2-8.霧の日

 その日は、朝から濃い霧がトゥクの町全域と周囲の森に満ちていた。

 実際には、霧は前日の夜から大陸全土を覆っていたのだが……とにかく、その朝、目覚めたトゥクの市民は、町全体が目と鼻の先も見えないような濃い霧に覆われている事に気づいた。


「お母さま……このような悪天候の日に馬車に乗るのは危険だわ……外出は中止すべきよ」


 コートを着て、吹き抜けの玄関ホールから出て行こうとする母親を、二階の手すり越しに見下ろして、ミイルンは大声で言った。


 その声に、はっ、として振り返った母親が、娘を見上げて苛々いらいらとした顔を作った。


「ミイルン! 二階から見下ろして大声で叫ぶなど……私は、そのような事をする女の子に育てたおぼえはありませんよ! 言いたいことがあるのなら降りていらっしゃい」


 しぶしぶといった感じで正面階段を降りてきた娘に、大商家の貴婦人は、「今日はロウデン家の御当主様のお誕生日ですからね。ロウデン家は大事な取引先です。たかが濃霧くらいでお祝いに参らなかったら、我がいえとして恥をかくだけでなく商売にも差しさわりがあるというものです」と言った。


(まったく良いとしして『誕生日のお祝い』なんて……白々しい……何が、『商売に差しさわり』よ! 本当はロウデン家の当主に会いたいだけのくせに! あの好色男のご機嫌を取りたいだけなんでしょう!)

 そう心で思いながら、しかし、さすがに口に出して言う訳にもいかず、ミイルンは黙って母親を見返した。


 ロウデン家は、トゥク町で一番古い商家で、たくわえた財も町一番と言われていたが、今の主人が若いころから放蕩ほうとうに明け暮れたために没落しつつあるという話だった。

 しかし、それでも、先代の残した財産が莫大だったらしく、往時の勢いは無くなったにせよ、今でも町の有力者の一人には違いない。ミイルンの父親にとっては良い取引先だった。

 問題は、ロウデン当主の女癖だった。

 今年五十歳になろうというのに、町の貴婦人たちとの悪い噂が絶えなかった。

 そして、何かというとロウデン家にいそいそ出かけて行く奥さまを見て、メイドたちが彼女の居ないところで下衆げすな噂をして喜んでいる事に、ミイルンは気づいていた。

「灯りを点けて、馬車ゆっくりと走らせれば問題は無いでしょう……御者にそう言えば良いだけのこと……おとなしく留守番をしているのよ、ミイルン。良い子にしていて頂戴ちょうだい

 そう言い捨てて、母親は玄関の扉を開け、濃い霧の中へ消えた。

 ミイルンは、しばらくその玄関の扉をジッとにらみつけていたが、手近に居たメイドに怒りをぶつけるようにして叫んだ。

「ルッグを! 今すぐルッグを呼んで頂戴! と言って! 屋根裏部屋へ……いいえ……今日は、喫茶室が良いわ! 喫茶室へルッグを呼んで頂戴! さあ、早く!」

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