3:出逢い

 相澤恭香と出会ったのは、一年ほど前のことだった。三田が、バイトをしていた個人経営の居酒屋に彼女が同じようにバイトとして入ってきたのがきっかけだ。肩にかかる程度の長すぎないセミロングは清潔感を与えたし、今時の女性のはずなのに染めたことが無い、という彼女の主張を裏付けるような艶やかな黒髪。デニムとTシャツというシンプルな装いでも、健康的な身体のラインは程よい肉付きで女性として魅力の出る膨らみが目立ち、三田の心を刺激した。しかし、三田にとって何よりの魅力は恭香の内面にあった。快活な面を見せ、誰隔てなく笑顔で会話する器量を持ち合わせながら、決してずかずかと輪の中心を陣取ることのない控えめさもある。周囲には適度な距離を保ち、傲らず深入りしない彼女の姿勢は頼もしさは元より、逞しさがあった。

 適当な性格を気前の良さという都合のいい言葉に言い換えて親しまれる店長から「新人さんにいろいろ教えてあげて」と頼まれたこともあり、三田と恭香は同じシフトを組むことが多かったことも、彼女に惹かれた要因だったのかもしれない。三田は決して周囲から邪険にされるようなルックスではないが、人見知りで内向的な性格から異性に対し、積極的に前に出ることはほとんどなく、彼女が出来ても、長く続くことはなかった。

「優くんは、決して悪い人じゃあないの。優しい人なのよ。だけど、それだけじゃ女は物足りないのよ」

 大学に入ってから付き合った女性は三人いたがどの人からも別れ間際に必ずこの言葉を捨て台詞に引用された。結局この言葉の真意は、彼女から聞かされることはなかったが、三田の女性の接し方をさらに躊躇させるには十分すぎるほどに動揺させた。

「三田先輩は彼女いないんですか」

 恭香の教育担当になってから三度目のバイトの時だった。五月半ばの梅雨の前兆なのか、蒸し暑さが、客の喉にビールを良く通す。閉店間際で客もまばらになると、三田は明日の仕込みに入る。大学入学してすぐにこのバイトを始めたので、もう四年目になる。ここまで長く続けていれば、バイトとはいえ、いろいろなことを店長から任されることも多かった。恭香は客が汚した机を丁寧に拭き、三田の仕込みの終了を待つ。店長から夜道は危ないから送ってやれ、と言われているからだ。おそらく三田が車を持っていることも起因していたことだろう。恭香はもう私服に着替えていた。そんな時、三田に質問を投げ掛けた。

「え、何か言った?」

 もちろん聞こえてはいたが、聞こえない振りをした。おそらく恭香は自分の暇潰しに、もしくは静寂の間を埋めるためにやむを得ず当たり障りのない質問を投げ掛けたのだろう。わかりきっていたことだが、激しく動揺し、どう答えるべきか詰まってしまった。

「だから、三田先輩は彼女いないんですか」

 再度一字一句同じ質問が提出された。

「いないよ」

 正直に答える。もしかしたら……と少しでも考えてしまっている自分が恥ずかしい。

「意外ですね。先輩の見た目なら彼女いてもおかしくないのに」

「見た目を誉められるのはうれしいけど、結局は中身が重要でしょ」

「中身って」

 恭香は大きい声で笑った。

「内面とかいろいろ言葉あるでしょうに。え、じゃあ先輩の中身はケダモノだってことですか」

 意地悪そうに笑う恭香はとても愛らしかった。肩までしかないのに、飲食業は清潔感が大切ですと、後で申し訳程度に結んだ後ろ髪がぴょこぴょこと揺れる。

 三田は店長がいなくて本当に良かったと思った。最近は店を急に開けることが多い店長は、一時間ほど前に、電話がかかってきたかと思うと、「今から出かけてそのまま帰るから、戸締まりだけよろしく」と簡単に言って出ていってしまった。いつもならもう一人厨房か接客がいる時と時間帯を見て出ていくのだが、今回は二人きりだ。時間帯的には、二人でも回せる人数だったため、問題はなかったわけだが、店長からしてみれば、若い男女二人を置いて店を出ていくリスクを考えなかったのだろうか。それとも僕は彼女にとって無害だと思われているのかと考えると虚しくなる。しかし、三田にとってはこれ以上ないチャンスであることには変わりない。僕にもケダモノになる時だってあるんだぞ、と心の中で言い聞かせる。無理をしているのは承知の上で。

「ケダモノなんて……そんなわけないでしょう」

「ですよねえ。じゃあなんで彼女いないんですか? 最近別れちゃったとか?」

 元カノと別れたのは三ヶ月ほど前だ。これは最近といえるのだろうか。三田自身には未練はさすがにもう無い。同じ大学の女生徒だった。内向的な性格をクールや堅物として勘違いして、告白をしてきたのがきっかけだ。ふんわりとした重力の無い雰囲気と小動物のような仕草に以前から惹かれていた三田は、二つ返事でOKを出した。しかし、結果はご覧の通りだ。三ヶ月ほど経つと、彼女の方があの捨て台詞を吐き捨てて、何事もなかった日常に戻った。

「優しすぎるかあ。きっと元カノのみなさんは先輩の良さを理解できていなかったんでしょうね。でも先輩も悪いと思いますよ」

「優しすぎたところ?」

「優しさっていろいろあると思うんです。『愛』と『恋』が違うように、優しさにも違いがありますからね。そもそも女は優しさなんか彼氏に求めてないんですよ」

 仕込みも終わり、厨房から出る。「終わりました?」と彼女は笑い、じゃあ続きはまた今度で、と話を途中で切ってしまった。

「かなり気になるんだけど」

 苦笑気味に三田は話すが、内心はただ彼女ともっと話していたかっただけだ。恭香はじゃあ、と腕を組んで目を瞑った。

「三田先輩は明日空いてます?」

「は?」

「明日呑みにいきましょうよ」

 がん、と強い衝撃が頭にくらったように視界がぐらぐらと揺れた。

「僕と? 二人で?」

「先輩と私の二人で……ですけど?」

「……いいの?」

 もったいぶってるわけではなかったが、話が信じられず、周囲を無意味に見回す。

「私から誘ってるので、その質問は私がするべきだと思うんですけど。それに最初に彼女がいないことも確認してるので大丈夫ですよね」

 恭香は頬を掻きながら舌を少し突き出した。頬が少し紅く染まっているのは掻いたせいか、照れているせいか、判断が三田にはつかない。


 翌日、二人は駅前で待ち合わせ、居酒屋の暖簾をくぐった。個室が完備されている店でゆったりと時間を過ごせるのが売りらしく、廊下を歩いても笑い声などは多少漏れるものの、他の店と比べれば、確かに静かな空間だった。

「それでは乾杯しますか」

 ジョッキに波なみと注がれた生ビールを持ち、三田は恭香の前に差し出す。

「何に乾杯しますか?」

「何にって、何でもいいんじゃないかな」

「じゃあ、先輩決めてくださいよ」

 恭香は早く早く、と小さく揺れながら三田を急かす。

「じゃあ、そうだなあ。二人の出会いに乾杯ってのはどうかな?」

 笑いにとってもらっても良かったし、本気が伝わっても構わない。三田は引かれることも覚悟しながら、恐る恐る恭香に問いかける。恭香は、えっ、と小さく反応したが、すぐに「いいじゃないですか。そうしましょう」とジョッキを手にした。

 その姿をいじらしく、そして艶かしく感じた三田は、その心情を悟られないように、じゃあ、と恭香と同じくジョッキを持った。

「二人の出会いに乾杯」

「乾杯」

 カン、と硝子のぶつかる音が部屋に響く。三田は世界に二人だけしかいないかのような空間にただ身を任せてしまいたいと本気で思った。今まで出会った女性とどこがどう違うかははっきり言って説明できない。もっときれいな女性なんてごまんといるだろうし、内面の好みなんてはっきり言ってしまえば、あやふやで過去の彼女だって統一されていたわけではない。

 だけど、三田は相澤恭香に惚れた。理屈ではなく、本能に近いところで、そう確信した。なんとなく、といった言い方は彼女に失礼だろうが、このなんとも言えない込み上げる思いは、愛しかないと確信できた。

「昨日の話の続きなんですけど」

 恭香はビールを三割ほど一気に飲むと、昨日の話の続きを話し始めた。

「心の優しさって、誰しもが持ってると思うんですね。女性なんてのは、男は優しくして当然と思っている節が少なからずあって、はっきり言って優しさだけの人って、最後には物足りなくなっちゃうんです。たぶん今までの彼女さんたちはそう思ってたんじゃないかな。だって先輩って優しさがオーラに滲み出てますよ」

「優しさだけじゃ駄目だってことだよね」

「それはもちろん。男も男で、どこか優しくしておけばみたいな節は絶対あるんじゃないですか? だけど、私はまだ先輩のこと、殆ど知りませんが、先輩は優しいだけじゃないと思いますよ。優しさに包まれて酔っている女性じゃあ、きっと気づかないところがあると思うんです。そしてそれが恋人にとって一番大切なこと」

「そんなもの、僕には無いよ」

 自虐的に笑う三田を尻目に、恭香は首を横に振った。

「暖かさ、ですよ」

「暖かさ?」

「そう。優しさのような甘さじゃあ、女の子はすぐに飽きてしまいます。だけど、それだけじゃなくて先輩は暖かい。心というか全体的に、女は温もりを求める生き物なので、先輩は武器を持っていると言っても過言ではありません」

「過言な気がするなあ」

 恭香はむすっと頬を膨らまし、頬杖をついた。

「ほら、そういうとこですよ。先輩の悪いところは優しさしかみせようとしないところ。彼女たちの悪かったところは、先輩の優しさしか見抜けなかったところです」

「何で、そんなこと僕に……」

「私、今そういう人の温もりに敏感な時期なんで」

「なんか困ったことがあるのかい」

 これも結局は優しさの押し売りなのではないか、と思ったが、彼女の力になれるのであれば、どうしても話を聞きたかった。

「私の話はいいじゃないですか。女の子にはそういう時期があるんですってことで。あんまり深入りしちゃあ駄目ですよ」

「そうなの? 僕でよければいつでも話を聞くから、気兼ね無く相談してくれ。力になれるかはわからない。だけど、聞き役は慣れているから」

「やっぱり先輩は優しいですね」

 恭香は笑った。えくぼが頬に生成され、子供らしさを醸している。

「優しさは罪ですよ」

「それはどっちの意味?」

 少し逡巡して、恭香は笑って答えた。

「……良い意味ですよ」

 恭香は何か他人には言えない秘密を抱えていることは、三田でも分かった。それでもああやって笑ってくれる恭香を守りたい。そう強く感じずにはいられなかった。秘密が何を指しているのかは、恭香の口から聞かない限り、知ることは出来ない。しかし、大方の検討はつく。男関係なのだろう。いずれはその秘密の小箱を三田の前で開いてくれるかもしれない。否、開いてもらうためにも、今はゆっくりと時間をかけて、恭香の心の氷を溶かしていくことが自分の使命だ。三田はジョッキを思い切り掲げ、天から注ぐように、胃袋へ流し込んだ。

 それからというもの、二人で外食をすることに躊躇いはなくなった。恭香の心が少しでも晴れるようにと、三田は積極的に誘いたかったが、がっつきすぎないように自制しながら声を掛けた。傍から見れば、彼女が悩んでいるなんて誰も気付くことは無いだろう。だが、僕はそれを知っている。三田は優越感に浸り、自然と笑みが溢れる。彼女の悩みが外部に漏れないよう、駅や互いの大学からは離れた場所で飲むようにした。これも彼女を慮っての事だ。恭香を独り占めしたい、というまみれた下心を別段否定するつもりも無い。それは男であるならば、ある意味正常な心理だろう。バイトの教育担当という店長の粋な計らいもここで活きてきた。誰が見てるかわからないため、あからさまな態度はとらないように気を付けたが、アイコンタクトで交わす会話は何事にも変えがたいエロシティズムを感じた。

 それから数ヵ月の時が流れる。恭香とはこれで五回目のデートだ。郊外にある、地下鉄のホームで恭香を待っていたが、約束の時間になっても彼女は現れなかった。まぁ女性は待たせてなんぼの世界か、と言い聞かせ、地上に併設されているショッピングモールのカフェに入り、彼女に連絡を送る。しかし、彼女からの返信は無い。時計を覗くと、約束の時刻より三十分過ぎていた。

 どうしてしまったのだろう。妙な胸騒ぎがする。落ち着かせようとコーヒーを口に運ぶが、味がまったくしない。

 携帯が鳴ったのはそんな時だった。

 着信画面が表示しているのは『相澤恭香』。良かったと安堵し、通話ボタンを押そうとした直前、指が止まった。意識的ではない。本能だ。誰かが何かを警告している。安堵はしたが、不安はまだ取り払われていない。

 カフェの店内のBGMが流れ、客の話し声が飛び交っていたが、三田の耳にはまるで届かない。通話ボタンを押し、耳にすべての神経を集中させる。

「もしもし」

 正しく発音できているか自信は無かったが、彼女の声を聞いて早く安心したい。しかし、その期待は裏切られ、電話の声は男の声だった。

「三田……優さんのお電話でよろしいでしょうか」

 どこか心を見透かしているような研ぎ澄まされた声だった。威圧的な感覚に近く、三田はたじろいでしまう。

 ここからどんな話をしたかは、まるで覚えていない。とにかく相澤恭香にはもう会えないことは警察の男の声で、すぐに悟った。そしてすぐに自殺したとの一報が三田の心をずたずたにへし折った。

 焼却炉で焼かれて死んだ恭香の御神体を拝むことは出来なかったが、三田はどの顔で彼女を見たら良いのかわからなかったので、内心ほっとした。彼女を守る、とほざいた男の結果がこれか。こんなもの、僕が殺したようなものじゃないか。

 恭香、すまない。面と向かって謝れない僕を許してくれ。

 その後、警察からの事情聴取を二回ほど受けた。その時、遺書のコピーを見させてもらった。

 やはりストーカーだったか。ストーカーが彼女を追い詰めたのか。こんな惨い死に方を選ばざる負えなくなるまで。恭香はストーカーに殺されたのではないか、と警察に進言もした。しかし、警察の答えはノーだった。その証拠がない、の一点張りで、動く気配は微塵も感じられなかった。

 恭香のいなくなった世界は妙に色褪せて、モノクロに感じられる。この世界に生きる意味はあるのか。向こうで彼女は温もりを求めているのではないか、と考えると、いてもたってもいられない。恭香の元へ行こうと自殺を考えるように自然となった。

 三田も今、彼女の温もりを求めている。

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