氷面下の葛藤

 あれからその子供の家でクリスマスのイベントを行うことはなくなった。その代わり、他の人の家やイベントに遊びに行くことが増え、普通に楽しかったけれど、相変わらずクリスマスの意義は分からなかった。

 ケーキが出るから誰かの誕生日かと思ったが、友達に12月25日が誕生日の子供はいない。それなら、友達を増やしたり、一緒に遊んだりすることに意味はあるのだろう。大人は価値を重んじるくせに、何故か見えない友情を大事にする。だから、「おともだちはだいじです」みたいな、そんなものなのだろう。深くは考えないようにした。

 考えたら水底に沈むどころが、溺れて窒息してしまう未来しか見えなかった。


 幼かった子供は大きくなって、思春期真っ只中の少年になっていた。少年はクリスマス以降、とにかく勉学に打ち込んだ。周りの子供たちが遊んでいたり、家族旅行に行っている間も、本を読んでペンを滑らせた。少年の父親も母親も大学は出ていない。バブル期に仕事を得て、大企業にはいり、家計自体は中流といったところだ。チャンスがないわけではない。お金持ちそうな親戚には媚びを売り、お年玉を増額してもらい、それをゲームではなく参考書に費やした。幼き日の少年の地道な努力により、エリートを輩出するといわれた中高一貫校に入学したのだ。皮肉にもキリスト教系列の学校に。


 十字の紋章が入った焦げ茶のマフラーに一目見て高級品とわかる紺の外套。学園指定の鞄と通学靴。海沿いの丘に建てられた白壁が美しい校舎の中で、潮風に吹かれながら冷たい冬を迎えた。中庭や校門に雪が積もり、用務員が雪かきに追われる。靴で乱暴に雪を踏んづけ地表を露わにしながら、少年は白いため息をついた。


 「また、この季節がやってきたか…」


 手は手袋をしていてもかじかんでいるし、革靴からは雪がしみ込んで靴下が濡れているのがわかる。雪を靴で蹴っていたから自業自得とはいえ、ベタベタした不快感を拭えないでいた。これは学校についたらストーブで乾かさなきゃ。

 唯一、温かいといえば自分の息しかなく、動かすのも億劫な両手を口に持っていき、コーヒーを覚ますようにフーフーと吹きかけた。もちろんその場しのぎにしかならず、すぐに冷める。

 早く教室に行こう。


 足取りはちゃんと校門に向かっているのに、瞳はどこかを彷徨って迷子だった。


 それでも少年は普段と何も変わらないような顔をして毎日学校に通い勉学に励む。

 クリスマスシーズンにもなれば、空き時間には修道院に送る雑巾を縫い、気まぐれに刺繍をし、奉仕活動に勤しむ。学校に併設された聖堂で無心になって歌い、神を讃え、神父の説教を聞く。ステンドグラスから鮮やかな光が差し込まれる中、胸元で紺色のネクタイの前に手を合わせ、静かに祈る。

 信者でもないし、決して信心深い性格ではなかったが、少年はこれが好きだった。成長期の男子が暖かい聖堂で長時間じっとしているのは退屈だったし、眠気で持っている聖歌集を落としそうになることもあったけれど、少なくとも外の喧騒を忘れさせてくれる。

 利益も出ないけれど、損失も出ない。織り込み済みの伝統行事みたいなもの。何も考える必要がない。学校にいるだけで自尊心も、僻みっぽさも、自分の中で燻る焦燥感も、きれいさっぱり忘れることができた。


 でも、学校から一歩外に出ると、綺麗な街並みと喧しい人だかり。かつて一度だけ家族と出かけたクリスマス市を通学路にしている少年は、道行く人を見てあざ笑う。

 

 うわ、下卑た顔しているなこのオジサン。

 あの女、すごい高価いブランド品強請ってやがる。

 サンタさん連呼しているよ、あの家族、バッカみたい。どうせ金に余裕がなくなったら本性を見せるんだろう。


 ふんっと鼻であしらいながら帰路に就く。見せつけるように舌打ちをすることも忘れない。ほかの子供がサンタクロースと言っているときに現実を知ったことを少年は得意げに思っていた。先に知識を手に入れたことの優越感、自分には世の中が見えているいう妙な満足感があったからだ。

 世の中は資本主義のピラミッドだ。頂点に行けばこの世知辛い世の中を生き延びることができる。それならやってやろうじゃないか。少年は戦意を糧にして今日を生きる。クリスマスなんて関係ない。物は物だ。金で買えばいい。

 幼い時みたいに、何もできないでそこに佇むだけの自分ではない。今、一生懸命社会の波に乗って高学歴を得ることができれば、ピラミッドの頂点近くまでは行くことができる。


 クリスマスに楽しそうな顔して満足げな奴なんて、自分の足元にも及ばなくなるだろう。いつか絶対、そうしてやる。


 胸にチクチクと刺さる棘のようなものに気づかぬふりをして胸を張る。クリスマスを楽しむ子供たちを見て、自分にもこういう時期があったななんて感傷的になりながら、そこから目を背け続ける。

 楽しいなっていう気持ちに無邪気に手を伸ばせたら、そのぬくもりを素直に受け取れたら。違う違う。ふるふると頭を振って少年は前を向く。


 そんなの無理に決まっている。


 季節は巡っても、凍ったままの池はまだ溶ける気配を見せない。冷たい水の下で泳ぐ魚は外には出れれない。出たとしてもその温度差に耐えかねて死んでしまう。魚の涙はぼろぼろと零れ、水面には届かず沈んでいく。冷たい雪が積もった氷の下。そのさらに真っ黒な水底。太陽の光に焼き殺されたくなかったら、そこにいるしかない。


 そんな諦めに似た気持ちすら少年は認めず、若さゆえのから元気で家の玄関をくぐった。


 家に帰れば勉強だ。幼い時みたいに、何かに貢献できないというもどかしさはない。勉学をこなして将来有望になれば、育てられた分だけの価値を返すことができる。それだけの対価を支払い、さらに自分はその上の上の上に。少年の頭はそのことだけが念頭におかれていた。参考書と書きかけのノートを開き、鉛筆を紙面に滑らせる。


 それが合図となってクリスマスも、今しがた考えていたことも、何もかも忘れ氷の上に置き去りにしていった。

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