2-9.におい

「お嬢さまが呼んでいるからすぐ来るように」とメイドに言われ、ルッグは憂鬱な気分になった。

 何もかも捨てて逃げ出したくなった。


 しかし、同時に、お嬢さまが呼んでいると聞いただけで、肉体の欲望が高まるのを抑えられなかった。

 欲望の高まりを自分自身どうにもできない。それも分かっていた。


(こんな霧じゃ、今日の作業はほとんど進まないだろうな)

 そんなことを考えながら、前に伸ばした手の先も見えないほどの濃霧の中、薪割まきわりをしていた裏の作業場から、屋敷の裏口へ歩いて行った。


 裏口から母屋の中に入って階段へ向かおうとしたルッグを、中年のメイドが呼び止めた。

「ルッグ、そっちじゃない……お嬢さまは『喫茶室』で待っているわ」

「え? 喫茶室? 屋根裏部屋じゃないんですか?」

「今日は、喫茶室でして欲しいんだって……」

 中年のメイドは、『お手伝い』という部分を強調して、ニヤリと笑った。

(私は、何でも知っているのよ)とでも言わんばかりに。

 そのメイドの笑みを無視して、ルッグは「はあ、分かりました」とだけ答え、一階の喫茶室へ向かった。


 * * *


 ノックをして、「入りなさい」というお嬢さまの声を聞き、喫茶室の扉を開けた。

 ほとんど全面ガラス張りと言っても良いような庭に面した壁を背にして、ミイルンがこちらを見ていた。


「早く中に入って……扉を閉めて……鍵を掛けて」


 言われた通り、扉を閉めて鍵を掛けた。

 ひょっとしたら、本当に何か作業を手伝って欲しいのかも知れないと思い、念のため「何か、ご用ですか?」とたずねてみる。

「白々しいわね? 私があなたに用があると言ったら、ひとつしかないでしょうに」

 そのお嬢さまのイライラとした口ぶりを聞いて、今日は、やけにな、と思った。


 突然、扉近くに立っていたルッグの所まで、ミイルンはズカズカと足を鳴らしてやって来ると、いきなり少年のうなじに両腕を回して引き寄せ、唇を吸おうとした。


 ルッグは、強引に抱きつくお嬢さまの胸をやんわりと、しかし自分の首にからみついた彼女の腕を引きはがす程度には強く押して、二人のあいだに距離を作った。


 ミイルンの眉間に、怒りのしわが寄った。

 何かを言おうとしたミイルンより先に、ルッグは窓の方を見て言った。

「あの……お嬢さま、ここは屋根裏部屋ではありません……万が一誰かに見られたら……」


 その言葉に、少女が、庭に面した窓の方へ振り返った。

 窓には、外から室内を隠すカーテンが無かった。大きな窓から見える庭を存分ぞんぶんに楽しめるよう、なるべく余計なものを窓の周囲に配さない方が良い、というのがミイルンの母親の考えだった。


 向こう側に美しく手入れされた庭があるはずの窓は、今は、濃密な霧によって乳白色に塗り潰されていた。


「こんな濃い霧の日に、誰が庭なんかに出て作業をするものですか……それに、万が一、誰かが居たとしても、こんな目と鼻の先も分からないような霧の中じゃ、窓にピッタリと顔を付けてのぞきでもしない限り、中の様子なんて分かりっこないわ……私は、ね……もう屋根裏部屋なんかで抱き合うのに飽き飽きしちゃったのよ! ここにはソファもある。まあ、天蓋付きのベッドという訳には、いかないけど、それでもギシギシ鳴る硬いテーブルの上なんかより百倍よ」


 お嬢さま……それでも他の使用人に見つかる可能性が全く無い訳ではありません。お互い、わざわざ自ら危険を招くような行為は慎みましょう……そう反論しようとルッグが口を開けた瞬間……


(なんだ? このにおいは……)


 かすかな異臭が鼻を突いた。

 ミイルンに目をやると、彼女も異臭に気づいたのか、鼻根びこんしわを寄せ、なかば不快な、そしてなかば不信な顔をしていた。

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