第2話 帰りたかった場所


「ヨーコ!」


 名前を呼ばれてはっとした。少し湿った木の匂い、シャーペンの落書きのある木目調の机……顔を上げると、そこは高校の教室だった。乱雑に貼り重ねられた掲示物も、一週間以上更新されていない黒板の日直欄も、間違いない。ここは、震災が起きる前に私が過ごしていた場所だった。


「ヨーコ!」


 もう一度名前を呼ばれ、私は声がした教壇のあたりに視線を移した。そこには爽やかな水色のシャツがよく似合う、すらっと背の高い眼鏡の男がいた。


「誰……?」


 私がそう言うと、彼はその整った顔でくしゃりと困ったように笑った。


「おいおい、寝ぼけているのか? 僕は仁科にしなだよ。君のクラスの数学教師だ」


 仁科と名乗った男は、教室の前方に掲示されている時間割を指した。確かに彼の名前が書かれている。


「私、何で教室に……?」


 私はふと窓の外を見て息を飲んだ。そこには私がよく知っている景色が広がっている。第二次関東大震災が起こる前の、街の風景が。

 私が外の景色に釘付けになっていると、仁科はやれやれと溜息を吐いた。


「一体どうしたんだい。何か悪い夢でも見たのか?」


「私、さっきまで映画を見て、その後江口先生に呼ばれて」


「江口? そんな先生、聞いたことないぞ」


 そう言われてもう一度時間割を見る。パソコンの授業の担当は、江口ではなくて別の先生の名前が入っていた。江口の名前はどこにもない。


「ヨーコ、お前ちょっと疲れてるんだよ。ほら、こっちへおいで」


 この違和感を説明する何かを見せてくれるのかと思って、手招きされるままに近寄る。すると……信じられないことが起こった。彼はその長い両腕で私の身体を抱きしめたのだ。


「え、ちょ、ちょっと! 何なんですか!」


 私は慌てて離れようとする。しかし彼の腕の力はかえって強くなった。


「今さら何を恥ずかしがってるんだい。だって、君と僕は恋人同士だろう?」


——どういうこと?


 そもそもこの仁科という男のことは見覚えがないし、私に教師の恋人がいるなんて記憶もない。だけど、仁科は何の疑いもなく私を抱き締めている。


「大丈夫、もうみんな帰ってしまったし、ここなら誰も見ていないよ」


 仁科の顔が私に近づいてくる。どういうことなの? 私とこの人は本当に恋人なの? それに、あの大地震は? 疑問はたくさん浮かぶけど、彼の服からふわりと甘い匂いがして、今は何も考えなくてもいいかという気もしてきた……その時だった。


「ヨーコ! 一緒に帰ろうぜ!」


 ガラッとけたたましい音を立てて教室の扉を開いたのは、茶色に染めたばかりの短い髪をツンツンとワックスで立て、制服を緩く着崩した男子生徒。その姿を見て、私は目をこすった。何度も何度もこすった。


「おっと……お、俺は今、何も見てないっすからね」


 少しだけ顔を赤らめながらも、ずかずかと教室に入ってきて、彼は無理やり私を仁科から引き剥がした。


「先生ごめん! 今日はどうしてもこいつと外せない用があって」


 ぱんと手を合わせて頭をさげる彼に、仁科は爽やかな表情で笑う。


「そうかい。まぁ、君がそう言うんなら仕方ないな」


「へっへへー。ありがと!」


 彼はそう言ってにっと無邪気に笑うと、私をずいずいと教室の外へ連れ出していった。温かい手。ほんのり香る、制汗剤の匂い。スクールバッグに付けられた、ハイパーマンのキーホルダー。


「ったく、なーんで俺との約束忘れるかなぁ? 今日は英語の課題教えてくれるって約束してただろ? 今度提出しそびれると評価やばいんだって前に……って、え! 何、お前泣いてんの?」


 彼が急に振り返ったので、私は慌ててぐしゃぐしゃに崩れた顔を手で覆った。




 だってテツタは死んでしまったはずなのだ。大震災の日に、私をがれきから庇って。




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