第1話

俺が訳あって出奔したのは、もうかれこれ一年程前だ。

それまで江戸はおろか、藩の外に出た事さえなかった。

そんな俺がこうして生きていられるのは、恩人がいたからだ。

それが今、世話になっている道場・試衛館…天然理心流宗家を継いだ近藤さんである。

近藤さんは、俺の氏素性を詮索せずに、温かい飯と寝床を用意してくれた。

そして、行く場所がなければずっとここにいてもいい、とも言ってくれた。

俺はその好意に甘える形でそのまま居座っている。


「ああ、宗像(むなかた)君。ここにいたのか」


道場での稽古を終え、井戸端で体を拭いていると、近藤さんが声をかけてきた。


「すまんが、原田君とともに遣いを頼まれてくれんか?」


道場には、この一年の間に様々な人間が出入りするようになっていた。

近藤さんが言った“原田君”もその一人である。


名を原田左之助という。

伊予松山藩の出で、槍術の遣い手だ。

勿論、俺よりも年長で……確か六つ違うと言っていた気がする。


「わかりました。それで遣いとは?」


たまにこうして近藤さんから遣いを頼まれることがある。


「まあ……その、なんだ」


お、何か言いにくい用事なのだろうか。

近藤さんは、頬をぽりぽりと搔きながら腰をかがめ、俺の耳元でぼそりと呟いた。


「ウチのが、ちいっとばかし機嫌を損ねてしまってな」

「ああ……」


そういえば、と思い返す。

今朝から“つね”さんを見かけていないと思ったら、そういうことだったのか。


「じゃあ、“つね”さんが喜ぶようなものを持って、松井の実家に行けばいいんですね?」


念のため、そう問いかける。

近藤さんは、自分が言いたいことを分かってくれたことにホッとしたのか、大きく頷いている。


「道すがら、左之助と相談します」

「本当にすまんな」


この通りだ、と手を合わせられる。

本当にこの人は、誰に対しても腰が低い。

だからこそ誰からも好かれるのだろう。


「近藤さん。道場主なんですから、もう少し堂々としていてくださいよ」


予算だという金子を受け取りながら、そう伝える。

すると、近藤さんは大きな声を立てながら手を横に振った。


「いやいや……。君たちのような強者がいるから、この道場はやっていけているのだ。常に感謝していなければ」

「そういうところは近藤さんらしいですけどね」


じゃあ行ってきます。

近藤さんに見送られながら庭を出、左之助を捜しに部屋の方へと回った。





この時間帯なら、道場に身を置く食客たちは部屋にいる頃だ。

そう検討をつけて部屋に行ってみれば、案の定、部屋に集まって何かをしていた。

どうやら賭け事に興じているようだ。


「お、智也」


声をかけてきたのは、俺と歳の近い青年である。

彼はどちらかというと、童顔なのだろう。

俺と並ぶと、彼の方が歳下に見られがちだ。

名を“藤堂平助”という。


「お前も賭けるか?」

「いや、いい」


はっきりと断った方がいい、と思い知ったのは、彼らと付き合い始めたばかりの頃だった。

あやふやにすると、彼らは自分のいい方へと取るからだ。

それで失敗した事が二度ほどある。

あれは痛い経験だったなあ…と思い返しながら、目当ての男へと声をかけた。


「左之助。ちょっといいか?」

「お前のお人よしもここ極まれりってやつか? また近藤さんからの頼まれごとだろ」


振り返ったのは、ほど良く日焼けした肌を持つ、筋肉質の男だ。

先ほど近藤さんとの話の中で出てきた“原田左之助”とは彼の事だ。


「当たり。“つね”さんと喧嘩したから、何かを買って持って行ってくれって」

「また喧嘩したのか。本当、近藤さんも不器用なところがあるな」


いいぜ、と答えて左之助が立ち上がる。

それを引き留めたのは、他の二人だった。


「おいおい、左之助。てめえ、また勝ち逃げするつもりか?」


彼の腕をがっしと掴んだのは、今一人の男。

名を“永倉新八”。

彼は左之助より一つ年長であるが、童顔であるために、左之助と比べると若く見られる事が多い。

まあ、俺から見ても、永倉さんはどこか子供っぽい一面を持っているように思える。

そんな三人は常日頃よりともに行動することが多かった。


「んなわけあるか」


離せ、と掴んでいた腕を強引に外させる。


「ほら、行くぞ」


そして俺は、頭を掴まれて強引に連行されたのだった。

呼びに行ったのは俺なのだが……。

まあ…結果的に連れ出せたのだから、いいか。







さて、連れだしたのはいいが。


「“つね”さんは、確か甘いものが好きだったよな」


隣を歩いていた左之助が問い掛けてくる。


「外郎(ういろう)か、果ては落雁(らくがん)か…。ああ、金平糖って手もあるか」

「落雁って高いだろ。予算はこんだけだ」


と言いながら俺は、懐から金子の入った財布を取り出して、中身を左之助に見せた。


「…………んじゃ、金平糖が妥当か」


さっくりと決まった。

つくづく俺は思う。

左之助は直感で動く男だ、と。

そして、その直感はほぼ間違ってはいない。


「金平糖なら………最近流行の店だな」


ここからは俺の本領発揮だ。

“つね”さんの供で、よく市中に出ているため、甘味処の場所は把握済みである。

男ながら情けない話だが。

それはともかく、目的地が決まったので、早速買い出しに出かける。


「なあ、智也」


隣を歩いていた左之助が、呼びかけてきた。

その呼びかけに俺は、またかと心の中で溜息をついた。


「戻ったら、また手合わせしてくれ」


これが最近の常である。

手伝ってくれと頼むと、その代わりに手合わせをしてくれ、という言葉がついてくる。

俺が負け知らずなのが気に食わないのか、それともその他に何か理由があるのか。


「いいけど……、確か今日は朝から近藤さんに沖田さん……」


手合わせした人数を指折り数える。

そうそう、久々に来た土方さんにも手合わせしてくれって言われたな。

しかも、あの三人と立て続けに手合わせをしたものだから、最後には俺が力負けしそうになった。

その最後は……あの土方さんだ。

思い出しながら、俺は溜息をついた。


「ああ……思い出しただけで疲れが溜まる」

「そりゃ災難だったな」


他人事のように、左之助が苦笑を漏らした。

いや、本当の他人事なのだが。


「なら、この用事が終わったら、少し遠出でもするか?」


なおも歩き続けながら、左之助が言う。


「そうしてくれると有難い」


ホッと吐息をつき、視線を前へと向けた。

途端、視界の端に映った人影に、どきりとして思わず立ち止まってしまった。


「どうした? 知ってる誰かがいたのか?」


俺が急に立ち止まったのに気づき、左之助が問い掛けてくる。

だが、俺はそれに答えることはできなかった。


「…………どう、して…こんな、ところに?」


俺は、ガチガチに固まってしまった体を無理やり動かし、そして…喉の奥に絡まっていた声をゆっくりと押し出す。


「俺の……歳の離れた兄だ。次期宗像家当主」


言ってしまうと途端に、過去の己の所業が甦ってきた。

あの事は誰にも言っていない。

命の恩人である近藤さんにも……。

いつの間にか、その人影は見えなくなっていた。

ゆるゆると息を吐き出し、目を閉じる。


「お前……」


不意に、左之助の気遣う声が聴覚を揺らす。


「何かあって、ここに逃げてきたんだな」


それは、確信を持った声音だった……。

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