2-14.脱出

 ルッグに町からの脱出を決意させた主な理由は食料の不足だったが、もう一つ、彼の心を後押ししたものがあった。


 ……馬だ。


 敷地内には馬小屋があり、馬たちが飼われていた。

 その世話をするのも下僕であるルッグの役目だった。

 飼葉かいばを与え、水を与え、ふんを掃除して馬小屋と馬自身の体を清潔に保つ。


 しかし、あの『霧の日』以来、自分自身が日々生き残るだけで精一杯だった。馬の世話をする余裕など無かった。

 昼のあいだ自由に出歩けると分かった時点で、馬を飼い続ける利点と、馬の世話をしなければならない労力とを天秤にかけ、ルッグは、全ての馬を敷地の外に出し、町に放した。


 通りに馬たちを連れて行って一頭ずつ尻を叩くと、馬は通りを走りだし霧の向こうに消えた。


 これで余計なものに気を使わなくて済むと、せいせいした気持ちでその日の食料集めに出かけたが、夕方、屋敷に帰ってみると、飼っていた馬のうち一頭だけが戻っていた。


 最初は驚いたが、馬の中にも多少は自分に対して愛着を感じるものが居たのかと思い、これも何かの縁だろうと、その一頭だけ敷地に入れることにした。


 餌やりも馬小屋の掃除も無し。そんな余裕は無い。ただ、広い庭で放し飼いにするだけだ。

 庭の花だろうと木の葉だろうと、好きなものを勝手に食えばいい。それで不足なら、どこへでも行ってしまえばいい……その程度の気持ちだった。それでも水だけは、毎朝、桶に汲んでやった。


 一ヶ月が経過して、いよいよ町を出る決心をしてみれば、そのたった一頭だけ残った馬が大事な『戦力』になると分かった。


 このトゥクの町は、都市デクレスと都市リイドのちょうど中間地点にある。

 どちらに向かうにせよ、日没までに到着しようと思えば徒歩での移動は有りえない。馬を使うしかない。


 ある朝、ルッグは集めた保存食料、新鮮な水、衣服、毛布などを小型の荷馬車に乗せ、一頭だけ残った馬につないだ。


 馬車を馬に繋ぐ作業は何度も経験していた。馬車を引く馬の手綱たづなを持って屋敷の出口まで誘導したこともある。

 しかし、馬の背に騎乗したり、馬車の上から馬を操った経験は無かった。


 通りまで馬車を誘導したあと、ルッグは馬の背を軽く叩きながら「頼むぜ」と声をかけ、御者台に乗って手綱を揺らして馬の尻を打った。同時に「ハイヤッ」と叫ぶ。


 馬は動こうとしなかった。ルッグは「駄目か……」と思った。

 再度、馬の尻を叩こうとしたとき、やっと馬が一歩、二歩と歩き出した。


 一度うごき出してしまうと馬車の速度はルッグの予想を超えて上昇し、最初は少し恐ろしいくらいだった。

 しかし慣れてしまえば、速く移動する手段としてこれ以上のものはないと思えた。薄く霧のかかった町を程よい速度で走る馬車の上は、快適とさえ言えた。


 やがて馬車は町の大通りに出た。この通りは、都市デクレスと都市リイドを結ぶ新街道の一部でもある。


「どうっ、どうっ」

 良いながら、手綱を引いて一旦いったん馬車を停める。


 通りの真ん中に立って、左右を見た。


「どっちへ行けば良いんだ?」

 デクレスに行くにしろ、リイドに行くにしろ、距離はそんなに変わらないだろう。

 ルッグは片方の靴を脱いで手に持ち、それを独楽こまを投げる要領で空に放り投げた。

 靴はくるくると回転しながらしばらく宙を飛び、街道の石畳の上に落ちた。

 つま先は都市デクレスの方を向いていた。


「よし、決まった」


 少年は靴を履き、ふたたび御者台の上に登って、馬の鼻先をデクレスに向けた。

 馬車が動き出す。


 町を出て森の中へ入ったとき、一度だけトゥクの町を振り返った。

 霧の中に消えそうになる町の姿を見ても、それほど悲しいとも思わなかった。

「四年間か……あんまり良い思い出は無かったな」

 そうつぶやくと同時に、一度だけ、お嬢さまの顔が脳裏に浮かんだ。

 

 森の奥へ奥へと街道を進むのは、少し怖かった。


(この街道みちの向こうには都市デクレスがあるんだ……それだけは間違いない)

 大丈夫、日暮れまでには到着するさ……少年は霧の向こうを透かして見るように目を細めた。

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