第2話 マリッジ・ブルー
「シズキ……シズキ?」
「あ、申し訳ありません」
わたしはハッと我に返った。
「ぼんやりしていたぞ?」
「あの、す、少し、寝てしまったかもしれません。夢を。失礼いたしました。殿下。なにかお言いつけでしょうか?」
「いや……気にするな。私も今日は少し吸い過ぎた。不安が、いかんな。シズキを前にするとどうしても気持ちを上手く抑制できない」
「なにか、おありになりましたか?」
「聞いてくれるか?」
「勿論でございます。それで殿下のお気持ちが少しでも軽くなるのならば、朝まででも」
「うむ、んっ」
金髪の青年は咳払いしてげっぷを隠した。
確かに今日は飲み過ぎたらしい。
わたしの母乳を。
夢。
この世界にやってきて、殿下にはじめておっぱいを吸われた日から、十五年の月日が流れていた。カレンダーを見てそれを意識したから、あんな懐かしい夢を見たのだと思う。
この世界の一年は333日なので前世換算だと一年以上の誤差があるけど、人生が二周目に入ってしまったという感覚はなんとも言えなかった。別世界での暮らしの方がもう長くなるのだ。そりゃ失恋した彼の顔も思い出せなくなる。
「結婚相手が決まった」
あの赤ん坊も身を固める。
「おめでとうございます。殿下」
実質三十路。
すっごく年を取った気分になりながら、わたしはお祝いを口にした。実際それはおめでたい話だった。王子が十六歳で成人を迎え、妻を娶り、王位継承者としての階段をまた一段上がる。国民すべてが祝福するだろうし、身の回りの世話をするわたしたちは更に嬉しい。
「おめでとうございます。本当に」
もう軽く涙が出ていた。
母乳を与えた乳母の立場から言うともうなんか自分の子供が結婚するみたいな気分なのかもしれない。背丈がわたしを越えたのはいつだったっけ、みたいな。これからは王国のさらなる繁栄のために子作りをして、子育てをして、次の王子を育てていくことになるのだろう。
「……」
母乳を吸いながら?
わたしは視線を落として、いつものように剥き出しになっている自分の乳房を見つめる。前世より大きく育ってしまった胸。垂れる気配どころかいつも張って、むしろ乳首はすごい上を向いてるおっぱい。十五年、ほぼ毎日、王子が直接吸えないときは自分で搾って母乳を出し続けても、まったくその生産力に衰えのないこの異常な肉体の役目が終わるということだ。
「殿下……では、いよいよ」
複雑な感情が入り交じる。
「いよいよ? なんの話だ?」
「え?」
おっぱい吸うの止めるんじゃないの?
「相手はツエのガルテ。まだ八歳の娘だ」
だが、王子の憂鬱はそういうことではないらしかった。あれだけおっぱいを吸ったのに、親指もしゃぶるみたいな子供っぽい仕草をしながら、背丈と顔立ちだけは大人びた青年はその整った顔を情けなく曇らせる。
「ガルテ様。ああ、非常に聡明で、先日の大陸会議でも演説をなされたと言う、素晴らしい方ではないですか。確かに八歳はまだ早いでしょうが、数年の内にはなんの問題もなく」
「子供すぎる」
わたしの言葉を遮って王子は言った。
「……」
閉口するしかなかった。
十六になる男子が未だに、精神的な意味ではなく、現実的に乳離れできていない方がよほど子供だ。という正論を口にできる立場にわたしはない。しかし、流石にもう諫めないといけないのかもしれなかった。大人顔負けの賢さを持つという結婚相手が、この王子唯一の欠点を知ったらどうなるか、処分を覚悟してでも。
「シズキ、どう思う? 八歳の子供に理解できると思うか? このトーア・エレ・エネンドラの高尚な嗜好を、偏見なく受け入れる寛容な心が育っていると思うか?」
「? 殿下、仰られる意味が少し」
「母乳を吸わせてくれるだろうか、という話だ」
王子は真剣な表情で口にする。
「……」
本気だ。
フルネームで王子としての名前を出して。
本気で言っている。
高尚な嗜好とまで言い切って。
本気なのはこの十五年で確かにわたしがだれよりも知っているのだけれども、しかし、ここまで本気だとは思っていなかった。まだまだ王子を侮っていた。エレ・エネンドラ王国の十四代目を継承するこの人の辞書に「乳離れ」も「離乳」の文字もない。生涯、おっぱいを吸うことを止めるつもりなどないのだ。
「殿下」
わたしは覚悟を決める。
「残念ながら、一般的な女性は、子供以外に母乳を吸わせたりはしません。もちろん、殿下がそのお立場で命令をなさればそうせざるを得ないかもしれませんが、そのようなことは決してなさらないように謹んでお願い申しあげます。シズキの母乳ならばいくらでも吸って構いませんから、その嗜好はお隠しになられますように」
ベッドの上に正座して、頭を下げた。
「シズキもヴェントと同意見ということか」
「相談なされたのですか?」
恥ずかしげもなく?
「私は、夫婦の間に最初から隠し事などつくりたくはない。胸襟を開いて、そして互いの母乳を吸うような親密さが欲しいのだ」
王子は真剣に言う。
言ってることは決してカッコ悪くはない。
十五年で美青年に育ち、国民からの人気も高い王子が、結婚に当たって夫婦の間に最初から隠し事を作るようなことはしたくないと述べている。それだけならば賞賛されてもいいぐらい。憧れる女子ならばさらに惚れる。
けれど、その隠し事は母乳吸い。
「殿下からは母乳は出ませんが」
わたしはやや呆れてつい皮肉る。
「そういう気持ちであるということだ」
「理解はされないかと」
わたしはそう言うしかない。
重症だ。
いよいよ重症だ。
「意見はわかった。私ももう少し考えよう。結婚は十六の誕生日だ。まだいくらか時間はある。理解を得るための方策を練る時間がな」
「……」
諦める方向で考えて欲しい。
「シズキ、また明日」
「おやすみなさいませ。殿下」
殿下が部屋を出ていくのを見送って、わたしは後片づけをする。まずは胸のケアだ。十五年、それこそ王子が外遊に出るような日以外は、ほとんど毎日おっぱいを吸わせているけれど、自分で言うのも恥ずかしいくらい、わたしの胸は綺麗なままだ。むしろ、手入れを毎日欠かさなくなったことで、だれにも吸わせなかった前世よりも綺麗だと思う。瑞々しい白桃のような淡色の乳首は時々他人に見てもらいたくなるぐらい。
もちろん見せたことはないけれど。
「殿下は、本当に」
消毒の後、傷薬の成分を含んだ保湿のクリームを塗りながら、わたしは溜息を吐く。王子の言葉を聞いて、少し嬉しい気持ちもあるというのが本音だ。
結婚するから、もう用済みだ。
そう言われたら、たぶん落ち込むと思う。
乳母。
たぶん、本来は自分の子供がいる母親が、別の子供にも母乳を分け与える、みたいなものなんだと思う。知り合いの子供とかならば親切心、それこそ仕える王の子供ならば仕事として。
でも、わたしにとっては命の恩人だ。
王子がわたしの母乳を見つけてくれなかったら、この世界でのわたしの十五年はもっと過酷なものになっていたことは間違いない。
ヴェント・オオーチ。
あの時、王子を護衛していた女性の養女になり、使用人見習いとして、城で教育を受けられて、この国での生活に不自由しない給料を貰える仕事に就けているという純粋な恩義はもちろんだけど、この世界となんの繋がりもないわたしにとって、わたしのおっぱいを求めてくれる幼い王子の存在が心の支えだったのは間違いない。
元の世界に戻りたい。
そう思った数え切れないほどの日々も、わたしの母乳で生きている王子のあどけない姿を見れば弱音なんて吐けなかったし、その王子が乳離れできないという欠点以外は、文武両道、眉目秀麗に育っていくとなれば、わたしも頑張らなければという気持ちになれた。乳母、シズキ・オオーチとして恥ずかしくない生き方をしなきゃいけない。一周目のように情けない死に方はできない、と。
「でも、そろそろ」
わたしも王子も独り立ちの時だ。
さみしいけど。
おっぱいをあげつづけなければいけない。そう自分の立場を決めることで、転生してしまったわたし自身の問題から目を逸らしていたのは事実だ。王子を言い訳にして、乳離れしないようにしていたのはわたしの方かもしれない。
終わりにしよう。
おかしい関係になっていたのだ。
赤ん坊の頃からやっていることだとは言え、十五の、最初の三日間で三歳分ぐらい歳を取っていたので設定上は十八の娘が、十五の王子に毎日母乳を与えているなんて、だれが信じるというのだろう。
もし国民に知られたらスキャンダル。
城の片隅の小さな部屋を授乳部屋にしていることも、毎夜こっそりと会っていることも、外から見ればもう男女の関係を疑われて当然なのだから。実際の王子は胸以外のわたしにまったく興味がなさそうとか、そんな哀しい真実も、きちんと葬り去らなければいけない時がきたと思う。
わたしのためにも。
「ほんと、母乳だけじゃなくて、身体を求められてたら話は違ったと思うんだけど」
部屋の後片づけをして一息、つぶやく。
王子がその気になったらたぶん受け入れてた。
いつでも受け入れる感じ。
恋愛感情かと言うと違うような気もするけど、いくら母乳を求められても嫌いにならないし、むしろ好きだし、愛情もあるし、いつ男になっちゃうのかとワクワクしてたぐらいなんだけど。
王子は紳士だった。
そんなに紳士じゃなくてもいいぐらい紳士。
「母親の気持ちなのかな、これ」
女としては見られない、という不満。
実質三十路。
でも、まだ結婚や妊娠どころか、処女。
わたしは、そんな女だ。
恋人だっていたこともない。
母乳は吸わせても、唇は吸われたこともない。
わたしは、シズキ・オオーチ。
さみしい女だ。
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