23、崩壊

 気のれた人間は物凄い力を発揮するというが、錯乱して暴れる行政長官ガバナー夫人を地下室から地上の居間まで連れて行くのは容易なことではなかった。


 小柄で瘦せ型の少年ルニクだけでなく、上背も体重もそれなりの警備兵士団長ジャギルスまでもが、「殺してやる」と叫ぶアルマを居間のソファーに押さえつけるのに汗だくになっていた。


「おいっ、メイド! メイドは居ないか!」

 叫ぶジャギルスに「はいっ」と答え、廊下からメイドが飛んできた。


「アルマが……い、いや、奥様が少々興奮している……何か心をしずめる薬を持ってこい」


「心をしずめる……と、言われましても……」


「何でも良いから、早く持って来い!」

 ジャギルスに怒鳴られ、メイドは逃げるように走って居間を出て行った。


 ……その時……


 ……ドォン……


 地響きのような音と振動が屋敷全体を震わせた。


 ……ドォン……


「な……なんだ? 何の音だ?」

 夫人の足を抑えていたルニクが、不安げに辺りを見回した。


 ……ドォン……


「じ、地震? ……か?」


 ルニクの独り言めいた問いかけに、ジャギルスが忌々いまいましそうに返す。


「し、知るか!」


 ……ドォン……


「い、いや……これは……」

 先に気づいたのは、ルニクだった。

「ち……地下だ……


 * * *


「……お、おい……と、隣の部屋なんじゃねぇか? この地響きみてぇな音の元は」

 マルティーナを拘束した地下の一室で、二人の警備兵のうちの片方が、もう片方に声をかけた。

 ……その時、再び激しい振動が地下室を襲い、天井から小さな石の欠片かけらがパラパラと落ちてきた。

 天井に吊るした蝋燭ろうそくカンテラがユラユラと揺れる。


「そ、そんな事は分かってるよ!」


「に……逃げるか」


「馬鹿! 何があってもここを動くな、女を見張れって、団長に言われてるだろ!」


「そんなこと言ったって、てめぇの命が一番だろうが、よ! このまま地下に生き埋めにでもなったら、それこそ阿呆だぜ!」

 その瞬間……地下の拷問部屋を、もの凄い振動と轟音が襲った。


「だ、駄目だ! もう駄目だ!」

 とうとう我慢の限界に達した兵士たちが地下から逃げようと拷問部屋の出口を見ると……


 開け放たれた扉の向こうに、男が立っていた。


 ……首から上が怪物の男だ。


 出口に向かおうとした兵士たちは「ひいい」と叫び声を上げ、逆に拷問部屋の奥へ奥へと後ずさった。


「ま……まるてぃーな……」

 怪物がつぶやいた。


 一歩、部屋の中へ入る。


 ……じゃら……


 頑丈な首輪から背中へ垂れた極太のくさりゆかの上を引きずられ、音を立てた。


「まるてぃーな」

 また一歩、怪物が、兵士たちと囚われの女がいる方へ近づいた。


 ……じゃら……

 鎖を引きずる音。


 また一歩、また一歩、また一歩……じゃら……じゃら……じゃら……


 徐々に怪物が近づいてくる。


 二人の兵士が同時に腰の短剣を抜いた。

 しかし、二人とも、すでに戦意のほとんどを喪失していた。


「ひゃああああ!」


 悲鳴に近い声を上げ、二人同時に短剣を構えて、怪物の頭を持つ上半身裸の男に向かっていった。……徐々に部屋のすみへ追い詰められていくのに耐えられなくなった……それだけの理由だった。


「おまえたち……じゃま」

 怪物の両腕の筋肉が、その内側に別の生物が隠れてでもいるかのようにモコモコとうごめいて、次の瞬間、腕全体が粘土のように伸び、五本の指が男たちの顔に込んだ。


「ぐへぇ」

 顔面に開いた五つの穴から血を噴出させ、左右の男たちは黒い血の染みついた石の上に倒れた。


 倒れた兵士たちには興味も示さず、怪物は、部屋の奥へ……両手を吊られたマルティーナの方へ向かった。


「まるてぃーな……」

 拘束され身動きの取れない女剣士を見下ろして、怪物が言った。


「ザック……なの?」

 かつて自分に愛の告白をした男……そのを見上げ、マルティーナがたずねた。


「まるてぃーな……」

 理解しているのか、していないのか……怪物はマルティーナの問いかけには答えず、ただ、じっと彼女を見つめて名前を呼ぶだけだった。


 ふと、怪物が吊り上げられた女剣士の手首に視線を移した。

 マルティーナの顔と、きつく縛られた手首を交互に見る。


 ……そして……


 ブチッ……

 ロープの千切ちぎれる音とともに、マルティーナの右手が解放されて、力なくダラリと垂れた。


「ザック……助けて……くれるの?」

 しかし、かつてザックだった怪物は何も答えない。


 ブチッ……

 今度は、左手を吊っていたロープが怪物の手で引き千切ちぎられた。


 長い全身硬直状態の反動で筋肉が弱っていたマルティーナは、立っていることが出来ず、その場に込んでしまった。


 怪物は、地面に力なく座り込んでいる女をしばらく見下ろしていたが、やがてクルリと後ろを向き、兵士二人の死体とマルティーナを残して、地下の拷問部屋から出て行った。


 * * *


「お……奥様! た、大変です!」

 先ほど薬を取りに行かせたメイドとは別の女が、叫びながら居間に飛び込んできた。


「今度は、何だ! 何があった!」

 錯乱状態のアルマの体を押さえつつ、彼女の代わりにジャギルスが問うた。


「だ、台所が……台所のゆかが抜け落ちて……」


「何ッ!」


「た、大変なことに……」


「何が、どうした! ちゃんと説明しろ!」

 要領を得ないメイドに「チッ」と舌打ちし、ジャギルスは、夫人の足を押さえていたルニクに命じた。

「ここは良いから、メイドと一緒に何があったか見て来い! 台所で何かあったらしい! さっきの特大の音と振動は、それだ! さあ、早く!」


「あ……ああ……」

 ルニクは、夫人の足を離し、メイドと一緒に台所へ向かった。


 * * *


「な……なんだ……これは……」

 滅茶苦茶になった台所を見て、〈はえの妖魔〉使いの少年は驚きの声を上げた。


 ゆかが抜け、鍋や釜や食器類や、テーブルや椅子や戸棚……そのほか台所にあった全ての物が、瓦礫がれきと一緒に陥没した地下の空洞へ雪崩なだれ落ちて、ぐちゃぐちゃになっていた。


 しかも、ゆか崩落時にかまどに火が入っていたらしく、下の方で火がくすぶり、煙が上がっていた。可燃物に燃え移れば、屋敷中に火が回る可能性もあった。


「で、でも、なんで、だ? ……なんで、台所のゆかが抜けた?」

 ルニクが独りごちる。

「この下には、何があった? ……ち、地下牢? ……まさか……ザックが……」


 * * *


 行政長官ガバナー夫人アルマは相変わらず錯乱したままで、女とは思えない力で手足をばたつかせて「殺してやる!」と叫んでいた。


 ジャギルスさえ、押さえつけているのがやっとだった。


(このままじゃ、が明かねぇ)

 ……殴って気絶させるか……そう思い、右手に握りこぶしを作り、振り上げる。


 ……しかし……


 夫人の頬に振り下ろそうとしたこぶしが、途中で無意識に止まった。


「なんだ?」

 知らず知らずのうちに殴ることを躊躇ちゅうちょしている自分に気づき、元やくざの警備兵士団団長は、戸惑う。

 ……女なんぞ快楽を満たすための道具に過ぎん……若いころからそう割り切り、何人もの女をこまし、殴り、捨ててきた。


(この女も同じだ……ただ快感を得るための道具だ……お高くとまった行政長官ガバナーの奥方を抱いてみたかっただけだ)

 しかし、そう自分に言い聞かせても、女を殴ろうと振り上げた右手をなかなか振り下ろすことが出来なかった。


「ば……馬鹿な……この俺様が……まさか、こんな年増としま女を本気で……」

 そうつぶやいた直後、誰もいないと思った居間に、男の声が響いた。


めたまえ……」

 ギョッとして振り返ると、入口に行政長官ガバナーゼレキンが立っていた。

 外出でもするつもりなのか、深緑色のマントを羽織っている。

 酒のせいで白目が充血し、こちらを見る瞳は相変わらずドロンとにごっていた。


「な……なんだ……あ、あんたか……行政長官ガバナー


めたまえ……女を殴るなどと……しかも、私の妻だぞ」

 ゆっくりと、マント姿のゼレキンが近づいてくる。


「あ、ああ……」

 訳もなく後ろめたい気持ちになりながら、ジャギルスがうなづいた。

「ちょ、ちょうど良かった……お……奥さんを何とかしてくれ……お、俺じゃあ、手に負えん」


 いったん、アルマの顔の上に視線を落とし、もう一度ゼレキンの方を振り返ったジャギルスの目に映ったのは……マントの下に隠し持っていたクロスボウの先端をこちらに向けている、行政長官ガバナーの姿だった。


「ゼレキン! あ、あんた一体いったいなにを……」


 ジャギルスが言い終わらないうちに、ゼレキンが引き金を引いた。


 至近距離から警備兵士団長へ向かって飛び出した矢が、ジャギルスの喉頭のどぼとけを砕き、気管をつぶし、脛骨をわずかにれて、斜め後ろから血まみれの矢じりとを半分ほど見せて止まった。


「がばぼぼ……ぜ、ぜれき……ん……ごぼ……き、さ……ま……ごぼぼば」

 血を気管にからませ、口から噴き出しながら、ジャギルスは、自分を見下ろす行政長官ガバナーを一瞬にらみ、たまらず絨毯じゅうたんの上に転がった。


 床に転がるジャギルスを見て、アルマが椅子の上で「ぎゃあああああ!」と叫んだ。


 妻の絶叫が響く居間で、行政長官ガバナーが淡々とクロスボウの輪っかを踏み、弦を引き上げ、鉤爪に引っ掛けた。


「アルマ……なんで、私たちは、こんな事になってしまったのだろうな」

 二本目の矢を装填したクロスボウの先端を、恐怖の目で自分を見返す妻の乳房と乳房の間に潜り込ませる。


 びしゅん!


 弦が空を切る音と共に、矢は女の心臓を破り、背中から飛び出して長椅子ソファの背もたれにその体をい付けた。


 胸と口からあふれれ出た真っ赤な血が、ドレスの中と外からアルマの乳房を濡らした。


 しばらくの間、行政長官ガバナーは床に転がった警備兵士団長とソファの上で血を溢れさせている自分の妻を交互に見つめていたが、とうとうジャギルスが動かなくなり、妻の胸と口から血液が出つくしたのを確認すると、入って来た時と同じようなフラフラとした足どりで、居間から出て行った。

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