目」は若野塔子の身体を奮い立たせ、五階の最奥の部屋に踏み込んだ。

「見つけた」

 背後から決して聞きたくない声を聴いたのはその時だ。振り返ると、階段の踊り場に、黄色のコートを着た女性、水鏡紅の姿が見える。後頭部にまとめた長い髪が左右に揺れている。おそらく階段を駆け上ったのだろう。

 そして、何よりもあの目だ。彼女の目はまっすぐに若野塔子ではなく、「目」を見つめている。高校で遭遇したときから、どういうわけか、彼女たちは「目」の姿を捉えることができた。

 武藤六郎の目を奪い、不完全ながら肉を手に入れたとはいえ、あの時、「目」の姿を捉えることができたのは、「目」の視線を浴びていた若野塔子ただ一人だったはずなのに。

 気が付けば左手の震えが戻ってきている。右目から遠いところで若野塔子の意思が戻りつつある不安に耐え切れず、「目」は部屋の中に逃げ込んだ。他の部屋よりも大きく、広い。大通に面した壁には大きな窓が何枚も貼られているが非常口や非常用の避難セットは見当たらない。反対側は壁だが、隅の方にもう一部屋、部屋があるらしい。

 水鏡の足音から逃げるように、目はその部屋に逃げ込んだ。先ほどの部屋と異なりはるかに小さい。書庫、あるいは倉庫に利用する程度が限界だろう。

 だが、部屋の狭さはこのさいどうでもよい。重要なのは隣のビルとの間を映す窓と、その横にある非常口の表示だ。ようやく見つけた脱出口に、「目」は飛びつき、無我夢中でその扉を開いた。

 冷たい外気が目に染みて、危うく若野塔子の身体を失いかける。コントロールを失った彼女の身体がふらついて、非常口外の金属製の踊り場を踏んだ。落ち着いて右目を開き、様子を確認すれば、非常階段は屋上と階下に繋がっている。

 これで逃げられる。非常口の部屋に入ろうとする水鏡紅を尻に、「目」は屋上へと駆けあがった。

 おそらく身体を捧げたやつがいる。息子の話を鵜呑みに覗き込んでしまったのだろう。

 高校で遭遇した『意思を持つ目』の話をすると、店主の老人は、そう話した。

「付き合い方がわからないとそうなる。君たちは、ああいう常識から外れたモノとの付き合い方がわかっているだろう」

 どのように返したらよいのかわからず、音葉は横に立つ紅を伺った。紅も同じ心持だったのだろう、困ったような彼女の視線と重なった。どうやら決定権は音葉に委ねられたらしい。

「まあ、そうです。たぶん、僕たちはそういったモノを見慣れているし、なんとしても『意思を持つ目』を全て見つけ出したい」

 店主は音葉の答えを聞いて大きく頷いた。初めから、音葉たちは、そういった事例を知る者のそれだ。今更濁す必要性も感じられない。

「君たちなら、奴に乗せられなかったかもしれない。奴の目的は、覗いた者の目だよ」

 目に憑りつく異形。それは、他人の視界を見せ、憑りついた者の目を欲しがる。

「他人の視界を覗くというのは不思議なものでな。自分が決して見ることができない光景に、一度は心が囚われる。すると、奴は囁くのだ。もっと多くの人間の視界が観たくはないか、視界だけでなく、他人の五感を感じたくはないかとね。

 奴は、壺の外で自由に動くための身体が欲しいのだ。だから、覗き込んだ人間にとり憑き、周囲の者に感染し、子を増やす。最後には覗いた者の目を奪うためにな

 私も誘われたが、気味が悪くてな、目薬を射して奴を殺した。しかし、奴を殺すと、他人の視界を見られないのだ。もう一度、壺を覗いても、以前に見た視界は見られない。親が死ねば、子が死ぬからな。だから、生かさず殺さずの状態を探り何度も実験した」

 その結果が、老人の目に宿る緑色の『意思を持つ目』というわけだ。

「それじゃあ、私たちが高校でみたのは、誰かの目を奪った姿なの?」

 少なくても、高校で遭遇した『目』は、自分で動かせる実体を持っていた。単体では外に出られないという老人の話とは食い違う。

「保険医を探しに行ったのだろう。その男には会えたのか?」

「ええ。会えました。『目』に襲われていた学生の保護を頼んできましたから」

 その男には両目があったし、目の中に第三の目は存在しなかった。

「なら覗いたのはその医者じゃない。覗いた人間は両目を失うか、深刻な異常をきたしているはずだ。それと、おそらくそいつはその学生に執着していたはずだよ」

「それは、ご自分の経験を踏まえて、ということですか?」

 老人は頷く。彼もまた、何かに執着したのだろう。果たして、今の彼に憑いた『目』は、執着した誰かの視界を捉えているのだろうか。

「紅、彼の目は」

「違うよ。あれはそれとは違う」

 老人に見えないように、トランプのカードを紅にかざした。トランプの表側には、クラブのマークと、モザイクがかかったイラストが描かれている。『意思を持つ目』を退治した際に現れた不完全なカード。その中の目と、老人の目は別の存在らしい。

 親と子。初めに憑いた人間とそこから感染していく子で一つの集まりということか。

 つまり、今、探すべきは『意思を持つ目』が何者かの目を奪う前、またはその後に増やした子なのだろう。そして、それらは若野塔子という高校生に執着している。

「方針は固まりつつある?」

 紅の問いに、音葉は頷いた。老人に礼を言い、骨董品屋を後にする。

 探すべきは感染者。そしてそれは若野塔子の近くに潜んでいる。


 目の感染は、飛沫感染のそれに似ている。骨董品屋の店主は、音葉たちにそのように助言した。感染した目を近くで見るか、感染した目から飛び散る涙状の奴らが目に入ることで、感染が広がるのだという。その助言が正しかったことを、音葉は知っている。「目」が感染した高校生たちは感染者から目の噂を聞かされ、遊びの一貫で目を近づけられている。そうやって「目」は増えたのだ。もっとも、彼女たちの噂の経路を辿っても、「目」の大元、壺の購入者には繋がらなかった。どこから感染が始まったかは今もわからない。

 もっとも、今は「目」が飛沫感染をすることだけわかっていればよい。逃げ場を失った『目』は、若野塔子の身体を捨てて、道路に自分の体を排出する気だろう。

 果たして、屋上で待つ音葉の前に、若野塔子は現れた。しきりに階下を気にしており、看板の裏に立つ音葉には気が付いていない。おそらくは、紅が迫っているのだろう。

「非常口から外に出た、上?」

 イヤフォンから紅の声が聞こえる。

「予想通りね。スペードの1を追加だ」

「わかってる」

 紅の返答と同時に、音葉の身体がほんの少し重くなる。右手で左手首を押さえて、小さく振ってやる。左手が古いフィルムを再生したように何重にもぶれて見えた。

 音葉は若野塔子に近づく。音葉の身体は、足音を立てるどころか、風を切ることすらない。スペードの1の札が司る力は、一回につき5秒程度、音葉の存在を曖昧にする。

 若野塔子の後ろに立つと、彼女の歩みに合わせて自らも後退する。首に手をかけたところで5秒。身体の残像はなくなり、音葉の身体は今、ここに、明確に存在する。

 若野塔子の身体は突然現れた音葉に阻まれ、後退を止める。『目』にとっては、何が起きたのかわからないだろう。音葉は、右腕で彼女の首を押さえ、左手の目薬を彼女の右目に射した。中身は特別に濃く作った塩水だ。

 若野塔子が、両手で右目を押さえる。全身を揺らし、音葉の身体を振りほどくと、酷く低く、しわがれた声をあげた。

「この身体は渡さない。誰にもだ。私は、武藤六郎ではない。新しい身体を」

「武藤六郎? 違う。お前はただの雑音だよ」

 音葉は、右目を押さえる彼女に向けて、イラストが曖昧なトランプの札を見せた。高校で『意思を持つ目』を退治した際に手に入れた札だ。イラストが曖昧なのは、音葉たちが『意思を持つ目』の全てを奪えなかった証拠だ。『目』は、音葉の攻撃を逃れ、他人の目に隠れて、若野塔子を狙い続けた。

 だが、もう限界だ。『目』は塩水の影響で、塔子の目の中で緩やかに死に始めている。カードに封じられた自分の体に引き寄せられるように、塔子の両手の隙間から、涙の形をとった『目』があふれ始めていた。

「いつ、どこで若野塔子に憑いたのかはしらないが、お前の子を退治するのに随分と手間がかかったんだ。これ以上、煩わせないでくれ」

 塔子の身体から溢れた『目』が震えるたびに低いノイズが屋上に響く。涙は塔子の足元に水たまりを作る。あらかじめ、そこに撒かれた塩のことなど露知らずに。

 地面に落ちた「目」は、塩に侵され、黄土色へと変色を始める。次の宿主を求め、四方に身体を伸ばしても、直ぐに形が崩れていく。

 塔子が大きくえづくと、目を塞いでいた彼女の両手が大きく膨らんだ。

 水風船が割れたような音と共に、彼女の両手から大量の水があふれだした。

 塔子は両手を力なく垂らし、その場に膝をつく。右目は赤く充血しており、視線は宙をさまよっている。屋上にたどり着いた紅が、後ろから塔子の身体を支えた。

「意識を失っている。彼女の目の中にはもう、そいつの気配はないよ」

 塔子の目から弾けた水はコンクリの上に集まりまるでゼリーのようになっている。表面は黄土色に染まり、その上を這う動く黒い瞳も、色素が抜け、緑色へと近づいていた。

「これで終わりだ。水鏡紅、鑑定を」

 音葉は、手に持ったトランプを『目』に突き立てた。紅が鑑定結果を告げると、『目』はトランプに吸い込まれていく。

 後に残ったのは表面を瞳が滑る水球のイラストのトランプだけだ。種類はクラブの6。

「思ったより、数字が大きい」

「生きることに必死だったからじゃない?」

「そんなことで増えるの」

「さあ。私だって、どういう基準で数字が増えるかはよく知らない」

 自らの目が鑑定しているというのに、この態度だ。音葉には、水鏡紅の見ている世界がわからない。このカードを使えば、もしかしたら彼女がどのようにノイズを見ているのか少しはわかるのかもしれない。

「そうやって、のめり込むんだろうなあ」

「何?」

 独り言に問い返す紅は、まっすぐに音葉を見つめる。他方で彼女の腕は若野塔子をそっえと抱きしめていた。

「いいや、なんでもないよ」

 そう、なんでもない。音葉は脳裏をよぎった邪な考えを払いのけた。


*****

 数日後。音葉と紅は、御坂心音に連れられて、警察署の証拠保管室を訪れた。

 保管室の職員が、御坂の指示を受けて部屋の奥から木箱を運んでくる。

「でも、いいんですか本当に壊しちゃって」

 職員が木箱を開きながら不安げな声を出す。中から出てきたのは、エメラルドグリーンの綺麗な壺だ。側面には壺を掴むための把手が付いている。把手は耳の形をしていて薄気味が悪い。

 更に気味が悪いのは、壺の口だ。本来は単に穴が開いているだけのそこには、デスマスクが付いている。デスマスクが口を塞いでいるせいで両目と口の穴からしか中を覗くことができない。

「中には死亡した武藤六郎の眼球は発見できなかったのだろう」

「ええ、そうですね。この気味の悪い蓋を壊せればもう少し確認できたのですが、この気味の悪い壺の口から覗くしかないんですがね」

 そのように話す職員は、左目に眼帯を付けている。数日前に突然目が痛くなり、炎症を起こしたのだという。目からコンタクトレンズのような膜が落ちたと訴えたが、医師は話を聞かなかったという。

「ところで、君、最近、女子高生に声かけているんだって?」

 壺の前で書類を描き込む職員に、御坂がにやけた表情で声をかけた。職員は、左目の上を指で掻きながら苦笑いを返す。

「まいったな、警部のところにもその話、いっているんですか」

「なんだ、他の人からも言われているのか」

「僕はそんなつもりないんですよ。ただ、たまたま通りかかったところで道に迷っている女の子がいたから声をかけた。それが、僕が女の子をつけまわしているみたいな話が合って、呼び出しですよ。身に覚えのないことで訓告とか勘弁してほしいです」

 その話をする間も、職員は左目が痒いのか、目の上を掻き続ける。その様子に、音葉と紅は思わず顔を見合わせた。

「ちなみに、その子、ストーカー被害の被害届出しているって知っていたか?」

「ええっ。まさか僕が疑われていますか」

「いいや、そんなことはないと思うって、生安には言っておいた」

 御坂と、職員のやり取りで音葉は確信を得た。彼が声をかけたのは若野塔子だ。

「さて、話は戻るが遺体の目が見つからないというのも気分が悪い。中身を確認するためには壺を割らなければならない。責任は一課長か、そうじゃなければ署長が取ってくれる。まずは、中身の洗浄から始めよう」

 御坂は持ち込んだペットボトルを壺に突っ込み、二リットルの塩水を流し込んだ。塩水が全て流れ込むと、中で何かが跳ねる音が聞こえ、職員が思わず壺から遠ざかった。

「そのまま割って、何かが出てきたら気味が悪いからね」

 御坂は壺を持ち上げ、ビニールシートを敷いた床に、たたきつける。

 鈍い音と共に壺にひびが入り塩水が漏れ出してくる。壺自体は相当丈夫なのだろう。床に叩きつけたにも関わらず壺の底が崩れただけだ。

「さて、中身の確認をしようじゃあないか」

 いつになく楽しそうな御坂が壺の把手を掴み、持ち上げる。壺の底が崩れ、塩水が床に流れ出た。しかし、人間の眼球らしきものも、それ以外の何かも混じった様子はない。床に広がるのは単なる塩水だけだ。

「おいおい。どういうことだよ、さっき確かに音は聞こえたはずだが」

 壺をひっくり返し、底に空いた穴から中を覗き込むが、見えるのは、表面と同じようにエメラルドグリーンに塗装された内側だけだ。壺の底になるにつれてエメラルドグリーンの色素は抜けて、黄土色の土に戻っているように見える。

「これじゃあ、この壺の中には何もないじゃあないか」

 御坂の不満げな声の隣で、紅は壺の欠片を拾いじっとそれを見つめていた。音葉は隣にしゃがみこみ、紅が手に取った欠片をみる。

 ちょうどエメラルドグリーンと、黄土色の境目の部分だ。紅が壺に憑いた塩水をエメラルドグリーンの部分に塗ると、緑色の色素が抜けて黄土色に変わる。

「これは」

「鑑定、してみるか?」

 尋ねてみると、紅は首を横に振った。そして、御坂に向きなおり

「中に何もなかったわけですし、壊れてしまったのはしかたありません。これは廃棄するべきではないのですか」

 紅の提言に右手の爪を噛みながら唸り声をあげた御坂ではあったが、職員も復元は難しいという判断であり、彼女は最終的に、壺を廃棄処分とする手続をとった。


 一通り手続を終えた御坂は遺族に説明した際には、思ったよりもすんなりと受け入れられたので、驚いたと感想を述べながら、マボロシのカウンターでコーヒーをすすった。

「まあ、夫が死ぬときに頭を突っ込んでいた壺だ。薄気味悪くて引き取りたくもないということだったのかもしれない」

 彼女の目はぼんやりとコーヒーの液面を見つめており、隣に座る音葉に対して説明しているつもりなのか、自分が納得するために話しているのかあやふやだ。

 彼女のことだ。案外、『意思を持つ目』が見られなかった悔しさを話しているだけなのかもしれない。

 いずれにせよ、胸中を知ることができるのは御坂心音本人だけだ。彼女の目線を追ったところで、久住音葉は御坂心音にはなれないのだから。

 だから、音葉は彼女が何を考えているかはあまり気にしないことにした。代わりに騒動の中で忘れていたことを尋ねてみる。

「そういえば、御坂警部、僕たちに何か頼みごとがあったんじゃ」

 音葉の問いに、御坂が我に返ったように目を輝かせてこちらを見た。

「ああ、そうだった。実はね」

 どうやら話題の変更は失敗のようである。これは面倒事を頼まれる流れだ。

 確かに他人の目や考えを覗きたいこともあるよ。

 音葉は心の中で小さくため息をついた。 


邪な目 了

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