クリスマスアゲイン

 冷たい雪の下を魚がすいすいと泳いでいる。凍った水の下では季節も解らない。バリッと氷が割れる音がして振り向く。誰かが氷に穴を開けたらしい。太陽の光が差し込んで、穴の周囲を溶かしていく。光に反応した魚たちがぱっと穴に群がる。

 でも、一匹だけ。穴には向かわない。釣り針に捕まるかもしれない、集まった魚をめがけて敵が来るかもしれない。だから魚は外に出ない。出るすべを知っていながら、どうしても外に出られない。凍った池に溺れたまま、息も絶え絶えだといわんばかりに、小さな泡を口から出している。

 少年の息もくるしくなっていく。誰か、僕を引きずり出して。この氷の下から。

 そこで背筋が寒くなって目が覚めた。


 眼下に広がる自分の体はもう少年ではない。二十歳超えた青年だ。

 手を動かす。指は5本しっかり動く。変に寝違えていないことを確認し、ゆっくりと上体を起こす。部屋のカーテンを開け外を見ると雪がはらはらと降っていた。

 ベランダから飛び降りて空と一緒になりたいなと思ったが、あまりの寒さにばかげた考えも影を潜む。寝巻を脱ぎ、鼠色のトレーナーを着る。一人暮らしの部屋は狭い分、暖房さえあればすぐ暖かくなる。暖房の電源をつけ効くまでの間、台所に行って砂糖たっぷりのコーヒーを喉に流しこんだ。

 この時の自分は妙に糖分を欲していた。おそらく、これから起こる情報を整理するためだったのだろう。そんなことは夢にも思わずカレンダーを見て嘆息する。

 イベント、パーティー、飲み会、パーティー…

 大人といえる年齢に片足を突っ込んでしまってからは、師走がますます忙しいものとなった。とはいえ、行きたくない行事には絶対に参加しないだけの算段を常に立てている青年にとって、人付き合いはそこまで気苦労が多いものではない。行けば楽しいし、何より今が師走であることを忘れさせてくれる。


 そう、あれから15年経ったというのに、まだ師走が好きになれなかった。

 将来は安泰になりそうな大学に入って、だからこのまま働けば確実に自分の対価を支払うことはできるはずで、だから自分の行動に対していちいち損得を考えたりはしなくなったけれど、やっぱり物の対価に対する執着心は消えない。

 ぎゅっと拳を握って、目をつぶって、手を開いて、バシャリと水を顔にかけた。そのまま顔を洗い、ヘアセットをし、今日の予定に向かって走り出す。洗面所の引き出しからワックスを取り出し、髪に満遍なく塗る。

 不意に端末が鳴る。

 何時もどんな連絡が来ても沈黙を保つように設定しているのに鳴るということは、差出人は限られている。家族に不幸があったかもしれない。病気になったかもしれない。離れて暮らしているからとはいえ、決して無視できない。

 嫌な予感がした。

 端末のロックを解除してメッセージを見る。  


 端末がぽとりと落ち、香水の瓶を横に倒し、盛大に机を汚す。鼻が痛くなるぐらいの香水の匂いに噎せ返る。手に持っていたワックスの容器を投げ出し、へたりとその場に座り込んだ。動きが止まるなんて何十年ぶりだろう。感情をこんなに露わにしたの、いつだっけ?

 端末のメッセージの差出人は母親でそこまでは予想通りだ。しかし内容は全くと言っていいほど、考えたことのないもので。


 「今年クリスマスは家でやるんだけれど、どう?」


 味噌汁に入っているウインナーのようなちぐはぐさに、理解が追い付かない。頭の中では疑問符が大量に浮かび、コーヒーで流し込んだ糖分が一気に脳で消費される。

 しばらくマグカップを見つめる。黒い画面にうつる自分の間抜けな顔。半量ほど残っていたそれを勢いよく飲み干す。すごく熱いのとすごく甘ったるいのとで、程よく思考が止まり、次の行動を考えるだけの余裕ができた。

 黙って雑巾で机を乱暴に拭き始める。

 最初に出てきたのは驚き。次に出てきたのは今更感。その次に出てきたのは諦めで。手のひらをかざして天井を見上げた。


 今更すぎる。

 何度も葛藤して、とっくの昔に思ったことに蓋をして、怒りも悲しみも通り越した境地に立っている身としてはどうしていいか、わからない。誰がどう考えてこんなふざけたことを言っているのか、全く、さっぱりわからない。

 香水の飛沫を被った端末をソファに投げ、雑巾を洗いにいく。キツすぎる香水の匂いで吐き気がした。

 洗面所で薄汚い雑巾を絞る。何度も何度も水で洗っても、どぎつい匂いはとれない。今日はわざわざ香水をつけなくても大丈夫そうだ。


 端末を放置したまま、近所を徘徊しに外にでた。


 年末に帰省することは考えていた。しかし、こんなくだらないことにつきあわされるのは御免だ。何か予定でも入れようか考えながら歩く。青年のすんでいる場所は大学からとても近い。緑豊かなキャンパスの近くに作られた閑静な住宅街だ。

 美しい並木も冬になればすっかり枯れ果てて、黒い枝が灰色の空に伸びる。音楽プレーヤーをつけ、軽やかなジャズを聴きながらあてもなく歩く。田舎だから電飾も控えめで、店も少ない。

 これで落ち葉の積もる道路の掃除でもすれば、中学高校時代の奉仕活動した気分にでもなれそうだ。

 さっきまでの混乱もようやく解れてくる。両親がどういう意図でクリスマスパーティなんてしようと思ったのかは相変わらず考える気にもならなかったが、鬱屈とした気分からは逃れることはできた。

 グローサリーストアでシャンパンでも買って帰ろうか。

 この世知辛い世の中に乾杯しよう。ああ愉快。


 「こんなところで久しぶり」


 聞き慣れた声に音楽プレーヤーの電源を落とし、イヤホンを耳からはずす。道路に向かっていた視線を声の主に向ける。

 ミディアムの茶髪にライトグレーのボアコート。いかにも女子大生ですという格好をした彼女は可愛らしい笑顔を青年に向けた。騙されてはいけない。彼女はたちが悪いことを青年はよく知っている。男漁りで有名だ。

 青年は顔貌は整っている。さらに醸し出す暗い雰囲気と物憂げな様子は女性を虜にするものがあった。媚びを含みながら今にもしな垂れかかりそうな彼女を軽くいなし、胡散臭い笑みを張り付ける。


 「散歩?すごい偶然だね!この後ご飯でも行かない?」

 「今、体調悪くてね、気分転換で外に出ているんだ。だからまた今度ね」

 「そっか、風邪なの?大丈夫?」


 「また今度」と言われても引かず、会話をつなげて食い下がってくる。こういうタイプに付き合うと後々面倒くさそうだ。しかし、嫌な素振り一つ見せず、適当に返事をする。表情に出したら益々ムキになりそうだからだ。


 「ほんと、イケメンだよね、彼女いないの信じられなーい」

 「そんなことはないよ」


 思わず無表情になってしまいかねない自分を叱咤して、薄笑みを張り付ける。本当は、不愉快に思っているのではなく怖いのだ。

 クリスマスに女性とデートしたら必ずと言っていいほど、プレゼントを求められる。そして女性の側からもプレゼントを渡される。自分の行動がプレゼントと釣り合い、それだけの価値のあるものにしないといけない。

 相手の女性と楽しく過ごせるだけでいい、と思うだけの余裕はない。大人になって押し寄せるであろう損得計算や対価が怖くて仕方ない。頭の中ではきちんと整理できているように見えて、大学に入ってから誰一人として真面にクリスマスシーズンを過ごした恋人はいない。12月に入ってなんとなく気分ではないと常に拒んでしまうのだ。ついふらっとどこかへ消えたくなる。そんな青年が何に囚われているかなんて明確だ。

 笑顔で誤魔化しているが、ただの虚勢。ほんの少しの刺激でがらがらと崩れていってしまうだろう。


 「それでそれで?クリスマスの予定は埋まったの?」


 嫌だ。怖い。やめて。苛々や不愉快を通り越して、頭の芯がぐらぐらと無理矢理揺さぶられているような気持ち悪さを感じた。

 普段から面倒な人付き合いをひらりひらりと避けてきた青年にとって、想定外のときの対処の仕方を咄嗟に思いつくのは難しい。それが青年から正常な判断を奪う。そしてついうっかり、本当のことを言ってしまった。


 「クリスマスは家族でやるみたいなんだ。母から連絡あって」

 「へぇ、そ、そうなの。意外と家族思いなんだね」


 青年の発言をどうとったか、少々引いたような彼女の態度に安堵を覚えたのは束の間で。あ、しまった、とすぐに後悔した。

 これ、本当に帰省しないと大学の人間たちに怪しまれるし、あとで追及をかわすのが面倒くさい。なまじうるさい女性に言ってしまったのだから尚更だ。厄介な合コンも飲み会のコールも男女交際もすべて器用に避けてきたし、今日も如何にしてクリスマスに帰省せずに済むか考えていたというのに。

 珍しく失敗してしまったようだ。

 ちぇっ、やっぱり世界は世知辛い。でも、やってしまったことは仕方ない。家に帰ったら端末を開いて、帰省する旨を伝えないと。シャンパンを飲む気にはなれない代わりにベルギービールでも買って帰ろう。ビールのほろ苦さと高いアルコール分で頭をぐちゃぐちゃにしたかった。

 考えていたら彼女はいつの間にか立ち去っていたようだ。マザコン男とか言われそうだがむしろそちらのほうが都合がいい。音楽プレーヤーのイヤホンを耳にはめて、今度こそ良い気分で帰ろう。


 「クリスマスは家族でやる…クリスマスは…家族で…」


 さっきうっかり言ってしまったことを復唱し、譫言のようにつぶやく。何度言ってみても実感がわかない。現実とすごくかけ離れていて妙な浮遊感すらあった。

 頭の中で想像する。食卓に並ぶ美味しい料理の数々、クリスマスのリース、ツリー、暖かい灯に家族の笑顔。只々この空間を楽しむだけの、時間が切り取られたような夢、幻。

 喉の奥が痛くなる。鼠色のトレーナーがくすんで染みができる。それが二つ、三つと増えていく。首筋につぅっと雫が伝い、洋服が水を吸い込み丸い痕を残す。


 泣いているのだ。


 慌てて目頭に手を当てる。表情が変わらぬまま、ぽろぽろと水滴が落ちていく。ハンカチなどしょっちゅう持って歩くタイプではない青年は途方に暮れる。

 肌が濡れる感覚がベタベタしていて気持ち悪い。それなのに、流れる涙は温かくて、しばらく拭う気になれない。

 寒々しい道路で一人きり。顔に涙の通った跡を残しながら、青年はビールを買いにグローサリーストアに向かった。


 クリスマスまであと10日。

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