メリークリスマス

 片田舎のぼろアパート。エレベータもない階段を上って5階に上がる。結局12月24日にはきちんと帰省しているところが根は真面目な青年らしかった。学校に持って行っているリュックサックに貴重品と端末だけを入れて帰ってきた息子を、母親は歓迎しつつも半ばあきれたような目を向けた。


 「帰ってこないと思ったわ、彼女とかいないの?」

 「あ?いるわけねぇだろ?」


 後ろから「やっぱりね」という声が聞こえてきたが知らないふりを決め込んだ。全く、どいつもこいつもそのことばかりだ。

 リュックサックを廊下に投げ捨て幼き頃より使っていた自分の部屋に戻る。掃除はされているようで埃こそ被っていないものの、中身は昔と全く変わらない。本棚には沢山の参考書と文庫本。中学、高校時代の名残だ。

 背表紙に指を滑らせ、青年は嘆息した。昔はこの本を頭に叩き込んで自分の価値を作っていたけれど、今はそれを必要としていないのだと痛感する。

 もう、最初から自分は迷子になっていたのかもしれない。凍った水面の下で泳ごうとして、氷に閉じ込められた魚みたいに。意地は魂に黒く絡んで凍り付く。嫌というほど自覚はしていたけれど、どう解いていいか分からなくなっていた。


 「ご飯できたよ。ケーキも届いているわ」


扉の外から自分を呼ぶ声がする。ケーキなんて、もう何年ぶりだろう。一人暮らしだから自分の誕生日にも無頓着だった。

無言で扉をあけ、のろのろと廊下を進む。

「おかえりなさい。久しぶりだな」

 ダイニングテーブルには紅茶とドライフルーツをふんだんに使ったアイスケーキ。丁度、父親がナイフでケーキを切り分けているところだった。

 十数年前に比べればえらい変わり様だ。違和感と不気味さで鳥肌が立つ。それを誤魔化す様に青年は「おう」と曖昧な返事をして皿にケーキを乗せた。何時もならケーキの値段で揉めている筈なのに、平和すぎる光景に呆然とする。

 特に父親の纏う雰囲気があまりにも穏やかで青年は拍子抜けする。父親にどんな変化があったかなんて青年が知る由もない。しかし、息子を見る目は、それはそれはとても哀しげで愛おしげで。

 どうしてそんな顔をしているのだろうと疑問に思いながら青年は紅茶を淹れ、席に着いた。気まずくなって適当にテレビのチャンネルを回す。時期はクリスマスシーズンだからデートスポットの取材ばかりだ。

 肩を寄せ合うカップル。楽しそうな子供たち。そんなVTRを見て青年はいつぞやの様にチッと舌打ちをした。ハァとため息をついて母親が話しかける。


 「あんた、なに?苛々しちゃって、失恋?」

 「それはない」


 むしろ全部面倒くさいから遊び以外断っている青年にとって羨ましくも何ともない。瞬き一つせず答えた青年の顔に嘘はなかった。


 「じゃあなんでいつもそうなのかねぇ」

 「何のこと?」

 「気が付いていないの?この時期になるとあんたいっつも荒れているの」

 「そうだっけ」


 殆ど意識はしていなかったが、言われてみて思い当たる節はあった。

 師走になると自分の皮肉が自分にちくちく刺さる。ほんの少しだけ胸がズキンとする。他人が楽しそうに笑っているのを見るだけで腹が立ち、欲しくもないものを羨ましいと思ったり。何時もより僻みっぽくなるのだ。他人を罵れば罵るだけ、自分の中の矛盾が浮き彫りになっていく。

 自分で確固としたものを貫いているように見えて、結局はないものねだりばかり。その矛盾した態度に気が付いて顔を覆った。

 でも、実際に彼女も欲しくないし、子供みたいに今更プレゼントが欲しいわけではない。 


「ああ、そういうことか」


 そっか、純粋にクリスマスが楽しめない自分に腹を立てているのか。何も考えなくていい、優しい幻に浸れない悲しさを八つ当たりしていただけか。

 思い出す。幼い頃、うつらうつら薄れる意識に震えて慄いたことを。光に生まれて死んで暗闇に戻っていく人間の性を呪ったことを。でも、それは自分だけの苦悩じゃなくて、万人に共通のものだ。はっきりと自覚はしていないかもしれないけれど、前者はともかく後者は全ての人間に当てはまる。みんな同じだ。

 分かっているのだ。誰だって最後は一人だってことぐらい。だから欲しているのだ。誰かと一緒にいて、特別な時間を過ごすことを。欲深く、愚かな人類だということも忘れ、光の中にいたという証を胸に刻み付けておきたいということを。

 

 儚げな、でも切実な願いが、サンタクロースを作り、真実を覆ってまでもクリスマスに縋る。

 取り分けられたケーキを一口切って口に入れた。甘いチョコレートにドライフルーツの酸味が効いている。今まで食べたクリスマスケーキで一番美味しかった。ペーパーナプキンで口の端を拭うと強張っていた青年の顔がうっとりするほど優しい微笑みを浮かべる。


「買ってきてくれてありがとう。ご馳走様」


 青年の目には薄い膜が張られていた。 魂に絡みついたものが、ぬるま湯に溶かされて流れ落ちていく。両親に感づかれる前に、そそくさと食べ終え、席を立ち、自分の部屋に向かう。

 後ろから突き刺さる視線が居心地悪かったが、もうそんなことはどうでもよかった。


 次の日、青年はクリスマス市にいた。かつての喧騒はそのまま、変わったのはいつもの僻み根性と皮肉が影を潜めただけだ。見向きもしなかった商店をのぞき込む。

 クリスマスの装飾品のお店。ミニサンタにミニツリー。リース。ささやかながら部屋にあったら心温まるだろうな。母親の顔を思い出し、数個買っていく。胸に灯した光を失わないでほしい、いや、いつかは失われるものだけれど今だけはこの時間を守りたい。レジを打つアルバイトらしき女子大生に愛想よく送り出され、次の店へ。

 一通り買い物を済ませると、紙袋を何個か持って家に戻った。

 玄関の靴箱の上に買ってきたミニツリーとサンタを置き、扉にリースをつける。そして自分の部屋に戻ると出かける前にはなかった紺色の紙袋に気が付いた。


 「え…プレゼント?」


 中身は前壊れてしまって、買おうか買うまいか迷っていたアラーム時計の新品。母親は機械に明るくないから買ってきてくれたのは父親だろう。

 欠けていたパズルのピースが見つかったような気分だ。

 にわかに青年は廊下を駆けだす。ダイニングテーブルにはターキーにサラダのオードブル。ほかほかした良い匂い。母親はディナーの支度をしている。父親は手伝っている。プレゼントに関しては自分から口を開かなかった父親だが、青年には彼が何を言いたかったのかわかった。

 このぬくもりを、素直に受け取っていいのなら。


 「メリー・クリスマス」

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