4-2
◆
「はあ……はあ……」
苦悶の表情を浮かべた男は樽のように膨らんだ体をベッドの上に放り投げる。
汗ばんだ男の裸体を純白のシーツが優しく受け止める。
「もう終わり? そう」
女の呆れとも嘲笑ともとれる声に男は反論しようにも息切れと心地よい疲労感に動くことができない。
「まだちょっと時間はあるわね」
女はその艶めかしい裸体を見せつけようにベッドから起き上がると腰まで伸びた髪をかきあげる。
男はごくりと息を呑んだ。
「お隣邪魔するわね」
薄暗い部屋に浮かぶ妖艶な仕草。見下してくる女の目も覚めるような深紅の長髪。その更に奥は深紅の双眸が不気味に輝く。
するりと男の横に寝ころんだ女はただただ締め切られた窓の向こうを見た。
一糸纏わぬ女の艶やかな姿。しなやかな腰つきに白い肌。僅かに浮かんだ汗が曲線を描き這う豊かな胸。十代とは思えぬその熟した体を前に、体力と共に失いかけてた男の情欲を刺激する。
「なあ、オリビア、俺の女にならねえか?」
「その話何度目?」
肩に回される手を女はやんわりとそれでいながらはっきりとした意思を持って弾く。
「いいだろう?」
さっきまで抱いていた体とは思えないほど、否、抱いていたからこそ男はより強くその体に魅了される。
「俺がこの町で一番なんだぜ」
大国と大国を繋ぐ街道沿いに点在する町の一つ。旅人たちが身も心も癒していく町、ディエロ。決して大きいとは言えないが旅人がひとときの休息を得るには十分な大きさだ。
その町の長としてバクスター=オッドマンはオリビアを口説く。
普段は人前で決して見せない欲深な感情がオリビアに迫る。
「誰が一番かなんて私の知ったことじゃないわ。今はあなたはお客様。お金で私の時間と体を買った。それだけの関係でしょ」
「いでっ!」
体同様に膨らんだバクスターの団子鼻をオリビアは指でつんと突く。
オリビアにとってバクスターは魅力のない男ではない。
資産。
地位。
野心。
そのどれを取ってもこの町にいる誰よりも渇望している。若干の年齢差こそ感じるが、それもまた一つの魅力と見ることはできる。
「つれねえな。俺と一緒なら高みの風景を見せてやるってのに。
俺をこんなに執着させるのは、オリビア、お前だけなんだぜ──あでででっ!」
そっと抱きかかえるように乳房に振れた指先の皮をオリビアはつねる。
「さて、そろそろお別れの時間ね。終わったならお帰り願おうかしら」
「ま、待て! あと五分あれば──」
「タイムアップ」
バクスターの申し出を歯牙にもかけず、怒るでも笑うでもなく、ただ優雅な口調でオリビアは呟くと赫灼の長髪を大きく揺らしベッドから起き上がりカーテンをさっと開く。
天高くまで上った陽光が薄暗い部屋をさっと照らし出す。
その光を受けた深紅の長髪と瞳はまるで燃え上がるかのように輝く。
「バクスター様、いつも御利用ありがとうございます!」
ジャケットを羽織、ネクタイを締めたバクスターの前に給仕姿の男がへりくだった笑みを浮かべて揉み手する。
丸めた猫背がよく似合う小柄な男だ。
「おい支配人」
「な、なんでしょうか!?」
「オリビアのほんとの名前をそろそろ教えてくれても良いんじゃねえか?」
オリビア。この店で働くために設けた女の偽名だ。この町でオリビアの本当の名を知らぬ者はいない。
「そ、それは私も知らなくて……」
困ったような顔の支配人を前にバクスターは威圧感のある顔を近づける。
「それじゃあもう一つ。今後、オリビアの客は俺以外全部入れるな」
「そ、それは……」
「あの体を俺以外の男に抱かれてると思うと無性に腹立たしい。あの体は俺の──」
「何言ってんの」
凄むバクスターの頭をスチールの盆でオリビアが小突く。バスローブ一枚羽織ったその姿ですら男を魅了するには十分すぎる姿だ。
「こっちは仕事でやってんだから、客の予約取るななんて、完全な業務妨害でしょ。
そんなことを清廉潔白の町長様がやって良いわけ」
「ふむ。私のイメージと言うやつが崩れても困るな。だが、オリビア。もし今より高い場所へと上りたいなら、私はうってつけの男だぞ」
捨て台詞のような言葉を残すと一度だけバクスターは自分の頬を叩く。そこには町長として町のことを想うバクスターの顔であり、欲深で野心家のバクスターの顔はない。この表情の使い分けが出来るからこそバクスターは町長の地位を得られている。
「オリビアちゃん、ありがとね」
「こっちは真っ当な商売をしてるだけだから。文句つけられるいわれは無いわ」
手を合わせて謝る支配人の前にオリビアは優しく微笑む。
この旅人が通る町、ディエロには多くの宿が存在する。それらは全て大国間の往来を目的とした者たちの羽休めの場となっている。
大国の高官が寝泊まりを行う由緒ある宿から、どこの馬の骨とも知らぬ者まで来るもの拒まずの木賃宿。そしてそう言った旅人を標的としたパブから娼館まで、街道を往来する者と共にこの町も発展してきた。
「じゃあ私は今日はこれで帰るから」
「オリビアちゃん、お疲れ様」
そしてこのどこの町と比べてもさして変わらないディエロの町にはたった一つの名物がある。
──オリビア=ディエロ──
この町で育ったことからディエロと言う名を背負うが誰一人文句をつけることのできないただ一人の女。
娼館でその身を売っているにも関わらず、決して怯むことのないその瞳の赤い輝き。体を重ねれば重ねるほど更に深く知りたくなる不思議な中毒性のある娼婦。
噂は近隣の町にまで及び、オリビアの体を抱こうと遠くから街道を歩きわざわざ出向いてくる者たちがいるほどだ。
「オリビアちゃん、今度絶対に金貯めて行くからね」
「奥さんいるでしょ」
「家内にゃ内緒でこつこつ金貯めてんだ。あとちょっとでオリビアちゃんところに遊びにいけるから」
「オリビアちゃん、さっきバクスターの奴が気分良さそうに歩いてたけど、今日の相手は君だったの?」
「お客のことは何も喋りません」
髪同様に真赤なドレスを身に纏ったオリビアの姿はどこにいても老若男女問わず向き直る。
大きく晒した胸元や深いスリッドから伸びた白い脚。そしてそのことをまるで違和感を覚えず媚びることもないオリビアの自然な態度。
容姿だけでなく、仕草、立ち振る舞い。そのすべてが娼館に顔を連ねる娼婦たちとは違う。
「それよりも近々何かあるの?」
おもむろに辺りを見渡せば、街道に沿うように発展したこの町全体がまるで祭りでも控えているかのように賑やかだ。
露店も普段の倍は並び、どの宿も多種多様な看板を店前に掲げている。
「知らないのかい!?」
オリビアはきょとんとした表情で頷いてみせた。
世事には敏感ではない。体を重ねた男たちが布団の上で語る話し。自慢話や愚痴。立志伝。それくらいがオリビアの頭の片隅に残るくらいのものだ。
今この町で起きていることは明らかに何かしらの一団を迎え入れる準備だ。
生活のための露店だけでなく、レイを利用し見るものを楽しませる大道芸を披露する見世物小屋などが設営され始めている。
「最近この近くで遺跡が見つかっただろ」
「…………ん? 遺跡?」
「それも知らないのかい」
トマトを片手に露店の男は呆れかえった声をこぼした。
「まあとは言ってもわしらも詳しいことは知らんが、早い話が、その見つかった遺跡を調査するために大国の一団が来るんだよ。ヒース国の」
「ヒース国……ねえ。名前くらいは聞いたことあるけど」
ディエロの町からおよそ馬で四日。
決して近いとは言えないが、その大国はここを往来する者たちの口から聞いている。
レイ・ドールを軍事兵器としてどの国よりも上手く利用し、周辺国や属国の治安を護り、法により平等を謳った異邦の行商人への厚い保護もある。
この街道を行き来する多くの者達の最終地点となる大国の一つだ。
「なんでもそこの王様と姫様が直々に来るそうだよ。だから町も諸手を上げて歓迎しようってわけよ」
「ふーん」
「当日はうちもいつもより割引価格で野菜売るからいつでも来てね。オリビアちゃんなら大歓迎だから。
あとこれ」
男は店の脇から小さな袋を取り出す。
「うちの自慢の野菜。家内にバレるとどやされるから、さっさと持っていきな」
「ありがとう」
オリビアの優しい微笑みに男は顔を紅潮させる。
──大国のお姫様に王様ね……
大国の王位を持った者が通過することこそあれど、この町に訪れるなど確かに滅多にない機会だ。
町の者たちが賑わう気持ちもオリビアにはよくわかる。
「どうせお姫様って言っても箱入り娘に決まってるでしょ」
王族に対するイメージなど鼻もちならないものしかない。
オリビアと体を重ねたのは男たちのなかには大国の官僚や使者だけでなく、ときとして王位の継承権を持つ者もいたが、誰一人として娼婦で働く者に対して与えるものは憐れむ眼差しと、自分より確実に卑賎たる存在に対する傲慢な蔑みだけだ。
商売であれば誰であろうと例外なく相手はするが、オリビアは決して貴族や王位、権力を持ち、それに胡坐をかいている者たちに対して好意的な印象はない。
「あら?」
「よお」
先ほどまで店で顔を合わせていたバクスターが何食わぬ顔でオリビアの家の前に立っている。
「っで、わざわざ私の家まで何の用?
娼婦の家を市長が訪ねるなんてあまり良い印象を世間に与えないわよ」
オリビアは椅子に座ったバクスターの前にお茶の入った碗を差し出す。
「それ飲んだらさっさと帰ってね」
「ただの娼婦ならわざわざ俺が出向くような真似はしねえ。
オリビア、お前の望みはなんだ?」
「唐突なに?」
差し出された茶をバクスターは一息で飲み込んだ。
まるで質問の真意が掴めないオリビアを前にバクスターはいやらしくにやついてみせた。
金でオリビアの体を買ったときと同じ表情だ。
「なに、言葉のままだ。
欲しいものがあるんだろ。金か? 地位か? それとも宝か?」
部屋をぐるりとバクスターは見渡す。
女の一人暮らしには決してあり得ない豪奢な献上品の数々が棚を埋めるように飾られている。
それらは全て、オリビアの体に惚れた男たちが彼女へ捧げてきたものだ。
異国の地でしか見ることのできない虹色の毛皮。眉唾な伝説の由来となる宝剣。彼女が受け取ったものは挙げればキリがない。
──私が欲しいもの……。
深く考えたことはない。
宝も、金も、地位も欲しいなどと思ったことはない。
──『欲しいもの』
そう問われたとき具体的な回答が何一つ頭に浮かび上がってこない。
身を売り日銭を稼ぎ、男たちから崇められるような目で見られる日常が悪いわけではない。ただそれが求めていたものかと問われればオリビアは首を傾げることしかできない。
「今度、ヒース国の王が高官たちを連れてこの町へと来る。そのときにお前に接待してもらいたい。
俺のものになれとは言わねえ。俺と共に駆け上がろうじゃねえか」
野心の油でぎとついた光がバクスターの瞳に宿っている。
「上ってどこへ私を連れて行ってくれるの?」
「俺がお前を高官に紹介してやるよ」
「私が接待して、あんたは大国とのパイプを持つ……ってことね」
「察しが良い奴は好きだ。
余分な言葉を吐く労力が要らないからな。
どうだ。悪くねえだろ。
いくらお前が有名人とは言え、娼館で働く女の一人に過ぎないのもまた事実だ。
十代の若さで、文句なしの大国の高官を相手にできるんだ」
「……」
バクスターの言葉を借りるならばそれは上へと上り詰める好機に他ならない。
「やめとくわ。
「なっ!?」
断られることなど微塵も思っていなかったのだろう。バクスターは目を見開いて驚いてみせる。
「これほどの好条件。何を断る理由があるんだよ?」
「私の行きたい場所とあんたの行きたい場所はどうやら違うみたいだし」
金や地位。そんなものは興味ない。
そもそもこの世界でオリビアが興味のあるものがなんなのか。それはオリビア自身にすらわからない。
ただ単純にバクスターの話にひどく興味がわかない。
「お前は確かに美しい。はっきり言って俺が見てきた女のなかでも特別だ。だがな、美しさってのはいつまでも続かねえんだ。
いつまでも男がちやほやしてくれると思うな」
「それは私が話を蹴ったことに対する負け惜しみ?」
「このチャンスを蹴とばしてお前はどこに行く気だ?」
「さあね。それは私自身もわからない。ただもしもこの町を出ていくときがあるなら、ディエロ=オリビアと言う名は捨て、自分の名を名乗るわ」
「俺に、それは教えられないってのか?」
「残念だけど行きたい方向が違う相手に語る名前じゃないの」
帰り際にバクスターは「クソっ!」と捨て台詞を残して樽のような腹を揺らして出て行った。
一人、オリビアは椅子に座ったまま飲みかけのグラスを眺めた。
「どこに行きたい……か」
バクスターに対して言葉にしたとおりそれは自分でもわからない。
今の日常を気に入ってるのも事実なだけに、このまま男に抱かれ、町の看板娘として漫然と過ごす日々も悪くない。
バクスターの言葉通り、いつか自分が老いに負け、抱かれなくなればそれはそれだ。
ただただ時の流れに身を任せた日々。
今はまだこの生活を終わらせるときがまるで見えないままオリビアは小さくため息を一つ吐いた。
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