第4話 表出する衝動


「先生、あのね」


 放課後の誰もいない静かな空き教室の中で、私は仁科が切り出すより先に話を始めていた。仁科は穏やかに微笑みかけてくる。


「私たち、付き合ってもう一ヶ月になるんですよね? だから、ちょっとお願いがあって」


「なんだい」


「二人でいる時は、先生のこと下の名前で呼んでもいいですか?」


 仁科は少しだけ顔を赤くしつつも、平静を装った表情だった。もし私が純粋に彼に片思いをしている女子生徒だったら、年上の男たる余裕を醸そうとする、いじらしい大人の照れ顔に映ったことだろう。


「ああ、もちろん」


「それで……本当に申し訳ないんですけど、私先生の下の名前忘れちゃったんです。教えてもらってもいいですか?」


「冬馬だよ。仁科冬馬だ」


 その瞬間、私の中の仮説は確信に変わった。


「それは嘘ですよね? 先生の本当の名前は、冬馬」


 爽やかで整った男の顔にいびつなシワが寄る。


「何を言っているんだい。前も言ったけど、江口って男はここにはいな——」


「だから変だと思ったんです。だってここは、現実で亡くなった人たちが住んでいる世界なんでしょう?」


 バン! 仁科が教卓を叩く音が響く。彼は慌てて「ああごめん、君がいきなり不思議なことを言い始めたから混乱して」と取り繕ったけど、そんなことでごまかせると思ったら大間違いだ。私は今、怒っているんだから。


「ここで生活しているのは震災で亡くなった人たちばかりでした。逆に、生き延びた人たちの姿はありません。家族やクラス、会社……籍はあるけど、どこかに出かけていたり、欠席していることになってる。でも江口先生だけは別で、最初から存在しないことになっています。その代わりに仁科先生がいる。私が現実世界で会ったことのない先生が、です。だから、賭けてみることにしました。この世界を信じて、あなたに好意を持ったふりをして。騙したりしてごめんなさい。でも、先生が自分の下の名前をそのまま答えてくれたからわかりました。あなたが江口先生だったんですね」


 江口はそれでも「僕は仁科だよ、数学教師の」と言っていたけれど、私が表情を崩さないのを見て大きなため息をつくと、やがて肩を震わせて笑い出した。その笑い方は、まさしく江口そのものだった。


「……そうか、気づいてしまったんだな。君の人格保持のために記憶を維持したことが仇になったとは。やっぱり、記憶は全消去してから意識をインストールするべきだったよ」


「意識を、インストール……?」


「君は震災後に滞りなく政治や経済が回っていたことを疑問に思ったことはないかい?」


「復興するのが早いなとは思いましたけど……」


 私がそう言うと、江口は大声で笑い始めた。


「すべて僕の技術の賜物さ! 以前大手のIT企業に勤めていた時に、政府からあるプロジェクトを任されていたんだ。それは、死者の思考データをSNSやウェブの行動履歴から抽出し、AI化して仮想世界に住まわせるというものだった。どうしてこんなことする必要があるかって? これからの日本はどんどん人口が減り経済が停滞する。ましてあんな震災が起これば、国が一気に滅亡してもおかしくない。だから、死者にも仕事をさせ、消費をさせることで、急速な国力低下の防止を狙ったんだ。まぁ、枯れ木も山の賑わいってやつさ。もちろん、死者の情報はアップデートがないから生前以上のことはできない。だが、こうして震災後に実用化されたことで、仮想世界の価値が証明された。僕は日本中から賞賛され、この国を救った英雄になれる……


 江口は無表情になり、つかつかと私の方に向かって歩いてくる。私が後ずさりしていると、いつの間にか教室の壁際まで追い込まれていた。


「当時の上司にはめられたんだ。僕はその人に嫌われていてね、仮想世界が完成間近まで迫った時になって別の部署に異動させられ、僕の名前はプロジェクトメンバーから外されていた。……僕は会社を辞めたよ。それ以来他人を信じられなくなってしまって、会社勤めができなくなった。だから、君の高校の非常勤講師になった」


 江口は仁科という仮想世界の顔で、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。どこまで信じていいのかわからないけれど、本当ならば不憫な話……そう思った時だった。


「哀れんだような目をするな!」


 乾いた破裂音が自分の頬を叩いて鳴ったものだと気付いたのは、頬がじんじんと痛み出した頃だった。江口は肩で荒い息をしている。やがて私の頬を叩いた右手をハッとしたように見つめ、急にすがるようにして私の足元にしゃがみ込んだ。


「ごめん、ごめんよぉ。……全てを失った僕にとって、ヨーコ、君は女神だったんだ! 授業中スマホばっかりいじっている他の生徒たちに比べて、君は真面目で、おまけに僕を頼らないと何もできないパソコン音痴だった。君が僕の存在価値を証明してくれたんだよ! 君は僕がいないと何もできず、僕も君がいないと存在できない……運命の出会いじゃないか! だけど館山を失ってからの君はすっかり気落ちしてしまって見ていられなかった。だから、わざわざ以前作ったプログラムのサーバーにこっそりアクセスして、君と僕の意識をここにインストールしたんだよ。喜んでくれよ! もう一度館山に会えたじゃないか。なぁ、ヨーコ。ここで一生一緒に暮らそう。そうしたら僕も君も幸せだろう?」


 狂っている。以前から江口の視線には何か気味の悪いものを感じていたけれど、こんな風に思われていたなんて。少年のようにキラキラと瞳を輝かせる彼に、ぞっと背筋が凍える。だけど、どこへ逃げればいい? 仮想世界に意識をインストールされてしまっているのなら、どうすれば現実に戻れるのだろう。私には分からなかった。彼の言う通り、パソコン関係のことは苦手なのだ。


「うんと言わないなら僕にも考えがある。僕はこの世界のAIの意思をある程度プログラムでコントロールできる。それはインストール済みの君の意識に対しても同じことが言えるはずだ」


「もしかして、それで……!」


 私は不自然な言葉を繰り返したテツタのことを思い出した。江口は自分の正体を周りに気付かれないように工作していたのだ。パニックで冷え切っていた怒りが、再びふつふつと湧き上がってくる。絶対に脱出しなきゃ。江口も連れ出さないと、ここの人たちが良いように操られてしまう。ただでさえ、亡くなった人たちを勝手にAI化して利用しているなんて、許せない事実なのに。


 江口がパンと手を叩く。すると彼の眼の前にホログラムのように液晶画面とキーボードが現れた。江口がカタカタとキーボードを打つ。すると私の頭がチクリと痛み、その後で何か大事なことを忘れてしまったような喪失感が襲ってきた。キーボードの音が響くたび、それがどんどん大きくなってきて、頭がぼうっとしていく。このまま震災のことも、この世界の真実も忘れられたら? 本当はその方が良いのかもしれない。優しい仁科先生がいて、仲の良いクラスメートがいて、それに、ここには……




「話は聞かせてもらった!」




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