第3話
「なあ、山口。お前が知り合ったっていう宗像何某の名前は知ってるか?」
左之助は、まるで世間話でもするように山口さんに聞く。
何か意図があるに違いない。
そうでなければ、そんな話を振るはずがない。
「確か………。そうだ、
そうだそうだ、と頷く山口さん。
正之。
俺の兄だ。
そして、さきほど見かけたのも……。間違いない、兄だ。
兄が、近くにいる。
「どうした?」
思わず立った俺に、訝しげに山口さんが問い掛けてくる。
「…………すみません、ちょっと失礼します」
ここにいてはいけない気がした。
そんな予感に追い立てられるように、俺は二人に断りを入れると、店の外へと出る。
後ろで、左之助が何かを言っていた気がしたが、何を言っているのかよくわからなかった。
気付けば、見知らぬ場所に立っていた。
どこをどう歩いたのかわからない。
鼻腔をくすぐるのは磯の香。
どうやら海に近い場所のようだ。
「………痛い…」
酒を飲みすぎた時のような痛みに、顔をしかめる。
空を見上げれば、太陽の位置は先ほどとさほど変わっていない。
辺りを見回し、どこから来たのかを考えてみる。
しかし、記憶がさっぱりない。
まさに迷子としか言いようがない状況だ。
「ここはどこだ?」
恐らくは江戸なのだろうが……。
場所を尋ねようにも、人の姿は見当たらない。
まずは落ち着こう、と自分に言い聞かせ、先ほどの二人の会話を思い出す。
彼らは兄の事を話していた。
兄は昔から、自分の話をするところへ引き寄せられる性格なのである。
簡単に言ってしまえば、彼らが兄の話をすると、どこからともなく兄が現れる。
だから出てきた。
今は兄に会いたくない。
しかも宗像家現当主なのだ。
つらつらと、そんなことを考えながら、俺は周囲に人の姿を捜した。
しばらくして、ようやく一人の侍に出会った。
「あの……」
声をかけると、侍は振り返った。
その侍は目つきが鋭く、これまでに幾人もの人間を殺してきたかのようだった。
思わず体が固まるほどだ。
侍は、俺をじっと見つめていたが、俺が何も喋らないのを不審に思ったのか、問い掛けてきた。
「何か用か?」
だが、俺は言葉を紡ごうにも、紡ぐことができなかった。
侍の雰囲気に飲まれたのではない。
何か……こう、言い表せないような何かが、喉元を圧迫しているかのようだ。
「どうした? 声が出せないのか?」
侍の問いかけが、なおも聴覚を揺らす。
俺は必死に首を縦に振る。
動作は小さいが、今はそれだけしかできなかった。
どうか伝わってほしい。
それだけを念じた。
「そうか。声が出せないのか」
そう言って、侍は顎に手をやってしばし考え込む。
その言葉に、俺はホッと吐息をこぼしていた。
こんな事は生まれて初めてだった。
「……この土地には、お前のように声を出せなくなるという事象が昔からあった。それは土地神の祟りであるとも、怨霊による呪詛とも言われている」
唐突に侍が言葉を発した。
そしてすらりと太刀を抜き放つ。
「だが、それはまやかし。実際は奴らの蒔いた種が芽吹いただけだ」
言うや、太刀を逆手に持って地面に突き立てたのだ。
刀身が半分以上、地面に吸い込まれた。
それほど彼の力は強かったのだ。
「さて、今回はどのようにして退治してやろうか?」
ざわりと侍の周囲に複数の気配が沸き上がると、いつの間にか人の形をとる。
それらを一瞥した侍。
突き立てた太刀をそのままに、ゆっくりと立ち上がる。
「小僧。決して動くなよ」
自分のあずかり知らぬことが、これから起こるのだと、俺は直感で悟った。
彼らへの怖れから、首を縦に振った。
それを横目で確認した侍が、駆け出してゆく。
それから何が起こっていたのかはわからない。
ただ、背後で何かを斬る音や怒声だけが聞こえてくるだけだった。
動くなと言われていたこともあったし、それ以前に体がピクリとも動かせなかったからだ。
しばらくして、音が急に鳴りやんだ。
と同時に、体が動かせるようになり、俺は地面に膝を追って座り込んだ。
「動かせる……?」
両手が動くのを確認し、ついで声も出せることに気付いた。
「…………よかった…」
大きく溜息をつく。
すると、先ほどまで大立ち回りを演じていたらしい侍が、大きな声を立てて笑い始めた。
「面白い小僧だ。もう少しで奴らに取り込まれていたというのにな」
「取り込まれ……?」
どうやら俺は危機一髪という状況だったようだ。
しかし、いったい何に取り込まれかけていたのだろうか。
「まあ、小僧には理解できなくてもいい」
地面に突き立てていた太刀を抜き払うと、鞘に納める。
そうして、ようやく向き直った。
「それで? 小僧。俺に声をかけたのは何故だ?」
どこでようやく、俺は当初の目的を思い出した。
「助けていただいてありがとうございました」
しかし、まずは礼儀を尽くすことが先決だと考え、頭を下げる。
ついでに、帰り道を聞くことも忘れない。
「市谷まで戻りたいのですが……、ここがどこであるかわからず……どう行けばいいのでしょうか?」
「………市谷、か」
しばし考えに耽る侍。
一番最初に、この侍から感じたのは殺気だった。
本当に殺されると思ったほどだ。
だが今は、それも感じない。
今思えば、あの得体のしれない何かに対してのものだったのだろう。
「ここは泉岳寺の近くだが……」
と、侍が遠くに見える寺を指し示す。
「すまないな。江戸に出てきたばかりで千代田の城くらいしか方角がわからん」
「いえ、城の位置さえわかれば帰ることができます」
再び頭を下げる。
すると、頭上で侍が小さく笑った気がした。
「面白い小僧だ」
「…………」
ゆっくりと顔を上げるが、侍は既に笑いを収めていた。
「千代田の城はあちらの方向だ」
泉岳寺がある方角よりも右側を指し示す。
「気をつけて帰れよ」
侍はそう言うと、ゆっくりと歩き始める。
「あの!」
思わず俺は呼び留めていた。
「名を……教えていただけますか?」
だが、侍は歩みを止めない。
これは聞かせてもらえないのだと判断して、俺は頭を今一度下げた。
その時だった。
「芹沢」
声がした。
顔を上げると、侍が歩きながら手を振る姿が見えた。
「俺の名は芹沢鴨だ」
そうとだけ告げると、後は何も言わずに去っていった。
不思議な侍だった。
視線だけで人を射殺せるような。
それでいて、人ひとりを見殺しにせずに。
「……とりあえず、さっさと帰るか」
気持ちを切り替え、教わった帰り道を歩き出した。
皇都奇譚 ~双刃残映~ 平 和泉 @okitsugu
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