第X話 記憶 1
私が覚えている一番古い記憶は目だ。
二重で、大きく、丸く、少したれ目。黒い瞳は爛々と輝いていて、子供が好きな物を眺めている時のような無邪気な目だった。それでいて母が愛しい我が子を見つめている時のような慈愛に満ちた目でもあった。
私は、それを綺麗だと思った。
次に古い記憶があの場面だ。
一言で言うなら真っ赤、だった。床には人の体が横たわって、敷き詰められていた。何人もの人から漏れ出した血液が、病院の白い床一面に広がって染め上げていた。体から抜け出たばかりの血は鮮やかに輝く朱色で、どこか透き通っているように見えた。
まるで宝石だった。床が全てルビーでできているかのようだった。
僕は、それを綺麗だと思った。
でもしばらくそれを眺めていると、血は次第に黒ずんでいった。太陽が沈みきって夕日の赤い空が夜に変わっていくようなそんな風景に見えた。暖かみを帯びていた空気が一気に冷めてきて、今まで感じなかった匂いが辺りに立ち込めてきた。
生臭い。鉄臭い。それだけでなく。死んだ人間から漏れ出すのは血だけではない。便の臭い、アンモニアの臭い。糞尿。体から溢れ出る物はたくさんある。涙、唾液、膿、裂けた内臓から膵液や胆液、それに脳漿とか。血霧に混じって漂う、人の中身の臭い。生理的に受け付けない、受け付けてはいけない臭い。
床にへたり込んだまま息を吸う。吸えばどうなるかわかっていたけど、肺に残っている空気はもうわずかだった。仕方なかった。
人を纏った空気が肺に入り込む。同時に腹部が一瞬ぴくっと震えたかと思うと、中身を全部もらした。今朝食べた病院食は全部出て行ったし、まだトイレにも行ってなかったので下も漏らしてしまった。私からも、まるで死体の仲間入りをしたような臭いがした。気持ち悪すぎて涙と鼻水も出てきた。
綺麗だと思っていた血は一瞬にして汚らしくなった。辺りに倒れている人たちも生ゴミをつめたゴミ袋のように感じた。それが破れて周りにゴミを巻き散らかしているような。もはや人として認識したくなかった。
僕は息ができなくなっていた。鼓動も止まっている気がした。というか世界の時間そのものが止まって私の意識だけが取り残されているように感じた。この停止した世界の中で僕は、何故か、安堵していた。みんなが死んでいながら、僕自身が死んでないから? 生き残ったことに対する安心? それとも、
止まった世界を再び動かしたのは悲鳴だった。後ろからやってきた女性の悲鳴。最初は鳥が死ぬ間際に声を張り上げているのかと思った。それくらい悲痛な叫びだった。
悲鳴が反響しながら病院中を駆け巡っていき、それが消え去った時、時計の針の音が聞こえた。病院のロビーにある大時計の音だ。それが午後二時を示していた。二時になった時の鐘の音はなかった。
私は息をしていた。この耐え難い臭いに急速に体が慣れていった。続けて鼻をすすった。もう人の匂いは感じない。代わりに自分の嘔吐した吐瀉物の臭いが口の中に一杯に広がって、酸っぱくなった。胸に両手を当てて脈拍を確認すると生きていることの実感がわいてきた。冷え切っていた手に冷え切っているという感覚が戻ってきた。足先も動いたけど腰に力が入らないので立ち上がることはできなかった。
「……大丈夫か」
私の上から声が降ってきた。大人の落ち着いた声で、いつものお医者さんの声じゃなかった。でも私はその声に聞き覚えがあって、どこか心の安らぐ、信頼できる声だった。だから私は顔を上げて声の主を見た。
牛だった。
紛れもなく牛だった。
角の生えた黒毛の牛が二本足で立っていた。なぜか知らないけどその体にはタキシードが巻きつけて……いや、着ているのか……!? さあ立ち上がるんだ、といわんばかりにこちらに蹄を差し出している。どこを握れと言うのだろう。握ったら引っ張り上げてくれるのだろうか、いやそれよりもまず、
「う、牛だ!」
声に出さずにはいられないほどの驚きだった。
「誰が牛だ……私は人だ!」
「嘘だ! 牛だ!」
「牛だ!」
別の人の声が聞こえて、ついそちらに牛と私は振り向いた。
そこには黒のゴシックな服装をした女性が牛を指差していた。体のラインが出る装いで、見るかぎりはいいスタイルをしているのがわかった。それに顔も美人で、つややかな長い黒髪も似合っていた。モデルだとか、芸能人だと思ったくらいだ。もしかしてこの人が主人公で、私はエキストラの役かもしれない、これは全部演出で偽者のセットなのだと思って、思おうとして、思えなかった。そこまで私に現実から目を背けさせる出来事ではなかった。
「牛……?」
牛が自分の手を見つめ、じゃなくて蹄を見つめるとはっと何かに気付いたように辺りを見渡した。血に塗れたガラスの一部に映った自分を見つけると、
「俺は牛だ!? 馬鹿な!?」
と自分で自分に仰天していた。それを見て、私はくすりと笑ってしまった。
こんな惨状なのに、こんな惨状だから、何故そこに牛がいるのか、何で牛なのか、コミカルなギャップにここで起きた惨劇が薄らいでしまった。もうこうなると現実ではなくて牛に全身が集中してしまった。
私は見失いかけていた私を取り戻していた。
「いや、俺が牛だとかそんなことはどうだっていい。この有様はなんだ!?」
「……わかんない。起きたらこうなってて」
「そこの女の人、これはどういうことなんだ」
「私だってわからないわ、気付いたらこんなところにいたんだもの。というかこの場で一番おかしいのはあなたよ、牛」
「誰が牛だ! ああ、俺が牛か……じゃなくて、俺には……あれ?」
牛は腕を組んで頭をかしげて、何か考え始めた。牛の胴周りに比べたらアンバランスな腕の長さでは、組んでいると言うよりは胸に手を当てているように見えた。それに牛の関節はあのように動くのだろうかと、少し疑問に思った。
「俺の名前はなんだ……?」
「知らないわよ」
そこで女性もはっとして、瞳がせわしなくいろんな方向を向いた。私を見つめて、牛を見つめて、何かを思い出そうとしているようだった。
「……私も名前はなんだったかしら、思い出せないわ。私は誰……?」
二人とも名前を覚えていないみたいだった。そしてちょっとほっとした。実は私も、私が誰なのかわかっていなかった。名前が思い出せないしこれまでどんな人生を歩んできたのかの記憶がない。ただ病院に入院していたのだという事実は何となくわかる。
そして私は私だ、というのもはっきりしていた。
手がかりを探そうと見渡すけど、傍に転がっている骸の中に見覚えのある顔はなかった。
「これってどういうことなんですか……」
「……見当もつかない。何か酷い事が起きたのだということしか」
「お譲ちゃん、お名前は?」
女性が若干牛のことを警戒しながら私の近くに歩み寄ってきて、訊いた。
「わかりません。私も二人と同じだと思います。記憶がありません」
私と二人はそれぞれ向かい合って、何とか思い出せることを探そうとした。見つからなかったけど。
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