noise
若草八雲
Disc1 : はじまりは些細な噂から
Track1:The Spring has come
The Spring has come:桜の樹の下
“桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。”
――梶井基次郎 『桜の樹の下には』
――――――――――――――
春が来る。桜が咲く。
満月に見下ろされ、僕は公園を歩く。
道の両端に等間隔で並ぶのはソメイヨシノだ。7分咲きといったところだろうか。
公園の道には僕しかいない。
僕は両脇に並ぶソメイヨシノと満月を眺めながら、公園の奥へと向かって歩いていく。
やがて、耳慣れない奇妙な音が聞こえ始める。固い何かを突き刺しているような、何かを削っては捨て、削っては捨てているような音が僕の周りに満ちていく。
それが、土を掘る音だと気が付いた時、僕は既にそれを目の前にしてしまっている。
それは、こちらを向いて何かを話すが、僕の耳にそれの言葉は届かない。
代わりに視界いっぱいに映りこむのは掘り起こされた桜の根本だ。
公園に響く異音は掘り起こされた土の中から溢れてきている。土を掘り起こす音に混ざって、低いうなり声が重なってくる。
気味が悪い。けれども、僕はそれから目を離すことができない。どうしても。
1
毎晩桜の根元を掘り起こす迷惑な住人がいる。正体を突き止めたい。
市役所の相談室に持ち込まれた相談内容に、久住音葉(クズミ‐オトハ)は首を傾げた。
現場は、桜並木が見られる公園。夜のうちに桜の根元を掘り起こす迷惑な住人はこれで七日連続現れているという。桜は片側が十二本、計二四本。毎日別の桜の根元を掘り返すそうなので、今は七本根元が掘り返されていることになる。
七日連続、七本連続掘り返されているなら夜通し公園を見張れば犯人は捕まるのではないか。音葉の問いに、公園緑地課の木曽(キソ)はへらへらと笑った。相談室のソファに座った木曽の丸い身体が小さく左右に揺れる。
木曽は市役所の相談室で音葉が相談役を務めることを後押しした一人だ。音葉の相談についてよく知っている。ゆえに、彼がこの部屋にくるときはたいてい面倒事が待っている。
「それが、捕まらないからこうやって相談に来ているわけじゃないの」
木曽が言うには、市役所の職員も、警察にも見回りを頼んで夜回りをしている。
それでも朝になると必ず桜が掘り返されてしまっているらしい。
「本当に、夜回りしているのか? って思ったでしょう。僕もね、初め同じこと思ったんだよ」
けれども、自分も参加してみたら、確かに桜を掘り起こしている男なんて見つからなかった。
「それでも、今朝になったらやっぱり一本掘り起こされていた。まったく困っちゃって。今週末、これから花見のシーズンですよ。いくら満開の桜でも、根元が掘り返されていちゃ、見る側だって気持ちがよくないでしょう」
そう話す木曽は、到底花見になど行きそうにない。休日には部屋で寝転んでいるタイプだろう。木曽が考えていたのはおそらく花見客のことよりも
「埋め戻すのに費用がかかるのでしょう」
「さすが、一年も相談室にいるとそういうところもわかってくるものだねえ。公園の整備って、案外コストがかかるんですよ。花見シーズンに当たるっていうのは確かにあるんだけど、ああいうイレギュラーなことは早めに解決しておきたいっていうのが本音でね。
ほら、ウチで音葉君のことを雇うことにした理由はそういうところにあるわけだしねぇ」
まあ、一度現場見に行こうよ。今日は相談の予定まだ入っていないでしょ。
相談室に入る前に、壁にかけた予定表を細かくチェックしたのだろう。仕事の予定をきっちり把握した曽根に連れられ、音葉は春の陽気の中その奇妙な公園に連れ出されることになった。
市役所職員専用相談室。市役所職員の市政に関わる様々な悩みや課題を相談するために設けられたその部署では、日替わり、週替わりで嘱託職員が働いている。久住音葉も週に二日間、相談室で職員の相談を受けている嘱託職員の一人だ。
音葉が受ける相談は、市役所が抱える厄介ごとの一つ、外に出せない悩みごとの相談解決だ。
木曽に連れられてやってきた公園には、二四本のソメイヨシノが並ぶ。等間隔に植えられたソメイヨシノは豊かに花を開いており、週末は近隣の住民が花見にくることが予想される。
一転して、木の根元に目を向けてみれば、何本かに一つ、周囲の芝が根こそぎなくなり、えぐれた土の跡が視界に入る。どうもその迷惑な住人は相当念入りに桜の根元を掘り起こすらしい。
桜並木の手前から三本目の桜の周りでは、市の職員二人が桜の根元を囲んで話をしていた。おそらく、その桜は昨夜掘り起こされた桜なのだろう。
「これは確かに見栄えがよくないですね」
せっかく花見に来て、根元が掘り起こされている様子を目にするのは、興がそがれるように思う。穴の大きさにもよるのだろうが、美観のためにも、安全のためにも、掘り起こされた部分を放置しておくわけにもいかないだろう。
「それにねぇ、案外穴が深いんですよ。これじゃあ桜が傷ついてしまう」
木曽に連れられ、三本目の桜の根元に空いた穴に近づき、中を覗き込んだ。穴は人が一人か二人すっぽりと入れそうなほど深い。穴の周りに盛られている土はこの穴を掘ったときに出た土だろうか。
「これ、掘るのにとても時間がかかりますよね」
「そうなんだよ。それなのに夜の見回りではそれらしいものを見かけない」
穴はとても深いが、その直径は思ったほどに大きくない。落ちてしまえば身体を動かすのは難しいようにも思う。
「この深さまで土を掘っていたから姿が見えなかったんですかね」
穴を囲んでいた職員の一人が音葉の隣にしゃがみ込んだ。
「掘りながら中に入っていったから暗いところでは見えなかった。それでも私たちの監視が甘いことには変わらないのですが。何はともあれ、はやくこの迷惑な行為を止めさせないと、公園がぼろぼろになってしまいます」
「それにね、これ、埋めるのに土持ってこないとだめなんですよ。土が足りなくて」
穴の中に入ってさらに深くまで穴を掘っていた。確かに、地上からこの穴の奥まで穴を掘り続けるのは大変だろう。だが、本当にそうだろうか。音葉は、穴の中をじっと見つめた。
「木曽さん、ロープ持ってきていましたよね」
念のため穴に降りてみよう。音葉は木曽が持っていたロープを腰に巻き付けた。
2
水鏡紅(ミカガミ‐ベニ)が警察署の備品管理課に顔を出したのは、二週間ぶりだ。備品管理課の課長、藤堂(トウドウ)は、彼女が手にした菓子折りに目をやった。
「おや、久しぶりだと思ったら、今日は何だい」
「藤堂さん、目ざといですねぇ」
紅が、備品管理室のカウンター上で菓子折りを開くと、甘い香りが部屋に漂った。
「今日は、イチゴ大福です。この前解決した仕事の依頼主からもらっちゃって」
藤堂さんもおひとつどうぞ。
彼女のその言葉を待っていたかのように、藤堂は菓子折りの中のイチゴ大福を手に取った。
水鏡紅は久住音葉という青年と共に町の便利屋を営んでいる。久住音葉は事務所以外でもあちらこちらで出張相談をやっており、音葉だけが仕事に入っている時間帯があると、紅はこうして一人で警察を訪れる。
特に彼女が訪れることが多いのが、藤堂が管理する備品管理課である。他の部署と違い、備品管理課は事件を扱わない。それなのに、彼女が備品管理課を訪れるのは、備品管理課が行っている資料が目当てである。
「それで、今日は何を探しに来たの」
「ひどいなあ、藤堂さん。私が純粋に顔を見に来たとか、そういうことは思わないの」
「君が菓子折りを持ってウチにやってくるのは、過去の資料を探しに来る時だけでしょ。さすが音葉君の相棒だよね」
紅が久住音葉より優れている点があるとすれば、頼み事の際にはお菓子を持ってくるところだろう。藤堂は紅が持ってきたイチゴ大福をつまんだ。これで二個目だが、飽きはまだ来ない。
「それで、今回は何を探しているんだい」
「ふぅ、藤堂さんも仕事熱心だよね。ここ最近、×××近辺で行方不明になった人の記録って閲覧できないかな」
×××。彼女の述べた住所を端末に打ち込み、備品管理室に保管した過去の事件記録や、他の検索を始める。×××は住宅街だ。確か、近くに大きな公園があって、ちょうど花見のシーズンだ。今週末くらいが見どころかと、別の部署の職員と話したことを思い出した。
そういえば、その公園では最近、迷惑行為が続いているという話を聞いた。何やら、満開になる前の桜を掘り起こそうとしているとか。
「まさかとは思うけど、紅ちゃん。桜の下には死体が埋まっているって話、信じるタイプ?」
冗談交じりに聞いてみると、紅は目を丸くして固まった。
「え、ちょっと紅ちゃん、本当に?」
「藤堂さん。藤堂さんもそういう話、好きなんですね」
藤堂の問いに表情を取り戻した紅は、藤堂から視線を逸らして、イチゴ大福を手に取った。しかし、大福の袋を開くことなく、彼女は両手で、大福をくるくると回している。
ふとした思い付きで尋ねたのに、思わぬ反応をされてしまい、藤堂は戸惑った。検索のためにキーボードをたたく音だけが備品管理室の中に響く。
「梶井基次郎、でしたっけ」
検索結果、0件。端末の画面が検索結果を告げた。
「梶井? 誰だい、それは」
「桜の樹の下には屍体が埋まっている。そういう小説を書いた小説家ですよ。藤堂さんも、梶井基次郎なんて読むのかと思ったのですが、違うんですか」
「へえ、恥ずかしながら、僕は桜の下の死体というのは都市伝説の類だと思っていた。小説が元だったとは、一つ賢くなったよ。それと、×××近辺での行方不明事件の記録はないよ」
「本当。それはよかった」
検索結果を聞いて、紅の顔が一瞬だけパッと明るくなった。彼女は手の中で回していた大福の袋を開き、中から出てきた大福を見つめる。
「でも、ふたを開けてみるまで、結局はわからないのよね」
ありがとう、藤堂さん。またね。
紅は小さく手を振って、備品管理室を後にした。久住音葉と同様に、水鏡紅もまた、藤堂に警察の資料を探す理由を語らない。便利屋と警察。彼らは、目的を告げないという形で、非公式な情報交換をする際の境界線を引いている。
「少しくらい教えてくれてもいいと思うんだけどなあ」
三名しかいない藤堂の部下は、備品補充と資料整理のために署内に散ってしまっている。水鏡紅のいなくなった備品管理室に藤堂は一人きり。なにやら急に取り残された気分になった。
カウンターに置かれたイチゴ大福が目に入った。紅は袋を開けたがそれを食べずに帰ったらしい。そのまま置いておくのも忍びない。藤堂はカウンターに置かれた大福を手に取って、二つに割った。
「おや、紅ちゃん。これ不良品じゃない……」
手の中の大福の中には餡子しか入っていなかった。
*****
市の相談課……。市民相談窓口ですか?
え、職員専用? へぇ、そんな部署があるんですね。知りませんでした。
ああ、いわれてみればそうかもしれないですね。警察にもそういう部署はあります。
ところで、大丈夫ですか。その汚れ。まるで崖でも転がり落ちたみたいですよ。
あの穴に入ったんですか。それでそんなに……
私は基井太郎(モトイ‐タロウ)といいます。生活安全課で働いています。今回は、市役所の方からどうしても協力してほしい依頼が来ていたので、私も夜間の見回りをしています。
見回りに入った時期ですか、ええっと、三日前からです。そうですね、四本目の桜が掘り起こされてしまった日です。
見回りの体制? 警察からはそれほど人員を割くのも難しくて、私ともう一名、警官が見回りに参加しています。そのほかは、市役所の職員の皆様が交代で見回りをしていらっしゃるんですよね。ええ、それでも毎日やられてしまっていて、面目ないです。
二三時ころから交代で見張りを始めて、公園内の警邏と、桜並木の様子を確認しています。
穴を掘っている人間を見かけないのか? そこなんです。私たちも、市役所の方も困り果てているのは。どんなに見回りしてもどんなに桜を見ていても、穴を掘っている人間なんていないんですよ。それなのに、朝になると決まって穴ができているんです。
朝何時くらい? 日が昇るころ、ですから今だと五時か六時です。変わったこと……ですか。毎晩三時くらいになると、少し霧が出ますね。朝日が昇ったころには、すっかり晴れてしまいますが、代わりに桜の下に穴が開いているんです。
おかしなことを言っているのはよくわかっているつもりです。ただ、私達もいったい何が起きているのか全く分からないんです。
え、制服の汚れ? 本当だ……なんでこんなところに。見回りの時に、桜の周りを歩いたから付いたのかな。
3
桜並木のある公園で、実際の被害状況を見た久住音葉は、何を思ったのか、帰りに図書館の史料室に寄りたいと言いはじめた。
木曽は、今回の一件を音葉に相談すると言って、彼を連れ出した手前、音葉と別れて市役所に戻る気にもなれず、彼に付き合い図書館に立ち寄った。
部署に連絡を入れると、課長から他の仕事がたまっていると文句を言われたが、これは聞かなかったことにする。戻ったところで課長に説明すれば、なぜ付いていかないと文句を言われるのが見えているからだ。
他の仕事がたまっているのは確かだが、何しろ、公園緑地課の職員は、桜の一件で一週間夜通し見回りを続けている。体力的にも精神的にもつらい状態が続いてば、他の仕事にも精彩を欠く。公園緑地課の仕事を進めるには、この一件を片付けるのが重要なのだ。
「それで、音葉君。今回の件、解決できそうかい?」
史料室からいくつか資料を借りだしてきた音葉を乗せて、木曽は市役所に向けて車を発進させた。市役所までは約一〇分程度。課に戻ったら課長に説明を求められるだろうことを思うと、解決の見通しくらいは聞いておきたかった。
「見通しも何も、今回の話は、要するに夜通し見張っていれば解決すると思うんです」
「おいおい。音葉君、本当に僕たちの話を聞いていましたか?」
「ええ。聞いていましたよ。夜回りをしているけれども、穴を掘る人間は見かけないし、いつのまにか穴が掘られている。ですよね。現場を見て、私も少し考えたんです。それでも、解決法としては夜通し見張っていることが一番だと思います」
まあ、そのための事前準備はしますけれどね。音葉はそういって、コピーしてきた資料を手に取った。
「それが、準備」
「そう、これが事前準備。大丈夫ですよ。今日、あるいは明日の夜には解決します」
*****
夜回りに参加して三日目の夜。
木曽は買ってきたサンドイッチを齧りながら、車の助手席に寝転がった。
課長に音葉への相談の進捗を話したら、案の定、解決するまで同行を命じられた。昼間はたまった仕事を片付けて、夜は音葉に付き合って夜回りしろという話だ。
相談課の嘱託職員に久住音葉を選んだ時から、全く変わっていない。久住音葉は、他の嘱託職員と違い、便利屋という曖昧な職業に就いている。市役所としては、あまり素性のわからない者と関わり合いが持ちたくない。ほとんどの管理職は音葉にいい顔をしなかった。
もっとも、管理職たちが音葉を認識するよりももっと前から、久住音葉と市役所の職員は面識があった。実のところ、一般の職員たちにとっては、音葉のような便利屋の存在をうまく使えるのであればぜひ協力を仰ぎたいと思っていた。
この数年、町で起きている奇妙な出来事。その折々に顔を見せていた便利屋の実力を、相談対応窓口になっている職員たちは既によく知っていたのだ。便利屋が自分たちの常識とは少し離れたものを取り扱うこと、そして奇妙な出来事についてはとても頼りになるということを。
車の中から見る公園は、色づいた桜が並び、夜桜見物にはもってこいの風景だ。今夜は天気も良く、月明りと公園内の電灯の明かりに照らされて桜並木の様子がよく見える。
道の真ん中を歩いているのは、男女二人組。久住音葉とその相棒、水鏡紅だ。水鏡のほうは、音葉から連絡を受けて、別口で何かを調べていたらしい。公園の前で合流したときにはいくつかの資料とカメラ、そして差し入れの食べ物を持っていた。
音葉と水鏡は公園の前で合流し、木曽を車の中に残し、打ち合わせをした。その結果、音葉は、木曽に差し入れを渡して、自動車の中から出ないという結論をだした。
「あまり公園内に人がいない方が解決しやすいんです。片が付くころにはまた呼びに来ますから、大丈夫です」
音葉にそう言われてから約三時間。二人の便利屋は車内から見る限り夜桜を楽しんでいるようにしか見えない。
「このまま朝まで何もなければ、解決、とかそういう話かね」
*****
「梶井基次郎か。またずいぶんと古い小説の話だな」
桜の下には死体が埋まっている。だからこそ桜は美しいという妄想に取りつかれた男の熱っぽい告白が書かれている。
「確かに、こうやってみると、桜の下に何かが埋まっていたとしてもおかしくないような気はするけれど」
春が訪れ、緑が芽吹き始めているというのに、桜だけはピンクに染まっている。まるで桜の樹だけが付けるべき色彩を間違えてしまったかのようだ。
「桜の花びらは、血抜きした肉の色みたい」
既に掘り起こされた桜の樹の下で、水鏡紅が、力強く断言した。右手に握られているのは徹夜のお供のビーフジャーキーだ。
「肉の色ってあれはあくまで花だよ、紅。そのビーフジャーキーの色と比べてみなよ。敢えて似ているというなら幹だろうね」
「でも、桜の樹の下には死体が埋まっていて、死体の栄養が樹にいきわたるなら、咲く花だって肉の色をしていてもいいんじゃない」
「土から生えているからって草木は土の色はしていない」
「そういわれれば」
紅は左手であごの下を触り何かを考え込み始めた。桜の木の周りをくるくると回るように歩き始め、掘り返された部分に足を踏み入れる。バランスを崩し、穴の上でステップを踏む。
「危ないぞ。その掘り返されたところ、埋め戻したとはいえ他の部分より低くなっているんだ。犯人捕まえる前に怪我する」
「そういうことは早く言ってほしい。でも、こんなに高さの差があるの、変じゃない」
昼間、穴を覗いた時に、音葉も紅と同じ疑問を持った。掘られた深さとあたりに散らばった土の量がかみ合わない。どんなに集めても掘り返した土が足りない。まるで犯人がどこかに中身を持ち去ったかのように。
――ザクッ
土に何かを突き立てたような音がして、音葉は声を潜めた。
周囲を見渡すがそれらしき姿がない。
――ザクッ
だが、確かに音がする。紅も気が付いているようであたりの様子をうかがっていた。音葉の視界にはその姿はない。ただ、土を掘る音だけが公園内に響く。
「音葉、なんかあっちの方、おかしくない?」
並木道の奥、紅が指さした方向は、景色がぼやけて見えた。
「霧、かな」
――ザクッ ザクッ
土を掘る音は、公園の奥、つまり霧の奥から聞こえてくる。
突然現れた何者かが、桜の木の下を掘り起こし始めている。
音葉は唐突な展開に、小さく背筋を震わせた。
やはり、これは音葉たちが解決するべき相談なのだ。
*****
眠い。交代制の勤務シフトには慣れているつもりだったが、今日はとても眠い。うたた寝をしている自分に気が付いて、基井は小さく首を振った。今日も、公園の見回りをしなければならないのだ。ここで眠ってはいけない。
「今日の見回りは私たちで引き受けます。明日には、結果を報告します」
市役所の相談室から来たというその男は、基井の話を一通り聞いた後に、彼に対してそう告げた。警察は役に立たないから来なくて良いといわれたようなもので、基井は屈辱的な気分になった。しかし、見回りをしても犯人を捕まえられていない事実は、何よりも基井自身がよく知っている。そういう部分もあったからか男の進言を断固拒否するまでの気力はおきなかった。
それに。基井はその男に一つ説明をしていないことがあった。
彼は、昨夜、犯人らしきものを目撃しているのだ。
どこから現れたのか、いつ現れたのかは定かではない。ただ、気が付けば、基井はその犯人の前にいた。
犯人は、桜の木の根元を必死に掘っていた。姿はよく思い出せなくて、代わりにザクッザクッという土に何かを突き立てている音が耳にこびりついている。
とても気味が悪い光景だった。さらに気味が悪いのは、自分がその後、犯人に対してなんらの行動にも出なかったという事実だ。
気がつけば朝を迎えており、桜の根元には深い穴が開いていた。犯人の姿をみた人間は、基井以外には見つからず、市役所の職員も、相棒の警官も、誰一人として犯人がいつどうやって穴を掘ったのか見当もつかないと言い、頭を抱えていた。
基井の記憶では、昨夜、一人だけで公園を見回りをしていた時間はない。それなのに、犯人を見たのは自分だけ、しかもその犯人の姿もあまりに曖昧である。果たして本当に自分はそれを目撃したのだろうか。基井は自分の記憶に自信がなくなり、相談室の男にはこのことを話せなかった。
だが、夜が来ると、耳元に響くあの音が大きくなった。
気づけば、彼は公園にいた。腕時計で時間を確認する。深夜一時。
電灯はまだ公園内を照らしており、並木道には人影が二つ。一人は黄色いマフラーとブラウンのコートに身を包んだ女性。もう一人は、灰色のロングコートを着ている男。
顔は良く見えないが、二人がスコップのようなものを持っている様子はない。おそらく、見回りに来ている市の職員だろう。つまり、灰色のロングコートのほうが、相談室に所属するというあの男だ。
不意に、実は犯人らしき人をみたのだと、男に駆け寄って話しかけたい衝動に駆られた。あの男なら、基井の証言を真正面から受け止めてくれるのではないか。根拠のないそんな思いが、基井の脚を前に進ませた。
だが。
並木道に入った途端、基井はその音を聞いた。
――ザクッ
土にスコップを突き立てる音。目の前に広がる並木道には不審な人物が見当たらない。例の男は桜に寄りかかっており、一緒にいる女は向かい側の桜の周りを歩いている。二人は、土を掘っていない。じゃあ、この音はどこから聞こえてきているのか。
――ザクッ
右か。左か。基井の背後には左右に一本ずつ桜の木が生えている。
――ザクッ
左後方から音が聞こえた。犯人は左の後ろ。でも、さっき通った時に人はいただろうか。。
「 」
果たして、それはそこにいた。両腕を振り上げて、棒のようなものを力強く桜の根もとに突き刺している。穴を掘っているのだ。顔は良く見えない。
「 」
それが土を掘る音と共に、それの声が響いてくる。くぐもっていて、何を言っているのか聞き取れない。だが、同じ言葉を何度も何度も繰り返している。それだけは何故かわかった。
きっと、何かを探しているのだ。そう、例えば……。
4
突然公園に現れた霧は、並木道を隠すように広がっている。不思議なことに並木道の周り、右横の湖や、左の芝生には霧がかかっていない。そもそも、音葉と紅がたっているところはまるっきり晴れている。
「音が先だったか、霧が先だったか」
「音だと思う」
「賛成。僕にも音が先に聞こえた」
隣に並んだ紅が霧の中を覗き込むように、背を屈め、顔を前に出した。
「匂いはしないね」
「色はピンク。桜の色だ」
あるいは肉の色。霧の中からは、件の音が聞こえている。スコップで土を掘り返す音。霧の向こうには桜の木が二本。つまり、右側か左側。どちらかに桜を掘り返す犯人が隠れている。
まあ、犯人は隠れているつもりがないかもしれないが。
「踏み込んでみますか」
「私は後からでいい? 霧に触れて二人とも気が触れたりしたら大変でしょ」
「要するに気持ち悪いんだろ」
こくり。紅が素直に頷いたのを見て、音葉はほんの少しだけ目の前の霧に身構えた。
息を整えて一歩踏み込む。視界が桜の色に包まれる。自分がどこに立っているのか途端にわからなくなった。
耳元で聞こえる土を掘る音を頼りに、数歩前に進んでみる。元々公園はそれほど大きくないし、霧が出ている個所はほんの一部。歩き続ければ、あっという間に霧を抜けてしまうだろう。
冷静に考えればわかることでも、いきなり視界を奪われると正常な思考が失われる。紅が同時に入りたがらなかったのもわからなくはない。
あと一歩。前へ踏み込んだ途端、霧が晴れる。目に入ったのは並木道の桜の木。
そして、根元に向かって一心不乱にスコップを突き立てている人影があった。
*****
あなた、基井太郎さんですよね。
聞き覚えのある声をきいて、基井はようやくその何者かから視線を逸らすことができた。声の聞こえた方向に顔を向けると、灰色のロングコートが目に入った。
相談室の男だ。
やはり、そうだ。基井さん。僕の言葉は聞こえますか?
聞こえている。だが、名前を読んでほしくなかった。あんたには後ろの人影が見えていないのか。そこに、そいつはいる。ひたすら桜の根元を掘って、恋人を探しているんだ。
恋人? 何を言っているんですか。
見てわからないのか。あれは、嫌がらせでもいたずらでもない、奴は恋人を探して、桜の木を掘りつづけている。
わからないですよ。死体が埋まっているならまだしも、恋人なんて。埋まっているんですか? そこに、あなたの恋人が。
あなたの? 僕の? 基井には男の言葉が分からなかった。なぜなら、基井が話しているのは後ろにいる人影の話だからだ。ほら?
基井は振り返り、そして硬直した。目の前にあるのは湖で、桜の木も、人影もない。相談室の男のほうを振り返っても、見えるのは並木道と男、そしてその後ろから近寄ってくる女だけだ。どこにも、穴を掘っていた人影はない。何がおきているのか。額に手を当てると、掌から土の匂いがした。右手に固い感触がある。
まさか。そんな。基井は右手を見た。自分の右手に握られているのはスコップの柄だ。足元では芝が掘り起こされ、土が見えている。
彼は今、並木道の桜を掘り起こしているのだ。
「基井さん、今すぐそのスコップから手を離して、その場所から離れるんだ。それ以上踏み込むのは、境界線を踏み越えることになる」
男の言葉の意味は分からなかった。だが、スコップから手を離してここから離れるべきだ。そのことだけは直感的にわかった。
だが、自分が穴を掘っていることに気が付くのが少し遅すぎた。すでに脚は穴から動くことができない。
基井は、ようやく昨日の記憶が曖昧だった理由に気が付いた。
基井の脚を掴んでいる無数の腕。桜の下から生えてきている腕。
桜の木の下には死体が埋まっている。この無数の手は、恋人たちだ。恋人たちは、基井の体を求めて、土から這い出てきているのだ。
そうだ。桜の下には恋人が埋まっている。
だから、掘りださなければ。恋人は、桜に囚われている。
*****
並木道に突然現れた霧。霧の向こうに現れた基井太郎は、その手に持ったスコップで桜の根元を掘り起こしていた。
上半身は大きく左右にぶれており、彼の顔は桜の根元ではなく、頭上の花を眺めている。にもかかわらず、身体は機械的に地面にスコップを突き立てていた。よく見れば、そのスコップもどこかおかしい。音葉には、基井が土を掘るたびに、スコップの柄が波打つように動いているように見えた。
声をかけると、顔は音葉のほうを向いたが、その目は焦点が定まっておらず、上下左右に小刻みに震えている。
「くさい」
霧の向こう側から追いついてきた紅が音葉の隣で鼻をつまんでいた。音葉の鼻にも、その異臭が漂ってくる。甘ったるくそしてどこか酸っぱい。胸の中を掻き回されるような異臭だ。
「掘り出さないと。彼女がいる。彼女を助けないと」
基井のつぶやきが聞こえてくる。昼に事情を聴いた時に聞いた静かで暗い声と違い、高く唄うような掠れ声。基井の口から流れ出ているのは、まるで別人の声だった。
音葉は基井太郎に手を伸ばした。だが、伸ばした手首を紅に捕まれ彼女の胸元に引き寄せられた。紅は音葉を見てゆっくりと首を振った
「もうダメ。手遅れだよ、音葉」
紅の言葉の通り、基井太郎の足元の土が盛り上がる。桜色の霧と共にそれは噴き出た。
昼間、木曽と共に確認した穴は人間が二人ほどすっぽりと埋まるほどに深かった。ロープを付けて中に入ってみると、一七五センチあるはずの音葉の体は穴の深くに埋まり、彼の体は土に囲まれた。
問題は穴の直径だった。音葉の体は穴にぴったりとはまり身動きができなかった。仮にあの穴が一晩をかけて誰かに掘られたものだとすれば、自分の体がようやく入る程度の直径で、どうしてそこまで深く掘れるのだろうか。
その答えは今、音葉と紅の目の前に開示された。
桜並木を荒らした何かは土を掘ったわけではない。それは、土の中から噴き出たのだ。
だから、穴の周りの土は掘られた穴の深さに比べて少なかった。
では、埋まっていたはずのそれ。噴き出た何かはどこに行ったのか。
答えは今、音葉の真後ろで吹き上がっている。紅の言葉が終わる前に、音葉の体は反応していた。紅の手を振り払い、ふらつき焦点の定まらない基井太郎の前に飛び出し、基井の体を押し倒す。基井は土に突き刺したスコップを手放し、簡単に地面に倒れこんだ。
眼球の振るえは止まり、基井は意識を失った。
「タリナイ タリナイ タリナイタリナイ」
音葉の背後で噴き出ているモノが話す言葉は先ほどまで基井の口から洩れていたのと同じ高く唄う掠れ声だ。
それは、地面から空に向かって吹きあがった。水のようにも見えるが、吹き上がった形で固まり始めている。表面は柔らかいらしく、空に向かって伸びていくそれは時折重力に負けて垂れ下がるが、不思議と折れることはない。
色は桜の花びらと同じ。表面に現れる無数の顔のような形。そこから響き渡る掠れ声。
「紅、犯人退治だ。鑑定しろ」
音葉に言われるまでもなく、紅は桜色の物体を睨みつけていた。その間、約数秒。
「鑑定不能、外れよ」
紅の言葉を覆すかのように、それはひときわ高い声で叫び声をあげた。声が公園に反響し、地面が揺れる。
「あっ、うっ、あっああ、ああああ」
足元に転がっていた基井が声を上げ始め、まだ穴の開いていない桜の根元が震え始めている。
他の桜の木にも同じものが眠っている。声と振動が止まり、噴き出た何かの先端が基井と音葉に向けて伸びた。
音葉は自分の体をめがけて串刺しにしようとして伸びてくるそれを避ける。それが地面に刺さった途端、周囲の桜の土が盛り上がり、桜色の水のようなものが二つ、三つと噴き出てきた。それらは互いに絡み合い、桜並木を網の目のように包んでいく。まるでサンゴ礁のようだ。
「それで桜の下には死体が埋まっているんだっけ、紅?」
「梶井基次郎はそう言っている。でも基井は恋人が埋まっていると言っていた」
「それじゃあ、これは恋人か。とんだ恋人だ」
恋人は桜の根元から吹き出すことを止めない。すでに並木道の桜の木は表面を恋人に覆われている。それでも恋人は満ち足りていないのか、空に向かい、その触手を広げ始めている。
「音葉。あそこ見て、木曽さん」
並木道の反対側には、木曽の姿が見えた。足取りがおぼつかなく、左右に揺れながら並木道に広がる恋人に近づいていた。
「なんか変だよ」
「基井太郎と同じだ」
音葉の足元に倒れこんでいる基井は、両手を伸ばして、恋人を求めている。基井の眼窩や口からは、恋人と同じ物体が生え始めている。おそらく見回りのどこかで、彼らの中に恋人が入り込んだのだ。基井自身の意識はない。彼の中の恋人が、地中から解放された恋人たちに繋がろうと体を動かしている。
「紅、こいつが鑑定不能っていうのは嘘だろう。どこからどう見ても恋人はノイズだ」
「そんなこと言われても、一度鑑定したものは鑑定しなおせません」
「はぁ、全く不便だな、そのルール」
「それより、早く何とかしないと、恋人がどんどん大きくなっちゃうよ」
人間にとり憑いて、仲間を掘り起こさせる。そして、一つに集まって。
そのあとは何をおこなうつもりだろうか。
*****
ひとつ。境界線の向こうから来るものは雑音(ノイズ)に過ぎない
ふたつ。ノイズの声が聞こえても、決して応じてはならない。
みっつ。ノイズは人を捕食する。
「音葉、サンゴって群体という生態なんだって」
群体。多数の個体がくっついたままで、一つの個体のような状態になっていることをいう。桜から出てきた恋人も形状はサンゴによく似ている。そして、吹き上がってから公園中に広がるように響く掠り声は一人の声ではない。恋人もまた群体なのだろう。
紅と音葉に向かってくる恋人の触手はまだ少ない。一度に二つか三つ、土にぶつかれば突き刺さり、そこに根を張るが、アスファルトにぶつかるとバラバラに砕けてしまう。案外と脆い作りのようで、他の触手に切り離されるまで衝撃が触手の上の方までヒビが入っていく。
自分たちの声に身を固めない音葉と紅を排除すべき異物と認識したのだろう。
空に向かって伸ばしていた触手を、音葉たち差し向け、他方で並木道の真ん中で互いにつながりあうことで、その強度を上げようとしている。
「今なら叩けば壊れるんじゃないかな」
恋人の様子を見て、紅が思い付きを話すが、そんな簡単な話ではなさそうだ。音葉は、この状況下で身体が恋人に触れることは避けたかった。基井や木曽のように恋人に入りこまれてしまえば、意識が失われる。
「そんな目で見ないでよ。とりあえずほら適当なもので叩いてみればいいわけでしょう」
紅はコートから取り出したボールペンを恋人にむかって投げつけられる。ボールペン程度が当たったからといって恋人の触手は壊れるとは思えない。せめて、アスファルトにぶつかるくらいでなければ、壊れないだろう。
「何あれ、ボールペンがぶつかったところが透明に」
音葉の予想を裏切り、ボールペンの触れた部分の様子が変化する。細く透明に変化した恋人は、ぶら下げている先端の重さに耐えきれず折れる。折れた部分は、粉々に砕け、塵になった。
「なるほど、それで恋人というわけか」
「えっ、えっ、どういうこと」
「おそらく、あいつは、触れたものに入り込む代わりに、自分も触れたものに同化するんだ。人間に触れれば人間の声や顔を取り込み、ボールペンに触れれば、ボールペンの形を取り込むってところだろう」
アスファルトにぶつかったところが固まるもおそらく同じ理屈だろう。土にぶつかっても変化しないのは、土の中で眠っていたため、もともと恋人の性質が土に類似しているからだ
「でも、それどうやって対応するの、音葉。もうボールペンなんてないよ」
「そうだな……紅、ありったけの小銭を出すんだ。恋人を退治する」
*****
桜の下には恋人が埋まっている。恋人は永い間、桜の下で眠り続けていた。僕は、ある日突然姿を消した恋人を探した。恋人の姿を探して、僕は旅をした。
僕の旅は一年のうちほんの一時しかできない。桜の花が咲く寸前。冬が終わり、春が訪れようとするほんの一時に僕は旅をする。恋人が眠っている桜を探して。
今まで探してきた桜の木はどれも見ただけで違うものだと分かった。花が違う。恋人が眠っている桜の花はもっと可憐な色をしている。行く先々で見つけた桜はあまりに力強い。仮にそんな力強い桜が咲いていたら、恋人は既に命を落としていただろう。
桜から解放された私たちは
まだ、タリナイ。
身体が足りない
タマシイガタリナイ
私たち、僕の身体、灰色のロングコート、久住音葉、黄色いマフラー。女。
その女はいけない。近づけてはいけない。私を、僕を、私たちを、僕たちを、殺される。殺される。マダタリナイノニ。
身体のあちこちに厭な気配のするものが当たる。身体が固まる。
タリナイ。ヤメテ。ホシイノハタマシイ
命のないものが大量に私たちに当たる。そのたびに、私たちは崩れていく。命のないものに定義されてしまう。それを厭がって自ら崩れていく。
ダメだ。これでは僕は、僕たちは、ワタシタチは消えてしまう
いくら念じても、ワタシタチは自死することを止めない。もう、僕の言葉を聞き入れない。
僕は、恋人は、桜の下に眠っているべきだった。
そうすれば、消えることもなかったのだ。
僕の声を聞こうとしない、二人の狩人に、僕たちはコナゴナニ
5
週末。七日間にわたって何者かによって土を掘り起こされ、荒らされ続けた公園は、花見に訪れた近所の住民たちでごった返していた。
左右二四本の桜の木はすべて周りを敷居で囲まれて、根元を掘り出すことはできないようにされている。桜の真下で花見をすることはできないが、住民は特に気にしていないらしい。
短い並木道ではあるが、桜と桜の間にいくつかの屋台が出ており、それぞれに賑わいを見せている。
「今回は手早い対応ありがとうございました。助かったよ、音葉君」
屋台で買ったフライドポテトをつまみながら、木曽は音葉に礼をした。
「いやはや全く、僕らがみんなとり憑かれていたという話を聞いた時は驚いたよ」
木曽が久住音葉に事件の解決を依頼した日の夜。
便利屋久住音葉は、桜並木が掘り返される原因を突き止め、無事に排除した。
車の中で奇妙な声を聴き、木曽は意識を失った。目覚めると、彼は並木道に立っていた。
彼の目の前では、桜の木に絡まった桜色のサンゴのようなものに、音葉と紅が小銭をぶつけていた。あっけにとられる彼の前で、小銭が触れたサンゴは次々に砕けていき、一〇分後にはサンゴは消え失せ、並木道は通常の景色に戻っていた。
音葉たちの話から、事の初めがどのようなものだったのかは、木曽にはわからない。だが、どうやら桜の下に埋まっていたという恋人が、木曽や市役所の職員、警官たちを使って、桜の根元を掘らせていたらしい。音葉が解決に乗り出した日には夜回りを担当していた警官、基井太郎が桜の木を掘り起こしていた。
「しかし、どうやって説明したものかと思っていたんだが」
「説明する必要はなくなったのですか」
「ああ。君たちの作った理由が効いたんだよ。確かに、君たちが掘り起こした桜は、例年よりもきれいに咲いている。まるで、若返ったようだ」
桜の根を腐らせる害虫の巣が見つかった。提案した本人からすれば、あまりに稚拙な言い訳だったが、桜の変化と相まって、それで話が収まったらしい。
木曽は再度礼をして、音葉のそばを離れた。どうやら市役所の他の人たちと一緒に花見をする予定だったらしい。
「桜の木の下には死体が埋まっている。死体の養分を得て桜は華やかに咲き誇る」
「現実には逆だったみたいね」
「さあ、どうだろう。近くに行方不明者はいなかったし、過去にもあの場所で殺人事件や失踪といった目立った事件はなかったんだ」
「音葉、あの桜が、別の土地から移されたものだって知ってる?」
「移された?」
「そう。植え替え前の場所では、いくつも死体が出たとか。市役所の資料調べてもらったの」
「それじゃあ、あの“恋人”は」
さあ、どうだろう。私にはよくわからない。
私にわかるのは、あれは雑音に過ぎなかったということだけ。もう、その話は終わり。
紅は、戸惑う音葉を置いて、屋台に駆け寄っていった。
並木道の桜は満開だ。街に春がやってきている。
― The spring has come 了 ―
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