Track2:邪な目

邪な目:女子高生の他愛のない噂話


「目目連」

煙霞跡なくしてむかしたれか栖し家のすみずみに目を多くもちしは碁打ちのすみし跡ならんか

――鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より


――――――――――――――

 夫が両手に抱えていた大きな木の箱を見て、彼女はため息をついた。

「あんた、また余計なものを買ってきたの?」

 問い詰めても、いつもと同じだ。すまんすまんと部屋に押し込めてしまう。

 部屋を片付けたのは、半年前。わずか6か月で増えたガラクタは、夫の部屋を占領し、リビングへの進出の機会を虎視眈々と狙っている。

 近所に骨董品屋があるのが悪い。女は夫が骨董品を持ちかえる度そう思った。骨董品屋さえ潰れれば、部屋の一角がごみ溜めになる事態は避けられる。

 夫が木箱を持ち帰った一週間後、件の骨董品屋に閉店の張り紙が貼られているのをみて、思わず声を上げた。今週末は部屋の骨董品の整理をしよう。そう思うと足取りが軽くなった。だが、彼女の目論見は思わぬ形で裏切られる。

 彼女が家に戻ると、夫は先週購入した壺に顔を突っ込み死んでいた。部屋に侵入の形跡はなく、夫は突然死とされた。彼女は心を病み実家へ戻り、二人が暮らした部屋は、売りに出されることが決まった。夫の私物は引越しと共に処分された。

 ところで、警察が、夫の死について彼女に伝えなかったことが一つある。

 男の遺体には眼球がなかった。壺の中にも部屋の中にもそれらしきものはなく、死体から眼球だけが煙のように消えていたのである。

  1


 これは、友人のAちゃんから聞いた話です。はい。Aちゃんから直接聞きました。

 6日前、だと思います。Aちゃんは、その日ずっとそわそわしていて、いつも落ち着いている感じなのに様子がおかしいなと思いました。

 え? 通学は一緒なのかって? まさか。Aちゃんと私は家が反対側だから、初めて会うのは教室に入ってからです。

 え、ええ。Aちゃんが一日中様子が変で、ほんと、前の日に寝るときまでは元気だったのに……それで、放課後にBちゃん、Cちゃんと一緒にAちゃんに話を聞きました。

 Aちゃんは、2日前くらいから、変な目に見つめられていると話してくれました。男とか女とかそういうのではなくて、目なんだそうです。路地裏、電柱の陰、廊下の先、そういった……目がAちゃんを見ている。なんでそう思ったか? よくわからないです。

 Aちゃんは、近所の人が死んだあとから目が気になることが増えたと言っていました。

 近所の人? ストーカー? そういえばAちゃんも前にそう思って、思いきって話しかけたことがあるらしいんですけど、その人、すごく目が悪かったんだそうです。だから、近所の人を見かけた時に、本当に近所の人かじっと見て確認していたそうです。

 え、そんな話信じるのかって、そう言われても……私も近づかないと見えないから同じことするかもって思います。

 Aちゃんが目を気にし始めたのは、6日前です。それは間違いないと思います。え、近所の人、亡くなったんですか? いいえ、Aちゃんからそんな話を聞いたことはありません。目が近づいてきて怖い。私が聞いたのはそういう話です。一人でいるときもすごく怯えていて、ちゃんと見ているのに、なんであんなに怖がるのかなって。

 どんな目が出てくるか? なんていえばいいんだろう。Aちゃんの話、そこからが少し怖くって、私もよく覚えていないんですよ。んー何かいい方法ないかなあ。

 ああ、そうだ。二人とも、よく見てくださいね。

 ほら。不思議でしょう。私の右目、いつの間にかこうなっていたんです。え? 普通に見えますよ。不自由はないです。瞼を上げないとわからないし、痛くもありません。

 でも、初めに観た時はすごく驚きました。目の中に黒目が三つもあるんだもん。


*****

 市役所の相談室を訪ねるも、目当ての相談員、久住音葉(クズミ‐オトハ)は長期不在にしていた。

「貴重な定期収入源なのに珍しい」

 相談受付表を見ながら感想を漏らすと、公園緑地課の木曽(キソ)という男が声を上げて笑った。相談員のいない相談窓口で、少し丸めの市役所職員が空振りした相談者を笑っている。おおよそ久住音葉に相談にくる人間には見えなかったのだろうか。

 それにしても、相談者かもしれない人間の前で笑うというのは、なんというか、まあ、長閑な光景だと思った。

 もっとも、御坂心音(ミサカ‐ココネ)個人としては、こういった対応をする人物を嫌いにはなれない。もっとも、久住は木曽のような人物が苦手だろう。こういう手合いはたいてい食えない奴であるし、久住の元に面倒事を持ち込んでくるからだ。

 なぜわかるのか。それはもちろん、御坂もまたそうした手合いだからである。


 御坂が身分を示したうえで久住を探していると伝えると、木曽は相談室に御坂を通し、久住が10日ほど相談室の担当を外れることを希望している旨を話してくれた。

「まさか、警察にまでそう思われていたとはねえ。彼、事務所を構えているでしょう」

 木曽の言う通り、久住は駅の近くに小さな事務所を構えている。警察の案件を受けるのを避けるために、便利屋を始めたが、客が少なくて伝手を探して回っている。市役所もその一つなのでしょうと話すと、木曽は、本人はそう思っていませんよと返す。

「彼は、事務所の営業活動の一環と思っているんじゃないですかね。ああいうのは人脈がものを言いますから。いずれにせよ、実態としてはウチが貴重な収入源でしょうけれど」

 やはり、木曽も御坂同様に、久住を便利に利用している人間の一人というわけだ。

「ええと、それで、なんでまた長期で休んでいるのですか? 旅行?」

「旅行の話は聞いていないですね。妙な案件に引っかかったらしく、他の案件の相談を受けられないのだとか」

「妙な案件ねぇ」

 久住に妙な依頼を持ってくる人間に、幾人か心当たりはあるが、ここ最近は依頼をしたという噂を聞いていない。御坂もまた、彼に依頼をしていない。

「もしかして、木曽さんが相談したのですか?」

「おや、鋭い。さすが刑事さんですね。まあ。初めはそれほど面倒事になると思わなかったんですけれどね」

木曽はぺろりと舌を出した。

「それじゃあ、事務所に行くんで、その前に何相談したのか教えてもらえません?」

 いやいや、警察の肩に教える話ではないですよ。木曽はそう言いながら、相談室に備えられたポットからお茶を注いだ。

「まあ、久住の友人という繋がりですから、特別に」

 全く、厄介な友人を持っているな。御坂は心の中で久住に同情しつつも、木曽の話に身を乗り出した。


*****

 Cが交通事故にあったんです。交差点で後ろから押されて……右手を骨折した。

 え? なんで後ろから押されたと知っているのか? それは、Cから聞いたからです。ちょうど見舞いに行ってきたところだから。どんな風に押されたか? それはよくわからないですね。でも、ほかの人を押しのけて交差点に飛び出したので、相当強く押されたんだと思います。Cは体幹が強くてね、とんっ、と突くだけじゃ倒れないんです。だから、背中を強く押さないといけなくて。

 それで、何の話でしたっけ。A? 知りません。けれど、その、目の噂なら聞いたことがあります。誰から? 誰だったかなあ。同じ部活の…DとE、かな。私、バレー部で、DとEはマネージャーです。先日ようやっとレギュラーになれて、今度の試合が始めての公式戦です。

 毎晩緊張して眠れないんですよ。寝ると良くない夢を見るので……。

 どんな夢……一番多いのは、試合中に怪我をする夢ですね。ネット際でジャンプしたときにバランスを崩したり、レシーブ時に足をくじいたり。それで、試合中に動けなくなって、チームメイトと観客からじっと見つめられるんです。

 すごく怖い。私はそのせいで試合に負けることを知っているんです。負傷者が出ると人が足りない。絶対に勝てない。だから、夢の中ではすごく怖くて。でも、Cはそんなのは気のせいだ。あなたは大丈夫って、話してくれて。ええ、私はCと仲がいいですよ。

 え? その悪夢の話を家族にしているか? 親からは心配されているんですが、緊張で眠れないなんて、言えないじゃないですか。

 目? 目はなんともないです。え、見るんですか。今? あの、私、なんで呼ばれているんでしたっけ……え、悪夢は眼精疲労のせい?


*****

 久住音葉の事務所は、駅前通りの喫茶店『マボロシ』の二階にある。看板は出ておらず、チラシがあるのはマボロシの中だけ。

 この事務所のことを知る方法は、マボロシ内のチラシと紹介、ネットだけだ。

 事務所経営をするなら営業しなければ潰れてしまうだろうに。御坂はここを訪れるたびに久住の経営感覚に疑いを持つ。

 ところが。今日は、定期的にビルから女子高生が出てきている。

「どういうことなの」

 マボロシの窓側の席で30分。既に3名が事務所への階段を行き来している。今さっき上っていった子で4人目だ。

「マスター。二階に女子高生御用達の店でもできたの?」

「いいや。あるのは便利屋の事務所だけだよ。あとは空き部屋だから家賃収入が少ない、相変わらず広告がなければ赤字経営のビルさ」

 ビルのオーナーも務めるマスターは、そういって小さくため息をついた。久住達は家賃の支払いが遅れがちではあるが、テナントの入らないこのビルにおいて、重要な顧客なのだという。

「それじゃあ、あれは全部久住君のところに来ているのかい?」

「3日前くらいからですかね。女子高生らしき子が出入りしています。ちょうど、今ので28……かな?」

 客が御坂しかいないからといって、マスターは御坂の隣に座り、帳簿をめくっている。

「マスター、数えているの?」

「珍しいですからね。彼の事務所にあれだけの人が出入りするのは。それに、言い方は悪いですが、いつもの客より健全な雰囲気がある」

 そんな理由で事務所への出入りを数えられていたらたまったものではない。御坂はレシートの裏に書いた正の字をペンで消して、レシートを財布にしまい込んだ。

 しかし、久住が請け負った仕事は女子高生とは関係なかったように思えるが。マスターの話す事務所の様子と、木曽の話の違いに首を傾げながら、御坂は更に30分。事務所に出入りする女子高生の姿を観察した。

 最後に入った女子高生がビルから出てきたことを確認し、ビルの二階へと上がる。マスターの言う通り、電気がついているのは廊下の突き当り、久住音葉の事務所のみだ。3階に続く階段は立入禁止の札が塞いでいる。

 札を避けて上階へ入ることは簡単だが、上には人がいる気配はしない。仮に彼女たちが上階へ向かっているのだとしても、先に久住達を訪ねたほうが早いだろう。

 御坂は意を決して、クズミ音葉の事務所の扉を開けた。

「こんにちは。久住君はいるかい」

 事務所を覗くと、壁に視力検査用の検査表が掛けられ、白い衝立が奥の本棚を遮っている。どことなく消毒薬の匂いが漂っていて、まるで即席の病室のようだ。

 御坂の声に反応し、衝立の影から、水鏡紅(ミカガミ‐ベニ)が顔を覗かせる。目の下が落ちくぼんでおり、ひどく疲れた顔をしている。

「あ。御坂警部」

 いつもなら御坂を見た途端、嫌な顔をするのに、一拍おいて間の抜けた声が返ってくる。嫌悪感を示されるのよりはましかと思ったが、これはこれで反応が薄い。

 なにより衝立から出てくる足取りがふらついているのが気になる。

「ちゃんと寝ているのか? 水鏡君」

「寝てる。寝てると思う」

「私にはどうにもそういう様子には見えないのだけどね。久住君はどこだい」

「仕事は受けられない。今、忙しいので」

 なるほど。御坂は水鏡の言葉を無視し、事務所の奥へと入り込む。いつもなら水鏡が慌てるが、彼女はソファに座りこみ、宙を見つめている。どうにも気味が悪い。

 衝立の奥、事務所に併設されている久住の書斎兼寝室を覗き込むと、大きなホワイトボードの前で床に転がって久住音葉が寝息を立てていた。

「二人とも限界じゃないか」

 久住を蹴らないように注意しながらホワイトボードの前に立つ。

 ホワイトボードには、大量の写真とマグネット、そしてマグネット同士をつなぐ糸が広がっている。蜘蛛の巣のように広がっている糸はホワイトボードの中央に貼られた写真から広がっている。マグネットの近くには名前と顔写真。写真は全て女子高生だ。

 ボードの端にトランプが一枚貼られている。表面がぼやけて数字がわからない。

 以前から久住達がトランプに執着していることはしっているが、数字の分からない札というのは初めて見た。

「トランプに女子高生の写真、君たちはいったい何をしているんだ」


*****

「潰れた骨董品屋の店主探し?」

「骨董品屋というと聞こえはいいですが、古物商、ガラクタ売り、その辺から中古品を集めてきて生計を立てている。そういう人なんですがね」

 木曽が久住へ依頼したのは、単純に言えば骨董品屋の人探しだ。

 市役所が頭を抱えているとある骨董品屋。聞いた住所は御坂の家と真逆の方向であったから、どのような店なのかわからないが、とにかく物をため込む店主だったのだという。蒐集癖があって、名の知られていない骨董品屋。市役所が頭を抱えている理由はおおよそ想像がつく。そして、それであれば一件、御坂にも心当たりがある。

「あのゴミ屋敷ですか」

「刑事さんも知っていましたか。そういえば、以前相談したことがあるのだったかな」

「詳しいことは知らないですよ」

 骨董品屋のゴミ屋敷。売れないガラクタをため込んで店の裏手の庭に山積みにしていった結果、骨董品で作られた骨董品用の蔵ができたと噂になるほどにガラクタが集まったのだという。

 生ごみや生活ごみを集めるような手合いではなかったから、悪臭騒ぎには繋がらなかったようだが、とにかくその積み上げられた骨董品が危ない。地震などで崩れたら周囲の家にも被害が出るということで、市役所に相談が寄せられた。

「ですが、ゴミ屋敷問題というのは少々頭がいたい話でしてね」

 ゴミ置き場に廃棄された物であれば、市側で撤去するのに支障はない。しかし、本人が敷地内でこれは自己の所有物だと主張している物を、勝手に廃棄物であるとして処分することは許されない。

 市道にはみ出してい手、交通の妨げにでもなっていればよいが、残念なことに骨董品屋はきれいに敷地内に骨董品を積み上げたのだ。

「困ったもので、結局は本人を説得の上で片付けに踏み切ってもらうしかなくなってしまう。それでも、説得を続けて、息子さんにも協力いただいてね、ようやっと片づけるという話になったらこれだ」

 約束を取り付けて一か月。息子が毎日骨董品屋に立ち寄り、片付けを手伝っていたが、ある日突然行方をくらましてしまったのだという。

「いくら家族と言えども、親のごみを、というか商品かもしれないものを勝手に処分するのにはためらいがあるって言われてさ。結局、問題の骨董品製の蔵は撤去できず」

 市役所は手詰まりになって人探しを依頼したというわけだ。

「もっともね、骨董品屋は思いのほか早く見つかったんですよ。久住君たち優秀だから。

 ただ、そこから先で厄介ごとに巻き込まれたらしくってね、かれこれもう一週間。いったい何に巻き込まれたんだろうね、あの子たち」

 そう語る木曽に悪びれた様子は一切ない。


  2


 毎晩、恐ろしい夢を見る。それは、夜ごとに部屋の窓に張り付いて、こちらをじっと見つめている。ベッドの上で目を覚ました私は、閉めたはずのカーテンが開いており、夜の光が部屋に差し込んでくることに気が付き、起き上がる。

 夜の光が差し込んでくるにも関わらず、部屋の中は昏い。私はいつも、それがどうしてなのかを考えていない。窓のそばまで近寄って、それと目を合わせたところで、私は昨夜までの悪夢を思い出すのだ。見なければよかった。そんな後悔をしても遅い。

 窓に張り付いているのは大きな左目だ。左目だけが巨大な男の顔が、窓にべたりと貼りついている。男はこちらに何かを話しかけてくるわけではない。それでも、彼の目が、ぐりぐりと部屋の中をのぞいて回ると、私の中までを覗き込んでいるようで気味が悪い。

 窓の外の目を追いやろうと考えるが、それを行う術はない。だから、私は布団にくるまり、夜が終わるのを待たなければならない。

 そうしているうちに、夢は終わり、朝がやってくる。

 朝になると、部屋のカーテンは閉められている。カーテンの隙間から差し込む朝陽を浴びるために、私はカーテンを開く。カーテンの向こう側に、見慣れた住宅街が見えるたび、私は、あの左目がいないことにほっと胸をなでおろす。

 そうして、私の夢は終わり、朝が始まる。

 そんな毎日が続き、私の身体も心も限界が近づいていた。授業中も酷く眠い。しかし、うたたねをすると、教室の窓や廊下の窓に、あの左目が現れるのだ。

 私は、うたた寝をしては恐怖で目覚め、体の震えを止める。そんな連鎖に巻き込まれていた。友人も、教師も私の変調を心配し、保健室で休むようにと頻繁に言われた。

 だが、保健室のベッドに横になっても私は眠れない。眠りに落ちるのは身体が悲鳴を上げるときだけで、しかもその際には、必ず悪夢をみる。

 保険医に話してみると、保険医は私に睡眠薬をくれた。眠りが深くなれば疲れも取れるだろうという考えだ。けれども、眠りが深くなれば左目と対峙する時間が延びた。

 結局のところ、あの悪夢を取り除かない限り、私の体調は改善しない。


 睡眠薬を貰って三日。授業中に奇声をあげ、教師に保健室行きを指示された。

 夢の中で、左目が窓を割ろうとしたのだ。みし。みし。と窓が歪む音に耐えられず、私は夢の中で悲鳴を上げた。どうやら現実でも声を上げたようだった。

 保健室に向かって歩く私の足取りは酷く重かった。窓という窓に左目が貼りついている気がして、外が怖い。廊下を走り抜けてしまいたいが、身体は重たく動かない。

 なんとか保健室にたどり着き、中を覗いたが、保険医の姿はなかった。保健室の前に所在なく立つ私を見て、職員室から教師が駆け寄ってきた。事情を話すと、その教員は保健室に通してくれて、私にベッドを使うように言った。

 教師曰く、保険医は昨日の夜から酷く体調が崩し、一足先に帰ったのだという。

 誰もいない保健室で、気づけば私は眠りに落ちていた。目が覚めると、外は既に暗い。保健室の扉は外側から鍵がかけられており開かない。内鍵は見つからず、私は混乱した。

 後になって冷静に思い起こせば、この時点で夢と分かったはずだ。保健室に生徒がいることを確認せずに施錠することはあり得ないし、保健室の扉は内側から解錠できる。

 でも、その時の私には夢かどうかなんて判断できなかった。いいや、私には一つだけ夢かどうかを判断する指標があった。あの左目が現れているなら、それは夢だ。

 私はそっと窓の外を見た。そして、それに出会った。

 左目は窓にぺったりと貼りつき、私を見ていた。

 ぐっぐっ……目が窓に押し付けられ、窓枠が歪む音がする。このままでは、窓が割れて部屋に入り込んでくる。ぐっぐっぐっぐっ。目が窓を押す音だけが保健室に響く。

 私は怖くなってあたりを見渡した。掃除用のモップがある。これであの目をつけば、私は、この悪夢から逃れられる。そう思った。

 モップを窓に向かって突き立てた。窓が割れないので、何度も何度も突き立てる。すると、やがて窓にひびが入り、モップは窓を割り、窓の外の左目に深々と突き刺さった。

 ずぶり。柄を通して気味の悪い感触が伝わる。手を離したくなったが、それではだめだ。目を退治しないと私は限界なのだ。そう思ってモップを何度も奥まで押し込んだ。

「はいれた」

 声を聴いたのはその時だ。モップの柄をつたってぬめりのある液体が流れてくる。液体は白い。だが、その中に黒い点が混ざっている。液体はぐるぐると柄に巻き付いて私の手に向かい流れ落ちてくる。

 ああ。これは目だ。モップが刺さったところから、目が流れてくる。

 あの目は、ずっとこれを待っていた。私が窓を壊すのを待っていた。

「やっとはいれた」

 モップを伝う目が手に触れる。生暖かい感触が手を伝い私の身体を上ってくる。

「わたしのめ。かわいいめ。わたしのめ」

 声の主は、身体を上る目だ。目が言葉を話している。私はモップを放すこともできず、ただ窓の外の目と身体を伝う目にされるがままに立ち尽くした。

 自分で窓を破ったばかりにあの目に取りこまれてしまう。窓の向こう側の目が、ニヤリと笑ったような気がした。そして、目が左から右へと潰れ、窓枠からはがれた。

 途端、身体の硬直が取れて、私はモップを取り払い、腕を上っていた目を手で払った。べちゃり。卵の黄身を触ったような不快な感覚が手に残る。

 溜め込んでいた悲鳴を上げ、私は窓から離れる。保健室からでて、早くこの手を洗わないと。目を洗い流さないと。頭ではわかっていても、身体が付いていかない。私の身体は保健室の床の上にへたり込んだままだ。

窓の外で、あの目が悲鳴を上げている。こんな悪夢、早く覚めればいいのに。私は床にへたり込みながら必死にそう願った。


*****

 ホワイトボードと周りの資料を一通り読み漁り、御坂心音は久住音葉のベッドに座り込んだ。事務所を訪れて1時間。ソファに座りこんだ水鏡はいつの間にか眠っており久住は床で寝息を立てたまま。

 ホワイトボードの横に積まれた資料の一番下にあったのは、木曽が話していた骨董品屋の店主の写真だ。写真にはピースサインをした水鏡紅が写っており、彼らが骨董品屋を見つけたときの写真だと分かった。

 木曽からの報酬は別途振り込みという話だから、机上に報酬は見当たらない。

 その上に無造作に積まれたのは大量のメモと写真。そのほとんどが、女子高生から聞き取った話を記したものだ。久住達が聞き取りをした女子高生は皆、同じ学校に通っている。部活動や学年、クラスはばらばらだが、どうやらその相関関係を示したものが、ホワイトボード上の写真と糸の組み合わせらしい。

 相関図の中央にいるのは若野塔子(ワカノ‐トウコ)。彼女の聞き取りメモだけが資料の中には存在しない。メモ書きと相関図を見比べてみてわかったことと言えば、久住達が彼女たちから目の噂を聞いていたこと、噂の発信源はおそらく若野塔子だということだ。

 だが、それがどうして骨董品屋の捜索に繋がるのか。話が見えない。

 ここから先は、二人を起こして聞かないことには始まらないようだ。

「それじゃあ、コーヒーでも沸かすかね」

 資料を机の上に戻して、ベッドから立ち上がる。その瞬間、首筋に寒気を感じ、御坂は右手で首筋を押さえた。何かべったりとした液体が手に付着し、御坂は眉をひそめた。首筋から右手を離し、顔の前に持ってくる。

 白くて、粘ついている。白の中に、黒い点のようなものがいくつも紛れているが、正体がわからない。そもそも、どうして首筋にこんなものが?

 御坂は天井を見上げ


*****

 目のお化け? そういえば、誰かに見られている感じがする、かも。

 どんなふうにと聞かれると難しいんだけれど、バスの待合とかで並んでいる列ってあるじゃないですか。その列の人たちが、気が付くと全員私の方を見ていたり。

 いえ、本当にみているわけじゃないんです。みんな携帯だったり文庫本だったり読んでいて、私の方を見ている人なんて誰もいない。それでも、視線が刺さっている気がする。え、どうして携帯とか文庫本だってわかるのかって? いやだなあ、だって読んでいるの明らかに小説なんですよ。それもサラリーマンなんかだと通勤途中の癖にエロい奴読んでるんですよ。鼻息なんか荒くして気持ち悪いっていうの。カバー? それはかけるでしょ。あんなのカバーもつけずに読んでいる人がいたらそれは気持ち悪いよ。

 それで、そういう詩選が刺さっている気がするときには、確かに視界の端に何かがいるような気がしたんです。汚らしい布を被っていて小さい。でも、目がやけに大きくて。

 目のお化けの話は誰かにしたことがあるかって? いいえ、私はしたことがないです。でも、HちゃんとかFはそういう噂をしていたなあ。私はHから聞いたんです。例の交通事故の話と一緒に。


 目に呪われるか。私が聞いた時には既にあったよ。この噂を聞くと目に呪われるから、話を聞くときはアイマスクをして聞かなきゃいけないって。でも、最後にアイマスクを取られて、話している人が目の前にいるイタズラなんだよね。すごいびっくりする。

 眠れなくなる直前にやったMちゃんとの奴は本当に怖かった。Mちゃんの目の中には黒目が3つもあったから。しかも、その目が私の方に近づいてくる気がして、思わずMちゃんを押した。そうしたら、彼女転んでけがしちゃって……学校や休んでいるのはそれが理由だと思うから、少し気まずい。


 そういう噂は知っているんですけれど、自分から話した記憶はないです。え、Nさんに話したことがないかって? ううん、そんな覚えはないです。

 それより、なんで噂の話なんですか。私、Dちゃんから、眼の調子がよくなるから一度相談にって話をされただけなんですが……


 うーん。私自身はそんな話聞いた覚えないんですよ。Nが私に話したというなら、話したんだろうけど。しかも、その話、ネタにしては大したオチもないし、忘れたのかな。

ところで、お兄さん。けっこうイケメンだよね。目がきれい。近くで見せてよ。え、いいじゃん。目を見るだけだから。私、目のきれいな人が好きでさー。

目薬? まあいいけど。目を近くで見たからって病気になることないと思うよ?

 痛っ。なにこの目薬、すごい痛いんだけど……え、うん、ありがとう。それで、何の話だっけ。え、目を見る? 何言ってんの。話聞きたいって言われてきたのに、目薬だの目を見せたいだの、あんた気持ち悪いよ? 便利屋とか言ってるけど、危ない人?


――邪な目 後編へ続く

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