第13話 わたしの支え
「……本日はもう休んで、明日からまたガルテ様を楽しませてください。それがお二方に期待する仕事です。わかりますね?」
絵を見つめるわたしにネンさんが言う。
「はい。では、失礼いたします」
そう答えて、部屋を出る。
城内に差し込む朝焼けが眩しい。
使用人の仕事は特に期待されていなかった。
暗にそう言ってる。
「…………」
なんとなくわかっていた。ガルテ様のモデルをしている間に、わたしとカニちゃんで悩んで悩み抜いた室内を手際良く直しているのが視界の端に入っていた。淡々と、しかし整然と。やられて、室内の世界観がちゃんと統一されるのを感じた。仕事が出来る人なのはわかる。
全身が重たい。
ガルテ様がわたしたちで楽しむ。
それは別にいい。
八歳の女の子の遊び相手になるのが使用人の仕事の内に入らないなんてことはまったくない。わたしの気持ちとしても楽しんで欲しいと思う。この国で暮らすのだ。好きになって欲しい。そのために動物園の動物、生き物として人獣を楽しまれるのも不快ってほどじゃない。
子供なら普通だ。
ただ、上役にもそうとしか思われてないというのはちょっと堪える。別に叱責して欲しいとかじゃないけど、それなりに要求して欲しい。わたしだってこの城でずっと働いてきたのだ。言ってくれればやれると思う。
甘えてるのかな?
使えないとわかってからそういう対応を。
疲れてる。
ネガティブになってる。
だからこんなことを考えてしまう。
「シズキ、今帰りか?」
「ええ、ガルテ様のお迎えが今さっき終わって、おにいさんも? なら一緒に」
城の出口で兄と遭遇する。
「いや、おれは違う。戻るところだ」
そう言って、守衛の人に目配せをした。それで、いつものお爺さんではなく、近衛兵の人が小屋に入って警備をしていることに気づく。そう言えば、通ってきた城内も妙に静かで、だれともすれ違わなかった。
朝は色々と忙しいはずなのに。
「なにか」
「かあさんに会ったら、いや……いい」
なにかを言い掛けて、鼻をひくつかせる。
「なに?」
誤魔化すときの癖だ。
「すぐにわかる。お疲れさん。ともかく休め。これからまた忙しくなる。おれも、シズキもな」
「おにいさん」
「……」
わたしの声に背を向け、手を拭って兄は城内へと歩いていく。ただ、その足音がいつになく神経質な響きであることをわたしの耳は捉えていた。踵に力が入っていて、踏ん張っている。
なにか悲しげな音だ。
「……」
守衛室の近衛兵の人はわたしの視線を避けるように頭を下げ、なにか書類にペンを走らせている。かさかさと荒い紙の音だった。
「……」
なんだろう。
ボーラ将軍が深手を負ったから?
敵が迫ってる?
「シズキちゃん、おはよう」
「おはようございます」
でも、街の側に兵士が出てきている訳でもなかった。早朝の散歩をしている隠居したおじいさんと普通にすれ違っている。陛下が襲撃を受けたなんて話が噂として広まるにもまだ時間はかかる。普段と変わらない朝に見える。
落ち着こう。
「ただいまかえりました」
屋敷に入ってわたしは言う。
中に人がいる。音だけで母なのはわかる。
ただ、バタバタしてる様子だ。
「おかあさん?」
二階に上がって、音のする部屋を見ると、タンスをひっくり返して衣類を大きな鞄に詰め込んでいる母と遭遇する。
「どうしたの? 出張?」
「国境の警備にね」
おかえりなさい、もなく、母は下着の枚数などを数えている。軍人が戦場でどのくらい着替えるのかわたしもよく知らないが、枚数だけでも一週間分はある。
「え? おかあさんが?」
将軍自らやることなのだろうか。
そう考えて、わたしの胸は母乳で濡れた。
緊張を身体が先に理解する。
「て、敵襲? 戦争になるの?}
「まだわからないわ」
母はそう言って、鞄に荷物を詰め込む。
「わからないって、でも……」
「もう話はどこかで聞いているでしょう? 陛下が襲撃されたこと。ボーラ将軍のことも」
「うん」
「シズキ、時間があまりないからよく聞いて」
鞄を掴んで、母はわたしの側にくる。
すでにきっちりと胸元にいくつも勲章の並んだ軍服を着込んで、ブーツの紐もしっかりと結んで、サーベルは正式なもの。すぐにも戦いに出るという装い。母の人獣としての特徴である鬣もいきり立っている。
「ボーラ将軍だけではないの」
そして囁いた。
「?」
「陛下が、致命傷を負われたわ」
「!?」
それは周囲には絶対に聞こえない音量だった。わたしの耳に接近した母の口元から辛うじて漏れ聞こえるぐらいの声、それはおそらく機密で、わたしに言うようなことでもないことだ。
「もう長くはもたないでしょう」
「おかあさん」
とんでもないことを伝えられてる。
「命がある内に、殿下への王位継承の儀式が今日は行われるわ。この意味がわかるわね?」
「殿下が、王に」
口にしてもピンと来なかった。
まだまだ先のことだと思っていたから。
急すぎる。
「ただ、殿下の王位継承には城内でも多くの異論がある。特に、王妃様の件で。だから、これは非常に強引な手続きになる。このことがきっかけでなにが起こるかわからないわ」
「……!」
異論。
考えたこともなかった。
でも、考えてみればおかしくはない。
まだ若く、そして戦場に出た経験もないのだ。この世界で一人前と認められる段階を踏んでいない。その上、母乳を吸ってる秘密もある。わたしですら今すぐ王になることに不安がないと言えば嘘になる。
せめて乳離れしていれば。
「陛下を襲撃した賊は百にも満たなかった」
「え?」
「三百の竜騎兵と、七百の騎士、そして千の兵士が守っていた陛下を、夜の闇に紛れ、雨でも機動力の落ちない唸る獣に跨がり襲撃した。まったく未知の敵。もし、これが大軍勢として押し寄せてくるならエレ・エネンドラも危うい」
「……」
母が国境警備にかり出される理由が、わたしにもわかった。夏が終わる。そして収穫期は目の前、そこで国境からこの城までつづく農業地域を荒らされる訳にはいかない。貧乏王国は次の春を迎えられなくなる。飢饉の年は数年前にもあった。あれは悲惨だったから。
「シズキ、殿下と、ガルテ様の支えになるのよ」
「はい。おかあさん」
わたしは立ち尽くして答えた。
母が屋敷を出ていく音を聞いて、ぐっしょりと濡れた胸を気にする余裕もなく、へなへなとへたり込む。炭酸の瓶を開けたみたいに、頭のてっぺんから不安が吹き出して、どっぷりと全身を覆い尽くしそうだった。
混乱。
どうしたらいいんだろう。わたしの、十五年を二度も生きたのにそれほど経験を貯めたとも言えない頭の許容限界を完全に越えてる。なにから考えていいかすらわからない。
母はそれほどわたしに期待はしていない。
ただの使用人の娘に出来ることなど限られているからだ。それでも一応は伝えてくれた。少なくともトーア殿下の乳母だからだ。時にはもっとも近くにいるかもしれない存在として。
期待はされてないけど、やれることはある。
かもしれない。
「うん」
考えなきゃ。
そう思いながら、わたしはいつものように身体を清めて、ベッドに倒れる。疲れた頭で考えても仕方がない。陛下が重篤な状態と聞かされて寝ることに罪悪感もあるけど、焦ったからどうなるってものでもないことは考えなくてもわかる。
わたしは医者じゃない。
それは先生の仕事だ。
わたしは乳母だから。
トーア殿下に会うのがまず一番だ。
王位を継承して、陛下になられて、それでも母乳を求められるのか、それとも変わってしまうのか。そこを確認してから、わたしはわたしの行動を決めていくしかない。だから寝ます。
「ぐう」
悪夢を見る。
階段を落ちる夢。
前世の死因。
繰り返されるトラウマ。
この世界で階段から落ちたら、元の世界に戻れるんだろうかと何度も考えた。試そうとしたこともある。昔の映画のオチみたいだと気づいて、思い直した。戻ってどうなるのかもよくわからない。もっと胸が大きくなるのか。
うつ伏せで寝てしまってシーツまで濡れた。
それでも胸はしぼまない。
「ん、ぁ」
夕方近くなって目を覚ます。
特に屋敷の外が騒がしいということもなく、おそらく、この城下は普段と変わらない一日の終わりを迎えようとしているのだと思う。つまり、わたしの仕事はいつもと変わらない。
おっぱいをあげなきゃ。
汚れたシーツを洗い、そして自分の身体を再度洗う。殿下、あるいは陛下が「もう二度と飲まない」と言わない限り、わたしの乳母としての仕事は終わらないから。そのための準備をして、夜の城に向かうことも変わらない。
「……あ」
準備をして城に向かおうとして気づく。
いつものようには入れない?
陛下の容態が重篤であればあるほど、警備は厳しくなるし、殿下の愛人かなにか、という体で軽く抜けていた近衛兵の詰め所も通してもらえるかどうかわからない。通してもらえる訳がない。
追い返される。
そもそも、殿下もそんな状態じゃないはずだ。
王と王子である前に、父と子。
父が死にそうな時に乳を飲むとか不謹慎?
赤ん坊じゃないから。
「あー」
わたしに出来ることなんてないのかも。
手持ち無沙汰になって、わたしは屋敷の掃除なんかをはじめてしまう。支えになるもなにも、近くにいられない。立場も身分も違う。乳母は公式な仕事ですらない。殿下が陛下になられたら、尚更だ。ピカピカにした鏡に映るのは憂鬱なわたしの顔。こんな顔を見せられない。
余計に落ち込ませる。
「……」
自分の部屋に籠もって、朝を待つしかない。
「……」
眠気はまったくない。
ガルテ様の使用人として城に出仕することでしか城に入れないのだから、そうするしかないのだけど、焦りと、十分な睡眠のせいでまったく気持ちが休まらない。殿下に会いたい。殿下に会いたい。殿下に会いたい。兄に頼むべきだろうか、いや、国の一大事にわたしの気持ちを優先するのはおかしい。でも、殿下に会わなきゃ。
月の光が部屋に入ってくる。
「殿下」
「シズキ」
「殿下……」
「私はここにいるぞ。シズキ」
「……」
幻聴が聞こえる。
恋をしてた頃ですらこんなことはなかったな。
「シズキ」
目の前で手燭に火が灯される。
「……でっ!? 殿下?」
浮かび上がった輝く金髪にわたしはハッとする。いつのまに、なんの音も聞こえなかったのに、屋敷の中に入ってきていた。わたしの耳になんの反応もなく。
「殿下なのですか?」
幻じゃなくて本物?
「王位は継承したが、まだ父上は生きているから、呼び方はそれでも良いだろう」
殿下は悠長なことを言う。
「な、なぜこのような場所に、す、すぐ城にお戻りください。王国の一大事なのでしょう? シズキなどに関わっている場合ではな……!」
「静かに」
声が大きくなりそうになったわたしの唇に殿下は指を当てる。そしてわたしの部屋の入り口の方を見た。人影がある。
「「……」」
ガルテ様とネンさん。
二人は怪訝な表情をしている。
それはそうだ。一国の王子が、ただの使用人に必要以上に親しげである。唇を触るなんてありえない。おそらく夫婦になるガルテ様にもまだそんなことはしていないはずなのだから。
「城内に賊が入り込んだのでな。逃げてきたのだ。この屋敷と城の間には秘密の通路がある。知らなかっただろう?」
背後の二人の表情が見えているのかいないのか、王子は授乳室と特に変わらない様子で喋りつづける。こっちがハラハラする。
「はい」
知らなかった。
「教えていないからな、シュルトも知らぬはずだ。この屋敷をオオーチに与えたのはこういった時のための備えでもある」
「なるほど」
なにから驚くべきかわからなくなる。
「トーア殿下、彼女も連れていくのですか?」
ネンさんが言う。
連れて行く必要がないだろう、と言いたいのはすぐにわかる。わたしがネンさんの立場だったとしてもそう言うだろう。
城に賊が入り込んだ。
秘密の通路とは言え、そこに繋がる屋敷。
悠長に喋っている場合ではない。
ガルテ様を一刻も早く安全な場所へ逃がさなければならない。王位継承はともかく、結婚はまだなされていないのだから、巻き添えになる理由もまったくない。
「無論だ」
けれど、王子は即答。
「なぜ」
「それを説明しようと思っていた。ガルテ、こちらへ来てくれ。シズキ、いつものように頼む」
「いつものように?」
「ガルテにも飲ませてやってくれ」
「の、ま」
手燭の灯りに照らし出された王子の顔は真剣そのものだったけれど、わたしはその言葉の意味を理解するのに数秒かかった。まさか、この状況でそんなことをするとは思わない。
おっぱいを?
ここで?
「で、殿下、ですが」
そんなことしたら色々と問題が。
「必要なことだ」
躊躇うわたしに、王子はまったく迷いがない。
「この国を守るためにはな」
「国を……」
この国を守るためにおっぱい?
婚約者と一緒に?
「畏まりました」
もうなにがなんだかわからなくて、わたしは命令に従うしかなかった。裸を見られて困る相手もいない。殿下を支える。おっぱいで支えろというのなら支えるしかないと思う。それで潰れるのならわたしの乳不足だ。
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