第6話 ブラジャー革命

「すみません。ラッテさん」


 我慢だ。


「わたし、先生から頼まれた所用がありまして、指導は機会を改めて受けますので今日のところはこれくらいでお許しください」


「あ、ちょっと獣娘、話はまだ……」


「おゆるしくださーい」


 遜りながら、胸を掴む相手の手から距離を取り、深々と頭を下げ、有無を言わさず掃除道具を抱えて駆け出す。人獣の身体の俊敏さは、基本的には人間を上回る。


 逃げるが勝ちってこと。


「シズキ! シズキ・オオーチ!」


 ラッテが叫ぶ。


 下手に反抗しても面倒なことにしかならない。陛下付きと殿下付きの立場の差はもとより、争うとなったら、使用人内の人望はあっちの方が圧倒的に上なのは理解している。女性ばかりの職場ではやっぱり多数派には勝ち目がない。


 わたしのおっぱいは同僚から不人気だ。


「下品……」


 認めたくないけど、事実ではある。


 小走りに走るだけで大きく揺れる自分の胸は視線を動かすまでもなく見える。それは、やはり男性の目を必要以上に惹くし、そのことが面白くない女性は当然のことながら多い。


 前世同様のことだ。


 この世界にメートル法が存在しないので正確な比較はできないけれど、前世でGとFの境目ぐらいだったわたしの胸はもうIとかK、あるいはそれ以上に達していると思う。身長は大して高くなっていないので、もう自分で鏡を見ても見てもバランスがおかしいと感じるぐらい。


 そしてまだ成長している。


「先生っ、失礼しますっ」


 わたしは医務室に駆け込んだ。


「シズキ、またかい?」


 机に向かっていた先生が笑って言う。


「はいっ、シャワーをお借りしますっ」


「あいよ」


 学校の保健室のような、ベッドと薬品棚と机、医務に必要なものをそろえて、白っぽい部屋にんするとそうなってしまう空間を駆け抜け、その奥にある先生の生活スペースに駆け込む。


 安全地帯。


「染みになっちゃうっ」


 エプロンドレスの背中のボタンを慌ただしく外して、わたしは両袖から腕を抜き、上半身ブラ一枚になる。脱衣場の鏡を見ると、すでに母乳で濡れていた。ぐっちょり。べたべた。


「うあ」


 危なかった。


 ブラと胸の間にスポンジのような吸水する素材のパッドを挟んでいるのだけど、揉まれてしまうともうダメだ。この世界の女性の服装は露出が少なく、下着が透けたりしようものならすぐに破廉恥と言われてしまうから気を使う。


「もー」


 ブラのホックを外して、片手で両乳を押さえながら外して、くるぶしまであるスカートを落として、パンツも脱ぎ、そのまま風呂に向かう。


 とりあえず胸を冷水シャワーで洗う。


「つめたっ」


 暖めると血行が良くなって母乳が出やすくなる。このやり方が健康に良いとか悪いとかわからないけど、夜に王子に授乳するまではあまり出してしまう訳にも行かない。


 これがわたしの仕事なのだ。


 リットルという単位はないけれど、一日に出せる乳量はだいたい基準となる酒瓶の二本分、2リットル弱ぐらいだと思う。朝、自分で搾って勝手に出ないように調整するのだけど、搾りすぎて王子が飲み足りない状態になってもいけない。


 シビアなバランスがある。


「あうー」


 圧迫しないように胸を撫で、漏れた分が白い水滴として流れていくのを見つめる。かなり出てしまった感がある。そして、あとで掃除をしなきゃいけなくなった。


 わたしの母乳は濃度が高い。


 ひとしきり冷やして、それから汚れたブラを洗い、置かせて貰っている換えのブラを着ける。そして鏡の前で身だしなみを整える。特に編み込みの髪型が崩れていないか気にする。使用人の服装髪型は規則で決まっている。


 みんな同じだ。


 だから胸の大きさがさらにやっかまれる。


「お疲れさん」


 医務室に戻ると先生に労われる。


「ご迷惑をおかけしてます」


「気にしないでいいよ。あたしのことは。なんと言ってもトーア殿下のためさ。あんたの苦労もなにもかもね」


 シルト・クレー。


 王族の主治医。


 母と兄、陛下と先生が現在の城内で王子の授乳の事実を知る人たちだ。特にこの人はわたしの母乳の成分を調べ、安全性に太鼓判を押し、陛下にもそれが信頼されているぐらい、王族との関わりが深い。年齢は二百歳を越えていて、エレ・エネンドラに医師として迎えられたのは先々代の王の時代だと言う。


「ん?」


 けど、見た目は十歳ぐらいの少女。


 乳母になって十五年の間にわたしの方が外見的には大人になってしまったが、変わらない。あどけない顔をして年季の入ったことを言うので慣れていても戸惑う時がある。


「あ、先生にこれを」


 わたしはドレスのポケットから用意してあった包みを手渡す。こういう時のためのお礼用、わたしにとって先生の存在は城内で数少ない後ろ盾なので賄賂という感じもなくはない。


「おっほ。いつも悪いね」


「いいえ、こちらこそ」


 見た目は子供、中身は老婆がうきうきと包みを開いて焼き菓子を頬張るのを見つめる。手作りのバタークッキー。この世界にわたしが持ち込んだ前世のお菓子だ。


 バターの原料はもちろんわたしの母乳。


「甘いねぇ、いつ食べてもあんたのこれは甘くてたまらないねぇ。殿下が虜になるのも無理はないよ。あたしも吸いつきたいぐらいだ」


 しゃくしゃくと食べながら言う。


「そこまで量は」


「わかってるよ。うん。わかってるとも」


「では、先生、わたしは仕事に戻りますので」


 わたしは深々と頭を下げる。


「なにかあったらいつでもおいで」


「失礼します」


 前世の文明をこの世界に持ち込むかどうか。


 わたしはかなり悩んだ。


 実際、この世界と比べれば、色々なモノが便利で進歩していたようにも思える日本だけれど、だからと言って、この世界が遅れているということではないと思う。これから人々が求めて、進歩していくはずのものだろうから。


 それをわたしが勝手に先取りしていいのか。


 よくない。


 そう思ってる。


 大体、前世の日本の進歩はわたし以外の人たちが、長い年月と歴史の中で積み上げてきたものだ。それを勝手に持って行って、さも自分が生み出したような顔をするのは恥ずかしいと思う。


 でも、いくつかやってしまった。


 きっかけは王子の一言だった。


『飲みきれなかったものはどうしている?』


『それは、処分を……』


 捨てていた。


 わたしの胸からは溢れるほどの母乳が毎日出てくる。当然のことながら王子には新鮮なものを飲んで貰わなければならない。口をつける以上、安全性の観点から他人には触らせられない。


 わたしのおっぱいで毒殺とか大問題だ。


『菓子の材料にならないか?』


『お菓子、でございますか?』


『いくらかでも保存が利くように加工できれば、私が国を空けるときでも持っていけるだろう? 考えてくれないか? いや、シズキが嫌なら、無理にとは言わないが……』


『いいえ、滅相もございません。殿下のご要望であれば、考えさせていただきます。しばらくお時間を頂ければきっと』


 それで、バタークッキーを作った。


 バターは実質的に存在していなかった。


 牧畜や酪農が発展していないので、乳製品はこの世界ではほとんどない。幸い、前世では割とお菓子を作る方の女子だったので、その記憶を頼りに母乳を分離して、クリームを作り、マクと呼ばれるこの世界の小麦のような穀物の粉と、精製が荒いのか甘さの弱い砂糖と、小型の竜の卵で試行錯誤してそれらしいものを完成させたということだ。苦労はした。


 王子たちにとっては未知の味だったようだ。


『美味い! シズキ、なんだこれはっ!』


『く、クッキーと名付けました』


 前世の人たちへの敬意で名前は拝借した。


『くっきぃ、なるほど、くっきとした食感だ』


『……』


 わたしは困惑する。


 くっきとした食感て、なに?


『素晴らしい。想像以上だ。シズキ、乳が余ったら私にこれを作っておいてくれ。うん。これで昼間も安心だ。褒美を取らせないといけないな。欲しいものをなんでも言え』


 珍しく王子は興奮して言った。


『そのような、恐れ多いこと』


『なんでも言え、私がそう命じている』


『……あ』


 とっさのことだった。


『あるだろう? ないとは言わせん』


 功績に報いたいという王子の圧力が強くて。


『あの、胸、乳房を支える帯なのですが』


 思わず、わたしは本音を口にした。


『ん?』


 そしてもうひとつ持ち込んでしまう。


 ブラジャーがなかった。


 布を巻いて押さえて支えていたのだが、ともかくそれが大きくなる胸を抱えたわたしには一苦労で、なにかというと母乳が滲んで、なんとか前世同様のものが欲しい欲しいと思っていたのだ。


『……なるほど、服飾担当を呼ぼう』


 わたしの説明を聞いて、王子は頷く。


 もちろん前世のわたしはブラを使っていただけで、その作り方などはまったく知らなかったのだけど、王族の服飾を担当する女性に形状やなんかの要望を伝えたことで、基本アイデアとして採用され、こちらも命名を拝借してブラジャーが誕生した。


 現在では王国の産業のひとつになってる。


 どんな世界でも、人間としての形がある程度共通する以上、求められるものはあって、その道で活躍する人はいるのだと思う。服飾担当から伝言され、実際にブラを制作した人がこれを全世界に販売するべきだと主張し、国営の会社が設立されることなった。貿易品の少ない王国にとってそれはいい外貨獲得の手段になった。


 農閑期の女たちが手縫いで一枚一枚丁寧に作るブラジャー工場は壮観な光景だったし、その着け心地も良く、わたしは発案者として特注サイズをいつも貰えることになって非常に助かっている。いいことずくめだ。


 貧乏国家の財政に寄与するほどではないけど。


 でも、わたしは世界を変えてしまったらしい。


 それにふと気づいて血の気が引いた。


 いずれは変わっていったことだと思うけれど、バタークッキーを作って、ブラを提案しただけで国の産業まで変わってしまっている。ヤバい。そう思った。恥ずかしいとかそういう問題じゃなく、わたしがなにかを持ち込めば、歴史的な積み重ねをすっ飛ばして大変化をもたらしてしまう。


 だから今は自重している。


 あくまでこの世界の住人として生きようと。

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