2-15.商人ルッグ

 男は、あるじを失い二十年放置された豪邸の喫茶室で目覚めた。

 本能的に窓の方を見る。

 まだ少しだけ……ほんの少しだけ外に明るさが残っていた。


 起きてソファの上に座り直し、顎鬚あごひげきながら思った。

(眠っていたのは、わずかな時間だったようだ)

 それにしては、やけに長い夢だった。

 故郷の村を離れ初めてトゥクの町に出た日の記憶。下僕の暮らし。主家の令嬢ミイルンとの情事。霧と怪物が侵入してきた日。全てを捨て都市デクレスへ脱出した朝……長い記憶の反芻はんすうだった。


 あの日、宿場町トゥクを出発したルッグは霧の妖魔に喰られることもなく、無事、日暮れ前にデクレスに到着できた。

『霧の日』から一ヶ月が経過していた。


 驚いたことに、デクレスの街は既に妖魔に対する防御策を確立していた。

 夜になっても街を囲む城壁の外に出なければ安全だという。


 その後、少年はデクレスの商人に拾われた。代償として、トゥクから連れて来た馬と馬車を取りあげられた。


 デクレスの警備兵士団にも、新しい主人にも、今までどうやって生きて来たのかと尋問じんもんされたが、本能的に(喫茶室の事は誰にも言わない)と決め、「神殿に隠れていました」と嘘をついた。「きっと神様の加護があったんだ」と。


 新しい主人から与えられた身分は、住み込みの下僕したばたらきだった。馬の世話、庭の手入れ、まき拾いに薪割り、水汲み……きつい肉体労働の日々が待っていた。

 雇い主が変わり、住む街が変わっただけだ。やることはトゥクの町にいたころと同じだった。

 デクレスに住んで七年が過ぎたあたりから徐々に商人を手伝うようになり、商売の基礎を学び始めた。

 十五年目、ちょうど三十歳になった年に、子供の居なかった主人から養子の身分を与えられた。その一年後、養父が亡くなり、正式に商売を引き継いだ。

 

(別人だ……)

 霧の二十年をどうにか生き延び、三十代半ばになった商人は思った。

(かつてこの町で下僕をしていた少年ルッグと、今のルッグは別の人間だ……)


 茶を飲もうと沸かし、ストーブから降ろしてそのまま冷たくなった水を薬缶やかんから直接飲んだ。


 ……その時、誰かが扉を叩いた。


 ぎょっとして、部屋の入り口を見た。

 振り返って、窓を見て、もう一度、振り返って扉を見る。


 ……外はわずかに明るい。……


(妖魔か? だが、なぜ日没前に来た? 霧もそれほど濃くないが……)


 再度、扉をノックする音が「コンッ、コンッ」と二階、室内に響いた。

「開けてくれないか……」

 声がした。

「中に誰かいるんだろう? 俺もこの部屋で夜を明かしたい。入れてくれ」

 男の声だった。


 ベッドがわりにしていたソファのわきに置いたクロスボウを取り、扉に向けて構えた。


「誰だ?」

 ルッグが叫ぶように問うた。扉の向こうの男が「旅人だ」と答える。

「ゾル……ゾル・ギイフィウスという。各地を旅している。怪しい者じゃない」

 外にいる男の言葉を聞いて、ルッグは「ケッ」と舌打ちした。

(『怪しい者じゃない』だと? この世に自分を『怪しい者です』と紹介する馬鹿は居ねぇぜ……)

 そんな事を思っていると、扉の向こうから「すまんが、早く開けてくれないか……日没がもう目の前だ。このままじゃ妖魔に喰われてしまう……部屋の中そっち?」

 ゾルとか名乗る旅人の言葉に、ルッグの心臓がドキリと跳ねた。

(なぜだ? なぜ、この部屋がであると知っている? ま、まさかトゥクこのまちの生き残りか? いや、だとしても辻褄つじつまが合わねぇ……なら、なぜ?)

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