25、灰色の剣士

 カールン行政長官ガバナー公邸の地下拷問部屋。


 全身硬直の後遺症で疲労した筋肉に無理やり力を入れ、マルティーナは黒い染みのある石のゆかからフラフラと立ち上がった。


 直後、よろけて石壁に手をつく。


「まだ死ねない……死ぬわけにはいかない……」

 つぶやいて、一歩、二歩と歩き出す。


 手の届く位置に吊り下げられた蝋燭ろうそくカンテラをやっとの事でかぎから外し、左手に持って拷問部屋の出口を目指した。


 石造りの地下の廊下へ出ると、空間の上の方には煙が漂っていた。


(……火事?)


 かつてザックだった怪物が幽閉されていた部屋の方を見る……天井が崩落し、その瓦礫がれきの中から煙が出ていた。


 反対側……地上への階段へ向かって歩いた。

 階段の下に行って見上げると、地上の煙はむしろ地下室よりひどく、まともに呼吸が出来る状態には見えなかった。


 マルティーナは絶望しかけ……いや、まだだ……と自分を奮い立たせる。


(まだ死ねない……私の命は、もはや私だけのものでは、ない)

 思いながら、無意識に自分の腹をさすった。


 だんだんと濃度を増す煙に「ごほっ、ごほっ」とき込みながら、出来るだけ姿勢を低くして、廊下を、崩落したザックの幽閉部屋とは反対の方へ進む。


 突き当りの石壁にいったん背中を預け、額の汗をぬぐいながら必死で思い出す。


 地下組織結成時に、「頭に叩き込んでおけ」と言われた、アーレンの家に代々伝わる地下迷宮の地図と仕様書の写本。


 ランタンの明かりを頼りに、石壁の表面をさぐる……


(あった!)


 壁の隅に埋め込まれた小さな石のタイルを探り当て、指に精一杯の力を込めて、押した。


 ……ごとっ……


 仕掛けが落ちる音が響き、続いてゴゴゴゴゴという重低音と共にが開いていく。


 その向こうに現れた、石造りの迷宮。


 マルティーナは、隠し扉をくぐって迷宮側に出たあと、そちら側から別の仕掛けを作動させた。


 再びゴゴゴゴ……という音が響いて、石の扉が閉まっていく。


 隔壁が完全に閉鎖されたのを確認して、迷宮の壁に寄りかかり、大きく息を吸った。

 いつもは黴臭かびくさく感じる迷宮の空気も、煙のまわった公邸の廊下を歩いた後では、むしろ清々すがすがしく思える。


 ……しかし、いつまでも休んでいるわけにはいかない。


 蝋燭ろうそくの明かりは、いつか消えてしまう。いくら地下迷宮の地図を暗記しているとはいえ、完全な暗闇の中でも迷わない自信は無かった。


 ……早く、手近な隠し出口から地上へ出なくては……


 一歩、一歩、疲労した両足に力を入れ、マルティーナは迷宮の奥へと進んだ。

「アーレン……待っていて……私が、必ず助けてあげる……」


 * * *


 怪物は、煙の流れる廊下をゆっくりと玄関ホールに向かって歩いた。


 別に何か目的があった訳ではない。

 ただ、でたらめに、『ここではない、どこか』を目指しただけだ。


 ついにホールへ出ると、玄関の扉の前に一人の男が立っていた。


 ほとんど人間の感情を失ってしまった怪物……ザックは、なぜか男の姿に少しだけ驚いた様子をみせた。


 灰色のマント……灰色の髪……青灰色の瞳……身長百九十センティ・メドールのたくましい体に……黄金のつばと銀の剣身を持つ美しく大きな剣。


 ザックをジッと見つめる男の灰色の瞳には、わずかに悲しげな色があった。


「お前が、〈妖魔〉に取りかれた男……ザック、か」

 男が、怪物に言った。

「まだ人間の心が残っているなら、よく聞け……これから俺は、お前を殺す……だが、それは……ただ、この状況を終わらせるために。このカールンの異常な状況を終わらせ、町に平和を取り戻すために、その根源であるお前の犠牲が必要なだけだ」


 しかし、灰色の剣士の言葉を理解するだけの知性は、もはや怪物には残っていなかった。


「おまえ……じゃま」

 つぶやいて、怪物が両手を剣士の方へ突き出す。


 皮膚の下で何かがモコモコと動き、両腕が粘土のように伸びて剣士を襲った。


 ……しかし、その攻撃が剣士に届くことはなかった。


 黄金の長剣が宙を舞い、怪物の手が左右とも玄関ホールのゆかに落ちる。


「しゃあああ……」

 奇妙な鳴き声を発し、手首から先を失った自分の両腕を引き寄せ、怪物が苦痛にもだえた。


「……この〈竜骨剣りゅうこつけん〉(ヴェルテブラリース・ドラコーニス)は、竜の背骨より生まれしつるぎ……剣身から発する竜の闘気は、〈妖魔〉にとっては妖気を阻害する毒。貴様の肉体再生能力がどれほどの物であろうとも、もはや失った両手は元には戻らん」


 灰色の男は、黄金の長剣をだらりと下げ、ゆっくりと怪物に近づいて行った。


「『筋肉変態型』の〈仮面の妖魔〉……か……〈妖魔〉は人間に取りくと、誰もが心に抱えている欲望や願望をかてにして力を増幅させる。善悪の区別なく、な」


「やめ……て」

 怪物が小さくつぶやいた。


 その怪物に、さとすように剣士が言う。

「しかし、お前は弱い……ひょっとしたら、人間だったころのお前は、〈妖魔〉が利用すべき強烈な欲望や願望を持っていなかったのかもしれんな……善良な人間だったのかもしれん」


「やめ……て」


「もう一度、言う…………だた、お前を殺さないと、この状況は終わらない……」


「やめ……て」


「一瞬で殺す。それが、せめてもの情けだ」


「やめ……」


 振り上げた長剣が、怪物の脳天に落ちた。


 そのままつるぎの刃は、正中線に沿って怪物の体を割り、股間からゆかへ切っ先を落として止まった。


 ぱっくりと二つに割れた妖魔の体が、その切り口を上にさらして左右に倒れた。


 * * *


「す……すげぇ……」

 行政長官ガバナーの死体からクロスボウと矢を奪い取り、距離を置いて『怪物』ザックの後をけていたルニクは、廊下の陰から玄関ホールの闘いを盗み見ながら、小さくうめいた。

「な、何なんだ? あの金ピカのつるぎは……〈妖魔〉を一瞬で殺せる『魔剣』か『宝剣』のようなものか?」


〈妖魔〉に成り果てたザックを脳天から真っ二つに割った剣に、視線が釘づけになる。


「いずれにしろ……間違いなく特級のだ……」

 廊下の陰から長剣を見つめる少年の瞳に、欲望の光が差した。


 ルニクは、手に持ったクロスボウをそっと構え、先端をホールに立つ灰色の剣士に向けた。


「おい、そこに隠れている小僧!」

 廊下に目を向けることも無く、剣士が言った。

「下手な真似はすんだな……俺は、自分に矢を向けた奴は必ず殺すと決めている」


 ルニクは「ちっ」と舌打ちし、バレていたのなら仕方がないとばかりに、廊下から玄関ホールに飛び出し、堂々と剣士に狙いをつけた。


「その剣を置いていけ!」

 少年がクロスボウの先端を揺らして威嚇しながら、叫ぶ。


 しかし、灰色の剣士が動じることはなかった。

「小僧、やめておけ……どの道、ドラ公は……〈竜骨剣りゅうこつけん〉(ヴェルテブラリース・ドラコーニス)は、お前の手に負えるような代物しろものじゃあ、ない」


「う、うるせえ!」

 躊躇ちゅうちょせず、少年は引き金を引いた。


 灰色の剣士……ゾル・ギフィウスの心臓めがけて飛んた矢は、しかし、灰色のマントの数センティ・メドール手前でピタリと勢いを失い、ゆかの上に落ちた。


「矢を放ったな……」

 冷たい灰色の目で、ゾルが少年を見つめた。

「言ったはずだ……俺に矢を放った奴は、何人なんぴとであろうと死んでもらう。たとえそれが十三、四のガキだろうとも」


 一歩、ゾルが少年ルニクに近づいた。


(ち……ちくしょう!)

 ルニクはあせる。

(つ……次の矢を装填するか? ……しかし……どんな魔法か知らねぇが、あいつにクロスボウは通用しねぇ……こ、こうなりゃいちばちかだ! あ、をやってやる!)


 突然、ゾルの目の前で、少年が苦しみだした。


「ぐきっ! ……ぐっごっけけっごぐっごごっく……」


 意味不明の声を発し、同時に体をくねくねと動かし始める。


「よ、〈妖魔〉が……ぐっきっきこっ……ぼ、僕の体の中の妖魔が……ぎくぎくっこここ……」

 言いながら、何かをこらえているような必死の形相で、狂った踊り子ダンサーのように全身の関節を滅茶苦茶めちゃくちゃに動かす。


 その様子を見て、灰色の剣士が不審げに首をかしげた。


 少年の狂った踊りは続く。

「ぐっここぐここ……〈妖魔〉が……駄目だ……もう耐えられない……〈妖魔〉が僕の体の中から出てくる!」

 次の瞬間、ルニクが口を大きく開いた。

「かぁぁぁっ!」


 ……しかし……


 何も起きなかった。


「かぁぁぁっ!」

 もう一度、少年はゾルに向けて口を開いて見せた。


 ……やはり、何も起きなかった。


「何だ? さっきから、?」

 剣士が、ますます不審げに少年を見ながら首をかしげた。


 そして、「ああ、なるほど」と、得心が行ったようにうなづいた。

「話に聞いたことがあるぞ……遥か古代に失われたと言われている秘術……だな?」


 剣士に向けて大きく口を開いたルニクの額から、ツゥーと冷や汗がしたたり落ちた。


 ゾルが一歩一歩、少年に近づいて行った。

「ある特定のリズムと動き……たとえば『踊り』……を見せることで、相手の意識を朦朧もうろうとさせ、幻覚を誘い、暗示にかける……暗示にかけられた者は、無意識に全身を硬直させ、自ら体を動けなくさせてしまう」


 そこでゾルは「ある事」に気づいた。

「そうか! 表にあった全面ガラス張りの奇妙な馬車は、お前のものだな? 催眠術の弱点は、術をかける最中さいちゅう、無防備な体を敵の前にさらして踊らなければいけない事……しかし、頑丈なガラス張りの箱の中なら、敵の矢から自分を防御しつつ、自分を狙って注視する敵に術をかけることができる……」


 剣士がニヤリと笑い、長剣を左手に持ち替え、右のブーツから美しい文様のナイフを抜いた。

「……しかし、相手が悪かったな……俺は『竜骨剣』使いの一族……『何も見ず、全てを見る』の境地、『無心全鏡眼むしんぜんきょうがん』(ニール・コルディス・オムニ・スペクルーム・オルクス)を会得している。俺に催眠術は効かんよ」


「ひいい!」


 恐怖の叫びをあげ、煙の立ちこめる廊下へ逃げようとする少年の背中に、ゾルがナイフを投げた。


 ナイフは一直線に飛んでいき、背中から正確に少年の心臓を貫き、偽物の〈妖魔〉使いルニクはうつぶせに倒れ、絶命した。


 剣士は死体からナイフを抜いて、少年のズボンで血をぬぐい、自分のブーツに収めた。


 そして怪物の死体のところへ戻り、真っ二つに割れたザックの体の間に黄金の剣を突き立てる。


 剣身からゾワゾワと無数の『口』が現れ、左右に分かれて物凄い勢いで怪物の体を食べ始めた。


 ……やがて『食事』が終わり、元の姿に戻ったトカゲを肩に乗せ、剣士は玄関を出た。


 振り返ると、既に火の手は屋敷の全体にまわり、窓からチロチロと炎が舌を出していた。


「帰りは、警備兵士団の馬車を借りていくか……」

 肩のトカゲが「キキッ」と鳴いた。


 灰色の剣士は、帝国の紋章に飾られた黒い馬車の御者台に飛び乗り、馬にむちを入れた。


 * * *


 頂上に行政長官ガバナーの公邸がある丘のふもと、小さなほこらに偽装した地下迷宮の出口から、マルティーナは外に出た。


 おぼつかない足取りで、通りへ出て、西の門ちかくにある神殿を目指す。


 少しだけ辺りが明るい。

 夜明けが近いという事か。


 後ろから、石畳を転がる車輪の音が近づいてきた。

 振り返って目を凝らすと、カールン警備兵士団所有の馬車だった。


 身を隠すひまも体力も無かった。

 それでも最後の抵抗だけはすると決め、腰から短剣を抜く。


 ……馬車が止まった。


「おいっ」

 御者台の上から、声がした。


「大丈夫か? ふらふらじゃないか……」

 見上げると、灰色のマントをまとった男が座っていた。


(警備兵士……ジャギルスの手の者……では、ないのか?)

 見たところ、武器のようなものは持ってなさそうだ。


 瞬時に判断し、御者台に上がる。

「送ってやろうか……」と言いかけた灰色の男の喉元に、短剣を突き付けた。

「西の門へ……西の門ちかくにあるいくさの女神の神殿へ行け」

 灰色の男に命じる。


 御者台は狭い。マルティーナと灰色の男は体を密着させるような格好になった。


「……いや……それは、まずいって……」

 男がうめく。

「こ、こんなに体を密着させて女と二人で馬車に乗るなんて……万が一、リュウリンに……俺の嫁さんに知れたら……ひいい」


「な、何を言っている! 早く馬車を出せ!」


「いや、だから、絶対、誤解されるって……こんなところをリュウリンに見られでもしたら」


 マルティーナは、男の喉元に突き付けた短剣にグッと力を入れた。


「わ、わかったよ……」

 しぶしぶといった感じで、男が馬にむちを入れた。


 夜明け前の通りを、警備兵士団の馬車は西へと走る。


「ドラ公……」

 馬車の上で、灰色の男が独り言のようにつぶやいた。

「お前、証人になってくれよな……俺は事は何にもしていない、って……万が一、こんな姿をリュウリンに見られたら、さ……絶対だぞ!」


「キキッ」


「ええ? これは『貸し』だって? がめついなぁ……」


「何をブツブツ言っている……黙れ!」


「……」


 隣の女に言われ、ゾルは口を閉じた。


 * * *


 夜が明けていくらも経たない頃、二人を乗せた馬車は西の神殿に到着した。

 すでに警備兵士団の者らは撤収しているようだった。


 白々とした朝の光の中、しんと静まりかえった霧の漂う神殿の前で、マルティーナは馬車を降りた。


「大丈夫か……」

 御者台から灰色の男が声をかける。


 マルティーナは振り返り、小さく頷いた。


 御者台の男は、しばらく心配げにマルティーナを見つめていたが、肩に乗ったトカゲの「キキッ」という鳴き声を合図に、西門の方へ馬車を向かわせ、霧の中に消えた。


 マルティーナはその馬車を見送ることもせず、一歩一歩、神殿へ向かって歩き、その大きな重い扉に体重を乗せるようにして開け、中に入った。


 大きないくさの女神像の前に、男たちが立っていた。

 ……

 ハリネズミのように全身から矢を生やした男たちは、一目見ただけで絶命していると分かった。


「おお……」

 マルティーナの瞳から涙があふれる。


 一列に並び、硬直して立ったまま死んでいる男たちに近づいて……その中の一人の頬を愛しげに撫でた。

「アーレン……ああ、間に合わなかった……」

 死んだ男に頬ずりをし、その唇に自分の唇を重ねた。


 * * *


 朝のお勤めをしようといくさの女神の神殿に入った老いた神官は、神聖であるべき神殿を汚すおびただしい量の血に、息を飲んだ。


 女神像の前に、男たちの死体が横たえられていた。


 近づいてみると、死体は全身に矢傷を負っていたが、矢そのものは全て抜き取られ、ゆかの上に捨てられていた。


 真ん中に横たえられた死体の隣に、一人の女がひざまづいていた。


「おお……貴女あなたは……〈速剣はやつるぎの貴婦人〉(ドーミナ・グラーデイ・ヴェロクス)、マルティーナ様……」

 そして老いた神官は、横たわる男の顔を見て、二度、驚く。

「おお、そちらの方は、かつての警備兵士団長アーレン様ではありませぬか……なんとむごい……」


 その時、突然に、神殿の扉が乱暴に開けられた。

 入って来たのは、神殿の見習い小僧。


「何だ! 神聖なる女神様の御前みまえだぞ! つつしめ!」


 怒る老神官に、構わず小僧が叫んだ。


「神官様、た、大変です! 行政長官ガバナーさまの公邸が、か、火事で焼け落ちました!」


「何だと……」


「う……噂では……ゼレキンさまも……アルマ奥さまも……ジャギルス……警備兵士団長さまも……みんな亡くなられたようです……ザ、ザックさまも」


 その声に、マルティーナがハッとして振り返る。


 老神官が、小僧に聞き返した。

「そ、それは本当か?」


「分かりません……でも、噂では、逃げ出したメイドたちが、そう言っていると……、と」


「ううむ……」

 老神官がうなる。


 その奥で、マルティーナは、もう一度アーレンに口づけをして、ゆっくりと立ち上がった。

「……アーレン……あなたの遺志いしは、私が受け継ぎます……このカールンの町に、もう一度、平和と、公平と、治安を取り戻す……」


 そして、老神官に向かって言った。

「神官さま! 早急に、町の有力者たちをこの神殿に集めてください! ……行政長官ガバナーゼレキン閣下と、の代理として、今から、この警備兵士副団長マルティーナが、この町の全権を司ります!」


 マルティーナの言葉に、一瞬、老神官は驚いた顔になるが、すぐに一礼をして神殿から出て行った。


 神官の後姿を見送りながら……マルティーナがつぶやく。

「アーレン……あなたが、私に残してくれた、もう一つのもの……」

 そして、自分の下腹部を優しくなでた。

「必ず、守って見せる……そして、平和になったこの町で、必ずすこやかに育てて見せます……必ず……」


 * * *


 仮面の男とパン屋の夫婦が西門にたどり着いた時には、夜明けから随分ずいぶんと時間が経過していた。


「予定より大分だいぶ遅いが……まあ、仕方がない……いいか、前にも言った通り、門衛には話を付けてある。あとは門を出るときに、このかねを……」

 黒マントの男が、懐から小さな巾着袋を出した。

「やつらに黙って渡せば良い」


 パン屋の夫婦が緊張ぎみにうなづく。


「さあ、行け」

 仮面の男に背中を押され、夫婦は門の方へ歩いて行った。


 門に近づくと、門衛がマルクとエリの顔をギロリとにらんだ。


 震える手で巾着袋を出し、門衛に渡そうとしたその時……


「おーい! マルクーッ!」

 あろうことか、堂々と自分の名を叫ぶ声が西門周辺に響いた。


 ビクッ、と震えて、恐る恐る後ろを向く。


 黒マントをなびかせ、仮面の男がこちらに走って来るの見えた。

 先ほど巾着袋を渡した男とは、別の者だ。


 ……あれは、確か……


 地下迷宮に入るとき、一人だけ井戸に残って縄梯子なわばしごを引き上げた男だと、検討をつける。


「もう逃げなくても良いんだ! 行政長官ガバナーは死んだ! 奥方も! ジャギルスの野郎も! そして……ああ、化け物のザックも死んだ!」

 男は、自分の仮面に手をやると、乱暴に外して道端に投げ捨てた。

「マルティーナ様が町の全権を掌握した! もう、こんな仮面ともだ!」


 仮面の下から現れた素顔を見て、パン屋の夫婦はさらに驚く。


「お、おめぇは……鍛冶屋のラティック! ……お、おめぇ、地下組織の一員だったのか……」

 まさか、謎の〈地下抵抗組織レジスタンシア〉の一人が隣の鍛冶屋だとは……


 * * *


 手を取り合って喜ぶパン屋夫婦と鍛冶屋の横を、一人の旅人が通り過ぎる。


 灰色のマントに身を包み、灰色の髪と、青灰色の瞳を持ち、肩に金色のトカゲを乗せた旅人。


 旅人はほりに架けられた跳ね橋を渡り、街道を少し歩いた所で口笛を吹いた。


 霧の向こうから現れた粕毛かすげの馬の背に乗りながら、灰色の旅人がつぶやく。


「……さて……次は、どの町へ行こうか、な」


 肩のトカゲが異を唱えるように「キキッ」と鳴いた。


「ええ? 早く帰らないとリュウリンに怒られるって? うーん……まあ、いいや。怒られたら、怒られたで、仕方がない……俺は、もう少し、ぶらり一人旅を楽しみたいんだよ」


「ばるるるるぅ」

 めずらしく、馬が鳴いた。


「ええ? お前も、早く帰れって言うのか? グランニッグ? ……でもなあ、もうちょっとだけ、一人旅を楽しみたいんだよなぁ……」


 粕毛の馬と黄金のトカゲと灰色の旅人は、言い合いをしながら街道をてくてくと進んで行き、やがて、朝の光を反射して輝く白い霧の中へ消えた。

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