グッバイ、ミスター・ハイパーマン
乙島紅
第1話 灰色の世界の中で
第二次関東大震災——数ヶ月前のあの日から、私の世界は色を失った。
「いらっしゃいませ。チケットの種類はどうされますか?」
「種類?」
「こちらの割引表のどれかに該当するかですよ」
「あ、すみません……高校生一枚で」
普段一人で映画館なんて来ないから戸惑ってしまった。私は慌ててハンドバッグから財布と学生証を取り出す。
人の心の傷と違って、街の再生は恐ろしく早い。一旦は更地のようになってしまった新宿にもまた森のようにビルが生え出した。映画館は後回しにされていたけど、被災地にも娯楽をということでボランティア団体が公園にプレハブ小屋で簡易な映画館を作ってくれたのだ。
私は数時間並んでようやくチケットを手に入れた。地震が起こる前に「全米が泣いた」と大々的に宣伝していた、私の幼馴染・
だけど……なんだ、全然泣けないじゃん。
普段は仕事に家庭にうだつの上がらない普通のサラリーマン、その真の顔は悪を懲らしめるヒーロー・ハイパーマン。悪の秘密結社が世界征服を企んでいることがわかり、ハイパーマンは家族との時間を犠牲にしなきゃいけなくなる。家族との溝が深まる中、秘密結社に家族を狙われ、瀕死のヒーローはちゃんとピンチに駆けつける。世界も最愛の人も救って、その後家族仲良く暮らしましたとさ、めでたしめでたし。そんなありふれたストーリー。
そうだ。私、元々アメコミ映画って興味ないんだった。
見終わって初めてそのことを思い出し、乾いた笑いがこみ上げきた。同じシリーズの前作を見た時はすごく楽しかった記憶があるけど、それはまた別の理由だったのだ。
プレハブ映画館を出たところで、不意に名前を呼ばれた。その低い声の音で、背筋がぞっと凍える。振り向くと、前髪の後退した、一回りサイズの大きい薄黄色のシャツを着ている男が路地裏に立っていた。高校でパソコンの授業を担当している非常勤講師の江口だ。目の下には隈があり、頬はこけて血色が悪いけど、これは震災のストレスではなく彼のベースメイクみたいなもの。
「ヨーコ。君に見せたいものがある」
江口はそう言って私の腕を掴んだ。いやだ、離して、怖い。頭の中では拒絶の言葉がガンガン響くのに、江口のじっとりとした視線に喉がすっかり緩んで上手く声にならなかった。彼の授業の時に、私にだけ向けられていた視線。最初はパソコンが苦手な私を蔑んでいるんだと思っていた。だけどそのことを話したらテツタは違うと言って、彼の授業の時は必ず隣に座ってくれるようになった。それ以来江口と視線が合うことは減って、もうなんともないのだと思っていた。
でも今この瞬間になって分かる。彼は、その一瞬の気の緩みをずっと待ち続けていたのだ。
「大丈夫、君は必ず喜んでくれる。絶対喜んでくれるから」
私に言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのか。江口は呪文のようにぶつぶつとそう呟きながら、私を引っ張っていった。
***
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