雪が降ることを喜べなくなったのはいつからだろう
喫茶流舟
降り積もった雪の下には
雪が降ることを喜べなくなったのはいつからだろう。雪で遊ぶのは楽しいのに、この季節はどうしても嫌いだ。雪は積もれば美しいけれど、それが溶ければ残るのは人間の醜さだけだから。
誰もが忙しい師走。電飾の数だけ人が集まる。ちょっとした大きい駅のある街の、お洒落な通りにあるクリスマス市、高級店が立ち並び、人でごった返す。焦げ茶のマフラーに紺の外套を羽織り、焦げ茶の手袋をつけた少年は道行く人を見て、口角を吊り上げた。
家族に手を引っ張られた幼い子供はサンタさんとプレゼントにしか興味がないし、中年はボーナスとか年末決算とかお金のことばかり。欲丸出しだね、顔がやつれているよ、かわいそうに。短い鳶色の髪をなびかせ、黒曜の瞳をくるくるとまわし、少年は頭の中でこっそり指摘する。
そういえば、人は見返りを求めすぎる汚い生き物だと知ったのも、きれいな雪が降り積もる幼いころの冬だった。
まだ背丈がリビングのテーブルに届いていないような年齢だった。
そのとき少年はまだ5歳の子供で。両親に手を引かれてこのクリスマス市を見ていた。人は煌びやかなものに目が惹かれる。惹かれれば心も躍る。電飾もツリーもリースも只々綺麗で、見るたびにはしゃぐことができた。
サンタクロースが何者かも、クリスマスの由来も知らなかったけれど、何となく楽しい愉快な行事なんだと肌で感じた。そしてその日のうちにそれは壊された。
クリスマス市の玩具屋に入ると、まず真っ先にこう言われたのだ。
「クリスマスにはねサンタクロースはいない。プレゼントにはお金がかかるんだ。だから貰う代わりに君が私の言うことを聞くのは当然だよ」
「ふーん」
サンタクロースを信じる子供が多い時期にそれを言われるのは衝撃的ではあったが、特にショックは感じなかった。
子供ながらにこの世界にはまだまだ理解できないことがあるのだと理解していたからだ。お金の単位も価値も解らなかったけれど、でも大人の頭はそれで回っていることも、何となく生きるに値するぐらい重要なことであることは薄々分かっていた。
人は利益を求める。幼稚園、保育園、人の集団の中にいて、周囲の、そして自分自身のむき出しの欲望を日々感じていた子供にとってはその考えを呑み込むのは容易だった。無償でプレゼントがもらえるなどと、そんな都合のよい話はないのだ。だから、それを聞かされたところで、飲み込みのよい子供の夢が壊れるわけはない。
サンタクロース事実を受け止めた子供だが、とりあえずクリスマスプレゼントを貰って半ば浮かれながら帰路についていた。人間とは現金なもので、物を貰えば真実よりも喜びの方が勝ってしまう生き物だ。
玩具を大事に抱え、浮かれる周囲と同じように軽い足取りでマンションの階段を駆け上がり、リースがつけられたドアを通る。
クリスマスツリーが飾られた居間を通り抜け、人形の包装を解こうとはやる子供を、まず着替えさせようとする母親。母親の注意なんぞ聞かずに箱を投げ捨て人形に抱き着く子供。何だかんだと微笑ましそうにみる両親。
遠出に疲れて、お腹いっぱいご飯を食べた幼い子供は日が完全に落ちるとともに意識も遠のく。買ってもらった人形とともに毛布をかぶり、幸せな夢を見に行く。
睡魔には切れ目がない。
子供は何度も自分が眠ってしまう瞬間を捉えようと試みるが一度もうまくいっていなかった。目をつぶっても眠っていることにはならない。でもその次に目を開けた時には眠っていたことになっている。境目のない不思議さは子供を虜にした。
つぅっと浮かんだ魚が沈んで、また水面をつついて、石にあたってまた沈む。でも結局沈み切っていないから、また浮かんで。ぴちゃんと跳ねてまた沈む。浮き沈みすら感じられなくなったとき、私たちは眠りにつく。魚は僕で、お空は希望で、お水の中は――真っ暗で底は深い。
ぽんっと小石を投げられたように目覚めなければ、人は知らぬうちに深い深い水底に沈んでいく。そんな気がして子供はぶるりと震えた。
「リース代とツリー代はどうするんだよ」
「なんでそんなこと気にするのよ、あなた」
羊が一匹、羊が…ならぬ魚が一匹、魚が二匹…、睡魔を水に例えていた子供は目を覚ます。眠りの不思議に完全に気を取られていたけれど、ドア一枚の奥から聞こえてくる両親の声に背筋が冷え、一気に現実に戻された。
ツリーもリースも誰かがお金をだして作るからそこに在るのだ。決して無料で差し出されるサービスじゃない。当たり前だ。プレゼントがサンタクロースからじゃないことが分かった地点でそれも理解しているはずなのに、すっかり失念していたらしい。
ドア一枚隔てた向こうから、小さく言い争う声が罵声に変わる。罵声から何かがぶつかる鈍い音に変わる。子供の頭では何を争っているか分からなかったけれど、これが雪の下の現実だってことだけはよく分かった。ツリーもリースも買ったところで何かに役に立つわけではない。ただの装飾品だ。人を呼んで何かパーティでもするならともかく、核家族の狭いアパートの一室に飾ることを考えれば全く役に立たない。
これを損失というらしい。与えられた何かの対価に見合う分だけの見返りがないと人は怒るんだ。
そっか。そうだよね。無表情のまま子供は謝る。ごめん、僕、真実を知っても、今の僕には何もできない。凍てつくような冬、魚は水から出てこれない。魚は雪の美しさも、結晶が輝く様もきっと見ることはできない。何かの価値や対価を無視して、思ったまま受け取ることは、もう、できなくなっていた。
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