2-17.霊気

あかりを持っていないか?」

〈灰色の男〉が部屋の中へ入りながら言った。

「何しろ夜が迫っていたからな。あわててランプを馬の背に置いてきてしまった」

 言いながら左手に持っていた革袋をドサッと床の上に置いた。

 右手の『光るナイフ』は、松明たいまつのように頭の上にかかげていた。


 ルッグはただ呆然と〈灰色の男〉を見つめた。


 灰色の男は「仕方がない」といった表情を浮かべ、軽くめ息をいたあと、部屋の隅まで行き、手に持っていた『光るナイフ』を口にくわえて、いかにも重厚そうな造りの背もたれ椅子いすを、ひょいっ、と持ち上げ、部屋の入り口まで戻って扉の前に置いた。


「これで良いか……」

 灰色の男が言った。とりあえず扉を固定することが出来た、という意味だろう。


「……そんな事をしたって……」ルッグは独り言のように声を低くして。「妖魔を防げるわけがないだろう」


 そのを無視して、ゾルがもう一度「灯りを持っていないか」とたずねた。


 商人は、ゾルの問いかけに返事もせず、黙って自分の持ち物の中から携帯用の小型ランプと火打石を出した。

 何度か石を打ち、やがてランプに火がともった。それを確認した旅人が『光るナイフ』をブーツの鞘に収めると、青白い光が消えて部屋の中には薄暗いランプの光だけが残った。


「済まなかった」

 ルッグが何か言おうとする前に、喫茶テーブルをはさんだ反対側のソファにドサッと尻を落としながら、ゾルが謝った。

「扉の鍵を壊してしまった」


 反省しているようには全然見えない旅人をにらんで、ルッグが「ふん……白々しい」と吐き捨てた。


「まあ、そう言うな……」ゾルは自分の荷物袋の中から金属製のフラスコを出してテーブルに置いた。「蒸留酒ウィスケだ。上物だぞ」


 商人ルッグは(そんな物で買収なんぞされるかよ)と思い、上物の蒸留酒とやらが入っているフラスコを無視して、ゾルに当てつけるように自分の酒瓶から直接ワインを胃に流し込み、ふうっ、と息をいた。

「こんな安ワインが人生最後の酒になるとは、な……」


「なぜ、そう思う?」フラスコのコルク栓を抜き、蒸留酒をちびり、ちびり、とやりながらゾルが商人に聞いた。


「決まっているだろう。もう夜だ。じきに妖魔が来る。俺たちは臭くてドロドロした妖魔に飲み込まれて死んじまうのさ」

 ルッグの脳裏に、さっきまで夢で見ていた二十年前の光景がよみがえる。

「……いや……」

 ドロドロした黒い半液体の中から上半身だけを出して「助けて」と言ったメイド。

 最後に振り返って自分ルッグを見たお嬢さまミイルンの瞳。

「喰われて死ぬのなら、まだだ」


「〈妖魔〉と同化し、死ぬことも出来ず、永遠に夜の闇を彷徨さまよう……か?」ゾルが問いかけとも断定ともつかない口調で言った。


 その言葉に、ルッグがハッとして顔を上げる。


何故なぜそれを知っている? まさか、あんたも妖魔に人間が喰われるところを見たことがあるのか?」


「ああ。あるさ。何度も、何度も、な」


「じゃあ、なんで、そんなに平然としていられる? あんたが部屋の鍵を壊したんだぞ! 椅子なんかで扉を押さえたからって、妖魔の侵入を防げるものかよ!」


「なにか勘違いをしているようだ」喫茶テーブルの反対側からゾルが商人の顔をジッと見つめて、言った。


「勘違い? 何の話だ?」


「その前に、名前を聞いていなかった」


「……ルッグ……だ」


「ルッグさん、あんた、さっきこの部屋を『安全地帯』とか言っていたな……あらためてくが、どうしてそう思う?」


「どうしてもクソもあるか。二十年前からこの部屋には妖魔が侵入してこない。理由は知らん。とにかく俺はその事を知っている。それで充分だ」


「なるほど、偶然か……偶然、この場所が『湧き水』だって知ったんだな?」


「湧き水? 何だ、そりゃ」


「『例え』だよ……この世界には……ってものが存在するんだ」


「霊気? 俺に分かる言葉で説明してくれよ」


「説明しようがない。なにしろ我々人間には感知できないんだから。まあ、それが何であるかは、この際どうでも良い。『とにかく目に見えない、何か』って事で話を進めるぞ……で……この世界には、その目に見えない霊気の流れが噴出している地点が所どころにある……ちょうど地下水の流れが特定の場所で地上に湧き出るように」


「ああ、それで『湧き水』の例え、か……つまり、この部屋が偶然その『霊気の湧き出る場所』だったってわけか?」


「そうだ」ゾルがうなづいた。「そして、妖魔は、その霊気を極端に嫌う。この場所が妖魔に襲われない『安全地帯』である理由だ」


「なるほど。妖魔に襲われない理由がその霊気とやらにあるのなら、扉の鍵が壊れていようが関係ない……我々には感知できない霊気がこの部屋から湧き出している限り妖魔は部屋に入って来ない、というわけか」


 ルッグの言葉に、再度ゾルが頷いた。


「ゾル・ギフィウス……だったか……あんたが頭のおかしな旅人で、『霊気』だの何だのって話も頭のおかしな男が考えた出鱈目でたらめの妄想という可能性もあるぞ……『霊気』が人間の目に見えない耳にも聞こえない何かだとしたら、?」


「……」

 ルッグの問いに、ゾルはしばらく黙って商人の顔を見つめたあと、首を横に振った。

「ルッグさん、あんたみたいな懐疑主義者には何を言っても無駄だ。信じるも信じないも好きにすれば良い」

 蒸留酒のフラスコをテーブルに置いて、いきなり灰色の旅人はソファの上に、ごろんっ、と横になった。

「話してもつまらん奴と話していてもつまらん。悪いが先に寝る。部屋の鍵が壊れて不安だというのなら、どこへでも好きなところへ行くんだな。俺は今夜一晩、ここで寝ることに決めた」

 ゾルと名乗る男は一方的に勝手な言葉をルッグに投げて、それっきり目を閉じて黙ってしまった。

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